I−1 過去/現在/未来の3分法と《事実的決定論》
素朴な議論においては,決定論とは,未来に何が起きるかが現在(あるいは
過去の任意の時点)の状態によって既に決まっているという意味だと解釈されが
ちである。しかし,この解釈には,2つの点で不備がある。第1に,未来と現在
(および過去)との区別が截然としておらず,第2に,「決まっている」ことの
意味が曖昧である。実は,この2点は同一の問題を異なる角度から眺めたもので,
<時間>の物理的な性質の分析をもとに統一的に論じることが可能なのである。
3分法に基づく時間概念の類型
論点を明確にするために,素朴な議論を続けていこう。<実在性>という概
念を軸にして<時間>を捉える場合,非=科学者を含めた一般人による<時間>
の概念は,主として次の3つのタイプに分類されるだろう:
- われわれが日常的に感じる「生の実感」を信じるならば,宇宙の開闢か
らその死に到るまで金太郎飴のように長く延びた時間の拡がりの中で,<現在>
だけが「実在する」瞬間のはずである。これに対して,<過去>はもはや過ぎ去
ってしまった出来事として痕跡をとどめるばかりとなり,―方,<未来>はいま
だ実現されていない未定の状態としてその到来が予期/展望されるにすぎない。
ただし,「実在する」瞬間は何らかのダイナミクスによって時間軸の後方へと不
断に更新されているため,<未来>はいつか<過去>に変化することになる。こ
の過程が,いわゆる「時の流れ」である。
- 常識の示唆するところでは,これから起こる出来事については意図的に
変更する余地があるのに対して,既に過去のものとなった事実は決して覆すこと
ができない。この点を<過去>と<未来>の根本的な差異として認めるならば,
<現在>以前の全ての時刻を「実在する」側に入れるのが自然だろう。実際,状
態の記述を(ある程度まで)恣意的に変更できるか否かは,多くの事例で<実在
性>をチェックするための目安として利用されている。例えば,夢想の世界では
人は望むがままに国王にも乞食にもなれるが,こうした自由は当の世界が実在し
ないからこそ保証されているはずだ。また,適当な理論的モデルを使ってシミュ
レーションを行う場合,仮想的な状況を調べるときには理論に含まれるパラメー
ターを任意の値に設定することが許されるのに対して,現実と比較するためには
唯一の「実際の」値にセットしなければならない。このような事例に基づいて,
状態の<変更不能性>を<実在性>の刻印とする立場を採用するならば,常識が
示唆する<過去>と<未来>の差異は,時間軸が<現在>を境に実在する側とそ
うでない側に二分されることを意味する。こうした時間観の下では,<現在>は
既定の<過去>と未定の<未来>のはざまにある界面に相当し,いまだ定まらな
い状態が揺るぎない事実へと“固まっていく”に連れて,この界面も時間軸に沿
って移動していくことになる。
- 上の2つの見解が日常的な実感や常識に根ざしているのに対して,
<現在>という時刻への思い入れをいっさい「括弧」の中に入れてしまう中立的な
立場もある。この立場からすると,<過去>と<未来>は,任意に与えた<現在>
に対する相対的な先後関係によってのみ区別され,実在論的な存在資格に関し
ては同等だと見なされる。こうした時空内部に知的生命が生息している場合は,
時間軸上の各点ごとにその時刻を<現在>だと思う<意識>があって,それ以前
の時間を<過去>,それ以後の時間を<未来>と感じていることになる。
以下では,この3種類の立場それぞれについて,過去あるいは未来の状態が
「決まっている」ことの意味を論じながら,現代科学の知見が支持する時間概念
を究明していく。
一言だけ注意しておこう。<時間>についての見解には,そもそも1次元的
な時間軸の存在を認めないなど,ここに述べた以外にもいろいろなタイプのもの
が提出されているかもしれない。しかし,これらの諸説については,一般に,論
