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§2.《全体》の実像


 不可知論を排し科学的知見を最大限に受け入れる立場に立つとき、解決不能の難問に思えるのが、場の変数のような基本的構成要素以外に何ら存在物(entity)を必要としない物理学的な記述が、われわれの日常的な実感におけるリアリティと根本的に異なっているという事実である。日常的実感によれば、知覚や想念こそがリアルなのであって、場の変数は、いかなる知覚にも現れない数学的な道具としか思われない。しかし、知覚や想念のような高次の性質を、物理学的な記述の中に導入する方法は、そう簡単には見つけられそうもない。

 以下の議論では、このアポリアを直接的に解決するのは困難だとの認識から、論文の冒頭で行った問題設定に基づいて、《客観的世界》の構図を変更する方法に焦点を絞ることにする。ここで注目したいのが、《部分》と《全体》という対立軸である。素朴な理解では、さまざまな物質的存在が並存する世界の中に「自分の」脳があり、この脳の機能として《主観的世界》が実現されているとされる。しかし、既に論じたように、《主観的世界》は、それ自体が閉じた《全体》を構成しており、並存する多くの存在者の1つという意味での《部分》ではあり得ない。筆者は、こうした“見かけの矛盾”が、《客観的世界》を古典スキームに則って解釈することに起因すると考え、このスキームを超克することにより、《部分》が並存して《全体》を構成するのではなく、《全体》の中に別の《全体》が入れ子状に埋め込まれるような構図が可能になることを主張する。意識が物理的な存在物に対して高次の性質を持つ(知覚・想念などの)要素から構成されていることは、この主張と適合する命題として、次章で議論する。


 前節で見たように、世界を高次元過程として眺めることにより、多くの哲学的帰結が導き出される。もちろん、前提となる科学的なモデルがそうであるように、これらの帰結もまた、あくまで仮説的な見解として提示されているにすぎない。だが、こうしたアブダクティブ(abductive; 仮説演繹法的)な論法は、その双方向的な特性を利用すれば、ドグマティズムに陥ることなく、有用な知的成果を達成できるものである。すなわち、導き出された帰結を(前提から切り離された)独立した見解として検討し、その妥当性に応じて前提となる理論そのものの正当性を評価すれば良い。この場合、前提と帰結の論理的な関係が密接であるほど、帰結に対する評価が直接的に前提に跳ね返ることになる。実は、前節で示した対立項の解消に関する議論は、必ずしも特定の理論的枠組みを不可欠とするものではなく、科学的な見解を異にする人が同様の主張を行うことも充分に予想される。実際、モノとコトを対立的に捉えることへの批判意見は、量子論とは異なる文脈で数多く提出されている。しかし、この節で取り上げる《全体》の実体論的な概念化は、高次元φ空間における量子過程を前提としなければ立論が困難な主張であり、その妥当性いかんが直ちに前提の是非に結びつくという決定的な意義を持っている。さらに、ここでの帰結は、物理的世界におけるアスペクトの変換を行うための必要事項であり、ひいては、「この世界についての仮説」を語る上で欠かせない要件となる。

 ここで《全体》の実体論的な概念化を試みる背景として、科学における還元論と全体論の対立が方法論的に満足のいく形で解決されていないという事情がある。このことは、科学哲学者にとっては周知のことだが、この方面に疎い人は、次の項目を参照されたい。

参照 還元論と全体論

統一性を持つシステム


【要約】 自律的・有機的な統一性を持つシステムとは、上位システムが秩序パラメータによって構成されるような階層的システムである。

 幼児から成人へと成長する過程で、客観的世界についての人間の認識は、階層的に深化されていくと言って良い。多様な知覚データを分節的に整序する方法論を身につけ始めた幼児期には、「玩具」や「母親」のような単純な《観念》に少数の属性を結びつけるという形で世界に並存する個物を捉えていく。しかし、認識能力が発達するにつれて、単純な個物と見なしていた対象が、複雑な構造を持つこと、さらには、同一のクラスに属する素材が組み合わせ方によっては異なる個物を構成し得ることを理解するようになる。こうして、成熟した人間は、世界が多くの階層から成るサブシステムに支えられた複雑なシステムであると知るのである。

 当然のことながら、人間が世界を理解するために利用する「階層的システム」なる概念は、多くの場合、状況予測などを効率的に行うために誂えたモデルであって、必ずしも世界の“似姿”という訳ではない。特に、工業製品であるような道具存在に関しては、生活に役立つ機能面に着目して合目的的に《客体化》していることが明瞭である。われわれは、実生活において、ワークシートを作成したり友人と会話する目的で、パソコンや携帯電話を使いこなしている。このとき、こうした製品を、特定の機能を実現する(内部構造を持った)1個のシステムとして認識しているが、さりとて、これらを自律的・有機的な統一性を持つ実体と解釈してはいないだろう。工業製品とは、一般に、下請け工場で制作された部品をライン上で組み立てたもので、個々の部品の動作が機械的に連繋されて所期の機能が実現されているにすぎないことは、誰もが知っているからだ。

 もっとも、アニミズムを信奉する民族は、道具存在にも自律的統一性を認めるかもしれない。例えば、古代日本人(の一部)は、「かまど」が人の手になる工作物であることは知っているのに、「かまどの神様」を想定し、神意に応じて機能性が変動するという考え方をしていた。

 しかし、その一方で、単に人間が便宜的に誂えたモデルだとは言い切れない物理的システムが存在することも、また事実である。こうしたシステムは、一般に、部品の並列的な組み合わせではなく、上位の階層が自律的・有機的な統一性を持っていると感じられる。その代表例は、生物(主として動物)の個体だろう(生物以外には、「波」や「結晶」が自律的な統一性を持つ例となるが、階層性が明瞭でないため、システムとして把握しにくい)。実際、生物に関しては、骨格や内臓、皮膚などの各パーツが合体して個体ができあがっているという捉え方がされることは日常的には稀であり、まず、生物個体という統一体の存在を認め、しかる後に、これを分析的に観察することによって各パーツが分類されていく──というのが通常の認識である。

 人間が2種類のシステムを意識的に区分していることは、用語法にも現れている。同じように階層的なシステムであっても、工業製品の場合、システムの《全体》を指示する名辞は、機能に応じて便宜的に「名指し」するのに用いられたものである(「テレビ」とは、送信された映像情報を再生・表示する機械に便宜的に付けられた名称であって、この機械に内的統一を与えるような「テレビ性」なるものが想定されている訳ではない)。しかし、生物個体に対しては、自己維持や自己増殖のような上位システムが示す特徴を総括して、「生命」や「いのち」といった抽象的な観念を適用することに、何ら心理的抵抗は感じられない。それどころか、外延を与えることが困難なほど抽象性の高い観念でありながら、リアルで馴染み深く、(「いのち」を持つかどうか明らかでない境界事例に拡張するようなことをしない限り)日常会話に使用しても意思の疎通に困ることはほとんどない。

