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§1. 対立項の解消


 あらゆる現象を高次元過程として記述することによって、世界についての理解は、従来よりもはるかに合理的かつ整合的になると思われる。特に、従来の認識論において対立する2項として措定されていたもののいくつかが、対立軸を解体され、一元的な説明を与えられることに注目したい。

 ここでの議論は、私の提唱する世界像がいかなるものかを複数の側面から補足的に説明するもので、主観と客観の関係を解き明かそうという議論の本筋とは必ずしも関係ないため、記述はきわめて簡略化されている。

 以下に、解消されるべき対立項を列挙しよう。

 最後の「部分」と「全体」に関しては、節を改めて議論することにして、ここでは、初めの5つについて簡単に論じたい。


存在と枠組み

 古代ギリシャ以来の古典的な原子論では、原子という物質的存在と、その存在を収める枠組みである真空の関係が、認識論的な問題となった。世界の構成要素として措定される“原子”を何らかの方法で排除していくと、最後には何もないスペースが残るのだが、「何もない」ことを存在根拠とする真空とは何なのか、ほとんど了解不能なアポリアとなる。また、19世紀の場の理論では、当初、エーテルのような媒質の概念を援用したため、エーテルを入れる器としての空間が必要となり、エーテルが空間をどのように満たすかが不明のままにされた。このため、原子ないしイオンが存在する領域からエーテルは排除されるのか、それともイオン内部にエーテルは貫入するのかといった問題を巡って議論が錯綜した。

 こうした混乱は、物理現象高次元過程の部分過程と見なすことによって、回避することができる。この見方によれば、物質的な存在とは、φ空間における状態Ψ[φ;σ]が一定の励起パターンをとっていることであり、個物として認識されるような個別的対象が非物質的な空間の中に独立自存している訳ではない。一方、従来は枠組みとして捉えられてきた時空は、相互作用を通じて関係づけられた多数のφ軸が構成するネットワークに置き換えられ、空虚な入れ物としての性質は一掃される。最も単純な量子化の手法では、時空は高次元空間を形作っているφ(…)のインデックスであり、局所相互作用を通じて結びつけられているようなインデックスの組が“隣り合う”時空点を表している。すなわち、高次元過程が物質と時空を共に生み出しているのである。ただし、励起パターンもφ軸のネットワークも、具体的にどのような形になるかは相互作用の形式に依存して決まる。

 場の量子論に馴染んでいない人は、「変数φ(で表される物理量)が存在するための空間」が必要ではないかと訝るかもしれない前章でφの自由度をバネに模したために、そうした疑念が生じるのも無理からぬことだが)。だが、数学的に見ると、φ自体が、その内部で状態が定義されるような抽象的な空間であり、「空間が存在するための空間」が必要とされない以上は、φだけを考えれば充分である。

 厳密なことを言えば、φ空間のインデックスとして派生的に時空が定義されるためには、統一場の理論が完成されていることが前提となる。仮に、2種類の独立な場の変数φ1(x,t)とφ2(x',t')があったとすると、それぞれが指示する時空(x,t)と(x',t')が数学的に同型の構造を持つことは、一般に保証されないからである。このため、通常の場の理論では、まず時空多様体Mを与え、その上で場が定義されるという理論構成をとっている。時空が場の変数の相互作用に従属するのは、唯一の統一場φしかない場合に限られる。現時点で統一場の理論は完成されていないが、多くの物理学者が肯定的な予測を述べており、部分的に成功した模型もあるので、ここでは、すでに統一が実現されたものとして話を進めている。φ空間をもとに時空を導出する方法の詳細については、次の事項を参照されたい。

参照 時空の導出

個物と事象(モノとコト)

 大脳新皮質で行われる分節的な情報処理の結果として、人間は世界を段階的に認識する本来的性向を有する。すなわち、連続的に変動している知覚データの中のあるまとまりを「個物」として分節し、これをいったん普遍的な概念として措定した上で、その時間的な変化を「事象」として把握する傾向がある。こうした段階的な認識は、人間の認知機構に由来しているにもかかわらず、人は往々にして、物理的な世界の側に「個物」と「事象」──「モノ」と「コト」──を峻別する契機があると思いなしてしまう。こうした特性は、《客体化》という基本的な認知方略の現れとして理解される。

