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§2.低レベル環境汚染

L14_fig05.gif  かつては、有毒物質も基準値以下に希釈すれば安全が保てると考えられていた。その背景には、化学物質の有害作用には、(濃度や体重当たりの摂取量が)その値以上になったときに効果が現れるような「閾値(しきい値)」があり、閾値より充分に低い範囲では有害作用は現れないという知見がある。液体/気体の有害物質を河川や海/大気中に排出する際には、人間や野生生物に悪影響が出ないと考えられる(閾値よりかなり低い)濃度を安全基準として設定し、この基準以下に希釈することを義務づければ、安全性は保たれると思われた。こうして、有害成分を含んだ工場廃液などは水で希釈し、煙突も出来るだけ高くすることによって、有害物質の濃度を安全基準以下に下げ、周辺住民の健康被害や生態系の破壊を回避しようとした。
 しかし、こうした考え方が通用しないケースが、相次いで報告されている。「有害物質も充分に薄めて排出すれば安全だ」とは言っていられなくなったのである。そうした事例を列挙しよう:
◇生体濃縮
 排出口で有害物質の濃度を下げていても、生物の体内で濃縮されて有害作用をもたらすレベルに達してしまうことがある。PCBやDDTなどの有機塩素系化学物質は、水に溶けにくく油と親和性があるという性質のため、海水中に廃棄されても薄く拡散せず生物の体脂肪に集まってきてしまう。しかも、食物連鎖の高次の捕食者になるほど濃縮の度合いが進むため、大型魚や肉食の鳥類の体脂肪には、海水の数百万から数千万倍の濃度で蓄積されていることがある。
◇相乗効果
 化学物質の中には、単独では有害作用を及ぼさない濃度であっても、2つ以上の物質を同時に摂取した場合に、相乗効果によって有害作用が現れるケースがある。これは、一方の物質を無毒化する代謝過程を別の物質が阻害するなどのプロセスが起きるからである。ただし、医薬品同士の相乗効果についてはある程度の情報が集まっていて、併用を控えなければならない薬についてのデータベースが作られているが、一般の化学物質については、可能な組み合わせの数が膨大になるため、研究はあまり進んでいない。
◇化学物質過敏症
 大半の人には何の危害も生じない化学物質が、ある人にとっては激越な身体反応を引き起こすことがある。こうした症状は化学物質過敏症と呼称されるが、発症のメカニズムは十分には解明されていない。患者数はアメリカで人口の10%を超えるという説もあり、化学物質を日常的に使用する先進国で、大きな問題になりつつある。 L16_fig48.gif(動画GIF) 臨床的にはアレルギー反応と類似しており、特定の化学物質に対して感作が生じると、次回からは、安全基準を大幅に下回るきわめて微量な化学物質に接しただけで身体反応が生じる。こうした現象は、膨大な化学物質に曝され続けたために身体が耐えられる限界値を超えてしまった状況を表すと推測され、しばしば水がいっぱいになったコップに喩えられる(右図)。症状としては、頭痛・皮膚炎・喘息・下痢や便秘・運動障害・手足の冷えやしびれなどが報告されているが、個人差が大きく一律には捉えられない。原因物質もさまざまであり、ホルムアルデヒド・パラジクロロベンゼン(防虫剤)・トルエン(有機溶媒)・キシレン(有機溶媒)などがよく知られている。
シックハウス症候群 : 建材に使用されるホルムアルデヒドなどが原因となって発症する化学物質過敏症で、新築ないしリフォームして間もない家に住む人に起きやすい。2001年に「室内空気対策研究会」によって行われた調査によると、対象になった4600戸のうち、ホルムアルデヒドでは27.3%、トルエンでは12.3%の家屋で、室内濃度が厚生労働省の定めた指針値を上回った。新築の住宅では化学物質の濃度が低くなる傾向が見られたが、これは、シックハウス症候群に配慮した建材が普及したためではないかと考えられる。学校内の建材や文房具から揮発した化学物質によって発症する化学物質過敏症は、特に「シックスクール症候群」と呼ばれ、不登校を生む原因の一つとされる。
杉並病 : 1996年に杉並区井草にゴミ中継所が稼働し始めてから、周辺住民数百人が悪心・発熱・体の痛み・皮膚の黒ずみや炎症など多様な症状を訴え、「杉並病」として社会問題化した。これは、プラスチックなどの不燃ゴミを圧縮する際に多種類の化学物質が放出され、その一部が化学物質過敏症を引き起こしたものと推定される。2000年4月に、都の設置した専門委員会は「中継所の排水から発生した硫化水素が健康被害の原因だと推定される」という調査報告を提出した。しかし、同年10月には、杉並区が、「環境調査によると、排出される化学物質は全て法令基準以下になっている」との理由で『安全宣言』を出している。これに対して、健康被害を訴える住民団体は強く反発している。
◇環境ホルモン
 従来の安全基準は、致死性・発ガン性・細胞傷害性・その他の中毒作用の有無をチェックした上で、個体の生存に重大な障害がないことを保証するものであった。しかし、環境ホルモン(外因性内分泌攪乱物質)と呼ばれる化学物質は、外見上は個体の健康にほとんど影響を及ぼさないにもかかわらず、体内のホルモン機能を混乱させることにより、精巣やペニスの形成不全といった「オスのメス化」などの現象をもたらし、結果的に種の絶滅にも至りかねない。こうしたホルモン混乱作用は、安全基準を遥かに下回るきわめて低い濃度でも生じることが知られている。
 以上の事例は、「有害作用が現れる閾値よりも低濃度にすれば安全である」という従来の発想が通用しなくなっていることを示す。続いて、特に深刻視されている環境ホルモン問題をより詳細に述べた上で、世界的に化学物質の総合的管理への動きが見られることを解説しよう。

