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問 題 設 定

fig01_02.gif  古典的な認識論では、主体と客体を対立的に捉える場合が少なくない。しかし、こうした立場では、1つの“理解の枠組み”の中に主体と客体という全く異質のものを設定することになり、混乱の元になる。誤った出発点からスタートして空理空論の迷路に踏み込まないようにするためには、そもそも主体/客体という対象化を行わず、二元論を生む元になっているものを、対立関係にはない別個の世界として描出することから始めるべきだろう。その上で、この2つの世界をどのように調和すべきかを議論するのが、正当な結論に到達するための筋道なのではないか。この方針に基づいて、以下では、主客に対応する2種類の世界を考えていきたい。

 ただし、ここで問題が生じる。われわれは、客体として対象化されることもある世界について、どこまで深く語ることができるのか。懐疑論者は、確固たる論拠が何もないことを指摘するかもしれない。確かに、「目の前に机が存在する」といった単純な事態でも、疑おうと思えば限りなく疑うことができるのだから、世界の全体像という人間の能力では語れそうもないことを論点とするのは、哲学的には逸脱行為とも言えるだろう。こうした批判を承知の上で、私は、敢えて「科学を信頼する」という立場を奉じる。科学は、世界を記述する上で、万能ではないが有効な方法たり得る──この命題を前提として、ともかくも議論を始めることにする。この試みが正当化できるかどうかは、最終的な結論の妥当性によって評価していただきたい。


世界を探求する手法としての科学の限界

 世界が、必ずしも目で見、耳で聞くそのまま形で存在していないことに気づいた古代の思索者は、世界の“真の姿”あるいは“本質”と呼ばれ得るものを、それぞれの方法論に則って探求した。ある者は、根元的な構成要素としての元素を解明しようとし、また、ある者は、人の目から隠された(occult)ものにこそ真理があると考えた。

 こうしたさまざまな「世界探求の試み」の中で、近代以降に勃興するいわゆる自然科学は、世界に対峙するのに独自の明確な方法論を確立する。すなわち、世界の全体像を直ちに解き明かすのではなく、境界画定された具体的な現象に関して科学的命題を生成するモデルを数多く提出し、最も有効性の高いモデルをパッチワーク状に組み合わせながら、既知の現象の記述のみならず、新しい現象の予言や応用技術の開発をも行うという「科学的方法論」である。この方法論に則った研究は、多くの分野で、実益をも伴う驚くべき成功を収めるに到った。それとともに、科学がこれほど有力である以上、科学的な知見を統合することによって、世界全体を記述することも可能ではないかという期待が、(少なくとも科学者の間に)生まれてくる。

参照 科学的な理論構成の手法

 もっとも、現時点での科学(自然科学および科学的方法論に則った諸学)が、近似的にせよ、世界の“真の姿”――そういうものを語ることに意味があればの話だが――を捉え得ているかは、大いに疑問がある。実際、「科学的記述は、世界を一面的にしか表現していない」と主張する声を耳にする機会は多い。その論拠として、われわれが日常的に実感する世界の存在様式が、科学的な言説を通じて構成される世界像と質的に異なっているという事実が、しばしば指摘される。

 科学的記述に見られる日常的実感からの乖離は、運動方程式や時空構造に関する物理学的な言説において、特に顕著になる。実際、高次の秩序構造の起源を単純な素過程の積み重ねに還元したり、ダイナミックに変化していると感じられる世界を所与の4次元多様体の中に埋め込んでしまう現代物理学の手法は、アニミズムへの共感に溢れる人間本来の「野生の思考」には馴染みにくいだろう。

 ここで、「高次の秩序構造の起源を単純な素過程の積み重ねに還元」するとは、構成要素が決定論的な方程式にしたがっているにもかかわらず、秩序形成が可能になることを示す複雑系理論の手法を、「ダイナミックに変化していると感じられる世界を所与の4次元多様体の中に埋め込んでしまう」とは、時間を経過ではなく空間と同質的な拡がりとして扱う相対論的なモデル構築を意味している。