参照 認知過程における《客体化》

 世界を高次元過程として捉える視座は、しかしながら、物理法則が「個物」と「事象」を区別していないことを明確にする。高次元φ空間内部に拡がって具現化される量子過程は、全体が一つのまとまりであって、物理的な契機によって「個物」と「事象」とを分かつものではない。そもそも、時間と空間が統一された時点で、空間的に分節される「個物」と時間的に把捉される「事象」の様態の差異は本質的とは見なされなくなったはずである。「何かが存在し、これが変化する」という段階的なプロセスではなく、「変化する存在」に擬せられる量子過程だけが物理学的な意味での実在性を付与されるのである。

 ただし、量子過程を時間軸方向に眺めた場合、長時間にわたって一定のパターンが持続されていることがある。適当な条件が満たされているとき、この部分が人間の認知機構によって「個物」として抽出されるのは自然の成り行きであろう。改められねばならないのは、こうした持続的パターンの時間断面を切り出し、それを普遍的な実体として「物神化」する態度である。こうした「物神化」は、時間断面に含まれている内容に「個物」を自立させる契機があるという錯覚をもたらし、非時間的な実体概念を過剰に称揚する結果となる。かくして、時間的変化を特定しない「道具」や「生物」が、あたかも自立的な存在であるかのごとく日常的ないし科学的認識の中に登場してくるのだ。

 この種の錯覚の最たるものが、“脳”の「物神化」だろう。いわゆる心身問題は、「個物」としての“脳”と「事象」としての“意識”をいかに統合するかという哲学的課題であるが、似非科学主義者は、「物神化」された“脳”を“意識”の自立的な担い手と措定することによって問題が解決されたと見なしてしまう。実際には、“脳”“意識”共に、ある部分的量子過程を特定の面から分節したものと解釈しなければならない。

 「高次元φ空間内部の量子過程」という概念によって「個物」と「事象」を統合するという作業は、物理学に習熟していない人間には、かなり難しいかもしれない。その場合は、1つのモデルとして“渦”を想起していただきたい。大気中の竜巻や鳴門海峡の大渦として目に見える形で示現する渦現象は、いかにも「個物」としての存在性を誇示しているが、“渦”という自立的存在がある訳ではないことは明らかだろう。仮に“渦”を「個物」として扱おうとしたところで、実体とその属性という古典的な分類をもとに「“回転”は“渦”の実体か属性か」と自問すれば、直ちに概念適用の不適切さが露呈する。しかし、だからと言って、「“渦”は存在しない。あるのは、運動する分子だけだ」と賢しらに主張しても、分子の協調的な集団運動という渦現象の本質を捉えたことにはならない。あくまで、時間的に継続するパターンとして全体を統一的に把握すべきなのだ。渦現象は、「個物」としての措定がうまくいかないという特徴が際立っているが、自然界における物理現象は、多かれ少なかれ、こうした側面を持っていると考えられる。


事実と非事実

 アリストテレスの論理学では、命題の真偽は「事実と合致するか否か」によって決定できるとされており、「事実」と「非=事実」の境界は自明だと考えられてきた。しかし、近代に入って以降の物理学の進展は、自然界を記述するための理論が有効であればあるほど人間の素朴な直観から懸け離れていくことを教えてくれる。例えば、日常的な直観では、相互不貫入性を持つ稠密な連続体のように感じられる通常の物体が、20世紀初頭のラザフォードの実験(金箔によるα線の散乱実験)によって、原子核のスケールと比べると原子間隔がきわめて大きく、文字通り“スカスカ”の状態であることが判明したように。特に、高次元過程の場合は、「空間−時間−物質−力」という(ニュートン力学のみならず日常的な直観でも採用される)基本的なカテゴリーが通用しないために、「事実とは何か」を語ることそのものにも曖昧さが生じてしまう。

 こうした曖昧さは、非相対論的な量子力学においても、すでに多くの科学者・哲学者によって議論の俎上に載せられていた。例えば、二重スリットによる電子の干渉実験では、干渉縞が生じるようなセットアップの下では、「電子がどちらのスリットを通過したか」という形式で「事実」を記述することはできない。経路積分による量子化によって示されるように、スリットを通過するときの中間状態は、それぞれのスリットを通過する状態が重ね合わされているからである。ただし、このことは、中間状態が理論的に記述不能だという意味ではない。人間が通常用いているようなカテゴリー──空間内部における自立的な物体の連続的な移動──に依拠した記述ができないというだけである。