理の基盤となる基本的な前提を明らかにしておらず,以後の考察を進めるに当た
って科学的方法論を援用できないという理由で,ここでは敢えて取り上げない。
この方針は,およそ学問的な議論を展開するには,論理を組み立てるための足場
を確保する必要上,明確に述べられた何らかの仮説を導入しなければならないは
ずだという方法論的立場に依拠している。実際,(例えば)宗教的啓示を通じて
のみ与えられるような観念について,どのようにして学問的に語れば良いのだろ
うか。時間についての議論を意味あるものにするためには,自然科学で扱われる
時間概念――物理量の関数的表現に引き数の形で現れる。局所的に実数体と同
型な。有限または(半)無限の1次元的バラメーターとしての――か,あるいは
少なくとも洗練すればこれに近づくようなイメージに基づいて考察すベきだろう
。本節で<時間>が語られるときには,こうした方針に則って,過去から未来へ
伸びた1次元的な時間のイメージが念頭に置かれていると考えられたい。
時間軸上の実在度
実在性に準拠する<時間>の捉え方としての前記3タイプは,<実在度>と
いう便宜的なパラメーターrを導入すると理解しやすいだろう。ここで<実在度>
とは,物理的に厳密に定義される量ではないが,考えている状態が実在する場
合はr=1,実在しない場合はr=0と置き,0<r<1の範囲は仮想的な“半
実在”の状態を表すものとする。ただし,「実在」の何たるかについては,全て
の物理量が一意的に定まっていて変更不能だという性質を要求するにとどめてお
き,より詳しい議論は後で(I−3節で)行うことにする。このパラメーターを
用いれば,<現在>のみが実在すると見なす(i)の見解は,実在度rが<現在
>にパルス状のピークをもつ図1−I−aのグラフ(a)で表される。同様に,
<現在>と<過去>の双方に実在性を認める(ii)の見解はグラフ(b)で,ま
た,<過 去>から<未来>までの全時間が実在していると仮定する(iii)の見解
はグラフ(c)で表現されることになる。なお,これ以外にも(パルス状関数や
ステップ関数ではなく滑らかな関数形にするなど)グラフの形としていろいろな
ものを選択する自由度は残されているが,この段階では<実在度>はあくまで便
宜的なバラメーターと見なされており,その関数形に物理的な意味はないので,
ここであげた以外のグラフについては考察しない。
<実在度>のグラフを見れば,<未来>や<過去>が「決まっている」とい
う言明の両義性がいっそう明らかになるだろう。すなわち,グラフ(c)の全時
刻やグラフ(b)の<過去>のように<実在度>が1の時間領域では,状態は「
事実として」決まっているが,グラフ(a)または(b)における<実在度>が
0の領域で物理的状態が決まっていると言うためには,(実在する領域で与えら
れた境界条件に対して運動方程式の解が一意的に定まるというような)時間発展
を定めるダイナミクスの性質に言及しなければならないはずである。この2つの
<決定性>を区別するために,直観に訴える命名法に従って,前者を《事実的決
定性》,後者を《法則的決定性》と呼ぶことにしよう。素朴な言い方をすれば,
《事実的決定性》では決まった状態が現に「ある(to be)」のに対して,《法
則的決定性》ではこれから「なる(to become)」ことが決まっているのである
。もっとも,日常的な文脈では,両者は必ずしも峻別されている訳ではなく,例
えば,伏せられているカードを開いてみるとスペードのエースだったという単一
のプロセスを取り上げてみても,裏向きになっていたのがはじめからエースのカ
ードだったと考えたときには《事実的決定性》の,意図的にカードをひっくり返
す際の生理的/物理的過程に注目したときには《法則的決定性》の表現と見なさ
れるかもしれない。しかし,科学哲学的な見地からは,この2つの<決定性>は
厳密に区別され,いずれが現実に即しているかが判定されるべきである。そのた
