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《意識》とは何か

 この論文の目標は、自然科学によって記述される《客観的世界》と、内観を通じて捉えられる《主観的世界》との統合が原理的に可能かどうかを、現時点での科学的知見に則って考察することにある。ただし、ここで戦略的なアプローチを採用する必要が生じる。誰もが経験的に熟知しているように、《主観的世界》の特徴は、一筋縄では捉えられないその複雑さにある。単純化を旨とする科学的方法論をもってしては、有効な議論を展開することができない。このため、全面的な解明は端から諦め、《主観的世界》が有する諸性質のうち、《客観的世界》との間の懸隔が最も大きいと思われるものに限定し、そのモデル化に基づいて議論を進めざるを得ない。こうした論法の妥当性は、当然のことながら、焦点を絞る対象の選択に大きく依存することになる。

 以下の論考で着目するのは、《主観的世界》における「自己中心性」あるいは「主体性」と呼ばれてしかるべき性質である。ただし、これらは、しばしば心理学で行動規範の観点から別の意味に用いられるので、ここでは、第1章の叙述に倣って、〈求心性〉という用語を採用する。その意味するところは、次のようなものである。人は、自己の痛みを直感することができるが、他人の痛みは直接には感じられない。客観的な見地からすると、痛みとは、中枢神経系における特定の神経興奮パターンのはずであり、人(あるいはその他の知的生命体)の個体数に応じて多数存すると解される。にもかかわらず、ある神経系に痛みに相当する興奮パターンが実際に生じていたとしても、それが「自分の」脳でなければ、痛みを主観的に実感できない。その他の感覚データや想起された記憶についても同様である。《主観的世界》は、あたかも、神経興奮などの諸々の物理的過程の中から、「自分の」と形容されるものを選択的に抜き出して、構成しているかのように見える。ただし、こうした構成要素を能動的に統括する「自己」を実体的な存在として認めることは、頭の中にホムンクルスを仮定する愚を犯すに等しい。したがって、中心となる「自己」は不在のまま、さまざまな感覚データや想起された記憶などが、互いに一定の関連性を保ちながら、《主観的世界》を形作っていると解すべきである。例えば、眼前に置かれたコーヒーの入ったカップは、これから飲もうという意志と結びつけられて見えており、蚊に刺された腕の痒みは、執筆中の文章に関する思考を乱すものとして現れている。こうした状況を、あらゆる知覚や記憶が(実際には存在していない)「自己」に関わるかのような形で現れるという意味で、〈求心性〉という語で表現する。

 私は、すでに前章で、物理学的な考察をもとに、高次元φ空間の中のある「部分空間」を《主観的世界》と見なす仮説を提出した。ただし、この主張は、場の量子論という物理学的な理論から出発し《部分》と《全体》の関係を解明するという議論の展開を経てなされたものだけに、いささか形式的で実証性に乏しい。そこで、本章では、仮説の妥当性をより実証的に検討するために、われわれが日常的に《意識》と呼ぶものをモデル化することを試みる。この「物理的な」モデルが高次元φ空間「部分空間」と見なし得ると同時に上の意味での〈求心性〉を兼ね備えているならば、仮説が実証されたとは言えないまでも、その信憑性が高まったと結論できるだろう。

 ここで、《主観的世界》という(《客観的世界》との対概念として導入された)概念の代わりに、心理学で馴染み深い《意識》なる用語を使ったのは、議論の方向性の変化を考慮してのことである。《主観的世界》に関する議論は、主に物理学的な観点から構成要素間の関係性を考察するものだった。これに対して、《意識》を論じる場合は、心理学的な観点から、その能動的な側面を強調するようになる。とはいえ、もとより私は両者を峻別しておらず、《主観的世界》の心理学的な機能を抽出したものが《意識》だと考えれば良いだろう。こうした意識概念は、通常の心理学的における用語法と大きく変わるものではないが、その背後に、物理学的な捉え方が存していることは心得ておいていただきたい。当然のことながら、「意識する」「意識される」という表現に暗に含まれる“主体と客体の分離”は、こうした意識の理解においては存在しない。



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©Nobuo YOSHIDA