I−2 「並列的」決定論と「因果的」決定論
前節で述べたように,世界の状態は<過去>から<未来>に到るまで「事実
として」定まっていると考えるのが物理学的には妥当である。しかし,この見
解は,古典力学や電磁気学で主張されるところの《因果的決定論》とは必ずし
も一致しない。すなわち,《因果的決定論》においては,ある時刻における系
の状態がその後の時間発展を一意的に規定するのに対して,<未来>に生起す
る事象に対して単なるく事実性>以上の制限を何ら加えない場合には,各時刻
の状態の間に法則的な関係がなくても良いのである。こうした《並列的決定論》
に従う系は,たとえて言えば無計画に開発された市街のようなもので,隣合う
建物の間に必然的な関係がなく,学校の向こう側に工場があるか歓楽街がある
か知れたものでないといった無秩序な様相を呈している。明らかに,《並列性》
が徹底されると次の瞬間に何が起きるか全く予想できなくなり,たとえ『不思
議の国のアリス』のような幻想的な世界が現出したとしても,それが与えられ
た事実であるならば《決定論》であることに変わりはない。こうした極端なケー
スでは,<未来>が「事実として」決まっているとは言っても,実質的には非
決定論と区別しようがない。
ただし,上に掲げた2つの決定論は必ずしも互いに排斥し合うものではなく
因果性の度合を調節して「因果性」と「並列性」の極を両端とする座標軸上の
中間に「折衷的な」決定論を構成することも可能なはずである。先の市街の例
で言えば,適当な法律や条例によって(学校の近所での風俗営業を禁じるなど
の)措置を講じると,それに応じて町並みにある程度の秩序が現れるが,これ
と同様に,エネルギーや運動量の保存則などを課した場合は,異なる時刻に属
する状態の間に何らかの連関が派生すると予想される。もちろん,有限の保存
則のみでは<現在>のデータから<未来>の状態が一意的に定まらずに多くの
不定性が残るため,「部分決定系」とも言うべき折衷的な決定論が得られたこ
とになる。
考えている系での《因果性》の多寡を見積るには,ある時刻の状態を求める
のに必要な情報量を考えれば良い。時刻tの状態|Ψ(t)>を求める操作を
形式的にTと書き,tから|Ψ(t)>への写像として,
T:t→|Ψ(t)>
と表そう。Tを定義するためには,系が従っている物理法則――古典力学の
ような形式的理論やエネルギー保存則などの具体的法則を含めた広い意味で
の――や,その系で採用されている(電気素量,光速などの)物理定数のほ
かに,いくつかの時刻における状態についての知識が必要となる。完全に《並
列的》な決定論の場合は,状態間に何の関係もないため,Tを定義するには,
全時刻の状態に関する情報が格納されているデータバンクと,求められている
時刻の状態を捜し出す探索機構を与えておく必要がある。これに対して,《因
果性》の極にある系では,適当な時刻でのデータさえ与えておけば,それ以外
の時刻での状態は(系の時間発展を記述する)運動方程式を解いて求められる
ため,Tを定めるのに必要な情報は,運動方程式の定義と初期状態のみとなる。
さらに,この両極の間にある系では,Tに含まれる情報量も中間的な値をとる。
例えば,質点系の運動方程式が通常の保存力の他に外部からランダムに作用す
る擾乱力を含んでいる場合,Tを定義するためには,ある時刻における質点の
位置と運動量の知識に加えて,全ての時刻における擾乱力の値が必要になり,
情報量としては完全決定系のときよりも擾乱力の分だけ多いが,全時刻で位置
と運動量を与えるよりも有意に少なくなっている。
それでは,現実の世界は《因果性》と《並列性》の両極にはさまれたどの点
に位置するのだろうか。日常的な経験からも分かるとおり,この世界には近似
的にせよ原因ー結果の因果連鎖があり,互いに関連性のない事象が並置されて