めには,先に掲げた3つの時間観の物理的妥当性を検討するのが最も早道だろう
。この観点から,次に,それぞれの見解への批判を試みたい。
- (i)の見解に対する批判:
実在する物理的な状態を,(量子力学の表記法をもじって)記号|Ψ> に
よって表すことにしよう。ただし,|Ψ>は必ずしもヒルベルト空問 に属する
べクトルとは限らず,援用する理論に応じて必要な全ての情報― ―質点系の古
典力学では各粒子の位置と運動量のような――を続括的に 表す記号である。さ
て,長く延びた時間軸の中で<現在>だけが実在的だ と見なすと,|Ψ>は
<現在>を指定する“時刻”τによって特徴付け られるはずであ。もちろん,こ
の時刻τは,厳密には各空間点での(太 陽の方位などの)物理的状態に応じて
与えるべきものであり,果して全空 問領域で一意的に決定できるかという疑問
もあるが,ここでは“常識的 に”<現在>の時刻が定まるとしておこう。こう
した事情をあらわに書け ば,実在的な状態は|Ψ(τ)>のように記される。
物理学的にみて問題としなければならないのは,このτが時間軸上の 任意
の値を取り得る物理変数ではなく,実在する唯一の時刻たる<現在> を表すべ
く,特定の値に固定されているという点である。うっかりすると, τを変化さ
せるだけで異なる時刻を<現在>とする状態が得られると考 えてしまいがちだ
が,そのような「実在を更新する」ダイナミクスは,既 存の物理理論ではそも
そも想定されていないのである。しかも,|Ψ(τ)> が「時間的に厚みがな
い」――すなわち,実在する<現在>が一瞬にすぎ ず, 微小な時間間隔δτだ
け隔たっている2つの時刻の状態の問に何の 共通部分も見いだされないため,
ある瞬間τから次の瞬間τ+δτへと 状態が“遷移する”には,|Ψ(τ)>
が忽然と消失して,その代わりに |Ψ(τ+δτ)>が現れるという。物理的
には理解できない状況を考え るしかない。まさに,「<過去>は何処に去り,
<未来>は何処から来たら んや」である。
断わっておくが,従来の物理理論は全て(形式的には)事実的決定論に 則
っているため,こうした問題が生じる余地はなかった。例えば,古典力 学では
,ある瞬間における質点の位置と運動量を与えればそれ以後の任意 の時刻での
状態が決定できるが,これは「時間の流れ」を物理的な過程と してシミュレー
トする作業ではなく,運動を表す位相空間内部の1次元的 な軌道を指定する操
作にすぎない。古典力学における<時間>はこの軌道 上の位置を示す単なるバ
ラメーター以上の意味を持ち得ず,実在状態にあ る<現在>が時間の経過と共
に軌道上を移動していくという過程は,もと もと理論に入り込むべくもないの
である。
さらに,瞬間的な<現在>だけが実在すると考える立場からみれば,人々
がしばしば自明だと見なす「<過去>の揺るぎない既定性」すらも疑わし いも
のとなる。なぜなら,この見方では,<過去>は非=実在の彼方へ消 え去って
しまうため,“かつて”その状態が実在したことを示唆するのは <現在>に残
されている事跡のみとなり,何ら痕跡をとどめないような<過 去>の出来事に
ついては<現在>のデータだけでは細部を確定できなくな るからである。しか
も,実在性が認められるのが<現在>という一瞬間に 限られているため,その
“薄っぺらな”内部に宇宙始まって以来の全ての 情報が蓄積されているとは考
えにくく,不充分なデータに起因する不定性 が<過去>に生じている蓋然性は
高い。もっとも,<現在>の状態だけか ら<過去>が確定できないからと言っ
て,<過去>が実際に特定の状態を とっていなかったと主張する根拠にはなら
ないとする反対意見もあるだろ う。だが,この反論が成立するためには,<過
去>から<現在>に到る各 状態の間に因果の連鎖(あるいは「時間を流れさせ
る」ダイナミクス)が 存することが必要である。さもなければ,<現在>の状
