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I−1 過去/現在/未来の3分法と《事実的決定論》




 素朴な議論においては,決定論とは,未来に何が起きるかが現在(あるいは 過去の任意の時点)の状態によって既に決まっているという意味だと解釈されが ちである。しかし,この解釈には,2つの点で不備がある。第1に,未来と現在 (および過去)との区別が截然としておらず,第2に,「決まっている」ことの 意味が曖昧である。実は,この2点は同一の問題を異なる角度から眺めたもので, <時間>の物理的な性質の分析をもとに統一的に論じることが可能なのである。

3分法に基づく時間概念の類型
 論点を明確にするために,素朴な議論を続けていこう。<実在性>という概 念を軸にして<時間>を捉える場合,非=科学者を含めた一般人による<時間> の概念は,主として次の3つのタイプに分類されるだろう:
  1. われわれが日常的に感じる「生の実感」を信じるならば,宇宙の開闢か らその死に到るまで金太郎飴のように長く延びた時間の拡がりの中で,<現在> だけが「実在する」瞬間のはずである。これに対して,<過去>はもはや過ぎ去 ってしまった出来事として痕跡をとどめるばかりとなり,―方,<未来>はいま だ実現されていない未定の状態としてその到来が予期/展望されるにすぎない。 ただし,「実在する」瞬間は何らかのダイナミクスによって時間軸の後方へと不 断に更新されているため,<未来>はいつか<過去>に変化することになる。こ の過程が,いわゆる「時の流れ」である。
  2. 常識の示唆するところでは,これから起こる出来事については意図的に 変更する余地があるのに対して,既に過去のものとなった事実は決して覆すこと ができない。この点を<過去>と<未来>の根本的な差異として認めるならば, <現在>以前の全ての時刻を「実在する」側に入れるのが自然だろう。実際,状 態の記述を(ある程度まで)恣意的に変更できるか否かは,多くの事例で<実在 性>をチェックするための目安として利用されている。例えば,夢想の世界では 人は望むがままに国王にも乞食にもなれるが,こうした自由は当の世界が実在し ないからこそ保証されているはずだ。また,適当な理論的モデルを使ってシミュ レーションを行う場合,仮想的な状況を調べるときには理論に含まれるパラメー ターを任意の値に設定することが許されるのに対して,現実と比較するためには 唯一の「実際の」値にセットしなければならない。このような事例に基づいて, 状態の<変更不能性>を<実在性>の刻印とする立場を採用するならば,常識が 示唆する<過去>と<未来>の差異は,時間軸が<現在>を境に実在する側とそ うでない側に二分されることを意味する。こうした時間観の下では,<現在>は 既定の<過去>と未定の<未来>のはざまにある界面に相当し,いまだ定まらな い状態が揺るぎない事実へと“固まっていく”に連れて,この界面も時間軸に沿 って移動していくことになる。
  3. 上の2つの見解が日常的な実感や常識に根ざしているのに対して, <現在>という時刻への思い入れをいっさい「括弧」の中に入れてしまう中立的な 立場もある。この立場からすると,<過去>と<未来>は,任意に与えた<現在> に対する相対的な先後関係によってのみ区別され,実在論的な存在資格に関し ては同等だと見なされる。こうした時空内部に知的生命が生息している場合は, 時間軸上の各点ごとにその時刻を<現在>だと思う<意識>があって,それ以前 の時間を<過去>,それ以後の時間を<未来>と感じていることになる。


 以下では,この3種類の立場それぞれについて,過去あるいは未来の状態が 「決まっている」ことの意味を論じながら,現代科学の知見が支持する時間概念 を究明していく。

 一言だけ注意しておこう。<時間>についての見解には,そもそも1次元的 な時間軸の存在を認めないなど,ここに述べた以外にもいろいろなタイプのもの が提出されているかもしれない。しかし,これらの諸説については,一般に,論 理の基盤となる基本的な前提を明らかにしておらず,以後の考察を進めるに当た って科学的方法論を援用できないという理由で,ここでは敢えて取り上げない。 この方針は,およそ学問的な議論を展開するには,論理を組み立てるための足場 を確保する必要上,明確に述べられた何らかの仮説を導入しなければならないは ずだという方法論的立場に依拠している。実際,(例えば)宗教的啓示を通じて のみ与えられるような観念について,どのようにして学問的に語れば良いのだろ うか。時間についての議論を意味あるものにするためには,自然科学で扱われる 時間概念――物理量の関数的表現に引き数の形で現れる。局所的に実数体と同 型な。有限または(半)無限の1次元的バラメーターとしての――か,あるいは 少なくとも洗練すればこれに近づくようなイメージに基づいて考察すベきだろう 。本節で<時間>が語られるときには,こうした方針に則って,過去から未来へ 伸びた1次元的な時間のイメージが念頭に置かれていると考えられたい。