いるだけではないばかりか,相当の強制力をもつ因果法則が支配していること
は明らかである。そこで問題になるのは,物理的な因果法則が完全に時間発展
を規定してしまっているのかという点である。本節では,この問題提起に対し
て否定的な解答を与えるような論陣を張ることにしよう。
因果法則に従う<秩序形成>
素朴に考えると,ビッグバンのような内部構造の乏しい初期状態から生命体
を含むきわめて多様性に富んだ世界が因果律に従って出現するとは,到底あり
そうもないように思われるだろう。この直観に基づいて,《因果的決定論》を
哲学的に反駁しようとする立論が提出されたとしても,心情的には肯けるもの
がある。しかし,物理学的な観点からすれば,見たところ内部構造のない単純
な初期状態から複雑な<秩序>が形成される過程は,決して理解不能ではない。
なぜなら,互いに作用を及ばし合う。きわめて多数の部分からなる現実の世界
においては,(たとえ古典近似の範囲内であっても)時間発展の経過は初期条
件に非常に敏感に依存するため,当初はほとんど見分けのつかなかったごく微
小な<ゆらぎ>が時間とともに成長して,ある種の構造を形成する可能性は充
分に存するからである。
こうした”過敏な”相互作用の例は,日常的に体験される気象変動の中に見
いだされる。具体的には,気圧配置や気温,風向の分布が過去のデータと完全
に一致したとしても,観測地点以外で常にこれらの値に以前のケースとの微小
なずれが存在して,結果的に異なる天候をもたらすことが知られており,冗談
半分に「バタフライ効果」――フロリダで蝶が羽をばたつかせるとその影響が
まわりまわって,さもなくば晴れたはずのニューヨークで雨を降らせる――と
呼ばれている。このような効果の存在を念頭に置いておけば,何も起こりそう
もない南洋の平穏な海から忽然と台風が発生したとき,たとえ人間の目にはあ
たかも無から(台風という一個の対象としての)有が生じたように映ったとし
ても,これが決して因果律に矛盾するものでないと解釈できるはずである。す
なわち,この現象全体は,海面温度や空気の流れが特定の条件を満たしたとき
に,大気システムが動的安定性をもった“台風状態”へと決定論的に落ち込ん
でいく過程であり,それが「忽然と」起きるように見えるのは,位相空間内部
で台風状態に到る軌道が(1箇所に集中せずに)平穏な状態を継続する軌道の
間に埋もれるように散在しているため,大気の微細な状態を識別できない人間
には,どんなときに台風が発生するか把握できないことによる。
もちろん,初期条件に敏感に依存する相互作用があるからといって,現実に
生起する複雑精妙な現象が確かに《因果的決定論》の枠内で生成し得るという
保証はない。上の気象の例にしたところで,大気圏のべースとして(地形や海
流のような)それ自体入り組んだパターンを持つ“できあい”のシステムが前
もって用意されていたからこそ,大気変動に予知しきれないほど複雑な様相が
生じたのであって,地球が完全な球体で太陽光線も均一に照射されたならば,
大気の流れはきわめて単純な状態で安定していたはずである。とすれば,そも
そもこうしたシステムが複雑な構造を有するための因果法則が考察されねばな
らず,議論は振り出しに戻ってしまう。そこで,ここでは一般論に立ち帰って,
現実の相互作用に見られる<秩序形成>の傾向性を示すことにしよう。実際,
大局的にも局所的にも秩序が形成されやすい性質が明らかになれば,「この」
世界において一見単純な初期状態の<ゆらぎ>が厳密な因果律の下に成長して
複雑な構造を生み出していると考えても決して奇妙でないばかりか,その蓋然
性が無視できないほど高いと言えるはずである。
大局的にみて<秩序>を生み出す要因は,(超銀河集団から太陽系レベルの)
