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「時間と空間」なるタイトルで話を始めようとすると、誰しもが、相対性理論についてのくだくだしい解説を思い浮かべるだろう。確かに、以下で取り上げる主張のほとんどが、相対論からのロジカルな帰結として解釈可能であり、初等的な物理学の教科書に記載されてもおかしくないものである。しかし、だからと言って、これらの主張が、相対論の正当性を無批判に前提としている訳ではない点を強調しておきたい。
相対論的なモデルは、暗黙的ないし明示的にさまざまな仮定を含んでいる。これらの多くは、アプリオリに正当化できないばかりか、往々にして、定義を明確にするため、あるいは、具体的な計算の遂行を可能にするために、方法論的に導入されているにすぎない。したがって、こうした仮定を、あたかも実証済みであるかのごとく前提とすることは、議論の展開を不当に制約するばかりか、科学的方法論に反感を抱く論者に、批判の矢を放つ格好の標的を与えかねない。
正当化されていない仮定の例として、時空の解析性を考えてみよう。通常、物理学で定義される時空とは、その上で計量テンソルが定義されたCr級(一般にはr=∞)のn次元連結ハウスドルフ多様体を指している。初等的な数学の定理から示されるように、このような多様体は、(特異点の集積点を除く領域では)局所的にはミンコウスキ時空で近似できる。仮に、この結果をそのまま受け入れるとすると、ミクロの領域では、時間や空間が実数体と同型になるはずである。しかし、この帰結は、あまりに厳しい制約を理論に課すもので、うかつに容認できない。現実の時空においては、ミクロの極限で相互作用が消失して近接する2点を峻別することが原理的に困難になり、「どんなに近づけても同一でない限り2点は離れている」という実数論の常識が成り立たなくなるかもしれないからである。このことから明らかなように、時空が微分可能な多様体だとする仮定は、物理学的な時空モデルにおける不可侵の前提ではない。あくまで、数学の手法に基づいて科学的命題を生成する能力を、理論に保証するために導入された条件の1つと見なすべきである。逆に、たとえ可微分多様体を用いない理論であっても、マクロ領域で解析的な方程式が近似的に成立し、その結果として、現行の相対論のさまざまな成果が再現できるような場合は、相対論の後継理論としての資格が充分にあると考えられる。
こうした状況を鑑みれば、科学的な世界像を考察するためのステップとして物理学的な時空概念を検討する過程で、相対論の諸仮定を無批判に受け入れる態度がいかに危険かが納得されよう。最も望ましいのは、将来の理論展開を予想しながら、相対論を越える理論が提出されてもなお有効性を失わない命題を選別する作業を遂行することだが、これは、現実問題として不可能に近い。そこで、次善の策として、古典的な時空概念を根底から変革する命題の中で、実験/観察データを通じて有効性が相当程度まで実証されており、将来的にも完全に覆される可能性の低いものを、哲学的な議論に援用できる物理学的な知見として主張したい。
こうした観点に立って、これ以降の議論の前提として私が定立する命題は、次のようないささか文学的な言い回しで表される:
【要約】 物体を入れる器として定義される空虚な空間のイメージは、こんにちでは、科学的な根拠を持つものではない。この結果、「空間の内部で物体が運動する」という古典的なスキームを構成する要件の1つが、否定されたことになる。
ニュートンによって大成された古典的な力学体系においては、物質が全く存在しない場合でも、特定の座標系によって内部の任意の位置が指定される(絶対)空間が、物理学的に有意義な概念として扱われている。
ただし、歴史的に見ると、「物質の存在しない(=空虚な)絶対空間」なる概念が、一貫して自然認識の基盤としての役割を果たしてきた訳ではない。この概念の起源を求めるならば、原子の運動を可能にする空虚な空間の存在を要請したデモクリトス流の原子論にまで遡ることができる。個々の原子は他の原子との間に空隙がなければ動きがとれないので、原子論を展開するには原子が存在しない空間を想定しなければならない。だが、原子論を主張する学者は、ほとんど常に少数派であり、17世紀に到っても、デカルト流のエーテル論に人気が集まっていたのが実状である。ニュートン自身、(光の粒子説を含めて)原子論に加担していたものの、物質を含まない空間で座標系が定義できるという前提を自明なものとして安直に受け入れたのではなかった。『プリンキピア』冒頭での諸定義に関連して、彼は、異なる座標系で表現された空間点の同一性の問題を、あたかも自分に言い聞かせるかのような強引な論法で、かなり子細に検討している。ここでは、18世紀になって理念化された議論に基づいて、「ニュートン力学においては絶対空間が前提されている」と述べることにする。