 日常的な用語法で物理的世界について語るとき、人はしばしば、それが科学的な手続きによって正当性を保ったまま厳密化できる言明であると思い込む。例えば、「眼前に机が存在する」という「語り」は、原子配列や力学的釣り合いのような概念を使うことによって、厳密に科学的な「事実命題」に翻訳できると考えてしまう。しかし、元々の「語り」に空間や物質のような古典的カテゴリーが意味規定を行う上で不可欠の要素として使われている以上、意味の変更を伴わずに科学的な命題に置き換えることは困難である。「眼前の机」を部分的に包摂するような量子過程を記述することは可能だが、この記述において机に相当する高次元φ空間の領域は、「空間内に定位された物質的存在」というイメージとは全く異質のものであり、日常的な語りとの間にはきわめて巨大な──実質的に乗り越えることが不可能な──懸隔が存している。

 物理的世界についての日常的な「語り」は、知覚データや学習記憶をベースに、さまざまな情報処理を施した結果としての1つの出力である。したがって、一般的には、「事実」か「非=事実」のいずれかに画然と分かたれる訳ではなく、せいぜい、他のデータとの(厳密な整合性に代わるものとしての)「相性の良さ」に程度の差が認められるにすぎない。「今日は晴れている」という「語り」は、疑い得ない「事実」として認められるべき命題ではなく、視界における空の青さや日光の照射レベルなどの諸々のデータと「よく馴染む」か否かに基づいて“もっともらしさ(likelihood)”が判定されるものである。

 ただし、「語り」の文脈において、対立的な対(つい)命題が暗黙裏に想定されており、いずれか一方を「事実」と認定・すべき・状況が実現されている場合は、各命題から導かれるさまざまな帰結とデータを照合して、形式的な事実認定を行わなければならない。「眼前にあるのは机と椅子のどちらか」と問われたとき、明らかに机の形をした物が見える場合は、「(椅子ではなくて)机がある」というのが「事実」だと判定される。しかし、この場合も、あくまで「椅子がある」という命題を「非=事実」と認めることとペアになった事実認定であり、「(空間内に定位された物体として)机(という実体)が存在する」ことを疑い得ない「事実」と結論づけた訳ではない。


機械論と生気論

 科学的記述に基づいて世界を理解しようとする態度に嫌悪感を示す人は少なくないが、その原因は、科学が機械論の側に立っているという誤解にあるのではないかと思われる。確かに、「外部から作用する力によって是非もなく一定の動作をさせられる」という素朴な機械論のイメージが現実世界の記述として通用するならば、人間に尊厳を認めることは難しい。しかし、こうした前時代的な機械論は、古典スキームの下に成立するものであり、現代科学においては、古典近似が通用する単純なシステムにしか適用できない。

 一方、生命の特殊性を説明するのに形而上学的な概念を必要とする生気論は、従来、科学と違背する主張だと見なされるのが一般的だったが、高次元過程を瞥見すると、あたかも生気論が妥当するかのような錯覚に陥る。「空間の中に物質が存在する」というスキームを採用していないので、存在物の外形がはっきりしないが、これは、「不定形な生命体」という原初的な生物に関する(あまり正当とは言えない)イメージと、どこか共通するところがある。さらに、自律的・非因果的に変動する点も、生命の特性を思い起こさせる。もちろん、こうした点は、不正確なアナロジーにすぎない。しかし、生気論は科学から隔絶した臆見であるという非難は、撤回しなければならないだろう。


決定論と自由意志

 高次元過程は、過去から未来にわたる1つの歴史と見なすことができる。したがって、この過程に人間が(物理現象の一つとして)含まれていたとしても、自由意志で未来を選び取ることは不可能である。こうした「選択の不能性」は、「時間が流れない」ことを論じた前章でも示された。

 ただし、過去から未来へと延びた量子過程として歴史が定まっているとしても、人間の行動が全て物理法則で決定されている訳ではない。量子力学は、過去の状態が未来を完全に決定するという意味での因果律を満たしていない。初期状態が完全に与えられたとしても、実現可能な量子過程は無数にあり、その中の1つが(現在なお明らかにされていない機構によって)具現化されるのである。太陽系のように少数自由度の質点系として近似できるシステムの場合、古典力学の法則から大幅に外れるような事態は、経路積分によって与えられる確率がきわめて小さくなって現実には起こり得ないため、あたかも運動方程式にがんじがらめに拘束されているかのようなプロセスだけが生起する。しかし、意志的な行動を司っているとされる前頭前野の神経系は、さまざまなプロセスがほぼ等しい確率で実現されるシステムであり、具現化された量子過程でどのプロセスが生じているかは予測不可能である。人間は、このような限定された意味での自由を享受しているのである。



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