 それでは、2つのシステムの違いはどこにあるのか。生物を例に考えてみたい。

 動きがあまり激しくない場合、生物の体は、外見的には、精巧な工業製品とさして異なっていないように見える。通常は、外部と内部を区別する体表面が存在し、限局された部位を別にして外部との物質のやり取りは抑制される。トポロジカルな形態は長期にわたって維持され、僅かな可動部位を除けばメトリックの変化も比較的ゆっくりしている。こうした外面的な特徴を見る限りでは、生物個体を、道具存在と同等の存在論的な地位に置いても差し支えないように思える。

 しかし、より詳細にみると、生物には、人の手になる道具存在にはあまり見られない多くの特性が指摘できる。具体的には、代謝を通じての形態の維持と成長、免疫系による異物の排除や破損個所の自己修復、生殖機能による増殖と進化などである。こうした生物独自の生理的活動は、個体の維持・増殖を実現すべく目的指向的に遂行されている。システム論的な表現を用いれば、階層的システムとしての生物個体においては、自己維持と自己増殖を目的とする上位システムが、下位のシステムの動作を支配し方向づけしているのだ。

 生物個体が示すこうした特性は、長い間、科学的な理解を超えたものであった。ほとんどの民族において、生物は、石や水などの非生物とは異質なものと見なされ、物質的な法則に基づいて生命現象を理解しようとする試みが積極的に進められることはなかった。しかし、こんにちでは、複雑系に関する研究が進展し、生物個体を物理法則に従う物理的システムとして扱うことに、原理的な困難はないと見なされている。例えば、生物の自己増殖性は、化学進化の帰結として理解することができる。
 炭素鎖を持つ高分子が多数含まれているような溶液で(可視光線照射などの外部要因によって促進された)化学反応が長期にわたって持続している場合を考えよう。このとき、一連の化学反応によって自己を複製するような機能を備えた(RNAのような)高分子が偶然に合成されたとすると、この分子は、(初期の段階で破壊されなければ)濃度が平均値の周りを揺らいでいるだけの他の分子を圧して増え続けることになる。さらに、(タンパク質などの)他の分子と結合して複製能力が増したり、(脂質の膜に囲まれるなどして)安定性が備わったものが現れると、それだけが急速に数を増やしていく。こうして、・結果的に・自己増殖性を備えた高分子システムが誕生するのである。

 上位システムが下位システムを支配するという特徴は、秩序パラメータ(order parameter)という概念を援用すると理解しやすい。生物をはじめとして、多数の物理的自由度を持ち、それらが強く相互作用しているようなシステムでは、(主として量子効果に起因する)自律的な秩序形成が生じることがある。この場合、システムのグローバルな秩序構造は、比較的少数の秩序パラメータによって近似的に表され、大多数の物理的自由度は、全体的な秩序に関与しない揺らぎを別にすると、秩序パラメータに隷従することになる。したがって、自律的・有機的な統一性を感じさせる階層的システムにおいて、上位システムとは、秩序パラメータによって構成されるものであり、下位システムは、この秩序パラメータに隷従するその他の自由度から成り立っていると考えられる。

 細かなことを言えば、上位システムが秩序パラメータによって「構成される」のは、科学的な記述においてであり、個人の認識に関してもそうだとは限らない。ただし、システムが視覚的に明瞭な秩序構造を形成している場合は、人間がシステムの全体的な状態を把握しようとするとき、秩序パラメータに相当する特徴的な指標(コヒーレントな集団運動の座標や結晶構造の差異を表す肌理など)を抽出する傾向があるので、人間がシステムを階層的に認識するときの上位システムを、秩序パラメータによって構成されるものと同一視しても問題はない。また、秩序構造が視覚的に明瞭でない場合(磁化や超伝導など)、人間は、そもそも階層的な認識を持たないことが多い。

 秩序パラメータに関する詳細は、次の項目を参照されたい。

参照 秩序パラメータ

 ここまで述べてきたことは、科学的には既知の内容ばかりで、新しい主張は何も含んでいない(したがって、記述も概略的なものにとどめておいた)。にもかかわらず、私が自律的・有機的な統一性を実感させるような階層的システムに着目するのは、これが、人間の問題を考察する際に重要な手がかりを与えてくれるからである。人間も、他の生物個体と同様に、「生命」という抽象的な観念が適用されるような物理的システムであり、統一性を実現するメカニズムを解明することは、人間の本質を理解する上できわめて有用である。特に、《意識》は、人間という物理的システムの最上位階層では・ない・ものの、あるサブシステムの上位階層と推測されるので、システム論的なアプローチは、心身問題においても重要な役割を果たす。

 ただし、これからの議論において、サブシステムの結合をもとに上位システムの性質を考察するという古典的な手法は通用しない。従来のシステム論は、機能的なモデルに基づく議論が中心だったので、《部分》と《全体》の実体論的な関係を巡る哲学的問題に関しては、これを回避するようなタイプのモデルを考案しさえすれば良く、あえて議論の俎上に載せる必要がなかった。しかし、ここで私が行おうとしているのは、「高次元φ空間で具現化された量子過程」という現実的な世界モデルにシステム論を適用することであり、この問題を避ける訳にはいかない。そこで、次に、《部分》と《全体》に関する素朴な対立図式が妥当しないことを簡単に示し、《全体》の実体論的な概念化を考察する足がかりとする。


《部分》と《全体》


【要約】 物理的なシステムでは、《全体》は《部分》に分割され、《部分》の集まりが《全体》になるという単純な関係は成立しない。《全体》の《部分》への分割は一意的ではなく、また、《全体》は《部分》の総和よりも遥かに小さい。

 この節の内容は、上の要約にまとめられていることに尽きるので、これに同意できる読者は、あえて読む必要はないだろう。

 階層的なシステムを考える場合、《全体》とは必ずしもシステムを構成する要素の全集合ではない。こうしたことを含めて、ここでは、私なりの解釈に基づいて、《部分》と《全体》を対立項として捉えることの限界を指摘し、《全体》を規定するための新たな手法が必要になることを論じる。

fig03_10.gif  方法論的に・きわめて素朴な・立場からすると、機能や形態・性状に基づいて境界画定が可能なまとまりを形成している対象が1つの《全体》であり、この対象の構成要素の一部が形成しているまとまりが《部分》と呼ばれる。集合の単純な包含関係と類比的に考えれば、《全体》は《部分》に分割され、《部分》の集まりが《全体》になる──はずである(右図)。

 こうした《部分》と《全体》についての単純な関係は、しかしながら、物理的なシステムにおいては認めがたい。有限の元を使って定義できる数学的な集合とは異なって、物理的なシステムに言及する場合は、機能・形態・性状などをもとにした知的な判断が介入して、単純な包含関係に還元させられないからである。このことは、2つの方向から示すことができる。