宇宙的なスケールで作用を及ぼす唯一の力が万有引力たる重力だという点にあ
る。実際,重力相互作用のみを行う系において,物質分布がほとんど平坦な初
期状態を用意したとしても,周辺より僅かに密度の高い領域があれば、そこで
の引力が相対的に強いため周辺から物質が集まってますます高密度になり,当
初の微小な<ゆらぎ>が非可逆的に成長して巨視的な構造を生み出す結果とな
る。しかも,質点のまわりの重力場が逆2乗則という”適当な”法則に従うた
め,(距離の逆3乗に比例する力の場合のように)天体どうしの引力によって
星間構造が潰れることなく,太陽系や2恒星の連星系のように各天体が近似的
な円軌道を描くシステムを構築した状態で(ある程度の期間)安定するのであ
る。こうした現象は,あるいはエントロピーが減少する過程として古典的な熱
力学に矛盾するように見えるかもしれないが,理論的に考察すれば,過冷却状
態の気体が塵などを核に凝結する過程と同じく,秩序状態を形成する際に生じ
る熱の効果で全エントロピーは増大していることがわかる。このように,宇宙
的な規模で<秩序>が生まれるのは重力相互作用の特性によるところが大きい。
これに対して,局所的な<秩序形成>には量子力学の果たす役割が大きい。
例えば,金属原子の集合体では,各原子がランダムな位置をとるアモルファス
状態よりも,規則正しく配列した結晶状態の方がエネルギーが低くなるため,
溶融金属が凝固するときには自然に結晶が析出して<秩序>が生み出される。
これは,外殻電子が特定のイオン近傍に束縛されずに巨視的な領域で多数のイ
オンの作る電場を“感じる”ため,規則的なイオン配列の方が波動関数が滑ら
かになってエネルギー的に有利になることに起因するもので,相互作用が非局
所的な拡がりをもつ量子力学特有の現象である。こうした量子力学的な<秩序
形成>の効果が最も鮮やかに現れるのが,炭素原子の骨格に側鎖がついた有機
高分子を含む反応である。有機高分子には,(たとえ構成要素の順列が定めら
れたとしても)炭素骨格の折り畳み方の違いや他の有機分子との結合の有無に
由来する多くの状態があり,その多くが互いに(熱的な撹乱によっては乗り越
えられない)ポテンシャル障壁によって仕切られて準安定に保たれている。し
たがって,高分子が溶媒中で電磁場や他の物質と相互作用すると,<量子ジャ
ンプ>や触媒反応を介してさまざまな状態の間で遷移が生じ,その反応はきわ
めてバラエティに富んだものになる。特に,各状態のエネルギー固有値が充分
に接近しているときには,量子力学的なトンネル効果により僅かなエネルギー
のやりとりだけでポテンシャルの壁を通過できるので,周囲にほとんど(気体
が凝結するときの潜熱のような)“エントロピーのかす”を撒き散らさずに高
度に組織化された有機反応を進めることができる。こうした効率の良い<秩序>
の生成/維持は,あたかも閉じたシステム内部で自律的な活動が営まれている
ように見える生命現象に深くかかわっていると予想される。
以上のように,「この」世界における相互作用が,厳密に因果的な物理法則
に従いながらも,外見上は<秩序形成>を指向する合目的的な性格を示すこと
から,(人間の思考活動をも含めた)あらゆる出来事に関する情報が,宇宙開
闢の瞬間に物質分布などにおける微小な<ゆらぎ>として既に与えられている
と主張しても,物理学的な見地からは誤りとは言えないだろう。
にもかかわらず,現実の世界が完全に因果法則に従っているという見解には,
さまざまな理由で疑いを抱かざるを得ない。たとえ,現存する秩序構造の多く
が,初期状態に存した<ゆらぎ>の因果的な発展によって派生したものである
としても,因果法則が”水も漏らさぬ”完璧さで異なる時刻の状態を結び付け
ているとは,にわかに信じられないのである。次に,この疑問の正当性を考察
することにしよう。