 これまで、現代科学は、ある局面においては科学理論を改良し、また、別の局面では実感の虚構性を暴くことによって、科学的記述と日常的実感との間に見られた多くの矛盾を解消してきた。ニュートン力学を素朴に拡張した機械論的な世界観は、予測不可能な秩序形成を行う決定系に関する理論などによって、科学の枠内で否定されているし、日常的な実感に基づく世界の描像が、認知システムによって全面的に加工されたものであることも、もはや常識といって良いだろう。したがって、科学に対して、生活世界から隔絶された虚構的な知の体系に過ぎないという理由から非難の矛先を向けることは、ほとんどの場合、正当ではない。

 科学的記述と日常的実感の間の懸隔を狭めることになる研究の1例は、秩序形成に関する物理学理論である。19世紀に土台が完成された熱力学の基本法則によれば、物理的なシステムでは、エントロピーと呼ばれる「無秩序さ」を表す量が時間と共に増大する。「秩序」は「混沌」に向かうというのが、物理的必然なのだ。とすれば、混沌の極とも思えるビッグバンから始まったこの宇宙の中に、生命や文明のような秩序を持った構造が形成されているのはなぜか。この謎に、はたして科学は解答を与えることができるのか。こうした問題意識をもって、20世紀後半の先鋭な物理学者たちは、構造変動や秩序形成に関する新しい理論の構築を目指した。初めのうちは、超伝導やレーザーなどの個別的な現象を取り扱うにとどまっていたが、1960年代から70年代にかけて、個々の理論を統合する一般的な枠組みができあがってくる。こうした流れの中で、トム(カタストロフィの理論)やプリゴジン(散逸構造論)、ハーケン(シナジェティクス)らが、単純な局所相互作用しか行わない決定論的な力学系においても、複雑にして精妙な長距離相関が現れ、外部からの作用なしに自律的に秩序形成が行われる可能性があることを明らかにした。日常生活で実感される多様性と科学的法則の単純さとは、きわめて巨大な自由度を持つ世界において、もはや背反する性質とは言えない。

参照 力学系での自律的な秩序形成

 一方、、認知心理学の進展によって、日常的な認知といえども、きわめてストラテジックに遂行されていることが判明している。つまり、「ありありと実感される」ことの内容(実感そのものではない)が、現実の単純な写像ではないという点でも、科学の世界では合意が得られているのだ。実際、生物進化の過程で大脳新皮質に担わされた機能は、「事実」の再現よりも、絶対的に不足している知覚データに基づいて、生存に有利なように情報を加工・再構成することである。例えば、捕食者に襲われそうだという危機的状況を表現するのに、3次元的な空間マップを用意し、その中で捕食者がなめらかな運動をしながら近づいてくるという認識装置が利用されるが、こうしたマップを使えば、どの方向に動けば逃げおおせるかを割り出すことが容易になり、生存確率が高くなる。「世界は3次元空間の中でなめらかに運動する物体から構成される」という基本的な認知の枠組みは、生物学的な適応戦略に基づいて物理学的な「事実」を歪めることによって、形成されている訳である。

 しかし、科学的記述と日常的実感がいかに歩み寄ろうとも、こんにちなお、両者の間に決定的な溝が存していることは否定できない。それがどのようなものかを、次に論じたい。


日常的実感と科学的記述を隔てる「私性」の問題

 日常的な実感において、改めて検証するまでもない自明の前提とされているにもかかわらず、科学的な記述が決して触れようとしないのが、"cogito ergo sum"というデカルト的命題である。日常的な実感が作り上げる表象としての世界――これを、《主観的世界》と呼びたい――は、私の(=「私性」を帯びた)思惟を存在の根拠としている。あるいは、よりくだけた言い方をすれば、「世界は私に見られたものとして存在する」のである。ところが、科学は、こうした「私性」を徹底的に排除することによって、学問的客観性を獲得しようとしたのである。科学的記述によって語られる世界――《客観的世界》――に、唯一の特権的な存在たる「私」が入る余地はないように見える。

 ここで謂うところの《主観的世界》とは、単に、感情や判断といった個人的な心的過程のみを指しているのではない。眼前に存在する物体の視覚像も、「私に見られている」という意味での主観的な性質を帯びているからである。また、内省的な思索においても、口唇の筋肉をわずかに緊張させる“内語”を利用している点で、知覚情報をベースにしており、眼前の物体と明確に識別できるとは言えない。日常的な実感を構成する表象の総体は、それ自体が分割不能な一つの世界を構成しており、これを2つの領域に区分して主体/客体と呼び分けることは、ナンセンスである。