 第1に、《全体》を《部分》に分割する方法は一意的ではなく、《部分》を分節するための契機に応じて多義的であり、しばしば恣意的ですらあることを指摘したい。

 具体的な例を使って説明しよう。一般的な理解では、人体は、1つの《全体》を形作る。この《全体》を《部分》に分割する最も簡単なやり方は、解剖学的な特徴に基づいて、骨格・筋肉・臓器などに分けていくものである。それぞれの《部分》は、明白な外見上の差異を示しているだけではなく、細胞学的にも身体機能的にもそれぞれの特性を指摘することが可能である。したがって、こうした分割は、きわめて自然なもの──すなわち、分割の基準が人体という物理的システムの側にあるようなタイプ──と思われるかもしれない。
 しかし、人体のように緊密なコネクションに由来する協同現象が実現されているシステムの場合は、このコネクションに沿った分割も可能である。具体的には、神経系・免疫系・代謝系などのサブシステムへの分割が考えられる。この場合、最初の分割では造血幹細胞由来として同一のグループに入れられていた血球細胞が、2番目の分類では代謝系に属する赤血球と免疫系に属する白血球に分けられることになる。
 さらに、人体を制御システムという観点から見た分割も可能である。例えば、自律神経による内分泌の調節の場合、中枢神経系から一方的に制御指令が出されるのではなく、内分泌量を測定するモニター系があって、ここからの情報に基づいてフィードバック制御が行われているので、「脳→自律神経→内分泌→知覚神経→脳」という閉ループが、1つのサブシステムとしての自立性を持っている。
 このように、現実に存在するシステムに関しては、合理的な唯一の分割法がある訳ではなく、そのシステムを人間が分析的に把握するときの都合に応じて、さまざまな分割が可能となる。

 このほか、複雑なシステムの場合、それぞれの《部分》の境界が明確でない(血管は肝臓の中にある別の《部分》か、それとも肝臓の一部なのか)といった当たり前の問題もある。

 物理的に曖昧さのない分割があるとすれば、それは、最小の構成要素への分割である。古典スキームに則った原子論が妥当するような・仮想的な・世界──「この」世界ではない──においては、それ以上分割することのできない原子が、物質を構成する《部分》として、唯一、物理的なリアリティを持つ。原子の集合が形作る階層的な構造が観察されたとしても、それは、認識作用を通じて構成された虚構であって、個々の構造が自立的にアイデンティティを保っている訳ではない。

 (《全体》と《部分》の関係が素朴な考えに基づいてそう思われるほど単純でないことを示す)第2のポイントとして、《全体》を指示する概念が、《部分》の総和よりも遥かに「小さい」ことを指摘しておこう。

 この言い回しは、奇異な印象を与えるかもしれない。人生訓の一つとして「《全体》は《部分》の総和より遥かに大きい」というフレーズが標語的に使われることがあるからだ。ただし、そこで謂うところの《全体》とは、それを包含するような外部システムとの関係性をも指示する概念である。例えば、「人間」という概念の場合、身体を構成する《部分》に対置する形で、役割や地位を含めた社会的存在として《全体》が捉えられている。これに対して、私が想定している《全体》とは、外部との関係性を可能な限り捨象し、あたかも自立的な対象であるかのごとく取り扱うことが可能なものである。

 物理的世界の中でまとまった《全体》として特定されるのは、機能や形態・性状などの物理的性質をもとに境界画定される対象である。このため、当該対象を認識する場合、こうした性質の表出が支配的になる一方で、この性質に関与しない要素については疎外されることになる。通常の文脈で「人間」について語るとき、その概念に消化管内部の未消化物まで含まれるか、細胞に生息するウィルスやミトコンドリアはどうか──といったことまで思案してはいないのである。こうして、《全体》は、《部分》が持っている多くの特徴が失われた抽象的な対象として認識される。これが、《全体》が《部分》の総和よりも遥かに「小さい」と言われる所以である。

fig03_02.gif  《全体》が持つ抽象的な性格のため、この概念は、言語のプラグマティクスにおいては、特定の個体を指示する固有名詞ではなく、一般的な普通名詞を使って表現されることが多い。例えば、右に表示した図形の《全体》は、「三角形」という普通名詞に「この」という指示語を付加することによって表される。もちろん、「この三角形」の代わりに「Johnny」のような固有名詞を使用することも可能である。だが、「Johnny」が「三角形」《全体》を指示していると規定するためには、当該図形を線分の集まりに分解する抽象化が先行していなければならない。さもなければ、三角形の一部だけを「Johnny」と呼んでいる可能性を排除できないのである。
 1つのまとまりとしての《全体》を指示する名辞として、一般に普通名詞を用い、たとえ固有名詞を使用する局面でも、これを意味の上で普通名詞化するという手法は、科学論文においては、通常のやり方である。宇宙物理学の論文で言及される「地球」は、その上で人類が生活する唯一無二の"the Earth"ではなく、一定の物理的諸量を有し特定の軌道を周回する「1つの天体」でしかない。病理学の分野で家系の追跡調査によって遺伝子病の研究をするとき、たとえ特定の家族の疾患(ロマノフ王朝の血友病など)を取り上げる場合でも、血肉を持った個人としてでなく、「遺伝子のキャリア」として記述される。
 このように、指示対象を意図的に明確化するような言語実践の局面で、《全体》は抽象的概念として扱われていると言って良いだろう。

 物理的なシステムでは、「《全体》は《部分》に分割され、《部分》の集まりが《全体》となる」という単純な関係は一般に成立しない。この単純な関係が満たされるのは、《部分》として最小の構成要素を、《全体》としてその総和を割り当てた場合である。古典スキームに則った原子論が妥当する仮想的世界──繰り返すが、「この」世界ではない──においては、《全体》は原子という《部分》の集まりだと認定するだけで、《全体》−《部分》という対立軸の下に世界の成り立ちを簡単に理解することができる。しかし、こうした素朴な原子論的世界観は、「この」世界の実態を解明するものではない。

 実は、素朴な原子論的世界観は、今でも一部の物理学者に根強く残っている見解である。眼前に「机」という1つのまとまりが実在するように見えるが、これは、中枢神経系での情報処理を通じて抽象化が施されたことによる一種の虚構である……「机」という抽象的実体は存在しない……そこにあるのは、単なる原子の集まりにすぎない──という見方である。確かに、「机」に関しては、この主張はなかなか説得力がありそうだ。「机」を1つのまとまりとして認定する過程で、道具存在としての機能が評価され、引き出しは道具として機能するための必須アイテムだから「机」の一部だが、中に入っているペンや定規は別個のものだという(物理の観点からすれば)いささか恣意的な区分が行われているからだ。しかし、「机」はともかくとしても、この世界における《全体》的存在が全て原子の集まりと等価だとすると、なぜ《主観》という《全体》性を帯びたまとまりを疑い得ないものとして実感できるのか。《主観》に現れる情報量は、明らかに、中枢神経系を構成する原子全体が持つ情報量よりも小さいため、《主観》は(構成要素の一部を捨象したという意味での)抽象的存在である。原子の集まりとは異なる抽象的実体の実在性を認めることによってのみ、日常的実感に適合する世界像を描き出せるのである。

 以上の考察から明らかなように、「この」世界の成り立ちを《全体》と《部分》という対立的な概念を使って把握しようとする試みは、うまくいく見込みがない。それでは、この対立項を解消したとして、これに代わるいかなる概念装置が利用できるかが、次の問題となる。


実体論的なアプローチ


【要約】 対象を構成する物理的自由度の空間において、秩序パラメータの張る「部分空間」が階層的システムにおける上位の階層を規定し、その内部に存在する“構造物”が、《全体》的な特徴の(モデル論的な意味での)実体である。