物理法則の因果的性格についての疑義
―般に,物理学的な意味で《決定論》と呼ばれるのは,古典力学のように《因
果性》の極にある場合に限られるが,その背景には,既存の物理学体系におい
ては,完結性に疑問のある量子力学(および場の量子論)を別にすれば,一般
相対論のように基礎的な“素”過程を記述する理論はいずれも《因果的決定論》
の範購に含まれるという事情がある。もちろん,(プラズマ物理や生物物理な
ど)応用物理の諸部門は,必ずしも一意的な時間発展の方程式を与えないが,
これは,対象とする系があまりに複雑なためにそのミクロな振舞いについては
統計的に取り扱う「粗視化」の手法を採用した結果であり,解像度を上げて基
礎物理過程を完全に掌握すれば因果的な物理法則が得られる可能性が常に残さ
れている。このように,現行の物理学は,その趨勢として《因果的決定論》を
支持する方向にあると言える。
しかし,このような学問の現状を額面通り受け取って,この世界が《因果性》
の極にあると認めるのはあまりに性急な判断だろう。実際,科学の領野でも,
一意的な時間発展をもたらす《因果律》の存在に対して疑問を投げかけざるを
得ない状況がある。2点だけ指摘しておこう。
第1に,量子力学の完備性(self containedness)について,いまなお論争
の種となる不明瞭な部分が残っている。量子力学が完備な理論で《波束の収縮》
のようなアド=ホックな操作を加える必要がないと仮定すると,シュレディン
ガー方程式によって時間発展が一意的に定まって完全な《因果的決定論》とな
る。しかし,この仮定の下では,(磁場を加えてスピンの向きを測定するシュ
テルン/ゲルラッハの実験を行ったときのように)初期状態が互いに干渉する
ことのない状態に分岐した場合,その中から「真の」状態を選択する基準が理
論内部にないため,全ての分岐先に同等の存在資格を認める《多世界解釈》を
採用せざるを得ない。また,このあまりに突拍子もない解釈を忌避して
量子力学が完備でないと認めるならば,その確率的振舞いを説明するのに《隠れ
た変数》の導入を含めた根本的な改変が必要となり,もはや《因果性》を標傍
する根拠は失われる。いずれにせよ,この問題はまだ未解決であり,今後どの
ような進展を見るかは予測できない状況にある。
第2に,現行の物理理論はきわめて良い精度で確認されているとは言っても,
その検証実験には系統的な偏倚が入り込む余地のあることを指摘したい。すな
わち,厳密に因果的な法則に従う理論を検証するのに用いられるのは,自由度
のきわめて少ない系――その中には,素粒子の散乱実験のように実際に反応
にかかわるのが少数の粒子である場合と,結晶格子内部の伝導電子の励起のよ
うに多体系の中で少数の自由度だけが相互作用に寄与している場合がある
――に限られており,自由度の大きい系については,その統計的な振舞いし
か調べられていない。それゆえ,もし「多数の自由度が同時に関与する反応に
おいては《因果律》に従わない効果が現れるが,この効果はランダムな方向性
をもつため統計的な平均操作を行うと相殺されて最終結果に寄与しなくなる」
とすると,実験と矛盾しないように非=因果的な効果を導入することが可能で
ある。これは,決して現実離れした仮定ではない。実際,人間が意識活動を行っ
ているとき脳の内部ではまさに膨大な自由度の関与した生理的反応が生起して
いるが,こうした反応すら因果律の桎梏を逃れられずに宇宙開闢のビッグバン
の時点から既に定まっていたと見なす方が,むしろ荒唐無稽ではないだろうか。
もちろん,自由度の多寡に応じて《因果性》による締め付けに差が生じると主
張するためには,「どんなに複雑な過程も単純な”素”過程の機械的な組み合
せに還元できる」とする。近代科学が成立して以来の基本的な自然観を捨て去