時間軸上の実在度
fig1  実在性に準拠する<時間>の捉え方としての前記3タイプは,<実在度>と いう便宜的なパラメーターrを導入すると理解しやすいだろう。ここで<実在度> とは,物理的に厳密に定義される量ではないが,考えている状態が実在する場 合はr=1,実在しない場合はr=0と置き,0<r<1の範囲は仮想的な“半 実在”の状態を表すものとする。ただし,「実在」の何たるかについては,全て の物理量が一意的に定まっていて変更不能だという性質を要求するにとどめてお き,より詳しい議論は後で(I−3節で)行うことにする。このパラメーターを 用いれば,<現在>のみが実在すると見なす(i)の見解は,実在度rが<現在 >にパルス状のピークをもつ図1−I−aのグラフ(a)で表される。同様に, <現在>と<過去>の双方に実在性を認める(ii)の見解はグラフ(b)で,ま た,<過 去>から<未来>までの全時間が実在していると仮定する(iii)の見解 はグラフ(c)で表現されることになる。なお,これ以外にも(パルス状関数や ステップ関数ではなく滑らかな関数形にするなど)グラフの形としていろいろな ものを選択する自由度は残されているが,この段階では<実在度>はあくまで便 宜的なバラメーターと見なされており,その関数形に物理的な意味はないので, ここであげた以外のグラフについては考察しない。

 <実在度>のグラフを見れば,<未来>や<過去>が「決まっている」とい う言明の両義性がいっそう明らかになるだろう。すなわち,グラフ(c)の全時 刻やグラフ(b)の<過去>のように<実在度>が1の時間領域では,状態は「 事実として」決まっているが,グラフ(a)または(b)における<実在度>が 0の領域で物理的状態が決まっていると言うためには,(実在する領域で与えら れた境界条件に対して運動方程式の解が一意的に定まるというような)時間発展 を定めるダイナミクスの性質に言及しなければならないはずである。この2つの <決定性>を区別するために,直観に訴える命名法に従って,前者を《事実的決 定性》,後者を《法則的決定性》と呼ぶことにしよう。素朴な言い方をすれば, 《事実的決定性》では決まった状態が現に「ある(to be)」のに対して,《法 則的決定性》ではこれから「なる(to become)」ことが決まっているのである 。もっとも,日常的な文脈では,両者は必ずしも峻別されている訳ではなく,例 えば,伏せられているカードを開いてみるとスペードのエースだったという単一 のプロセスを取り上げてみても,裏向きになっていたのがはじめからエースのカ ードだったと考えたときには《事実的決定性》の,意図的にカードをひっくり返 す際の生理的/物理的過程に注目したときには《法則的決定性》の表現と見なさ れるかもしれない。しかし,科学哲学的な見地からは,この2つの<決定性>は 厳密に区別され,いずれが現実に即しているかが判定されるべきである。そのた めには,先に掲げた3つの時間観の物理的妥当性を検討するのが最も早道だろう 。この観点から,次に,それぞれの見解への批判を試みたい。

 ここまでの議論を総合すれば,こんにちの物理学的な時間観として,<過去> から<未来>まで同じように実在していると見なす仙)の見解が妥当であると 結論できる。物理学に馴染みのない読者の中には,この議論があまりに常識はず れだと感じられ,そこに到る論証を一種の詭弁だと断じる者もいるだろう。しか し,(確かに論証自体はあまり厳密ではないかもしれないが)この結論そのもの は,物理学の専門家にとっては”当り前”にすぎて,一時的にせよこれを否定し た論述を進めること自体,ひどく苦痛に感じられる程なのである。その理由は, 次のようなものである。
 第1に,相対性理論によれば,時間と空間は1つの多様体を構成する要素と して局所的には同質であり,ただ境界条件(時間の始点にはビッグバンがあるが ,空間的には宇宙は閉じているため周期的境界条件に従っている)と次元数(時 間が1次元で空間が3ないしそれ以上の次元から成る)によってのみ区別される 対象である。したがって,空間の中にさまざまな地形や構造物が「事実として」 存在しているように,<過去>あるいは<未来>に向かう時間軸に沿っていろい ろな事象が並列的に存していると考えても,何ら奇妙な点はない。<未来>に何 か訪れるか分からないのは,ちょうど扉の向こう側に何があるか知る方法がない のと同じなのである。
 第2に,現在の物理学のパラダイムには,何か「になる(to become)」過 程を記述する観念枠が存在せず,理論の取り扱いの対象となるのは,物理量があ る値「である(to be)」状態に限られることを指摘したい。言うなれば,物理 学の理論とは,状態を指定する適当なデータを与えればあとは自律的に結論を導 出できる機械的なモデルであり,ある科学的命題が実在的か否かは,(理論の正 当性を別にすれば)これを求めるのに使ったデータの確実性のみに依存している 。このため,日常的な文脈で「<未来>の状態は未定である」と主張しても,こ れを科学的に解釈しようとする局面では,単にインプットすべきデータが得られ ないという状況説明に落着するだけで,未定の状態を予言する理論形式を構成す ることは現代科学のパラダイムにおいては不可能である。有体に言えば,物理学 的な理論の内部では対象の実在性に差をつける手がかりがないのである。それだ けに,一般の物理学者にとっては,現行の物理学の枠組みを根本的に否定してま で<過去>と<未来>とが<実在度>において<現在>と異なっているとは主張 できないのだろう。


 さて,<過去>から<未来>に到るまで全ての時間が実在しているならば, 既に述べた決定論の2つの類型のうち,「〜になる」過程の決定性を主張する《 法則的決定論》は,現実の世界では成立しておらず,全ての時間において「〜で ある」として状態が決定されているとする《事実的決定論》が妥当だと結論され る。この結論は,科学的にはきわめて緩やかなもので理論の形式をほとんど制限 しないが,哲学的には深甚な影響をもたらさずにはいないだろう。次節では,特 に物理的な側面からこのく決定論>の内容を詰めていくことにする。

©Nobuo YOSHIDA