 通常、システム論的な観点から階層的システムの構成を分析する場合は、機能・形態・性状などをもとに、いくつかのまとまりを《全体》ないし《部分》として抽出し、これらの関係を明らかにするという手法が使われる。しかし、異なる観点から抽出した《部分》が単純な包含関係になかったり、《全体》を特徴づける性質が《部分》の組み合わせとしてモデル化できない場合には、こうしたやり方は通用しない。ここでは、従来の方法に代わって、システムの《全体》的な特徴を示す階層を抽出し概念化するのに、より実体論的なアプローチを試みる。簡単に言えば、ある「部分空間」の中に、システムの《全体》的な特徴を表す構造を“浮き上がらせる”手法である。

 これから取り上げる実体論的なアプローチは、(生物個体のように)上位システムが秩序パラメータで構成されるようなシステムに限って有効な手法であって、工業製品など部品の機械的な結合によって作られているシステムに対しては、効果的ではない(あるいは、このアプローチに従えば、工業製品は、そもそも階層的なシステムではない)。さらに、(実体論的ということから当然ではあるが)「経済システム」のように人間が考案した仮想的なモデルには、原理的に適用できない。

 従来の科学的方法論では、《全体》を実体論的に概念化することは意図的に避けられていた。もちろん、科学的なコンテクストにおいても、「天体」や「太陽系」、あるいは、「細胞」や「免疫系」など、ある全体的システムを指示する概念が用いられることはある。しかし、こうした用語法の下で対象を指示するとき、意味論的に機能するのは、対象の持つ特定の性質ないし機能だけであり、それ以外の要素は、方法論的に捨象されている。例えば、太陽風に対する地球磁気圏の影響を論じるコンテクストで「地球」という用語が現れた場合、この概念は、「特定の軌道に沿って運動する磁場の発生源」を指示するものとして用いられ、その上で多くの人々が飢えに苦しんでいるといった現実は、(当然のことながら)完全に黙殺される。科学の現場で見られる余分な要素の捨象は、議論の有効性を確保する上で、必須の方法論である。だが、ここで謂うところの有効性は、あくまで予言能力を持ったモデルを現実的な問題解決のために利用するケースに限定されており、例えば、「その上で人類が棲息していることが無視できるような地球が実際に存在する」という主張を支持するものではない。
 現代科学は、機能主義的な方法論を採用しているため、何らかの科学的対象を積極的に《実在物(physical entity)》 として取り扱うことはない。科学的な理論は、適当なデータを入力するだけで、半自動的に(当該理論の定義に内包されていない)科学的命題を生成する能力を有する「道具」にすぎず、そこで言及される対象も、理論で語られるそのままの形で物理的に実在していると仮定されている訳ではない。こうした科学の機能主義的な性格は、個々の科学者が抱懐する世界観が科学的命題においてあらわに語られることを禁止する。例えば、量子効果に関する論文では、著者が多世界解釈を信じているか、あるいは、隠れた変数が存在すると思っているか──といった事情とは無関係に、明確な科学的主張が行えるのである。
 しかし、だからと言って、科学者が特定の世界観を持たずに「職人仕事」に徹しているとは限らない。現代科学者が実在論的な世界観を抱いている証拠は、どのような研究に着手するかという発想の段階において見いだすことができる。実際、従来の理論からは予測されない何らかの現象が報告され、これに基づいて理論を部分的/全面的に改変する場合、科学者がさしあたって目標とするのは、新しい現象の輪郭を完全になぞるような“説明”を提出することではなく、説明力が多少不足しようとも、実体に即していると解釈できるモデルを構築し、従前の理論に欠落していた具体的な要素が、当の(予測できなかった)現象を惹起したと実証することである。例えば、ある合金が予想以上に大きな延性を持つことが観察されたときに、まず材料科学者が着手するのは、金属の組成比や不純物の有無などと延性の関係を温度・圧力といった条件を変えながら測定することだが、この“対応表”を完成させるだけで満足するはずもなく、巨大な延性をもたらすメカニズムを、従来は想定されなかったタイプの格子欠陥や無視されていた微量不純物の存在によって解明しようとするのが常である。このように、現代科学者が、少なくとも発想の段階で《実在論者》の心を持っていることは、間違いない。
 実体論的なアプローチは、確かに現行の科学的方法論からはやや逸脱しているが、科学的な精神にもとるものではないと信じる。

 「《全体》的な特徴を示す階層を抽出し概念化する」という手法は、相当に難解なので、ごく簡単な例から出発して、段階的に説明することにしよう。

 はじめに、水の表面に正弦波が生じている場合を考える。これは、階層的なシステムの例とは言えないが、単純なだけに問題点を明らかにしやすいだろう。

 ここで私が提起したいのは、「“波”という《全体》性を表す特徴は実体的なのか、それとも、人間が世界を理解するために作り上げた虚構なのか」という問いである。この問いは、いかにもソフィスト的で、科学的にはナンセンスだと思う人も多いだろう。だが、問題はそれほど単純ではない。(x,t)座標(空間・時間座標)を使ったときに角振動数ω0、波数k0の正弦波
  A exp{i(ω0x-k0t)}
で近似できるような波は、フーリエ変換して(ω,k)座標に移ると、点(ω0,k0)に鋭いピークを持つような関数になる。仮に、(ω,k)座標が現実的な世界を表しているとするならば、(x,t)座標での波に相当するものが、ここでは、1点に凝集した粒子状の固まりとして“存在”していると言えるのだ。

fig03_03.gif

 もちろん、このケースに関しては、上の詭弁的な議論に対して強力な反論が用意できる。表面波の場合、媒質である水分子(あるいはその構成要素)についての運動を記述しなければ、物理的な系の状態を明らかにしたことにはならず、波の変位だけ取り上げてフーリエ変換するのは物理的に意味を持たない。さらに、水の運動を記述する理論は、(ω,k)座標よりも(x,t)座標を用いた方が単純な方程式に従うことが知られており、(x,t)座標に代わって(ω,k)座標を考える必然性はない。したがって、(ω,k)座標における固まりは、数学的な虚構でしかないと結論づけられる。

 だが、同じような議論を、より現実的なモデルに適用すると、詭弁とばかりも言っていられない事態が現れてくる。

 実際、(非相対論的な)量子力学において、波動関数が位置表示(q表示)で近似的な正弦波として表されるとき、運動量表示(p表示)ではδ関数的な鋭いピークを持つ関数となるが、この場合、位置表示と運動量表示のいずれか一方が「真の」表示という訳ではなく、(ヒルベルト空間内部の)ある状態ベクトルを、異なる基底を使って表示したというだけの差にすぎない。したがって、位置表示で「正弦波がある」という“拡がり”を持った《全体》的な特徴と、運動量表示をしたときの「鋭いピークを持つ」という局所的な“構造物”の存在とは、物理的に等価であると見なして良い。一般化して言えば、ある基底を用いた表示における局所的な“構造物”が、《全体》的な特徴と呼ばれるものの物理的な実体だと考えられる。ただし、この段階の議論は、まだ、現実的なものとは言えない。