 「私性」の有無という点で、日常的実感と科学的記述の間に容易には越えられない隔りがあることには、おそらく異論はあるまい(異論があるならば、これ以上読み続けることは無意味である)。問題は、どのようにすれば、これを学問的な議論が可能な形に定式化できるか――である。この定式化の難しさは、単に科学的記述において「私性」が切り捨てられていることだけではなく、日常的実感において「私性」の意味が曖昧であることにも起因する。

 科学がいかに「私」を切り捨ててきたかは、従来の科学的記述を主観的な表象によって置き換えようとしたときの滑稽さを考えれば、容易に想像できるだろう。タンパク質の立体構造について語りたいと思っても、実際に心の内に表象されるのは、細部がおぼろげなままのビーズの連なりのようなイメージでしかない。図に描けば一時的には造形は固定されるが、目を反らしたり瞬きしたりするだけで、表象はいともたやすく変形してしまう。化学式を思い起こそうとすると、意識の届かぬ記憶の彼方から、闇雲にCだのHだのという記号が脳裏を去来するばかりだ。かくもあやふやな表象をどれほど掻き集めたとしても、厳として揺るぎない「現実の」タンパク質の3次元構造からはほど遠い。科学的記述は、「私性」を捨ててなお残る「客観的な」何かだけを相手にしているかのように見える。

 念のために注意しておくが、心理学といえども、日常的な実感に基づいて記述されている訳ではない。心理学的記述に現れる被験者の「主観」は、日常的実感と結びつくような連携は残されているものの、あくまで客観的にモデル化された概念である。記述を行っている当の心理学者の主観――「この被験者はなかなかの美人だな!」――は、基本的には排除される。

 科学的記述における「私性」の排除は、学問としての有効性を確保するために必要な方法だと考えられる。科学とは、(必ずしも相互に密接なコミュニケーションを行っているわけではない)多数の研究者による共同作業であるため、全ての研究者が同一の内容を読み取れるような記述を心がけることが必要である。古生物学者がミッシング・リンクに相当する猿人の下顎と思われる化石を発見し狂喜しているときでも、「こんなものは見たことがない」という個人的な意見ではなく、誰が行っても同一の値が得られると信じられる測定データ──歯型や各部のスケール比──などを記載し、かかる確固たる根拠に基づいて、系統樹のどこに位置するかについての推定を行わなければならない。このような記述方法に徹すれば、たとえ感覚質に個人差があり、化石を見たときのセンセーションが人によって異なっていたとしても、引き出される学問的な結論には、科学者の個性や生活誌に依存するブレは生じにくい。

 私の知る限り、「私性」を排除し切れていない科学理論は存在しない(この主張自体はあまり科学的ではないが、ご寛恕願いたい)。量子論における観測の理論も、こんにちでは、観測者の主観を排除した形に定式化するのが一般的である。

参照 量子力学的観測の非主観性

 科学が意図的に議論から「私性」を排除するのに対して、日常生活においては、「私とは何か」という問いかけ自体が困難な状況になっている。なぜなら、《主観的世界》の中で「私」は常に唯一かつ不可欠なものであり、同種のものと比較しながら特徴を抽出したり、それを仮定的に捨象した状況を想定することができないからである(「私」のいない世界を想像することの困難さが死の恐怖を倍加させることを思い起こされたい)。他者との会話では、自己を含む社会的状況をいったん客観的に表象し、そこに存在する多くの人間の中から“自分”を指示するときに「私」という概念が用いられる──「あなたは欠勤したが、私は会社に行った」というように──が、こうした用法は、「私」を対他的な関係性に限局して定義するものであり、実感される「私性」の全体像を適切に表現している訳ではない。ただし、対他的な関係性を指示する「私」という概念が、1人称表現という形式を通じて(私の知る限りの)すべての民族で等しく援用されている――例えば、「私」を精神的なものに限定し、自分の肉体は3人称で指示するような言語は見あたらない――ことからも示唆されるように、この限局された用法は、認知機能に由来するきわめて“自然な”ものと推測される。このため、通常の社会生活を営んでいる人にとって、「私」という概念は自明なものとして使用され、その根元的な曖昧さが意識されることは滅多にない。

 ちなみに、ここまでの議論で「私性」という曖昧な用語を未定義のまま使用しているのも、言語の実践における「私」という概念の自明性に頼ってのことであり、その意味が「何となく」理解できると期待されるからである。読者は取りあえず「私性」なる概念が指示すると思われる性質を想定し、これ以降の記述を読みながら適宜修正を加えられたい。