らねばならない。しかし,この自然観自体,決して確固たる検証実験によって
支持されている訳ではないことを注意しておく。
このように,現時点で得られている物理学的な知見の範囲では《因果的決定
論》の当否を裁可することはできない。しかし,現代科学が《因果律》を支持
しているかのように思われながら,実はそう断言するだけの根拠に乏しいとい
う事実は見逃せないだろう。となると,「<未来>が<過去>に完全に束縛さ
れているなら,そもそも<時間>の拡がりすら必要ないのではないか」という
素朴な疑念も再点検する必要が生じる。こうした事情を鑑みて,以下では,よ
り積極的に《因果性》を斥けるべく,宇宙開始以降の全状態が出発点となるビッ
グバンによって完全に決定されているという事態の論理的/哲学的妥当性につ
いて検討してみたい。もちろん,この試みが確定的な結論に到達するのは現状
では困難だが,ある程度まで信憑性のある議論を展開することは不可能ではな
いはずである。
時間発展の演算子―形式的準備
ある時刻t0における状態を,前節の場合と同じく
|Ψ(t0)>と書くことにしよう。
ただし,この記号は必ずしもヒルベルト空間内のべクトルを表すも
のではなく,連続的な関数や離散的な物理量の値をも含んだ一般的な表記であ
る。さて,考えている系が因果的な法則に従って時間発展する場合,任意の時
刻tの状態は,時間発展の演算子Uを使って,
|Ψ(t)>=U(t;t0)|Ψ(t0)>
と表される。ここで,Uの形式について時間反転に関する対称性といった物
理的議論に基づく制限は加えないが,(並列的ではなく)《因果的》な決定論
に従うことから,
- 状態|Ψ>に依存しない
- 物理的に実現可能な任意の状態を定義域とする
- 演算結果が一意的になる
という3点を仮定しよう。
Uについての具体的なイメージを与えるために,物理的な状態が時間と空
間座標に滑らかに依存する場の量φ(t;x)で記述される場合を例にして説明
しよう。φの変化が時間に関して1階の線型発展方程式:
L[φ]=0
に従い,かつ,初期条件:
φ(t0;x)=ρ(x)
を満たしているならば,任意の時刻tでの状態φ(t;x)はグリーン関数Gを
使って,
φ(t;x)=∫dx0G(t−t0;xーx0)ρ(x0)
で与えられ,時間発展の演算子Uはρに作用している積分演算子になる。ただし,Gは
方程式:
L[G(t−t0;x−x0)]=δ(t−t0)δ(x−x0)
および境界条件:
limG(t−t0;x−x0)=δ(x−x0)
を満たす関数で,(時間の正方向に伝播する遅延解を選ぶというような)物理的に妥
当な条件によって物理的に意味のない不定性は取り除くようにする。方程
式Lに従う系は,Gが一意的に存在するとき<完全決定系>となり,当然《因
果律》に従うと言える。
なお,状態の時間変化が2階の線型方程式に従う場合は,(古典力学におけ
るハミルトン形式のアナロジーを用いて)新たな場の量
π(t;x)=∂tφ(t;x)
を導入しさえすれば,φとπの1階微分だけを含む発展方程式のケースに還
元されるので,新たな問題は生じない。このとき,ある時刻tにおける状態を
定めるのに,各空間点での関数値φとともに(微小な時間幅での変分をもと
に定義される)時間微分∂tφが必要となるため,うっかりすると「ある時刻
の状態」という概念が妥当しなくなると思われるかもしれないが,このパラド
クスは,πを(∂tφを表す記号ではなく)新たな力学変数と見なし,これが
φの時間微分と等置されるのは運動方程式を当てはめた結果だと解釈すること
によって克服される。この解釈に基づけば,ある時刻の状態は,そもそも2元
ペクトルφ(t;x)=(φ,π)によって定義され,その時間発展は,
2行2列のグリーン関数行列Gを用いた積分方程式:
φ(t;x)=∫dx0G(t−t0;xーx0)ρ(x0)
