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§1.「心の内側」についての予備的考察


 はじめに、物理的モデルの用語法に従った場合、主観的世界への「視点の切り替え」に相当する記述の変更がどのようなものになるかを考察する。ここでの議論は、「心の内側」という曖昧な言い回ししかできなかった対象を、モデル論的に取り扱う方法を紹介するものであり、前章で紹介した「部分空間」での記述が、ある《全体》的存在の内面に擬せられることを指摘する。ただし、人間の意識の謎を一気に解明するような現実的な理論の提出を目論んではおらず、あくまで、「視点の切り替え」の説明に物理的な用語法が・有効な・ことを読者に理解してもらうための予備的考察である。

 ここで導きの糸となるのが、小説や映画などのフィクションに馴染んだ人ならごく日常的に行っている「他者に成り代わる」という空想である。こうした空想には、単に他者の身に起こった出来事を我が身が体験する光景として思い浮かべるだけのものから、感情や身体感覚まで含めて心から別の人物に成りきってしまうものまで、さまざまな段階があるが、私が想定しているのは、自意識が連続して自己同一性を失わない状態で、模擬的に他者の「心の内側」に入って、その人の経験を自分で実感する状況を思い描く心理的プロセスである。具体的には、小説の中で主人公が窮地に陥った場面を読んで、その人物が目にしている光景をありありとイメージしながら恐怖するときの心の動きを思い起こされたい。こうした模擬的な「視点の切り替え」に関する考察が有意義なのは、以下に示されるように、日常的な用語法における「心の内側」が「抽象化された情報が表象として連結された状態」を意味すると確認できるからである。

 己れを他者の視点に置くとき、多くの人は、当該人物が有する知覚と記憶が“私”の意識に入力される──その人の耳で聞き目で見る、その人の過去を我が身のこととして思い出す──ような状況を思い浮かべるだろう。ここで内省を通じて実感していただきたいのは、こうした状況下で(模擬的に)入力される知覚や記憶のデータが、・高度に抽象化された形で・“私”の内面という閉じた世界に忽然と出現するという点である。日常生活においては、視覚・聴覚などの五感から入力されるデータや近過去の記憶は生々しい身体感覚と混然としており、その抽象的な性格を実感しにくい。しかし、他者に成り代わるという空想の中では、身体感覚が切り離されるため、表象としての知覚や記憶が示す抽象性が如実に感じられるはずである。例えば、敵の奸計にはまって密室に閉じこめられる仮面ライダーに成り代わるとき、目の前で閉じられる扉は、単に移動する物体としてではなく、“密室の実現”という抽象的な意味を担って表象されるだろう。

fig04_11.gif(動画)  神経科学的にみると、知覚や記憶は、“意識の座”とされる前頭前野とは異なる脳部位(後頭葉の視覚野や側頭葉の海馬など)から投射信号として送られてくると考えられている。こうした情報は、前頭前野に投射される以前の段階で、あらかじめさまざまな情報処理が施されている。例えば、固定された地に対して全体的に大きさが増大するような図形は、感覚受容器から送られる生のデータとしては「大きくなるもの」だが、認知された段階では、「近づくもの」として現れてくる(右図を見て実感されたい)。神経科学の観点からすると、知覚や記憶は、加工されていない感覚データや実体験そのもののコピーではなく、特徴抽出や他のデータとの結合、不要部分の削除など高度な処理を加えられた情報であり、抽象的な性格を担っているのは、ある意味では当然である。

 しかし、旧来の神経科学は、おおむね古典スキームに準拠しているため、その説明によって抽象化過程の真相が解明されるわけではない。実際、古典的な考え方に即した場合、投射信号の物理的“実体”と目されるのは、イオンチャネルの構造変化に起因するニューロンの脱分極や、神経伝達因子の放出・吸収といった物理的なプロセスであり、そこから抽象的な情報を読み取って実感する役回りは、「頭の中のホムンクルス」に擬せざるを得ない。「3次元空間内部における物質の変動」が諸現象の物理的実態であるとの見方からすると、抽象的な情報は物理的な実体を伴わない認識論的な虚構にすぎず、抽象的な知覚や記憶が、そのまま主観的世界に現存していると見なすことはできない。神経科学的なモデルだけでは、「心の内側」に抽象的な知覚・記憶情報が出現することをうまく説明できないのである。