「空虚な絶対空間」という概念の危うさは、「何もないことを自らの存在根拠とする存在」の了解不能性に根ざしている。ニュートン力学にあっては、光を含めたあらゆる物質を原子に還元することによって、「原子を取り除いた領域」という形でかろうじて理解する道が残されていた。しかし、19世紀以降の電磁気学の進展は、こうした便宜的な解決すら困難にしていく。マクスウェルが示したように、電磁気的過程は、(後に《エーテル》と呼ばれる)連続媒質の波動ないし渦動であるかのごとく記述できる。これをそのまま認めるならば、電磁現象が現に生起している領域だけではなく、およそ生起する可能性がある全ての領域にも、電磁気を伝える媒質が瀰漫していなければならない。かくして、(当時の常識にしたがって)物質的な存在と見なされていた《エーテル》は、空間と不可分の関係に位置づけられ、《エーテル》すら存在しない「完全に空虚な空間」は、光を伝えることもできない定義不可能な概念となり果てる。これが、近代物理学が直面した「空間概念の危機」である。
よく知られているように、《特殊相対論》の登場を契機として、こうした概念上の困難は、かなりの程度まで解消される。ローレンツを中心とする西ヨーロッパ系の物理学者によって土台が築かれ、アインシュタインによって最後の仕上げがなされたこの理論の中で、《エーテル》は《電磁場》と名前を変え、空間の内部に存在する物質としてではなく、時間/空間座標を引数として持つ物理的自由度として定義されることになる。《電磁場》の自由度が部分的に欠落する――古典的な言い方をすれば、《エーテル》の存在しない領域のある――非一様な空間は、そもそも定義できない。このようにして、空間概念は、内部に物質の存在を許すだけの単なる〈入れ物〉から、場という物理現象の担い手と結びつけられる実体的な対象へと、変化することになる。
もっとも、《特殊相対論》では、時間/空間内部で定義される(2点間の)距離が、物質の分布と無関係にミンコウスキ計量に固定されているため、形式的には、まず、リジッドな(=座標軸を部分的にゆがめることができないような)時空間が与えられ、その上で《場》の量が定義されるという順番になる。このため、空虚な空間内部に存在する物質としての《エーテル》像を超克したとは言っても、《空間》が《場》に先行する概念であるとの感は否めない。「何もない空間」なる概念が完全に払拭されるには、《一般相対論》の登場を待たなければならない。
《一般相対論》においては、2点間の距離を定める時空の計量も、一定の値に固定されたものではなく、物理的な自由度である《重力場(gμν)》として与えられ、物質分布や電磁場の状態などをソース項に含む運動方程式にしたがって、ダイナミックに変動する。ここに至って、《空間》は、その中に物質を入れるための空っぽの入れ物としてではなく、より具体的に、個々の物理的過程に関わっていることが明らかになる。
細かく言えば、《空間》が物理過程に関与する様式には、(便宜的に分類すると)「直接参加型」と「枠組み設定型」がある。
ここで「直接参加型」と呼んだのは、時空の計量となる重力場gμνが他の力学変数の相互作用に関与する際の様式である。例えば、電磁場Aμと電磁カレントJνの相互作用は、 gμνAμJν という項を通じて生じており、重力場の関与がなければ、この作用自体が生じない。また、波の形で場の変動が伝播して行く過程も、(共変微分を介して重力場が含まれる)微分作用素の逆関数を通じて実現されるもので、重力場が、波の伝播の言わば橋渡し役を演じている。ところが、重力場gμνとは、本来、時空の計量として「距離」を定義するものであり、古典力学においては、《空間》に従属する性質の1つに他ならない。したがって、こうした相互作用のありかたは、《空間》がさまざまな物理過程に直接的に参加しているものと解釈することができる。
一方、《一般相対論》においても、《空間》が物理過程の枠組みを設定するような形で関与していることがある。その典型的なケースとして、空間の《唯一性》を指摘したい。電磁場Aμ(x)、重力場gμν(x)、クォークや電子などのフェルミオン場ψ(x) をはじめとして、物理理論には多数の場が現れるが、それらが引数を通じて指示するのは、ただ1つのユニークな空間である。具体的には、座標系を指定した場合、ある座標{x}に対して、理論の中で導入されている全ての場の量