 現実的な議論へと歩を進めるために、多自由度系の(非相対論的な)量子力学を考えよう。

 最初の例として取り上げたいのは、基底状態にある2原子分子である。このとき、「原子間隔(の期待値)がLである」という分子に関する《全体》的な特徴は、どのような形で表されるだろうか。3次元空間の中に置かれた2つの原子(内部状態は無視する)の位置は、それぞれ3成分を持つ位置座標qとQで表される。通常は、qとQをデカルト座標(x,y,z)に重ねて表示するので、同じ3次元空間内部に2つの原子が並んで存在するように描かれるが、本来、qとQは異なる関数空間を意味しており、併せて6次元の世界となる。基底状態の場合、原子間隔がaであるとは、2原子の波動関数を、相対座標q-Qの動径成分|q-Q|の関数として表した場合、
  |q-Q|=L
の近傍にピークができることを意味する(下図)。2原子間の距離は1次元的な特徴なので、6次元空間(q,Q)の部分空間である1次元空間(|q-Q|)内部の“構造物”として実体化された訳である。

fig03_04.gif

 教科書的に記せば、上の作業は、断熱近似によって2原子分子の原子核間に作用する有効ポテンシャルを求め、振動と回転の自由度を分離して動径方向の有効波動関数を求めることに対応している。一般に、動径方程式は、
  HΨ(r)=EΨ(r)
と表され、最も低い準位に対しては、ポテンシャルが極小になるR0を含む拡がりκR0(κはボルン−オッペンハイマー近似に現れるバラメータで、電子と原子核の質量比の4乗根を表す)程度の領域に集中している。振動の励起状態は、R0を中心とする調和振動子解となる。

 ここで注意しておきたいのは、古典力学の枠内では、《全体》的特徴の実体化は見られないという点である。(q,Q)という6次元空間を考えることは可能だが、“実際に”原子が存在している位置以外での座標は物理的な意味を持たず、q座標の空間自体は数学的な虚構でしかない。これに対して、量子論の場合、(q,Q)空間は量子論的な揺らぎが拡がる「物理的に意味を持った」空間であるため、その「部分空間」の“構造物”を考えることができるのである。

 《全体》的特徴を実体論的に考える手法の試金石となるのが、ベンゼン環の六角形である。6個の炭素原子によって構成されるベンゼン環が、正六角形の形状をしていることは古くから知られている。それでは、「六角形の形をしている」という性質──“六角形性”──について語ることは物理的に意味があるのだろうか。

 素朴な原子論者は、「個々の原子が互いに六角形の頂点に位置しているだけで、六角形そのものは存在しない」と言うかもしれない。 fig03_05.gif 確かに、われわれが日常生活で目にする六角形の物体は、多くの要素が絡み合って「六角形に見えている」だけのものが大半であり、物理的に“六角形性”を云々することはできない。画面上の六角形も、実は、多くの画素の集合である(右図)。視覚映像の特徴分析の過程で、はじめて「これは六角形だ」という知的判断が働いているにすぎないのだ。この見方を原子のレベルにも当てはめられるならば、素朴な原子論者の意見にも首肯できるかもしれない。

 しかし、ベンゼン環の場合は、原子間の量子論的な相互作用を通じて原子が自律的に六角形を構成するのであって、単に「見かけの上で六角形になっている」ケースとは質的に異なる。炭素原子の位置座標だけを考えると、6個の原子それぞれが3成分を持っているので、18次元の空間内で運動しているのだが、そこから重心運動と回転運動の自由度を除いた12次元(辺の長さを別にするならば11次元)の「部分空間」が、“六角形性”の有無を表すことになる。ベンゼン環が形成されているときには、この「部分空間」の中の六角形が実現されていることを表す領域に、波動関数の鋭いピークが見られる。「部分空間」の次元数が随分多いと感じる読者もいるかもしれないが、厳密には、炭素原子に含まれる6個の電子や原子核の構成要素なども考慮しなければならないので、物理的自由度が張る空間の膨大な次元数と比較すれば、きわめて小さな「部分空間」が《全体》的な特徴を表していると見なせる。

 ベンゼン環における六角形性の問題は、独立したテーマとして興味深い。次の項目に、読み切りの形でまとめているので、参照されたい。

参照 ベンゼン環の六角形は実在する?

 数式を用いた方がわかりやすいという理系の人は、次の項目を参照すること。

参照 分子における複雑性の実現

 有機分子(ベンゼン環を含む)の骨格や金属結晶における原子配列の《全体》的な特徴は、(それらを構成する物理的自由度の数と較べると)きわめて少数の次元数を持つ「部分空間」での波動関数のピークとして実体化されている。分子や結晶がどのような幾何学的形態をとるかは、この小さな「部分空間」に集約されており、それ以外の自由度はグローバルな構造の決定に大きな寄与をもたらさない。一方、原子の振動や電子の輸送といった局所的なプロセスは、固定されたグローバルな構造に対する微小な揺らぎや相対的な運動として捉えることができる。物理学的には、《全体》的な特徴を定めるパラメータ(当該「部分空間」の基底)に対して、断熱近似が適用可能となる。

 物理的自由度のこのような分け方は、秩序パラメータと(それ以外の)隷従パラメータの区分に相当する。秩序パラメータとは、既に述べたとおり、システムのグローバルな秩序構造を近似的に記述する少数のパラメータのことである。システム論的に解釈すれば、秩序パラメータの張る「部分空間」が、階層的システムにおける上位の階層を規定することになる。

 厳密なことを言えば、秩序パラメータの張る空間は、数学的な意味での部分空間になるとは限らない。物理学的なモデルで秩序パラメータを定義するときに、当該パラメータが他の変数の陽関数(関数形がy=f(x)のようにあらわに与えられる関数)にはならないからである。この点を考慮して、ここでの論述には、カギ括弧を附けた「部分空間」という表現を採用している。
 「秩序パラメータが張る空間」の具体的な定義については、次の項目を参照してほしい。

参照 秩序パラメータが張る空間

 従来の物理学の教科書では、このような区分は、数式の上で概念的に行われてきた。これは、秩序パラメータに関する議論が、数学的な厳密性を維持するために主として古典的な力学系の範囲で行われているため、パラメータ空間のようなものは数学的虚構と見なされたからである。しかし、量子論では、物理的対象は、物理的自由度が張る空間の中に量子揺らぎとして拡がって存在するため、こうした空間自体も、その内部に存在する“構造物”も、共にリアルな(すなわち、現実への応用性の高い)モデルとして取り扱うことが可能である。秩序パラメータの張る「部分空間」内部に波動関数のピークという形で現れる“構造物”──これが、実体論的な立場から見た《全体》性の表現である。

fig03_11.gif  興味深いことに、この《全体》には《部分》が含まれていない。秩序パラメータの張る空間は、《全体》的な特徴が集約的に現れる場所であって、《部分》が寄り集まって《全体》を作り上げる所ではないのだ。座標空間で見たときに個物を構成している諸要素としての《部分》は、より広い空間の中に散らばって存在している。直観的に表すならば、物理的な全自由度の拡がりの中で、ごく狭い領域に《全体》の特徴を示すものが集中していることになる(右図;この図は概念的なもので、科学的な厳密さはない)。《全体》は少数のパラメータによって規定されるものであり、電磁場の微小な揺らぎのような《部分》的な(《全体》から見ると些末な)状況は、《全体》性を示す空間の外に追いやられている。