 日常的実感と科学的記述を隔てる最も本質的な要素として「私性」という要素があるにもかかわらず、前者においては自明なものとして見過ごされ、後者においては意図的な排除の対象になっている。このため、「世界の“真の姿”はいかなるものか」というテーマを掲げて探求を進めようとしても、日常的実感と科学的記述を統合する手がかりが得られないまま挫折してしまうことになりがちである。以下では、このジレンマを避けるために、どのような論法を採用すべきかを考察することにしよう。


戦略的アプローチ

 この問題に対処する1つの方法は、探求そのものを放棄することである。「私とは何か」という問いは、人間知性には遂に解明できないアポリアであり、日常的実感と科学的記述の間の溝は決して埋められない――という不可知論の主張が、その典型だろう。あるいは、これほど身も蓋もない言い方でなくとも、巧妙に隠蔽された不可知論によって行き詰まりを回避しようとする論法は、少なからず見受けられる。最も素朴なものは、「心」と「物」の世界を、全く異質の法則が支配する別個のものとして峻別しながら、両者の間にある種の調和が成立する理由については、将来的課題として不問に付したり、説明不能の未定義概念(「予定調和」「松果体での相互作用」など)を持ち出す論法である。また、反科学主義的な立場から、科学的記述の欠陥を一方的に攻撃するばかりで、具体的な修正案を示さない論法も、実質的には、探求の放棄と等価である。

 こうした非生産的な議論に終始することを避けるために、私が提案したいのが、戦略的なアプローチである。ここで謂うところの戦略的なアプローチとは、対処すべき問題を単純化し、立論を行う上での道筋をあらかじめ付けておいて、限定的ではあるが一応の解答と言えるものを得やすくするという方法である。ひとたび解答が得られた暁には、これを暫定的な仮説として採用し、単純化の過程で議論の対象から除かれたさまざまな因子との整合性を考察し、仮説の正当性を検証することになる。この論文では、まずはこの世界についての仮説を作り上げることを目標としているので、議論が単純化されすぎていることを非難してはならない。ここで提出された仮説が現実と一致しないことが示されて、はじめて仮説に対する実証的な反論となるのである。

 この戦略的なアプローチは、科学的な議論で採用される仮説演繹法の前段部分に相当する。科学研究においては、複雑で多岐にわたる自然現象の中から基本的な法則を最も如実に示すと推定されるクリティカルなデータを剔抉し、これを説明するような仮説を枚挙的に案出した上で、他のデータとの不一致をもとにモデル・キリングを行って正当な仮説を探し出す――という作業が行われる。この論文では、問題があまりに大きいため、仮説の1つを提案するだけで終わっているが、当然ながら、これ以降、仮説の検証を続けることが議論を正当化するための不可欠の作業として残されている。

 一般的に言って、哲学者は、概念を厳密に定義しようとするあまり、議論の出発点付近を彷徨するだけで終わりがちである。しかし、厳密性にいささか欠けていたとしても、解答可能な形で問題を定式化し、これに対する何らかの仮説を提出していく方が、学問の進展を促すことにつながるはずである。私の説を批判する場合は、こうした論法を理解した上で、問題の定式化の仕方ではなく、提出された仮説に対する反論を試みていただきたい。

 この世界についての仮説を作り上げるために、ここで採用する戦略は、次のようなものである。ただし、途中で出てくる「構図」「求心性(的)/並列性(的)」という概念は、後で説明する。

  1. 「世界が統一されている」ことは・疑う必要のない前提・と見なし、「心」と「物」を本質的に異なった別個のものとして捉える二元論的な見解は、非生産的という理由で無視する。《主観的世界》と《客観的世界》は、同一の世界の異なるアスペクトだと解釈する。
  2. 日常的実感と科学的記述のそれぞれが有する諸特性のうち、「私性」に関わる構図のみを考察の対象とし、これを具現するモデルを構築する。
  3. それぞれの構図の特徴としては、求心性並列性という対立的二項を採択する。
  4. 日常的実感はきわめてリアルであり、その実在性(reality)を疑うことは困難なので、求心性を有する構図も、実在的なものとして扱う。
  5. 科学的記述に見られる並列性は、便宜的に採用されているにすぎないと仮定し、モデルの拡張によって、科学的に記述された世界の構図が変更できるかどうか、可能性を探索する。
  6. 客観的世界》に関する拡張モデルの構図が、アスペクトを変えることによって求心的にも並列的にもなり得る場合は、これが、主観/客観を越えた世界の統一的なモデルとして有効であると主張する。