 他者の「心の内側」を模擬的に体験する際に看取されるであろう特徴として、抽象化とともに取り上げなければならいのが、入力された(抽象的な)情報が表象として連結されるという点である。

 日常的な認識においては、知覚や記憶は、自分から切り離されたデータとして《自己》に対して“提示される”ように感じられやすいので、こうした連結性は実感しにくいだろう。素朴な人は、目に見える光景を、今まさに自分が処理している生々しい情報としてではなく、認識主体に届けられたメッセージであるかのように客観視しようとする。この立場では、世界を仮想的に「見る側」と「見られる側」に分割したとき、知覚データは、「見られる側」から「見る側」へと近づいてくるが、最後まで「見る側」とは一線を画されている。こうして、知覚や記憶の情報を主体とは異質のメッセージとして外へ外へと追いやろうとするあまり、捏造された認識主体を、内奥の1点にまで収縮させてしまいがちである。

 これに対して、己れを他者の視点に置こうとすると、模擬的に「他者の目を通して」入力されたデータが、自分自身の生々しい実感と結びついて、初めて表象として認知されることに気がつくはずである。ホラー映画の主人公に己れを投影するとき、畏怖すべき状況を示す光景は、畏怖の念と一体化して現れるのであって、光景がデータとして提示されてから時間的猶予を持って畏怖の念がわき上がるのではない。レザーフェイスの殺人鬼から逃げる行為は、恐怖から逃れたいという願望の現れそのものであって、そこから心理的にニュートラルな「走る」という動作を分節することは困難である。体験記憶も、また同様である。知覚や記憶は、認識主体に提示される客観的データではなく、「心の内側」を構成する他の要素と連結され、《自己》の一部となるのである。

 ここで考えなければならないのは、外部から入力される(抽象的な)情報が連結される相手は何かという問題である。己れの精神現象についての内省は、この問題に対して正確な解答を与えてくれない。内省の対象とした瞬間に、いかなる精神現象も、客体化という特殊な操作を施され、本来の実相が歪められてしまうからである。そこで、内省によらずに、もっともらしい推測に従うことにしよう。科学的な常識によれば、(特殊なアタッチメントなしに)相互に連結され一体化するものは、互いに同質の存在でなければならない。したがって、表象としての知覚や記憶が抽象化された情報であるならば、これと連結されるものもまた、抽象的な情報だと考えられる。“意識の座”と目される前頭前野には、知覚や記憶以外にも、脳幹から上がってくる一種の内臓感覚(内分泌についてのフィードバック情報など)を含むさまざまな情報が投射され、さらに、前頭前野内部でも情報の創出が行われていると考えられる。こうした情報は、表層意識の中でも身体図式の形成に関わるベーシックなものと考えられるので、とりあえず身体情報とでも呼んでおこう(もう少し詳しい議論は、後段でなされる)。知覚と記憶に由来する抽象的情報が連結される相手は、脳の特定部位で遂行される処理を通じて抽象化された身体情報だと推測される。

 模擬的に他者に成り代わるという空想が、「心の内側」の実態を明らかにするためのシミュレーションとして有効であるならば、以上の考察をもとに、次のような結論が導き出されるだろう:ある人間の主観的世界とは、その人物における感覚受容器への刺激や記憶部位の活性化といった生理的過程が知覚ないし記憶情報として抽象化され、ベースとなる身体情報に連結されたものである。

 こうした議論は、中枢神経系に関する情報理論的なモデル・ビルディングを行う局面では、さして目新しいものではない。「外部から入力される情報が、内臓感覚を含む自我(ego)情報と連結されて、社会性を持った“私”の世界を構成する」というだけならば、むしろ陳腐な主張とも言えよう(だからこそ、論証をかなり簡略化しているのである)。私が遂行したいのは、情報の流れだけを跡づけて実体論的な議論を行わないことが多い従来の学説に対して、情報と呼ばれるものの物理的実体を明らかにする試みである。なぜ、こうした厄介な試みを行うのかと言えば、周囲の状況を把握しようとする自覚的な意識が──その内容がきわめて抽象的であるにもかかわらず、実在性に疑いの余地がないほど──リアルである理由を、何らかの形で説明しなければならないと考えたからである。