 上で示したような《全体》と《部分》の関係は、「複雑」と「単純」という対立軸に関しても、新しい視座を提供するものである。「複雑な性質」は一般に抽象性が高く、人間の認識過程によって抽出された観念である場合が多い。「複雑性」は、単純な要素の組み合わせによって実現されており、それを認識するためには、抽象化を行う知的能力が必須であるとの見方もあるかもしれない。しかし、上の議論は、《全体》の特徴を表す性質の中には、複雑性を示しながらも、単純な要素の組み合わせではなく、単純な形で実現されるものもあることを実証する。


高次元過程への拡張


【要約】 高次元φ空間において具現化された量子過程として世界を見た場合、きわめて小さな「部分空間」に“構造物”が形成されるという単純な事態として、《全体》性が実体化されている。

 この世界の実態は、物理的な場の自由度φによって張られる高次元空間における量子過程の一つの具現化である。高次元空間という観点から眺めた物理現象は、膨大な数の次元にわたって拡がってはいるものの、個々の自由度同士の相互作用は限られた(時空で見ると隣接した)もの同士に制限されており、そのままでは、多くの部分の寄せ集めとしか思えないかもしれない。しかし、こうした見かけとは裏腹に、高次元空間での表現をもとにすれば、便宜的な概念を新たに導入することなく、単に関与していない自由度を縮約していくだけで、《全体》に対する視座を獲得できる。以下、このことを説明していきたい。


 人間は、視覚的な光景において、ある領域内でまとまった形態や性状を示すような対象を《全体》として抽出するという作業を行い、これを繰り返すことによって、客観的世界に個物が並存するという描像を作り上げる縁(よすが)としている。この作業は、実は、かなり複雑な情報処理を伴うものであり、高度な能力を持つ知的生命体でなければ遂行できない。素朴に考えると、抽出作業を行う対象が属する時空領域を切り出せば、「そこにある物」として個物の《全体》を把握できることが可能なようにも思えるだろう。しかし、時空領域を限定しただけの対象認識には、《全体》性には関与していない雑多な内容が含まれており、単純なまとまりを抽出したことになっていない。湖水の表面波を対象として捉えるとき、波が生起する領域を切り出しただけでは、湖畔の風景や周囲のざわめきは無視することができても、水という物質まで排除することはできない。物質性を含まない「波」という観念を抽象するためには、他を無視して水表面の協調的な運動だけに着目するというさらなる知的活動が必要になる。このように、《全体》を把握するのにきわめて高度な知的作業が介在しているという事情を踏まえて、《全体》とは、そもそも実体的な何かではなく、知性によって生み出された虚構であると見なす人が現れるのも、無理からぬことかもしれない。

 《全体》の真相を剔抉するためには、その認識に際して人間が行っている知的作業が、仮構的な抽象概念の捻出ではなく、余分な要素の無視だということに、注意しなければならない。上に述べたプロセスにおいても、はじめに認識対象が属している時空領域を切り出す過程で、その外部を無視するという知的作業が行われるが、こうした無視は、対象認識のための便宜というよりも、当該領域から離れた時空領域が、実際に、個物を形態や性状の上でまとまったものとするのに関与していないと考えるのが妥当である。すなわち、個物は、限局された時空領域の内部だけで《全体》性を確保しているのであり、それ以外の領域については、物理的な観点からも考慮の外に置いてかわまないのである。この「考慮の外に置く」あるいは「無視する」という作業は、物理学で行われる変数の縮約に他ならない。変数の縮約とは、無関係な変数を議論から切り離し、問題とする物理現象に関与している変数だけに着目する操作で、こうした実効的な変数で構成された空間に当該物理現象の特質が集約されていると考えられる。時空領域の切り出しに伴う変数の無視が、人間の主観的な営為ではなく、物理的に有意味な変数の縮約に相当するならば、その先の段階における余分な要素の無視も、同様に取り扱えると期待して良い。

 経路積分を用いるフォーマリズムでは、変数の縮約は、量子過程に現れる経路積分の一部を「先に実行してしまう」(integrate away)ことに相当する。このとき、残された経路積分の被積分項に現れる作用は、縮約された自由度からの影響を全て“込み”にした形になっている。変数分離ができる場合、この作業は、他の変数からの影響を外に括り出す(factor out)ことでもある。

 人間が自律的・有機的な統一性を示す対象の《全体》性を把握する際に行う知的作業は、全体的な特徴の示現に関与していない自由度を無視する過程であり、実際にありもしない《全体》を捏造するのではなく、不必要な要素を捨象することによって、隠されている《全体》を「発見」することである。例えば、水の表面に形成されたさざ波を認識する場合、人間は、淀みや渦を作る媒質の非協調的な運動や、水面に浮いている落ち葉のような全体性からはずれた要素を注意の外に置き、協調的な集団運動としての波動にのみ眼差しを向けている。このとき、波動の《全体》性を示す周期や振幅などの集団運動のパラメータに注目し、これらがほぼ一定で波の形が崩れないという事態の認知を通じて、波数と振動数を表す集団座標の空間で鋭いピークを持つ物理学的状態を「発見」しているのである。

 以上の考察を踏まえて、次のように結論づけよう。高次元空間においては、きわめて次元数の小さい「部分空間」に“構造物”が形成されるという単純な形で、《全体》が実体化されている。この《全体》性は、人間の知的活動を待つまでもなく、関係のない自由度を縮約する(無視する)だけで浮かび上がってくるものである。

 通常の物理学の教科書では、まず、それぞれの変数が満たす方程式が提示され、続いて、その解の振舞いに応じて変数分離を行うという順番で解説がなされている。多くの物理現象は、きわめてゆっくり変化する少数のパラメータと、急速に変化してこれら少数パラメータに支配される多数のパラメータに分けて解析することができるが、こうした変数分離は、物理学の学生を悩ませる演習問題として出題されるため、人間が探し出さなければ少数の秩序パラメータの張る空間は抽出できないと感じられるかもしれない。だが、量子過程は、高次元空間内部に自律的に階層的な構造を形成しているので、人間が数学的に変数分離を遂行できるかどうかとは無関係に、上位−下位の区分が成立していることを忘れてはならない。ちょうど、1匹の犬が、他の領域を無視する人間の認識機能によって抽出されなくとも、犬として自存しているのと同様に、階層の上位に相当する“構造物”が自存しているのである。

 全宇宙の物理的自由度から成る高次元空間は、それ自体が1つの《全体》と言えるものだが、その内部にも、「部分空間」に形成された“構造物”としていくつもの《全体》を有している。ただし、この「内なる《全体》」は、それぞれが異なる次元に属しているため、同一空間の内部に並存している訳ではない。われわれが世界を認識するときに援用する《客観的世界》では、そこに存在する個物の総体として全世界を思い描くことが可能であるが、高次元過程に現れる“構造物”は、それを寄せ集めれば何らかの《全体》的存在を形成するといった構成要素としての性質を具有していない。比喩的に言えば、これらはピラミッドの頂点のようなものであり、頂点だけを集めても、まとまった存在にはなり得ないのである。