 最後の主張が、私が言わんとしている「この世界についての仮説」である。

 科学的記述の方を変更することによって、世界の構図を日常的実感と等しくできる――というのが、私の仮説の最も驚くべき点である。つまり、この世界は、ある局面においては、“実際に”求心的なのである。この仮説の正当性が認められれば、「私が生きている」という実感が得られるのは、《魂》のような主体性を有する非物質的実体が科学的に記述される世界の外に存在するからではなく、客観的に記述可能なこの世界の中に、そうした実感が実在しているからではないかと推定できる。


 ここで用いられた「構図」という概念は、議論の対象となっている(客観的ないし主観的な)世界内において、全ての構成要素が相互の連結によって作り上げるコンポジションの全体的な傾向性を指す。実際には、構成要素の連結はきわめて複雑な様式で実現されているが、全体的な傾向性だけを問題とすることによって、戦略的アプローチを試みようとするものである。

 《主観的世界》の場合は、さまざまな表象の間の連結は、現象学的な直観を通じて把捉することができる。例えば、眼前の机を表す視覚的イメージは、表面に触っている指先の知覚や「ツクエ」という音韻、あるいは、机上で読書した体験の記憶やそのとき湧き起こった情感の残滓と、強度を異にしながら連結されており、この世界における各表象の相対的な位置関係は(ある程度まで)直観的にわかると期待される。ただし、こうした直観を言語によって再確認しようとすると、意味論的な連結が優先され、「机」に対しては「椅子」の結びつきが過度に強調されることになりがちなので、表象間の連結による構図を捉えるには、現象学的な視座が必要となる。

 一方、《客観的世界》に関しては、世界そのものが意味論的連結によって構成されているので、知識ベースのシソーラス的構造が、ここで謂う構図に該当する。素朴な言い方をすれば、科学的記述は、常に“何か”について語っているだけでなく、その“何か”は、世界を充填する実体の集積であるかのように描出するのである。例えば、微生物学者が遺伝子について言及するときには、常に核酸などの物質的実体を念頭に置いており、異種の細菌間における水平遺伝のような以前には予想されなかったタイプの形質の伝播が見いだされた場合でも、プラスミド交換のような物質的な過程が存在したと解釈するのが一般的であり、遺伝子の物質性を無視して議論を先に進めることは考えられない。科学とは、こうした実体の集積と思えるものを、稠密かつ無矛盾な体系によって記述し尽くそうという試みであると言えよう。

 厳密に言えば、科学論文には、世界内存在としての“何か”を直接語ろうとしない記述、すなわち、理想化されたモデルや個々の物質に即していない一般論も頻繁に登場する。弾性体の振舞いを解析するのに、結晶構造を無視して連続物体であると仮定する、あるいは、どこかに存在する個別的な鉄ではなく、鉄一般の物性を解説するといったたぐいの記述である。ただし、こうした記述がなされる場合は、常に、近似的なモデルや個別性を捨象した一般論として、特定の条件下で単称命題に置き換えられることが(しばしば暗黙的な)前提として含意されている。もちろん、そのままでは世界の直接的記述になっていないことは、全ての科学者にとって自明である。例えば、浅い水路を伝わる波をKdV方程式で記述し、「無限個の保存則が存在する」という結論を導く議論があったとしても、それが厳密なものではなく、実際の水路に見られる波の場合、近似的な範囲で有限個の保存則が成り立つだけだということは、あえて断る必要すらない。モデルに基づくこうした記述は、ときには横断的、ときには階層的で、非=科学者には錯綜しているように見えるかもしれないが、その意味論的構造は、統制のとれた一元的なものになっている。

 ちなみに、ここで謂うところの「科学」の中に、数学は含まれていない。数学とは、科学の道具であって、科学の一分野ではないからである。数学を科学の一種として分類する立場をとる場合は、数学的記述を《客観的世界》の記述から峻別する必要がある。


