決定論と自由意志

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概要

人間にとって〈自由〉が何を意味するかは、真摯な哲学者の頭を悩まし続ける永遠のテーマだろう。本論文は、現代の科学的知見に立脚した科学哲学の支店から、この「古くて新しい」問題を新手目手考え直そうとする試みである。

日常的な用語法の下で、〈自由〉という概念は、(さまざまな規制や因習から逸脱している、あるいは、他の類似した行為との間に差をつける根拠がないなどの理由で)社会的にサポートされていない行為を正当化する際に−−いわく「こうしたことをするのは私の自由だ」として−−採用されるケースが多い。このような文脈では〈自由〉は行為の局面に限定された社会的な権利を意味しており、哲学よりはむしろ社会学の枠内で論じられるべき概念だろう。しかし、たとえ客観的な議論の対象となるのが外面的な行為(ないしこれと密接に結びついた意志的思考)に限られるとしても、その背後に自律的な決定能力としての精神の〈自由〉が前提されていると考えるのが自然である。実際、心神耗弱の状態にあって正常な判断能力が失われている精神病患者が(礼儀作法のような)社会的規範に違反する行為をした場合、これを自由権の行使と見なす者はあるまい。あらゆる能動的行為は何ら以下の精神的営為をその端緒としており、この段階で社会的、物理的、あるいは生理的な法則とは異なる(と一般に信じられている)内面的な原理に則って自己の行動についてのプランが決定されることが〈自由〉の原点と言えるだろう。筆者の信念では、この原初的な〈自由〉の探求こそが哲学の主題であり、複雑な社会現象との絡みを記述する必要のある・行為レベルでの〈自由〉の問題は、(法律や風習など)関連する事象に応じて個別的な社会科学に委ねるべきである。本稿でも、この方針に従って、議論の対象を精神的な営為における〈自由〉−−あるいは〈自由意志〉に絞ることにしたい。
古典的な哲学では、人間が〈自由な〉意志に基づいて自己の行為に関する(主として倫理的な)決定を下せることは「疑い得ない」事実として認められており、この事実が人間を〈道徳的存在〉として動物から峻別するための主たる根拠になると主張されていた。例えば、左右の等距離の位置に等量の干し草が置かれたロバは、自由意志がないため自分でどちらを食べるか選べないままその場で餓死するしかないが、人間の場合には「明らかに」いずれか一方を自主的に選択できると考えられたのである。こうした論法は、近代に入ってからも、〈実践理性〉なる概念の論理的な体系化に挑んだカントをはじめ、多くの哲学者によってほとんどそのままの形で踏襲されている。実際、『実践理性批判』においては意志の自律があらゆる道徳的法則の存在根拠と見なされる一方で、自由そのものの(認識論的な)根拠は、道徳律が人間に内在するという「事実」を通じて間接的に示されるにとどまっていた。いわく、
「自由はまた、理論理性のあらゆる理念の中で、われわれがその可能性を洞察しなくとも先天的にこれを知るところの唯一のものである。思うに自由は、われわれの知れる道徳的法則の制約だからである。
このように、〈自由〉を直観的に明らかな理念として存在根拠を明示しないまま受け入れるという論法は、議論の組み立て方に多少の差こそあれ、観念論哲学の系譜に連なる哲学者によって一般的に採用されているようである。
しかしながら、人間が「現実に」自由であるか否かは、少し自省すれば直ちに知られるように、決して自明ではない。少なくとも、(現象としての)物理的世界を支配する物理法則の形式である〈因果律〉と、(直観としての)精神的世界に瀰漫する自己意識が享受すべき〈自由〉との間には、前者が未来の状態を完全に決定するのに対して、後者は意志による倫理的な決断の可能性を常に保証しているという意味で、一見したところ明らかな矛盾が存在する。この矛盾を哲学的な議論を通じて克服するためには、当然のことながら、物質と精神の両面にわたるデータを活用した厳密な論考を必要とするだろう。ところが、通常の(観念論哲学の)議論は、「人間が現に自由であるならば、基地の物理法則に対して(エネルギー保存則の僅かな破れのような)違背がどの程度まで許されるのか」といった論理的な考察に欠如している。そればかりか、〈自由〉と〈因果律〉が矛盾なく調和しているはずの〈物自体〉の領域の実態は、そもそも人間には原理的に知り得ないとする・一種の「哲学的敗北主義」に立脚しているように思われる。このように(因果法則との関係という)現実的な問題から目を背けながら、なお人間の〈自由〉を認める立場は、もはや鉄閣的な思索ではなく単なる信仰告白であり、宗教的な理念を喪失した現代にあっては、おいそれと受け入れる訳にはいかない。