態|Ψ(τ)>は 他の時刻とは何の繋がりもないままに自足してしまい,<過
去>などなく てもかまわないはずである。ところが,時空連続体としての世界
を時間軸 に垂直に“スライス”して,その中の特定の瞬間だけに実在性を認め
ると いう発想は,まさにこうしたダイナミクスの存立する余地を奪うものであ
り,したがって,「過去の出来事の痕跡」という“物証”がない限り,異 なる
時刻の状態を結び付けることはできなくなる。こうして,<現在>か ら見た<
過去>は,(単に知り得ないのではなく)本質的な不定性を抱懐 すると結論さ
れてしまう。
この(―種の)バラドクスを回避するには,<現在>がある程度の拡がりを
もっていると仮定するのが最も簡単だろう。こうすれば,実在と非= 実在の境
となる時刻に物理的な“界面”が生じ,<現在>内部の相互作用 を通じてこの
界面が<未来>の方向へダイナミカルに“前進”すると考え ることによって,
時間が流れる過程を理解できるようになるかもしれない。 しかし,この仮定は
,こんにちの科学的知見から余りに乖離しており,素 直に受け入れる訳にはい
かない。具体的に言えば,現代物理学の基本的な 時空観の下では,<時間>は
軸方向の並進に対して不変性のある一様な座 標と解釈され,この性質に基づい
て(ネーターの定理を使って)エネルギー 保存則を導き出している。したがっ
て,こうした枠組みの中に,<現在> の内部に(実在と非=実在の間の物理的
な界面としての)不均一な構造を有し相互作用を介して力学的に流れるという。
ダイナミカルな<時間>の 概念を組み込むのは,およそ不可能である。もちろ
ん,科学的知識は決し て絶対的なものでなく,将来の科学革命によって現行の
時間観が大幅に変 更される可能性もあるだろう。しかし,現代科学がさまざま
な分野との情 報交換を通じて徽密に体系化されており,理論の基幹部分での修
正が予想 もつかない方面へ影響を及ぼすという現状を考えれば,こうした変革
を, これまでの科学的研究の成功を偶然の産物に帰せしめないようにしながら
行うことは,きわめて困難な作業だと言わざるを得ない。
以上の議論に基づき,<現在>のみを実在すると見なす(先の(i)で述べ
た)時間観は,物理学的に容認できないと結論することができる。
- (ii)の見解に対する批判:
もはや動かし得ない既定の事実として全ての<過去>を実在的と見なす 一
方,<未来>はいまだ定まらざる状態として非=実在的とする見解は, おそら
く,一般の人々の間に最も広く流布している時間観だろう。直観的 な言い方を
すれば,時間の流れは,未定状態にある“相”が既定状態の“相” へと相変化
していく過程であり,2つの相の界面が<現在>に相当すると 解釈される。
しかし,この見方に対しても,現代の物理学は,容赦のない批判を提出 す
る。まず,既に(i)の見解に対する批判として述べたように,既定の<過 去>
と未定の<未来>の界面としての<現在>が移動していくダイナミクスは,こん
にちの科学的自然観とは共立しがたい。上の相転移のアナロジー は,なるほど
直観には訴えるものの,実在していないはずの<未来>が物 理的状態を表す“
相”に擬えられるという・科学的に了解不能な言明を含 んでおり,この相転移
を実現するための物理的機構を既存の科学用語をも とに記述するのは,想像す
ることすら困難な作業である。
さらに決定的なのは,<過去>と<未来>の物理的な界面として<現在>
を定義する理論は,その正当性がきわめて高い精度で認められている特殊相対論
の知見と真っ向から対立するという点である。このことは,次 のようにして示
される。<過去>および<現在>の実在的な状態を表す記 号的表現|Ψ>は,
引き数として,<過去>を記述するための時間座標を 与える時間的バラメータ
ーtと,この座標の終端となる<現在>の時刻を 示すτの2つを含む。このう
ち,tは地球の自転や分子振動をもとに適当 に定めた起点からの経過時間を表