 以上の説明は、私が用いた論法に慣れていない人には、いささかわかりにくいと思われるので、もう少しくだけた言い方で説明しよう。

 世界を語るには、日常的実感に基づく手法と科学的記述を利用する手法がある。この2つは、同じものを別の観点から眺めているものだと信じたいのだが、「私」のあり方を巡って本質的な違いがあり、そのままの形で両者の調和を図ることはきわめて難しい。そこで、それぞれの世界の「構図」の違いに着目し、この点だけを具現するようなモデルをもとに2つの世界の調和を図る道を考えようというのだ。

 ここで強調したいことは、日常的実感のリアリティは疑い得ないという点である。表象が指示する意味内容は客観的真実ではないかもしれないが、表象そのものは確かな現実である(ヤマトタケルが実在する人物かどうかは疑わしいが、自分がいまヤマトタケルについて考えているという事実は、決して否定できない)。したがって、日常的実感と科学的記述の基本的な構図に食い違いがあるとすれば、科学的記述の方が間違っていると考えなければならない。こうした観点から、現在の科学的知見を変更しない範囲で《客観的世界》を表すモデルを拡張し、《主観的世界》と同等の構図になるように修正することが、この論文の目的なのである。

 この言い方でもわかりにくいというならば、さらにくだいて次のように表現しよう。日常的実感では、“唯一のかけがえのない”「私」が確実に存在するのだが、科学的記述には「私」という人間は存在しない。この矛盾を解消するために、科学の方を書き換えて、“唯一のかけがえのない”「私」がたくさんいるような記述法にしてしまおうというのだ。

 読者の中には、世界の構図の違いだけを問題にすることに疑念を呈する人もいるだろう。予想される最大の反論は、日常的実感と科学的記述の本質的な差異として直接的所与の有無を指摘するものである。これは戦略的アプローチに対する反論なので、あえて取り上げる必要はないのだが、このまま「ノドに刺さったトゲ」になるといけないので、なぜ私が直接的所与を論点としなかったかを簡単に説明しておこう。

 確かに、「痛み」のように世界そのものを変容させる力を持った直接的所与の存在は、生き生きとした実感の本質的な特徴だと思われるかもしれない。これに比べると、科学的記述に現れる「結晶」「細胞」「天体」などは、言わば世界の中に“投げ出された”存在でしかない。こうした存在様式の差異こそ、2つの世界を峻別する本質的な要素だと言いたくなるのも肯ける。

 しかし、この主張は学問的な論拠が薄弱である。「結晶」に関する記述が直接的所与でないのは、科学の体系が意味論的に構成されているからにすぎず、自然界――これ自体、かなり曖昧な概念である――において結晶が直接的所与として存在していないということを積極的に保証するものではない。自然界が1つの主体であったとすると、そこにおいて、「結晶」は「痛み」と同様の直接的所与として存在するのではないか。それを否定することはできないはずである。こうした不確実さがあるため、直接的所与を重大な論点として取り上げることを避けたのだ。

 私は、詭弁を弄しているのではない。後で解説される私の仮説では、「痛み」も「結晶」も、共に高次元φ空間における構築物として、文字通り“同じように”存在していることになっている。両者の相違は、「痛み」が、次元数の高い構築物の中に包摂されているのに対して、「結晶」が比較的低次元の構築物と隣接している点である。


 以上でもって、議論を進めるための道筋が与えられた。次に、《主観的世界》と《客観的世界》を区別する「構図」の違いという点に関して、より詳細に説明しよう。、


《主観的世界》の求心的構図

 われわれは、日常的な認知のプロセスにおいて、《自己》が世界の「中心」にあるかのようなパースペクティブを採用している。このことは、視覚的な表象において最も顕著であり、これから飲もうとしているコーヒーの入ったカップは、「自分の眼前に置かれている」という形式で表される。そのせいもあって、ともすれば、こうした「自己中心的な」世界の姿を、(近似的には3次元ユークリッド空間であるような)幾何学的空間の中心位置に自己の身体を定位するという視覚的イメージで表しがちである。しかし、数学的な考察から直ちにわかるように、境界が確定されていない空間内部に「中心位置」を定めることはできないはずである。「自分が空間の中心にいる」と感じられるのは、むしろ「自分が中心となって世界を見ている」というパースペクティブが採用されているからであって、その逆ではない。

 幾何学的空間における身体像の定位の仕方が第一義的なものではないとすれば、《自己》が世界の「中心」にあるというパースペクティブは、何に由来するのだろうか。私は、《主観的世界》の構成要素である知覚や想念が相互の連結によって作り上げる全体的な「構図」が、その原因になっていると考える。