こうした困難を回避するため、現代哲学では、〈自由意志(free will)〉について語られることが稀になり、代わって、意志の様相としての〈志向性(intentionality)〉が重視されるようになった。ただし、〈志向性〉とは、「〜したい」あるいは「〜しよう」という心のあり方を現象学的に捉えた概念であり、(志向される)対象の方向に意識が向いている形式を指す。もっとも、これだけの定義で何をもって〈志向性〉と呼ぶか定かではない−−例えば、客観的に認知された対象(「眼前の机」のような)も、この認知をもたらした外部の実体を指示するという意味で方向性を持っており、広い意味で志向的な表象と見なすことができる−−が、ここでは常識的に、願望/期待/好奇心/あるいは(マイナスの志向性としての)嫌悪など・いまだ実現されていない実態に向かって意識を変容させていく心的な状況を考えることにする。概括的に言って、人間の精神現象を支える機構がこのような志向性を自動的に生み出す固有の機能を備えていると仮定すれば、実体的な〈意志〉の存在根拠に思い煩うまでもなく人間の合目的的な行為を説明できるはずである。なぜなら(肉体的欲求や世間体の顧慮など)さまざまな志向の葛藤や消長を通じて、意識が特定の行為を促す状況に収束していったとすると、現象的には、当該行為はあたかも目的意識の下に遂行されたかのように現れるからである。いささか戯画化した言い方をすれば、本能的な肉体感覚としての性欲と後天的に刷り込まれた共同体規約が適度にブレンドされて、外見上はいかにも自発的に見える恋愛感情を「機械的に」作り上げるという訳である。こうして、〈志向性〉をキーワードとして現象学的に精神活動を記述すれば、〈自由意志〉の存在論に触れることなく人間の意志的(=志向的)行為の起源を論じるのも可能だと言えよう。
しかし、意志の〈自由〉の存在根拠に関する問題を回避して〈志向性〉を議論の中心に据える論法では、心のあり方を解明するに当たって、さまざまなジャンルで蓄積されてきた膨大な科学的データを充分に活用できない憾みがある。その理由は、次のように説明される。すなわち、現象学的な概念である〈志向性〉の表現は、必然的に自己の心的状態についての内省に依拠せざるを得ないため、これを自然法則に基づく事象系列に組み入れることが困難になる。実際、欲求や期待などの志向的意識は、原因/結果あるいは時間/空間/物質のような「自然界の」状態を規定するカテゴリーの枠内には収まりきらない。こうして、〈志向性〉に関する議論は、表現形式の異なる自然科学上の知見との間に架け橋を築く方向には向かわず、個人の内的直観を唯一の素材とする自閉的な性格を帯びてくる。特に、〈志向性〉の存在根拠については、「直観的な自明性」を大義名分としてその究明がおろそかにされやすい。これでは、観念論哲学における〈自由〉の信仰告白と大差ないだろう。現象学を越えた新たな方法論が要請される所以である。
こうした現状を打開するために、本稿では、現代科学の知見に基づいて人間の〈自由〉を直接に論考の対象にすることを試みたい。議論は、大きく2つの部分に分けられる。前半は、物理的な〈決定論〉の実態の究明を主眼としており、これまでその区別が曖昧にされていた《事実的決定論》と《法則的決定論》の差異を明らかにした上で、物理学的な知見の多くが前者を支持していることを示す。人間の〈自由〉に関してここから得られる結論は、人文主義者にとっては「非情な」ものと映るかもしれない。なぜなら、過去から未来にわたる全事象が「事実として」与えられているならば、たとえ物理的な意味での〈因果法則〉が成り立っていなくとも、人間が自己の未来を「自由に」選び取る権利が認められなくなるからである。この前提を受け入れると、人間にとっての〈自由〉はもはや倫理学的な主題ではなく、なぜ自分を自由だと信じるのかという心理学的な問題に還元されてしまう。本稿の後半はこの議論に当てられ、脳神経科学や精神病理学のデータをもとに、〈自由感〉の起源が脳内部における階層的な情報処理の形式に存することを主張する。あまりに「身も蓋もない」この結論の哲学的意味は最後の章で改めて論じられるが、決して人間の尊厳を否定するものではないことを断っておこう。


©Nobuo YOSHIDA