Aμ(x) ,gμν(x),ψ(x) …
がただ1つ割り当てられており、非量子論(場の量子化を行わない理論)の範囲では、それぞれの場の量は、一意的に定まった値を持つとされる(下図)。特に、通常の理論で暗黙の前提とされる局所相互作用の考えでは、相互作用するのは、同一の引数{x}を持つ場(ないしその微分)同士に限られる。「電磁場にとって隣接した地点が、他の場にとってかけ離れた場所である」というような可能性は、考慮されていない。
空間の《唯一性》という見方は、ともすれば、多数の場がその上で定義されるメインフレームとしての「絶対空間」の存在を前提していると受け取られかねない。しかし、こんにちの物理学の流れは、空間の《唯一性》の意義を縮小化し、最終的には、不必要なものにする方向に向かっている。「場が多種類存する〔にもかかわらず、引数として現れる空間はただ1つに限られる〕」というのは、現時点での経験事実である。ところが、多くの物理学者は、場の多数性は、エネルギーが低いときの見せかけの現象でしかなく、高エネルギーの極限で姿を表す究極的な理論においては、全ての場が1つに統一されると期待している。こうした理論が完成した暁には、「座標{x}を与えたときに場の量がただ1つ指定される」ということは、「統一された場の量が引数{x}によって区別される」ことと同じ意味になり、わざわざ絶対空間を持ち出すまでもなく、引数の唯一性が説明できてしまう。現時点では、統一場の理論は完成されていないが、多くの物理学者がその正当性を信じているので、議論を進める上での仮説的な前提として、次のように主張することは許されるだろう:空間の《唯一性》は、あらゆる物理過程がただ一つのダイナミカルな場によって実現されていることの間接的な表現であって、絶対的なバックグラウンドとしての《空間》を前提する必要はない。
現代物理学における《空間》とは、物質を入れる空虚な容器ではなく、重力場を介して相互作用の伝播に積極的に参加している。こうした空間概念は、相対論から導かれるものだが、単に論理的に演繹されるだけではなく、素粒子論を含む現在のさまざまな物理学理論で採用されており、将来において相対論を越える理論が確立されたとしても、棄却されることはないと予想される。
なお、「空間は空虚でない」と主張する上での重要な根拠として、「あらゆる物質の状態が場の量によって表される」とする《場の量子論》の存在を忘れてはならないのだが、この理論については、§2で詳述するので、ここでは触れない。
【要約】 《過去》はすでに過ぎ去り《未来》は未だ来たらず、ただ《過去》と《未来》の界面としての《現在》のみが現に在る――という古典的な時間のイメージは否定される。変化の根拠と見なされた「時間の流れ」は、過去から未来にわたる「時間の拡がり」に置き換えられねばならない。こうして、「時間の流れとともに物体が運動する」という古典的スキームの要件が、また1つ否定された訳である。
素朴な直観は、《過去》はすでに消え《未来》はいまだ訪れず、実在するのは両者の界面たる《現在》と呼ばれる一瞬だけだと告げる。あるいは、より知的な判断によれば、《過去》が既定の事実として確定しており、いかなる手段をもってしても動かしがたいのに対し、どのような《未来》が実現するかは未定であって、《現在》における可能な選択を通じて変更され得ると見なされる。しかも、この《現在》という瞬間――ある幅を持っているかもしれない――は、一つの時刻に固定されていない。仮に1次元的な時間軸を想定するならば、未定の《未来》に属する領域は、《現在》に隣接する側から連続的に、既定の《過去》へと変質していくことになる(このことは、並んだ将棋の駒が連続して倒れていくようなイメージを思い描くと、わかりやすいかもしれない;下図)。もちろん、こうした言い回し自体が特定の時間観に依拠するものではあるが、少なくとも、《現在》を表す時刻が一定方向に変化していくという見方は、きわめて一般的なものと思われる。いわゆる「時間の流れ」である。
本当のことを言えば、ニュートン力学は、理論の前提として「時間の流れ」を必要とするものではない。それどころか、位置pと運動量qが位相空間内部で描く軌道によって運動を定義するハミルトン流のフォーマリズムにおいては、運動の記述から《時間》を完全に消去してしまうことすら可能である。このとき、運動方程式に現れる時間は、単に軌道上の位置を指定するためのパラメータでしかない。しかし、ニュートン力学に則って物体の運動を議論する場合、時間とともに刻々と位置が変化する過程をイメージするのが一般的なので、ここでは、「流れる時間」を古典的なスキームの構成要件の1つと見なすことにする。