 《主観的世界》には、中心−周辺という階層性が見られるものの、「意識内容」と「意識主体」のような対立する2項を指摘することはできない。中心的存在としての特権を主張できるような実体的な〈自我〉ないし〈魂〉があるのではなく、所与に見られる関係性の総体が、中心−周辺という階層性を生み出していると考えられる。「意識内容」から独立した実体的な〈自我〉の存在を否定する見解は、哲学の初歩を勉強した者にとっては、むしろ当たり前のことだろう。個々の知覚や想念を全て捨象してしまった暁には、もはや、〈自我〉と呼ぶべき何者も残されていないからである。とは言え、知覚や想念などの所与のみによって構成された世界について、積極的に語ろうとする哲学者は、必ずしも多くない。感覚受容器からの入力や社会性を有する言語表象と関連付けて、神経心理学や社会心理学に基づく議論へと発展させなければ、個人的な心の動きについての単なる叙述になってしまいそうだからだろう。しかし、物と心の関係を根本から解明しようとするならば、こうした初歩的な認識論に立ち返る必要がある。

 一般に、《自己》の深奥部に位置していると感じられる要素は、身体的な知覚をベースに、多数の記憶と想念が相互に強く連結されたコンプレックスを形成している。例えば、心の奥底を揺さぶる深い悲しみとは、胃が重くなったような内臓感覚を主に、涙腺からの涙の分泌や咽頭部の筋肉の緊張を伝える身体的知覚が現れ、さらに、これらとない交ぜになって、特定の様式を持つ記憶や想念が論理的思考を断ち切るかのように勃然と沸き起こって、1つの感情複合体を形成しているものである。これに対して、周辺的な出来事と見なされるのは、身体を含めて他との関係性の薄い少数の要素から構成されているものである。遠くで何かが動いているのを目にした場合、あまり気に止めていない間は、情報量の乏しい視覚的データの1つとして意識の辺縁に提示されるにすぎない。しかし、そこで動いているのが野生のトラであるとわかった瞬間、肌が粟立つような身体的恐怖感が生まれ、一気に《主観的世界》の中心部に引き寄せられるのである。

 《主観的世界》に見られる階層性において、最も本質的な特徴は、これが monad 的である、すなわち、複数の中心−周辺構造が並存することなく、ただ一つの中心−周辺という階層が存在するという点である。素朴な言い方をすれば、ある主観は唯一の「私」だけのものなのである。《客観的世界》に多くの人々が並存していることを考えると、これは真に驚くべき事態であり、これを説明することが、科学哲学にとって最大級の課題となる。

 精神病理学的な解離性同一性障害(いわゆる多重人格)の症例においては、自己同一性を維持するためのキュー(cue)が不分明になって、人格交代と解離性健忘が生じるが、その場合でも、ある瞬間には、特定のパーソナリティを形成するように記憶や想念が感覚データと連結されるので、中心−周辺の単称性は維持されている。てんかんの治療のために脳梁を切断したケースなどで見られる離断症候群の患者の場合、外から観察すると、複数の主体が同時に身体を制御しているように思える。だが、患者本人の主観的な報告においては、中心の唯一性は失われておらず、連絡が取れない脳部位からの指令による行動すら、《自己》の行為として説明する作話傾向があることが知られている。また、精神分裂症では、幻聴や作為思考という形で、他者性を帯びた声や思念が「私」の意識の中に入り込んでくるケースが報告されているが、これは、あくまで「私に聞かれる他者の声」ないし「私の思考をコントロールする他者の思念」というように、単称的な「私」の中の現象として生起するものであって、他者の主観が自分の世界に割り込んでくる訳ではない。

 もっとも、1つの意識の中に2つの《自己》が並存する可能性が、原理的に否定されているとまでは言い難い。例えば、脳梁を介した右脳と左脳の連絡が健常者ほど密ではないが全く途絶えている訳ではなく、左右の脳半球がそれぞれ主体的な思考を行いながらも、意識は統合されている――という状況が、想定可能だからである。ただし、こうした状況において実際にどのような意識が形成されているかを具体的に思い描くことが困難なので、この事例を立論に利用することはできない。後に仮説が提出された段階でわかることだが、こうした複称的な主観は、高次元φ空間内部における多重埋め込みの特殊例と考えられる。