すもので,一般的な用語法での「時間」 と同一視して,形式的に<未来>へ外
挿することが可能である。これに対して,τは<現在>が時間軸上のどの点に位
置するかを決定するもので,<現 在》が既定と未定の界面としての物理的な意
味をもつ系では,τの値が 物理量として測定可能でなければならない。ところ
が,このような特別な 時刻――正確には,空間的超平面――が存在する場合,
特殊相対論が要 求するローレンツ変換に対する理論の不変性と矛盾が生じる。
ここで。ロー レンツ変換とは,(光速c=1としたときの)時間座標tと空間
座標xが, 等速度運動をする観測者からみて,
t′=t・coshθ−x・sinhθ
x′=x・coshθ−t・sinhθ
(θは速度に依存するある量)
に置き換えられることを指し,特殊相対論の主張は,このような変換を施 し
ても物理法則は形式的な同一性が保たれるという内容である。ところ が,<過
去>と<未来>の境に物理的な界面がある場合,この界面がt= (―定)の超
平面で表される座標系だけが世界の物理的状態を最も適切に 反映しており,こ
の座標にローレンツ変換を施して得られる他の座標系 は。<現在>が“傾いて
いる”(=場所によって<現在>の時刻が異なる) 虚構的な表現しか与えない
ことになる。このような物理的システムは,明 らかにローレンツ変換に対して
不変でない。現在の知見では,ローレンツ 不変性は(ジェット機に原子時計を
積んだ直接的な実験から,特殊相対論 に基づく素粒子論や宇宙論の成功などを
含めて)多くの分野でほぼ確実に 実証されており,これに違背する理論は,よ
ほどの整合性がない限り直ち に棄却されるべきだろう。
なお,ローレンツ不変性のような物理学的な知見に頼らずとも,<現在>
を表す時刻τが時間座標εとは別個に存在するという命題を反駁する論 拠は,
τを測定する手段の欠如に求められる。素朴に考えれば,<現在> の時刻は眼
前の時計を見さえすれば測定できると思われるかもしれない。 しかし,時計の
針がある時刻を指しているという事態は,それが<過去> のものになっても<
現在>にあったときと同様の存在様式を示しており, <現在>と<過去>を弁
別する指標とはならない。例えば,「時計の針 が午後8:00を指している」
という事態は,8:00に実地に観測しても, 8:1Oに10分前の記憶とし
て回想しても,実質的に同一のものであり, <現在>の時刻が異なっている状
態――すなわち,|Ψ(τ=8:00)> と|Ψ(τ=8:10)>――に属
する別個の事態として識別することはで きないはずである。これに対して,現
に観測している場合は「生き生きと した」実感が付随しているはずであり,こ
の実感が<現在>と<過去>を 分ける要素になると主張する者があるかもしれ
ない。しかし,<過去>を 実在するものとして認めている以上,こうした実感
自体が<過去>にも存 在し,<過去>の私が生き生きとした実感をもって時計
を見ていると想定 しても何の矛盾もないため,この実感をもって<現在>を<
過去>から峻 別する根拠とすることはできない。このように,<現在>を表す
時刻τが, いかなる手段を用いても現実に測定できないばかりか,その測定方
法すら 思いつかないという事情は,そもそもこの量が虚構の(実在しない)存
在 であることを強く示唆する。
以上の議論から,<現在>および<過去>は実在するものの<未来> は い
まだ実在していないとする見解は,物理学的には妥当でないことが結諭される。
- (iii)の見解に対する批判:
<未来>や<過去>も<現在>と同様に実在すると見なす立場は, (i)と
(ii)の 見解が否定されたいまとなっては,物理学的に容認できる唯一の時間
観だ と考えられる。にもかかわらず,―般の人の目には,この見解はきわめて
奇異で非常識なものと映るに相違なく,これに対してさまざまな批判が寄 せら