こうした素朴な時間観に対して疑問を投げかける見解は、古くからあった。例えば、アリストテレスは、その著『自然学』の中で、《現在》が物体の運動状態から独立に存在することを否定している。各物体の運動状態に応じて、それぞれにとっての《現在》があり、万物が共有する客観的な《現在》は認められないという考えである。これを敷衍すると、「時間の流れ」はない、ただ、「時間の拡がり」があるばかりだ――ということになる。当然の帰結として、異なる時間帯に属する知的生命――《過去》に登場した歴史上の人物や《未来》に生まれ出るわれわれの子孫など――も、各自の身体的状況に応じて、切実な実感をもって“いまを生きている”ことになる。「現代人」と彼らとの間には、乗り越えがたい時間的距離が横たわっているが、それは、地球人とアルファ=ケンタウリの彼方にいるエイリアンを隔てる空間的距離と、質的に異なるものではない。道元も、『正法眼蔵』の「有時」の巻で、仏教哲学に基づいて同様の時間観を展開している。
このような「流れる時間」と「拡がっている時間」という2つの(相反すると言って良い)見解のうち、物理学的な知見がサポートするのは、後者である。この主張は、単純に、「時空=4次元多様体」という相対論の前提から導かれた結論ではなく、互いに関連する多くの理論的/実験的裏付けによって傍証されており、たとえ将来において相対論が覆ったとしても、簡単に否定されることはない。にもかかわらず、「拡がっている時間」のアイデアは、多くの哲学者(および一部の科学者)から忌避され、ときに反撃されることもある。このアイデアは、後に「この世界についての仮説」を提出するときに、不可欠の前提として援用するので、ここで改めて論拠を示しておきたい。
科学者の中にも、「時間が流れない」という主張に反旗を翻す者が皆無ではない。代表的な反論は、プリゴジンによるものである(イリヤ・プリゴジン著『存在から発展へ 〜物理科学における時間と多様性〜』(みすず書房,1984))。その論旨は、ハミルトニアンと共役関係にある時間演算子をもとに量子論的な変化のプロセスを記述しようというものだが、相対論的な共変性が確保されておらず、物理学的に完成された理論とは言いがたい。
「時間の流れ」を否定する議論は、2つの方向から展開することができる。
第1のものは、《過去》《現在》《未来》の区別を実在的なものと見なし、《現在》を存在論的な観点から特別扱いする立論に対して、物理学的な反駁を行う議論である。反駁の根拠を簡単にまとめると、次のようになる。
より詳細な議論を知りたければ、次の項目を参照していただきたい。
第2の議論は、「時間的な変化」を実現している物理的現象の多くが、「時間の流れ」を必要としない理論によって記述できることを指摘するものである。こうした理論では、系の状態が時間と共に変わるような解が現れるが、それは「時間の流れに沿って変化する」のではなく、拡がった時間の中に一様でない状態が実現していると考えてしかるべきである。このことは、理論に用いられる時間が、はっきり定まった「流れの向き」を持つ実体として扱われていない点に端的に示される。具体的な例を挙げていこう。
以上の議論は、《過去》《現在》《未来》の区別が実在的ではなく、時間が(少なくとも、われわれが生きている近傍においては)斉一的な構造をしていることを強く示唆する。時間は、《現在》が不断に更新されるという形で「流れる」ものではなく、《過去》から《未来》へと「拡がっている」ものと見なすべきである。
こうした主張に対しては、哲学的/擬似科学的な観点から反論が提出されることが予想される。予想される反論と、著者の立場からの再反論に関しては、次の項目にまとめておく。
物理的には、時間は「流れる」ものではなく、単に「拡がっている」にすぎない。にもかかわらず、日常生活の中で《過去》から《未来》へ向かって不断の時間の流れがあるように実感されるのは、主として次の3つの事情による:
このうち、3に関しては、《意識》に関する議論を終えて初めて説明が可能になる。1と2については、次の項目を参照されたい。
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©Nobuo YOSHIDA