 また、ある“構造物”を含む領域の内側に別の“構造物”があるという「入れ子構造」が見られることも、高次元過程の特徴である。具体的には、生物個体を構成する全自由度が張る空間の内側に、生体器官という《全体》性を持つ存在が現れるようなケースを思い起こされたい。これは、《全体》の《部分》への分割とは本質的に異なり、ある《全体》に関わる物理的自由度の空間に次元の異なる《全体》が含まれるという構造になっている。したがって、階層的な構造を指摘できるとは言っても、下位の《全体》を集めて上位の《全体》を形成するというものではない。

 このように、《全体》は、それを構成する《部分》に還元されるべきものではなく、常に1つのまとまった実体として現れるのである。


 以上のような観点に立てば、あらゆる物理現象を全体論的に論じることが可能になる。

 生物の〈細胞〉を例にとって考えよう。これを、「空間−時間−物質−力」によって規定される古典的な自然像に則って語ろうとすると、〈細胞〉という個物の範囲を画定するために、脂質二重層のような複合的な概念を持ち出す必要が生じる。こうした複合的な概念は、理論のもともとの定義には含まれていないため、今度は「脂質二重層とは何か」を説明するために脂肪分子について説明しなければならなくなる。こうして、より小さな構成要素への遡及がいつまでも続くことになり、〈細胞〉というほぼ独立したシステムの全体を見渡す視座が失われる結果に陥る。

 ところが、同じ対象を高次元空間で論じる場合は、新たに複合的な概念を導入することなく、〈細胞〉全体を語ることが可能になる。秩序パラメータとして、膜を構成する脂肪分子の重心位置と配向を表す変数を選び出すことにしよう。このとき、疎水基を内側に、親水基を外側に向けた状態で脂肪分子が集合する脂質二重層は、ポテンシャルが極小になる安定な配位であり、脂肪分子の座標を軸とする空間においては、「細胞膜が存在する」ような領域にピークが形成される。こうして、ある「部分空間」におけるピークという単純な事態を記述すれば、それが取りも直さず〈細胞〉全体を語ることと等価なのである(もちろん、細胞の場合には、細胞膜の存在以外にも、多くのシステマティックな過程が関わってきているので、この説明は単純化されすぎている)


 高次元φ空間における具現化された量子過程としてのこの世界は、その内部でさまざまな有為転変を繰り返しており、エントロピー散逸を通じて秩序が形成されては、また無秩序へ回帰するという現象が見られる。こうした変化は、「部分空間」における“構造物”の形成とその崩壊という形で実体論的に捉えることが可能である。

fig03_06.gif  高次元空間に形成された“構造物”の時間的振舞いについては、古典スキームに基づいてイメージしないように注意していただきたい。古典的なシステムの変数空間を考える場合は、同一の空間内部で変数の値が時間的に変化するという扱いをすることが多い。この空間内部で、次第に構造が形成され、しばらくすると崩壊していくという過程が描かれる。こうした描像は、意識において現象を想起するのに好都合ではあるが、あたかも同一性を持つ実在が連続的に変化していくような錯覚を生み出してしまう。場の理論における自由度は、(最も簡単な定式化を行うケースでは)各時空点に割り振られているので、時間の“推移”──と言っても、実際に時間が流れる訳ではなく、単なる視点の変化にすぎない──は、高次元空間での異なる部分空間への移動を意味する。したがって、《全体》的特徴が長期にわたって維持されている場合は、この特徴に相当する“構造物”が、経過時間に相当する数の部分空間に繰り返し現れていることになる。以下の議論は、この膨大な次元にわたる過程を念頭に置いている。


 量子過程における構造変動を議論するときには、アトラクタという概念を実体論的に改変して援用するとわかりやすい。

fig03_07.gif  古典的な力学系におけるアトラクタとは、ある領域を通過する位相軌道が最終的にそこに漸近するような領域(ω極限集合)を指す(厳密に言えば、分解不能性などの条件がいくつか加わる)。典型的なアトラクタは、位相軌道が1点に集まる「シンク」や周回軌道に漸近する「リミットサイクル」だが、カオス的なシステムでは、単純な多様体にならない「奇妙なアトラクタ」と呼ばれるものが見られる。

 古典論の範囲では、アトラクタは、時間を無限大にする極限でのみ定義されるものなので、理論的なモデルに現れる数学的な概念(数学的虚構)の1つにすぎない。しかし、量子論的なシステムの場合、与えられた状態から有限時間で別の安定状態へと遷移することができるので、遷移先の状態そのものをアトラクタと見なすことが許される。例えば、反応性の高い2つの原子を容器に閉じこめた状態を考えると、2原子分子が生成されている状態がアトラクタの1つとなる。

 また、古典論では、アトラクタが1以上の次元数を持ったとしても、この次元数を有する「何か」を想定することは無意味である。リミットサイクルのように1次元的に広がった状態が実現されているのではなく、サイクル上の1点が、その瞬間の系の状態を表しているにすぎない。しかし、量子論になると、量子論的な揺らぎが多次元にわたって拡がることもあるため、古典論とは事情が異なってくる。例えば、振幅が一定値以上の時は減衰振動になるが、その値に達すると摩擦がなくなるような振動子の場合、大きな振幅から振動を始めた系が漸近する状態は、与えられた振幅の調和振動となり、リミットサイクルというアトラクタが1つの量子状態として実現されたことになる(ただし、現実の振動子は、多くの原子を含む多自由度系なので、1つのエネルギー準位中に膨大な状態が縮退していることを考慮しなければならず、この単純な議論はかなり煩雑な変更を要する)。すなわち、量子論においては、多次元アトラクタ自身ないしその一部が高次元空間内部に形成されると考えてかまわない。

fig03_09.gif

 アトラクタは、通常、大局的な振舞いを表す少数のパラメータの空間に現れる。池に石を投げ込んだとき、最初の衝撃が水を攪乱した後に表面に調和のとれた表面波が生じるが、この場合、表面波を表す状態が集団運動のアトラクタとなっている。その一方で、水分子が持つ自由度の大半は、この集団運動に対するランダムな相対運動を続けているだけであり、明確なアトラクタは存在しない。若干の例外に目をつぶるならば、アトラクタは、秩序パラメータ空間の内部に局在していると言える。

 現実の世界では、いかなる部分系といえども永遠の安定状態に到達することは考えにくいので、現実を忠実に記述するモデルには、数学的な意味での(すなわちω集合としての)アトラクタは存在しないと信じられている。ブラックホールでさえ、物質の流入によってエネルギーや角運動量を変化させた後、最後はホーキング効果によって“蒸発”してしまう可能性があるので、厳密な意味でのアトラクタではない(全宇宙が虚無に帰るビッグクランチが、唯一のアトラクタかもしれない)。ただし、運動の大局的な振舞いを規定するという意味での「拡大解釈されたアトラクタ」──「擬アトラクタ」ないし「アトラクタもどき」──を、やや厳密さを欠く言い回しながら、単にアトラクタと呼ぶことも許されるだろう。実際、アトラクタを研究するために用いられる数学理論の多くは、粗視化によって集団運動のパラメータにのみ着目した近似的なモデルであり、そこに見られる数学的に厳密なアトラクタは、現実における擬アトラクタに対応する。数学的厳密さに拘泥することは、現実から離反した数学的モデルの範囲に議論を封じ込める結果に導きかねない。