れるであろう。ここでは,こうした批判のいくつかを筆者なりに予想 し,それ
に対してさらに筆者からの反論を加えてみたい。
- 素朴な批判:人間は,生き生きとした実存の直感をもとにして,<現 在>とそれ以外の時
刻を区別することができる。その存在資格におい て<過去>や<未来>が<現
在>と同等であるとは,到底信じられない。
反論:
既に(ii)への批判で述べたように,「生き生きとした」実感は時 間軸上
のどの時刻にあったとしても論理的に矛盾は生じない。実際,こ うした感覚は
脳神経が特定の興奮バターンを描いたときに派生するもの と考えられ,当該パ
ターンが<過去>あるいは<未来>の任意の時刻に 誰かの脳内部で生じた場合
は,そこで実存の直感が得られているはずで ある。それでも納得できず,自分
という人間は<現在>にのみ生きてお り,<過去>や<未来>において<現在
>と同様に笑ったり泣いたりし ている自己が生きているとは信じられないと主
張する者もあるかもしれ ないが,その場合は次のように考えられたい。すなわ
ち,空間的に隔たっ た人間が自己とは別個の存在で生の実感を共有できないこ
とを誰も怪 しまない。それと同様に,時間的に隔たった人間は,たとえ肉体の
生 物学的な連続性があったとしても,実存としては裁然と分かれた他者 にすぎ
ない。したがって,<過去>あるいは<未来>の自己の存在があ まりによそよ
そしく共感が持てないと思われても,それは当然なのであ る。
- 情報理論的な批判:古典熱力学によれば情報の欠如を表す量であるエ ントロビーは(グローバル
に見れば)単調に増大するため,情報は時間 の経過とともに次第に失われてい
くはずである。したがって,低エント ロビー状態にあった<過去>の記憶は必
然的に忘却の淵に沈んでいき, 逆に<現在>よりも少ない情報量で記述できる
はずの<未来>の方が容 易に予想できなければならない。ところが,現実には
,<過去>の事件 は何らかの痕跡を残すため,その事実内容に関して高い信憑
性を持った 言明を提出するのはそれほど困難ではないが,<未来>の事跡を<
現在> の中に見いだすのは不可能であり,単なる予測を越えて「来たるべき事
実」について語る手段は存在しない。卑近な例を挙げると,われわれは 自分が
いつ生まれたかは知っているが,いつ死ぬかとなると確実なこと は何もわから
ないのが実際のところである。このように,<過去>と<未 来>の情報に関す
る熱力学の主張が観察事実と食い違っているのは,古 典熱力学に含意されてい
ない物理的な事情によって<過去>と<未来> の間で情報の確定度が本質的に
異なっているためであり,両者を同等に 取り扱う時間観は首肯しがたい。
反論:
現実の世界には,古典熱力学がそのまま適用できるような孤立 系は稀なため,
表面上の矛盾が生じてもおかしくはない。例えば,摩擦 のある振動系ではエ
ネルギーの散逸に伴って非可逆的に静止状態に漸近 していくが,現実において
これと同程度の単純な振舞いをするのは,(臨 界値以上の質量を持っような)
宇宙が全体としてビッグクランチに向 かって収縮していく過程ぐらいしかない
だろう。とりわけ,生物個体の 場合は,生命維持のため食物として高分子化合
物を摂取し続ける以上, 熱力学的には負のエントロピーが継続的に流入してい
る開放系に相当す ることになるため,エントロピーが極大となる<死>に到達
するまでの 間に(初期状態よりも高度に組織化されたものも含めて)さまざま
な中 間状態を経ていくのはきわめて当然の事態である。したがって,こうし た
生物体の一種である人間にとっても,<未来>が<現在>より情報量 が有意に
乏しい訳ではなく,どのような(準安定性を示す)中間状態を 経ていくか――
白分がどのような運命を辿るか――予言できなくても 不思議はない。
ただし,<現在>に<過去>の記憶が残っている理由を説明するには, 相
互作用の具体的な形式に言及する必要がある。特に,現実の世界には 結晶や高