によって定まる。ただし,ρ=(ρ1,ρ2)は,初期条件:
φ(t0;x)=ρ1(x),
π(t0;x)=ρ2(x)
を表す2元べクトルである。
場の量が従う方程式が非線型のときは,事態はきわめて複雑になって一般的
な結論は引き出せない。ただし,特別なケースとして,解くべき方程式が,最
高階の時間微分を含む線型の運動項K[φ]と相互作用を表す非線型項N[φ]
に分割され,
K[φ]=N[φ]
と書けるときには,方程式系:
K[φ(0)]=0,
K[φ(1)]=N[φ(0)],
K[φ(2)]=N[φ(0)+φ(1)]−N[φ(0)],
…
の解を使って,形式的に
φ=φ(0)+φ(1)+φ(2)+…
と表すことができる。この摂動展開が収束する場合は,Kの逆関数を使っ
てφ(k)を書き下すことはそれほど困難ではない。もっとも,級数の収束は一
般には期待できないため,時間発展の演算子Uの存在や一意性は必ずしも明
らかではないが,むしろ物理法則の因果性を大前提として,初期値問題の解の
存在および一意性を保証するように方程式の形式を制限するのが,理論を構築
する際の基本的手続きとなっている。実際,模型的な理論も含めて物理学の現
場で援用される方程式は,ほとんどがこの制限の枠内にある。
こうして,非線型な理論で不明な点はあるものの,時空点の関数によって表
される状態φ(t;x)は,(積分演算子になるものと予想される)汎関数Uを
使って,
φ(t;x)=U[φ(t0;x)](t;t0)
と表されることになる。これに,よく知られている量子力学や質点系のケース
を加えれば,既に記したように,《因果的決定論》に従う系の時間発展は一般に
|Ψ(t)>=U(t;t0)|Ψ(t0)>
と書かれると結論して良いだろう。
さて,ここで問題としたいのは,演算子Uによって時間をずらす操作を行
うとき,時間と空間が非対称的に取り扱われている点である。実際,時間発展
のアナロジーを使って空間発展の演算子を作ろうとしても,多くの困難に直面
して完遂することはできない。こうした時間と空間の非対称性は,時空を4次
元多様体として把握する相対論的な描像に違背するものであり,むしろハミル
トン形式の古典力学と同じく<時間>を必要としない世界観を指向する。この
問題意識を軸に,引き続き《因果的決定論》を批判する論述を進めていきたい。
《因果的決定輸》における時間の地位
時間の場合と異なって空間発展の演算子を構成するのが困難になる物理的な
理由を考察しよう。ここで,空間発展の演算子とは,適当な座標系で1つの空
間座標が一定の値をとるとして得られる超平面――一般には,時空多様体を
時間方向に“縦割りに”した断面――上の系の状態を|Ψ(x)>としたとき,
|Ψ(x)>=Us(x;x0)|Ψ(x0)>
によって定義される演算子Usのことである。もちろん,
発散のないエネルギー/運動量テンソルが定義できる場の理論ならば,
考えている超平面上でこのテンソルの法線成分を積分することによって
形式的に微小な空間移動の生成子が
書き下せるので,空間発展の演算子“のようなもの”を構成するのは不可能で
はない。しかし,いくつかのトリヴィアルな理論を別にすれば,このよう
にして作った演算子Usを超平面上で定義される
“状態”に作用させても,「位置をずらした地点での状態が求められる」という
所期の結果は得られない。
次に述べるように,こうした事態は,通常の物理的な系では過去/未来のいずれ
か(または双方)で相互作用が永遠に継続するため,無限遠の効果が常に残存
して状態を完全に決定できなくなる点に起因するものである。これに対して,
ある時刻での状態を定義するときには,「無限遠では場の量は一定になる」あ
るいは「空間は円環状になっているため場の量は周期的になる」という境界条