 世界は、最後の日に到達するまで有為転変を繰り返して静止することはないが、その細部を眺めると、部分的なシステムの集団運動を規定するパラメータが、特定の状態に漸近して暫しその状態を保った後に、またフラフラとカオス的な遍歴を始めるといった光景が見られる。こうした状況を実体論的に解釈すると、高次元空間における「部分空間」に、(擬)アトラクタに相当する“構造物”が形成されては崩壊する過程と見なすことができる。高次元過程としての世界は、要所要所に形成されるアトラクタとしての“構造物”を、無秩序に近い膨大なサブプロセスが浸している姿を現出している。

fig03_08.gif  理論的に興味深いのは、安定軌道の存在しないカオス的な量子系のケースである。この場合、多くの量子論的な固有関数は、特定の古典的な周期軌道に沿った領域で高振幅になるというはっきりした構造を示し、これを視覚化すると、まるで“瘢痕”があるかのように見える(右図;これは競技場の形をした共鳴箱内部の電子の定常状態を表すもので、E.J.Heller, Phys.Rev.Lett.53(1984)1515-による)。 この高振幅領域に相当する古典的な周期軌道は、必ずしも安定ではない──すなわち、微小な摂動を加えると、元の軌道から大幅にずれていく──ため、リミットサイクルのような古典的なアトラクタにはなっていない。にもかかわらず、弱く結合した環境の中に置かれた量子系では、通常、こうした“瘢痕”を持った固有関数の1つが、散逸過程を通じて実現される平衡状態を表している。したがって、ある平衡状態に達するプロセスを正しく表している状態関数は、“瘢痕”を時間とともに際だたせ、そこにピークを作るような振舞いを示すことになる。このような事情から、“瘢痕”(の中心領域)も量子論的なアトラクタと解釈される。高次元過程を視覚化することが可能ならば、こうした“瘢痕”が随所に形成されているのが見られるだろう。

 高次元過程には、さまざまな量子論的アトラクタが形成されている。こうしたアトラクタの分布や次元が、この世界におけるさまざまな個体の振舞いの実体なのである。


いかにして還元主義を逃れるか


 還元主義的な観点からすれば、物理的世界におけるいかなる現象も、基本的な構成要素の間の相互作用として理解できるはずである。この見解を採用するならば、「1個の生命体」とか「地球上の生態系」といった特定のシステムを全体として指示するような概念は、抽象的な思考を手助けするために恣意的に導入された虚構にすぎない。結局のところ、物理的な実在性は、基本的な構成要素によって実現される素過程にのみ与えられてしまう。

 高次元過程のアイデアに基づく現象の定式化は、こうした擬似科学的な議論を反駁し、全体論的な概念に正当な物理学的根拠を与えるものである。この定式化においては、(デモクリトスの“原子”のような)分割不能な基本的要素は、高次元空間の座標軸という(それ自体は何物をも構成し得ない)枠組みでしかない。その代わり、この空間内部に繰り広げられる量子過程が、世界におけるあらゆる個体と事象を担っているのである。量子過程の中に分子や結晶のような「物質の構成要素」と目されるものも含まれているが、これらが寄り集まって個体を作り上げているのではなく、(生物個体などが占めている次元数に較べて)小さな「部分空間」で分子や結晶の《全体》性が実体化しているというにすぎない。

 還元主義者は、システムの《全体》は、抽象的な思考のために誂えられた人工的な概念にすぎないと主張するかもしれない。だが、一般的な用語法での《全体》とは、主として協調的な集団運動を行う対象を指示しており、構成要素の単なる集合を示す概念として恣意的に導入されたものではない。こうした形で示現される《全体》は、高次元空間での定式化によれば、特徴的な“構造物”として「現実に」存在している。われわれは、仮説的な《全体》をなぞるような理論を苦労して作り上げる必要はなく、無関係な力学変数や重要な役割を果たしていない隷従パラメータの空間を縮約していく──協調的に振舞っていない領域を無視する──だけで、《全体》を包摂する空間に到達できるのである。この意味で、(協同現象の主体としての)《全体》は、物理的な実体と呼ばれてしかるべきものである。

 懐疑的な人は、例えば生物個体が《全体》として実体論的に把握できるという主張に対し、個々の生物は生体組織から構成され、生体組織は細胞から、さらに、高分子、原子、そして究極的には素粒子から構成されているのではないかと批判するだろう。 fig03_11.gif しかし、この懐疑論は、物理学的な見地からは妥当ではない。実際、高次元空間で見ると、個々の構成要素がばらばらに存在するような記述の枠組みを想定する方が難しい。全ての構成要素を同じフレームで記述することが可能なのは、物理学的に見て最下層に属する全自由度を扱う場合に限られており、高分子や細胞のような《全体》性を持つまとまりを論じるときには、次元数の少ない「部分空間」へと視点を移動しているからである。ここでは、原子核内部の素粒子反応や電磁場の微小な揺らぎは、言わばフレームアウトされており、物理学的にも無視することができるのである。

 自然界の階層的システムにおいて、最下層から上位システムへと視点を移す作業は、人間の知的行為によって有りもしない《全体》性を捏造していくことではなく、状態関数が明確な構造を辿る過程に対応する。この過程は、基本的な場の変数から出発して、原子、高分子、生体組織、さらには、生物個体全体へ続く。まず、ほとんどの場の変数が真空状態近傍にあるので、多くの量子論的な励起状態は、(クォークマターのような凝縮物質ではなく)原子としてまとまるような集団運動の空間にピークを持つ。ここで(余分な次元を無視して)場の集団運動としての原子を眺めると、生体内部ではそれぞれ無相関に動いてはおらず、生体反応を通じての高分子合成のような統一的な動きを示すことがわかる。こうした過程では、原子を記述する秩序パラメータ空間の内部に、高分子を表す量子論的なアトラクタが存在する。さらに、高分子の秩序パラメータが張る“高分子空間”の内部で生体現象を見ると、いっそう高次の協同現象があることがわかる。例えば、脂質分子にとってはエネルギー的に安定な二重層構造がアトラクタになり、状態がそこに引き寄せられることによって細胞膜の形成が実現される。したがって、生体を構成する細胞は、状態関数の“構造物”の形をとった物理的実体なのである。このようにして、われわれは、高次元空間の余分な次元を縮約していくことにより、最終的に個体全体を表す秩序パラメータに到達できるのである。

 ただし、容易に推察できるように、生態系など各部分の相互作用が弱いシステムの場合は、明確に定義される構造が状態関数に現れないため、《全体》の実在性は疑わしいものとなる。また、政治や経済のシステムは、人間の知的行為による共通認識としてあつらえられたものであり、これに対応する“構造物は存在しない。



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