分子のように量子効果によって安定化される構造があり,その 中に<過去>の
事跡が言わば「刻み込まれる」ことによって,周囲に生 じる変動に抗して(あ
る程度の期間は)把持される可能性がある点を指 摘しておきたい。生命現象に
おいては,脂質の疎水基を内側に向い合わ せにした二重の膜構造(脂質二重層
)が水中で安定な構造をとり,脂質 分子の置換やタンバク質分子などの透過が
あっても二重層自体は破壊さ れないため,この二重層によって形成されている
細胞膜のトポロジカル な構造は,(膜タンバク質や微小管からの作用もあって
)細胞の応力変 形や生体分子の代謝過程を通じて保存される傾向にある。した
がって, 生体器官における多数の細胞の相互的な位置関係のようなトポロジー
の 中に<過去>の情報が刻み込まれるならば,この<エングラム(記憶痕 跡)
>は生体活動のタイムスパンから見て充分に長い期間にわたって安 定に保たれ
るはずである。これが,(素朴に解釈された)古典熱力学の 予想に反して<過
去>の記憶が保存されるメカニズムの概略である。
- 物理学的な批判:
量子力学では,シュレディンガー方程式に従って時 間発展するのは測定結果
を確率的に予言する波動関数にすぎず,実際に 測定が行われた場合は波動関数
は瞬間的に収縮して現実の状態に即した 関数形に移行する。これを素直に解釈
すれば,人間を含む巨視的装置に よって測定が行われる瞬間が<現在>を表し
,波動関数の形で確率振幅 のみが与えられる状態は,変更不能性の欠如してい
る<未来>を表現し ていることになる。
反論:
確率解釈に基づく《波束の収縮》は,測定装置の波動関数をあ らわに記述せ
ずに済ませるための便宜的措置であって,シュレディン ガー方程式自体は測定
過程を含めた全ての時間で成立している。簡単な 例で説明しよう。測定対象s
と測定装置Aの測定前の波動関数をそれ ぞれ|s>,|A>と書き,測定結果
がs1,またはs2のいずれになるか に応じて,
測定対象および測定装置がそれぞれ添字として
1または2の いずれかが付いた状態になるとする。測定過程全体がシュレディ
ンガー 方程式に従うとすると,
U(t;t0)|s(t0)>
|A(t0)>
=c1|s1(t)>|A1(t)>
+c2|s2(t)>|A2(t)>
となる。ただし,Uは時間発展の演算子,cは各状態が測定される確率 振幅
で,|s1>と|s2>は測定誤差に起因する 状態
の重なり部分があって必ずしも直交していないと仮定する。 このとき,
|A1>と|A2>は
(指針の位置が異なるなど両者を物理的に弁別できることか ら)互いに
直交しているため,測定後にAがsとの相互作用をいっさ い行わずその存在を
無視して良い場合であっても,上式右辺の第1項と 第2項は干渉し合わない。
あるいは,Aとしてs以外の全ての物体を とることにすれば,上の2つの項は
互いに相互作用のない別の世界の状 態を表すことになる。ところが,実際にシ
ュレディンガー方程式を解い て波動関数の時間変化を追っていくに当たって,
巨大な自由度を有する 測定装置の状態まで考慮するのは現実的でない。そこで
,便宜的な措置 として,測定過程はsの状態を|s1>あるいは
|s2>に変化させるだけの効果しかないと仮定し,
さらに測定後に各状態が(Aの効果によって)干渉し合わなくなると
いう条件を満たすために,時間発展を求める際には
|s1> ないし|s2>
の一方だけを抜きだして計算するという 処方箋が与えられたのである。こ
の処方箋に従えば,|s1>が測定 される場合には,確率
|c1|2で状態が |s>から
|s1>に置き換えら れ,その後の状態変化は
|s1>に演算子Uを施すことによって得ら れる。
ここで,測定後の時間発展は測定装置(およびその他の物体)が
|A1>で記述される世界で生起しているものと解釈され,
|s2>が測定される別の世界(パラレル・ワールド!)