■環境ホルモン(外因性内分泌攪乱物質)
 「化学物質−環境ホルモン」を参照のこと。

■化学物質の総合的管理
 低レベル化学物質の潜在的危険性が明らかになるにつれて、従来の「安全基準以下に希釈する」という安全対策への不安が高まり、化学物質の総合的管理の必要性が叫ばれるようになってきた。こうした中で、世界各国で採用されつつあるのが、化学物質排出・移動登録制度である。
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 化学物質排出・移動登録制度(PRTR;Pollutant Release and Transfer Register)とは、工場などから排出される化学物質の量を事業者が行政に報告、まとめられたデータを公表する制度である。従来は、安全基準を満たしてさえいれば化学物質の排出量を報告する義務はなく、環境中にどのような物質がどれだけ排出されているかという全体像を把握するのが困難だったが、この制度が実現されれば、環境に有害になる可能性のある物質の総合的な管理が可能になる。1996年2月、経済協力開発機構(OECD)理事会が、加盟国にこの制度の導入を勧告した。登録する化学物質の種類や公表の方式は、各国が国情に応じて定める。既に、アメリカやヨーロッパの一部の国は、この制度を実施している。
【欧米各国のPRTR制度】
アメリカ カナダ オランダ イギリス フランス
制定年 1986 1993 1997 1993 1984
対象施設 27業種、年11トン以上の物質を扱う製造・加工施設 原則全業種、年10トン以上う施設 主要産業327、企業の施設 特定の産業工程を持つ施設 操業許可を必要とする施設
対象化学物質 620 190 167 149 36
対象事業所数 22744 1707 2600 2200 926
データ公表の単位 事業所、州、業界 事業所、州 地域、請求で事業所のデータも開示 地域、事業所のデータは閲覧可 一部工場、業種、主要河川水域。請求で事業所のデータ開示
(資料:日経新聞1998年11月27日朝刊第二部)

 PRTR制度を導入する効果は大きい。特に、事業所ごとのデータが公開され、どの工場からどれだけの化学物質が排出されているかがインターネットを通じて簡単に調べられるアメリカでは、1986年に(有害化学物質排出目録という名称で)導入後、88-96年の間に対象物質の排出量が45.6%減少したと報告されている。
 日本でも、「日本版PRTR」と言うべき化学物質管理法が1999年7月に成立し、2001年度から施行されることになっている。従来は、排出基準を越えない限りは、ベンゼンのような発ガン性が確認されている有害物質でも、排出されていること自体が公にされなかった。しかし、新制度の下では、各事業所ごとに化学物質の総排出量の報告が義務づけられており、どんなに微量でも国に届け出なければならない。国は、届け出されたデータをコンピュータ処理が可能なように電子ファイル化し、物質別・業種別・地域別に集計して公表することになる。現在、ベンゼンは、全国で年間260トンが放出されていると推定される(環境庁)が、PRTR施行後は、この値がかなり減少すると期待される。
 日本版PRTRの対象となる化学物質として354物質が指定された。ダイオキシン・ベンゼン・トリクロロエチレンなどの有毒物質に加えて、環境ホルモン(内分泌攪乱物質)であると疑われているものの必ずしも毒性が確認されていないビスフェノールA・ノニルフェノール・スチレンなども含まれている。また、制度の対象になる業種には、製造業の全業種をはじめ、金属鉱業・電気業・ガス業・機械修理業・倉庫業・ゴミ処分業・自然科学研究所など、大半の鉱工業種および一部のサービス業種が含まれる。また、対象施設は、従業員数21人以上で、指定化学物質を年間1トン以上扱う事業所と定められている。こうした規定は、欧米のPRTRと比べても見劣りするものではない。
 制度導入に当たって議論の的になったのが、アメリカのように事業所単位でのデータ公表を行うかどうかである。個々の事業所から排出される化学物質の量が明らかになると、周辺住民などからの厳しい突き上げが予測される。結局、日本では、アメリカ型の公表制は採用せず、欧州の制度に習って、請求があった場合に限り開示するという方式にした。企業側からすると妥当なラインで決着したと言えるが、環境団体などからの批判もある。
 2001年度からのPRTR施行を前に、既に、自動車、電機、化学などの大手企業を中心に排出データの集計方法の開発などが進められている。国民の環境意識の高まりを反映して、これを機に「エコ企業」であることをアピールしていこうとする動きも見られ、トヨタ自動車は、法制化を先取りして、一部事業所で排出データの公表を始めた。しかし、物質ごとに排出量をチェックすることの技術的な難しさに加えて、製造工程や添加物質などの企業秘密の漏洩につながることから、化学工業を中心に企業の反発も大きい。特に、事業所の大半を占める中小企業は、対策がほとんど手つかずの状態にあり、2001年度からすんなりと実施されるかどうかはいまだ不透明な状況にある。

(1999年10月28日執筆、2000年11月02日改稿)



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