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第I章 決定論の意味
〜または、人間は物理的に自由か〜




 「人間は果して自由なのか」というテーマで議論を展開するための前提とし て,まず,物理学的な<決定論>が何を意味するかを明らかにしておかなけれ ばならない。実際のところ,もし物理的に未来が完全に定まっているならば, 倫理的な選択をする際の人間の自由を主張することは困難になり,物理的決定 論と矛盾しない・擬似的な<自由>を定義するために相当のレトリックが必要 となるはずである。もちろん,「精神現象は物理法則に従わない」とする物/ 心の二元論を隠れ蓑にすれば、この困難を回避する手だてが見いだせるかもし れない。しかし,科学哲学的な立場をとる以上は,この種の二元論は本質的な 問題点を隠蔽した空論として排斥すべきである。というのは,“物”と“心” が決して相入れない別個のカテゴリーに属するものならば,物理的世界の知覚 や意志的な身体運動が実現されるはずがなく,また,両者が互いに何らかの影 響を及ぼし合う場合は,この相互作用を論じるために二元論を超克した視座が なければならないからである。こうした事情をもとに,ここでは,<自由>を 論じるための基本的前提として,物理学的な決定論の意味とその事実性を取り 上げることにする。
 物理学の枠内で決定論を取り上げる場合は,しばしば,対象とするシステム が<完全決定系>であるか否かという問題に翻訳されて議論されている。ここ で,<完全決定系>とは,ある時刻での系の状態が初期条件として与えられれ ば,時間発展を支配する物理法則に基づいて任意の時刻での状態が―意的に定 まるような系を指し,適当な空間的境界条件が付されたニュートン力学に従う 質点系がその典型である。しかし,<決定論>の実態を探ろうとする議論の出 発点として,「この」世界が果して<完全決定系>か否かという問いを立てる ことは,科学哲学的には多くの問題を孕んでいる。まず,<完全決定系>とは, 言わば“極限的な”決定論に従うシステムであって,これよりも緩やかな決定 性を有している物理系はいくらでも考案できるはずである。特に,「何が起き るか予測できないが,とにかく未来は決まっているのだ」という素朴な意見も 何らかの形で議論の俎上に載せるべきだろう。さらに,より本質的な問題とし て,単なるモデルにすぎない物理理論において示される決定性が,どこまで現 実の世界で妥当するかという疑問を提出せねばなるまい。実際,「この」世界 の未来が<完全決定系>のモデルによってきわめて良い精度で予測される場合 でも,予測自体はあくまで紙の上での計算結果でしかなく,未来の状態が現実 においてどのような存在資格を持っているか――実在はしていないがいつか 確実に生起するのか,あるいは,異なる時間座標上に現に実在しているものな のか――は当該モデルの内部では判定できない。こうした点に留意した上で, 以下の議論は,次のように段階的に論理を組み立てていくことにする:
(i)はじめに,<実在性>の有無を基準にして時間を過去/現在/未来に区 分する古典的3分法は,こんにち流布している物理学的な知見と決定的に 矛盾し,これを回避するためには,全ての時刻がその存在資格において同 等であると認めなければならないことを主張する。この議論を承認するな らば,未定の<未来>が既定の<過去>あるいは<現在>によって定まる とする《法則的決定論》は物理学的に受け入れがたいことになり,「この」 世界では<過去>から<未来>に到る全状態が「事実として」与えられて いるという《事実的決定論》が妥当していると結論される(I−1節)。
(ii)次に,各時刻における状態間の相互規制をもとに,《事実的決定論》を, この制限の最も緩い「並列的」な極から最も厳しい「因果的」な極に到る軸 上で捉え,現実の世界がどこに位置するかを検討する。特に,現実が並列的 な極よりは因果的な極に傾いてはいるものの,極端な《因果的決定論》は時 間の物理的な延長の否定に通じるため承服できないことを論じる(I−2節)。
(iii)最後に,こうした決定論がもつある種の「不快さ」を避けるために, そもそも《事実的決定論》が成り立たず人間に何らかの選択の余地が残さ れる理論としてはどのようなものがあるかを考察する(I−3節)。ただし, ここで示されるような非=決定論的な世界はあまりに現実離れしており, これを認めるよりは決定論に甘んじた方がましだと思われる。


©Nobuo YOSHIDA