 自分以外の人間について記述するには、他者として客観的に観察する方法と、その人間に成り代わることを空想するやり方がある。人間をある環境に置かれた自律的個体と見なし、その行動を観察に基づいて記述する客観的手法のわかりやすさに比べて、他者の「心の内側」に模擬的に入り込むという作業は、具体的に何を行っているかが判然としないため、これまで、物理的な議論の俎上に載せられることはほとんどなかった。しかし、この作業を、外部から入力される情報を抽象化し、これを身体情報と連結させる過程として、簡略化した形で定式化することにより、物理的な観点から客観と主観の記述を切り替える手法が、ほの見えてくる。

 人は、いともたやすく「もし自分があの人だったら」と想像することができる。こうした「視点の切り替え」はあまりに容易なため、それが通常の物理的記述といかに背馳するかが直ちに掴みきれないかもしれない。しかし、ある人間の主観にアクセスされている情報がきわめて抽象的なものであることの不思議さを正しく理解すれば、この問題の深刻さがわかるはずだ。通常の物理的記述は、あらゆるプロセスをデモクラティックに取り扱っており、(イオンの流出入のような)神経興奮に係わるあらゆる現象の中から、特定の情報をコードしている部分だけを特別扱いすることはできないのである。抽象的な情報だけが主観にアクセスされるという事態を物理的に説明するには、相当にソフィスティケートされた論法が必要になる。
 素朴な人がこの問題の難しさをなかなか理解できないのは、どこかで“魂”とも称すべき(物理学的理解を超えた)“自我の素”を想定しているからなのかもしれない。“魂”がある身体に宿ると、その中枢神経系で進行している物理的プロセスの中から、理解不能なやり方で特定の情報だけを抽出することができる──という解釈は、単純でわかりやすいが、真剣に議論する価値はないだろう。

 物理学的な厳密さを失わないようにして客観と主観の記述を切り替えようとするときにポイントとなるのが、神経興奮の過程がいわゆる協同現象の一種であり、その大局的な振舞いが秩序パラメータによって記述できるという事実である。古典的なホジキン−ハックスリー理論によると、カルシウムやナトリウムなど膜電位に関与するイオンの濃度と、イオンの流出入を調整するチャネル・ゲートの開閉度が、ニューロンにおける脱分極過程を支配している。この理論自体には現在に至るまで多くの細かな修正が加えられているが、神経興奮の伝達という(多くの物理的自由度が関わる)生理的現象が少数のパラメータによって記述できる協同現象であることは、科学者の間で基本的な合意を得ている。さらに、シナプスでの神経伝達物質の放出や再吸収などを含めた中枢神経系全体の活動についても、イオン濃度をはじめとする少数の秩序パラメータに支配される協同現象であることが知られている。

参照 ホジキン−ハックスリー理論

 世界に生起する現象を時間・空間の枠組み内部での物質的存在の運動として捉える古典スキームの範囲では、構成要素の運動状態を指定する力学的変数の組み合わせによって秩序パラメータを作り出す作業は、変数変換という人間の知的営為であって、秩序パラメータやアトラクタのようなものが実在的(real)であるとは考えられていない。しかし、既に「部分と全体」の章で示したとおり、高次元φ空間での量子過程において、秩序パラメータに支配される現象は、次元数の小さい「部分空間」に形成されたリアルな“構造物”として現れる。したがって、神経興奮という生理的現象についても、中枢神経系にかかわる物理的自由度が張る高次元空間の内部に、それに相当する実体論的な“構造物”が形成されていると考えられる。

 この議論は、さらにスペキュレーションに基づいて押し進めることが可能である。神経興奮のような協同現象は、素粒子レベルの反応に比べると、高次元過程における階層性の上位に位置するが、これを最高位と見なす根拠はない。むしろ、より抽象的な全体性を示す「部分空間」がその内部に存在すると推測するのが自然だろう。一般的に言って、自然界の階層的なシステムでは、上位階層に進むほど、そこに《全体》の特徴の集約されている。したがって、「神経興奮の伝達」という生理的現象に対して相対的上位の階層に位置するのが、そこにコードされている情報そのものだと考えることは、きわめて理に叶っている。この見解が正当だとすれば、高次元φ空間内部に、中枢神経系で処理されている情報に相当する“構造物”を想定することが許されるはずである。これは、かなり飛躍した主張ではあるが、私の仮説における枢要な柱として積極的に支持したい。