件が常套的に採用されており,無限遠からの寄与は巧みに取り除かれている。
この問題をより具体的に説明するため,φ=φ0をポテンシャルの唯一
の極小値とする非線型波動を考えよう。こうした理論に従う系は,どのような初期
状態から出発しても,充分に時間が経過すればエネルギーの散逸によって最終
的にφ(t;x,y,z)=φ0の安定状態に落ち着くはずである。ところが,逆に任意の時刻t0から時間を遡っていくと,
t0におけるゆらぎが次第に増幅さ
れ,過去に遡るほど状態は起伏に富んだ様相を呈するようになる。このため,
空間発展を施す“初期”条件:
φ(t;x0,y,z)=ρ(t;y,z)
を与えるとき,時間tをある時刻t0以降の領域に限定したのでは,
t<t0での
相互作用が取り入れられず正確な空間発展が求められない。しかも,時間発展
における初期条件の場合とは異なって,遠方(=遠い過去)になるほど情報の
重要性が逓減していないばかりか,むしろこの領域こそ系の振舞いを大きく左
右する影響力を有しているのである。したがって,空間発展の演算が有効に行
えるようにx=x0での状態を定義するためには,t→−∞までの
系の情報を完全に提供する必要があるが,これは現実問題として明らかに不可能な
作業である。
このように,通常の物理理論の枠内では,ある時刻での状態|Ψ(t)>が
与えられれば他の全ての時刻についての情報が求められるのに対して,ある位
置での状態|Ψ(x)>から全空間での系の振舞いが決定するという意味での
<決定論>は成立していない。もちろん,この非対称性は(物理法則そのもの
よりも)時間と空間の境界条件の相違に起因しており,空間と共に時間も周期
的にするなど,両者の対称的な性格が回復されるような特殊な条件を案出する
可能性は常に残されている。しかし,人間が生きている「この」世界において
は,そうした“論弁的な”境界条件が採用されていないばかりか,むしろ宇宙
のはじまりにある数学的な特異点たるビッグバンこそ,時間と空間の差異を最
も際だたせるものである。実際,たとえビッグバンの直後から(ー般相対論の
ような)因果的な物理法則が成立するとしても,x=x0で時空
多様体を“縦割りに”した超平面は必ずビッグバン特異点を含むことになる
ため,この超平面
上での状態の厳密な定義や異なる超平面への空間発展の演算が実質的に困難と
なる。一方,ビッグバン以降の任意の時刻で特異点のない状態を与え,これを
過去ないし未来に決定論的に時間発展させることは一般に可能なので,時間に
ついての《因果的決定論》には何の疑義も生じない。
上で示した時間と空間のく決定性>の差は,物理的には何を意味するのだろ
うか。古典力学のケースを思いだしてみよう。ハミルトン形式で書けば明らか
なように,古典力学では,空間の拡がりは位相空間の次元数を与えるものとし
て物理的に実在すると見なされているが,時間については,位相空間における
軌道上の位置を指示する単なるバラメーターとしての存在意義しか付与されて
いなかった。そこで,類推を働かせて,この性質が時間方向にのみ因果的な決
定性を有する物理系において一般に妥当すると仮定してみたい。すると,こう
した系では,<時間>は人間が自然の理解を容易ならしめるために導入したバ
ラメーターにすぎず,物理的な拡がりをもった実在ではなくなってしまう。こ
の解釈は,決して物理学の枠組みを逸脱するものではない。実際,任意の時刻
の状態を与える演算:
|Ψ(t)>=U(t;t0)|Ψ(t0)>
を考えてみても,形式的には(量子力学におけるハイゼルべルグ表示とシュレ
ディンガー表示のように)同一状態の異なった表示を関係づける手続きにほか
ならず,時間の物理的な拡がりが前提されている訳ではない。特に,時間発展
の演算が
φ(t0+τ;x)