については考慮の外にある。
測定に関する上の解釈の妥当性は,技術開発の現場で検証することが でき
る。すなわち,もしシュレディンガー方程式に従わない《波東の収 絹ゆが現実
に起きるならば,量子効果を利用した各種測定装置(量子干 渉計など)はその
効果をまともに受けるため,この過程が装置に及ばす 影響を勘案しない限り測
定時の動作が保証されないはずである。ところ が,実際には,開発。設計の段
階ではこうした効果は無視されているに もかかわらず,量子デバイスはきわめ
て良い精度で機能することが知ら れている。これは,《波束の収縮》が現実に
起きていないことを強く示 唆する。
このように,量子力学においても,測定前の未定の状態にある<未来> が
測定によって状態が確定した<過去>から物理的に区別されているの でないこ
とが示される。もちろん,今後に解決が委ねられている量子力学固有の 問題一
一特に,測定を通じて当初の状態が分岐していく世界 (先の例での
|A1>と|A2>)の物理的実在性など ――
は数多くあるが,少なくとも,量子力学が<過去>と<未来>の間に くさびを
打ち込むものでないという結論は揺るがないだろう。
ここまでの議論を総合すれば,こんにちの物理学的な時間観として,<過去>
から<未来>まで同じように実在していると見なす仙)の見解が妥当であると
結論できる。物理学に馴染みのない読者の中には,この議論があまりに常識はず
れだと感じられ,そこに到る論証を一種の詭弁だと断じる者もいるだろう。しか
し,(確かに論証自体はあまり厳密ではないかもしれないが)この結論そのもの
は,物理学の専門家にとっては”当り前”にすぎて,一時的にせよこれを否定し
た論述を進めること自体,ひどく苦痛に感じられる程なのである。その理由は,
次のようなものである。
第1に,相対性理論によれば,時間と空間は1つの多様体を構成する要素と
して局所的には同質であり,ただ境界条件(時間の始点にはビッグバンがあるが
,空間的には宇宙は閉じているため周期的境界条件に従っている)と次元数(時
間が1次元で空間が3ないしそれ以上の次元から成る)によってのみ区別される
対象である。したがって,空間の中にさまざまな地形や構造物が「事実として」
存在しているように,<過去>あるいは<未来>に向かう時間軸に沿っていろい
ろな事象が並列的に存していると考えても,何ら奇妙な点はない。<未来>に何
か訪れるか分からないのは,ちょうど扉の向こう側に何があるか知る方法がない
のと同じなのである。
第2に,現在の物理学のパラダイムには,何か「になる(to become)」過
程を記述する観念枠が存在せず,理論の取り扱いの対象となるのは,物理量があ
る値「である(to be)」状態に限られることを指摘したい。言うなれば,物理
学の理論とは,状態を指定する適当なデータを与えればあとは自律的に結論を導
出できる機械的なモデルであり,ある科学的命題が実在的か否かは,(理論の正
当性を別にすれば)これを求めるのに使ったデータの確実性のみに依存している
。このため,日常的な文脈で「<未来>の状態は未定である」と主張しても,こ
れを科学的に解釈しようとする局面では,単にインプットすべきデータが得られ
ないという状況説明に落着するだけで,未定の状態を予言する理論形式を構成す
ることは現代科学のパラダイムにおいては不可能である。有体に言えば,物理学
的な理論の内部では対象の実在性に差をつける手がかりがないのである。それだ
けに,一般の物理学者にとっては,現行の物理学の枠組みを根本的に否定してま
で<過去>と<未来>とが<実在度>において<現在>と異なっているとは主張
できないのだろう。
さて,<過去>から<未来>に到るまで全ての時間が実在しているならば,
既に述べた決定論の2つの類型のうち,「〜になる」過程の決定性を主張する《
法則的決定論》は,現実の世界では成立しておらず,全ての時間において「〜で
ある」として状態が決定されているとする《事実的決定論》が妥当だと結論され
る。この結論は,科学的にはきわめて緩やかなもので理論の形式をほとんど制限
しないが,哲学的には深甚な影響をもたらさずにはいないだろう。次節では,特
に物理的な側面からこのく決定論>の内容を詰めていくことにする。
©Nobuo YOSHIDA