 情報そのものを実体論的な“構造物”として扱うことに、違和感を覚える人もあるかもしれない。確かに、半導体デバイスを利用し逐次処理を行うノイマン型のコンピュータのように、外部から入力されたプログラムに従い、外部電源に駆動されて動くハードウェアの場合は、素子の一部で局所的に見られる過程を除くと、情報処理を進める過程で協同現象は生じていないので、情報に相当する“構造物”が形成されることはない。しかし、中枢神経系は、自律的なデータ駆動型の情報処理を行っているため、その物理的性質がノイマン型コンピュータとは基本的に異なっており、同列に論じることはできない。特に、大脳に見られるニューロン・ネットワークでは、神経興奮が閉回路内をいつまでも周回し続ける《反響回路》が生じることがあるが、この持続的興奮状態は、主観的に認識されるところの《観念》と多くの点で類似していることが指摘できる(次の項目参照)。神経細胞が互いに協調し合い、より組織的・集団的な神経活動を遂行することは、個々のニューロン・レベルの興奮と比べて一段とスケールの大きい協同現象であり、こうした現象が生起する場合に限って、情報を実体論的に扱うことが可能になるのだ。

参照 《反響回路》と《観念》

 以上の考察に基づいて、改めて「他者の心の内側に入る(振りをする)」ことに該当する物理的な記述は何かを考えてみよう。既に述べたように、この作業は、きわめて簡略化した言い方が許されるならば、外部から入力される情報を抽象化し、これを身体情報と連結させる過程として捉えることができる。この簡略化された定義を、物理的な観点から解釈し直すと、次のようになる。まず、抽象化された情報とは、多数の神経細胞が関与する大規模な協同現象の全体的性質として現れるもので、高次元φ空間の上位階層に形成される“構造物”に相当する。また、身体情報との連結とは、それまで独立に進行していた2つの協同現象が“引き込み”(*)を通じて共通の秩序パラメータに支配されるようになる過程と見なされる。このとき、高次元φ空間の2つの“構造物”は、(近似的に2つの関数の積として表されなくなるという意味で)“合体”することになる。

 (*)“引き込み”とは、わずかに異なる固有周波数を持つ多数の振動子が相互作用を通じて影響を及ぼしあっているとき、全体が同じ周期で振動するようになる現象で、自然界の至る所で見られる。例えば、心筋細胞は、バラバラにすると1個1個がわずかに異なる周期で収縮・弛緩を繰り返すが、心臓という臓器にまとめられると、引き込みによって同じ周期で振動するようになり、全体として拍動を引き起こす。この同期が崩れると、心室細動のような病的な状態になる。ただし、特定の情報をコードする神経細胞の興奮は必ずしもリミット・サイクルのような振動現象にはならないので、上の文章で用いた“引き込み”とは、厳密に物理学的な意味ではなく、独立して進行していた協同現象が1つにまとまることを表している。


 ここで、「その“構造物”を誰が認識するのだ」という質問が出るかもしれない。古典的な考え方では、中枢神経系における電気化学的な過程が知覚や記憶と関連していることは明らかでも、それが「自分の」意識に現れることを記述する術がないからである。 fig04_12.gif この世界には、多数の人間が並存し各人の頭蓋内で中枢神経系の興奮が見られるのだが、その中のどれか1つを「自分のもの」と指定するには、神経興奮の状態を“見る”ことができる非物質的な何か(魂?)を想定せざるを得ないように思われるのだろう。しかし、ここで私が主張したいのは、このような“見るもの”と“見られるもの”の分離が不要だという点である。高次元φ空間における“構造物”が、すなわち「心の内側」を構成しているのであって、それ以外にこれを“見る”何かが必要になる訳ではない。

 こうした主張が可能になるのは、高次元空間における量子過程が次のような特徴を持つからである:


 この節の議論を総括しよう。他者を記述するとき、古典スキームに則って、空間−時間の枠組みの中で構成要素の運動として近似的に表現すると、全ての部分が等価に扱われることになって、客観的な世界における(物質的存在としての)人間が描き出されることになる。一方、「人間という現象」に関与する物理的自由度の空間において、上位階層の“構造物”に着目するという立場を取ると、主観的な情報の流入や結合を語ることになる。こうして、物理的な記述において、主観と客観を切り替える方法が与えられたのである。



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