=∫dx0G(τ;x−x0)φ(t0;x0)
のように定義される古典的な理論では,異なる時間の状態を求める計算は,フー
リエ変換などと本質的に変わるところのない積分変換に相当するため,(座標
表示を運動量表示に変換する場合と同じく)同じ状態の“異時間表示”を求め
ていると解釈しても良い。この解釈の下では,時間は物理的実在としての資格
を剥奪されており,「因果的に決定された系は<時間>を必要としないのでは
ないか」という先の疑念を裏付けている。これに対して,空間については(境
界条件の相違から)同様の積分変換が実行できないため,空間方向の移動を単
なる表示の変更と読み変えることは許されない。
こうしてみると,時間を空間から峻別しその物理的実在性を剥奪するの
は,《因果的決定性》の本質的な特徴だと結論せざるを得ない。しかし,そも
そも「物理的拡がりのない時間」という概念は,果して妥当なのだろうか。時
間発展が単なる表示の変換にすぎないならば,系の状態を(微視的な部分も含
めて)完全に記述するのに必要な情報の総量は,時間方向に増大も減少もしな
いことになる。素朴に言えば,「時間が経過しても何も新しいことが生起しな
いならば,そもそも時間など存在しなくても良かった」のである。しかし,時
間の中に生きていることを実感している人間にとっては,時間軸の存在の否定
は人生の意義を失わせるものとなるだろう。さらに重大なのは,時間と空間が
一体となって時空連続体を構成していると見なす相対論的な世界観が,こうし
た主張と馴染まない点である。相対論において,法則の上での時間と空間の違
いは計量テンソルを対角化したときの符号の差だけであって,実体として異な
るものではない。ところが,「この」世界において,ビッグバン以降の時間発
展が因果的に決定されているとすれば,時間と空間に存在資格の点で大きな差
が生じてしまうのである。
もちろん,こうした議論は現代物理学の枠内では検証できない。なぜなら,
物理学とはあくまでモデル化された理論の有効性を問う学問であって,時間の
物理的拡がりのような実在論的な問題にまでは踏み込まないからである。実際,
時間から実在性を奪うものとされた《因果的決定論》にしたところで,座標変
換に対する共変性という相対論の基本的要請を満たす形式にまとめることは可
能であり,式の上では相対論と何ら矛盾するものではない。それゆえ,この問
題は,科学哲学的な合理性という視座を重んじなければならないだろう。そし
て,この観点からすれば,《因果的決定論》が成立しているときに見られる時
間と空間との<価値>の差――後者が初期条件をアレンジする自由度がある
のに対して,前者は機械的な変換作業を行う余地しかない――は,たとえ形
式的な破綻がなくても,時空を続合された多様体と見なす世界観に違背してお
り,相対論的世界観の正当性を信じるならば,時間と空間を峻別する結果を招
来する《因果的決定論》そのものが排斥されなければならないと結論できる。
それでは,《因果的決定論》が妥当しない世界とはどのようなものになるの
か。既に述べたように,因果性の極から離れると,相異なる時刻での状態が互
いに機械的な変換法則で結ばれずに単に並列されている度合が増してくる。と
はいえ,全くランダムに事象が生起する訳ではなく,いくつかの保存則――
例えば,時間の一様性に由来するエネルギー保存則やゲージ不変性の現れであ
る電荷の保存則など――が成立するため,近接する時刻の間で状態はそれほ
どかけ離れたものにはならないだろう。このように,大局的には(保存則のお
かげで)因果的だが子細にみると並列的な要素が多分にあるというのが,「こ
の」世界を正しく反映した表現ではないだろうか。そう主張するだけの科学的
根拠は乏しいが,筆者には最も正鵠を射た世界観のように思われる。
©Nobuo YOSHIDA