 ここで、世界が monad 的であるならば、《自己》という実体的な概念を持ち出す必要はないという点に注意していただきたい。構成要素間の連結関係を考えるだけで、中心−周辺の階層性は完全に説明されてしまうのである。《自己》を実体化しなければならないのは、多数の認識主体が並存する世界の中で、「私」という存在を特別扱いするような場合である。解剖学的に類似した中枢神経組織を有し、そこで同じような電気化学的反応を繰り広げている個体の中から、相互の関係性だけをもとに「私」を抜き出すことは不可能であり、「これが私だ」という実感を議論のどこかに持ち込まなければならない。しかし、 monad 的な《主観的世界》を問題にする場合は、こうしたちぐはぐな議論をする必要はない。要素間の関係性によって形成される階層的構造において、身体的知覚とさまざまな想念が密に連結したコンプレックスが存在する中心部付近を、便宜的にと《自己》と呼んでいるにすぎないのである。

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 現象学的直観によっても、《主観的世界》の中心部にあるのが、自律的な実体と見なされるような《自己》ではなく、常にある種の“拡がり”を持った複合体であることは察知されよう。内省によって「自分とは何か」を追求する試みの中で、知覚や記憶を単なる与件として排除していくと、結局のところ、自分という存在はどこかに雲散霧消してしまう。「私の悲しい思い」はあっても、「私が悲しく思う」という文の主語に相当する「私」を見いだすことはできない。心の奥底に分割不能な核としての《自己》がある訳ではなく、多数の要素が中心−周辺の差異を示しながら複雑に連結することによって、あたかも主体となる《自己》が中心にあるかのような世界が形成されているのである。

 世界そのものが、構成要素の連結によって単称的な中心−周辺という階層性を示していること――これが、 cogito の実体である。私は、この構図を「求心的」という用語で表現したい。「求心的な」世界では、全ての要素は、唯一の《自己》見られる内容として、己れの身体的知覚と結びつき己れの気分に支配されている。


《客観的世界》の並列的構図

 《主観的世界》の特徴を論じるのに相当の行数が必要だったのに対して、《客観的世界》の構図は比較的容易に説明することができる。これは、多種多様な表象を《自己》から切り離して客体化する手法をマスターすることが、幼児期を脱して自立的な社会生活を営むために必須とされているので、この文章を目にしているような読者ならば、誰しも、成長途中で自覚的に客体化した体験を持っているはずだからである。

 科学における対象記述は、方法論的な《自己》の消去を徹底的に遂行した結果として得られる。たとえ、動物行動学のフィールドワークで見られるように、観察者が対象に積極的な介入を行う場合でも、科学者として状況を客観的に把握するために、観察者の主体性を黙殺し、対象に加えられた刺激を(「私が加えた」ではなく「外部から加えられた」という形で)客体化してしまう。このように、主観的には世界の中心に位置している《自己》を消去していくと、もろもろの事物は「中心」を失って、意味論的に体系化された知識ベースの中に、言わば“デモクラティック”に配置されることになる。これが、《客観的世界》の「並列的な」構図とでも称すべき状況である。

 言うまでもなく、こうした状況は、科学が独占的使用権を行使するものではない。日常生活の場でも、冷静に対象を理解しようとする局面で頻繁に見られる。眼前にあるソーサ上のティーカップは、視野の外に消えた瞬間に雲散霧消するわけでも、ソーサの下に潜り込むわけでもなく、知覚されておらずとも、見ていたときとほぼ同じ状態を保持し続けると信じられる。こうした信念は、「私に見られている」という性質を捨象したところに成立する“擬似的な”客観性に依拠しており、これに基づいて、《客観的世界》を構成することもできそうに思われよう。しかし、こうして構成された世界の描像は、科学的な記述における普遍性が欠落している。自分が目を逸らせた瞬間に、世界は全く異なる様相を呈するのではないか、あるいは、いつかどこかで、非日常的な“奇跡”が実現されるかもしれない──そうした例外的な状況を容認するような不徹底さが、擬似的な客観性には残存しているからである。

 ここで、何が「並列的」に存在しているかを解説することはできない。科学的記述は、実在に即応しているとは言えないモデルを用いているため、特定の対象を存在者として規定することができないからである。また、無理に規定しようとすると、拡がった物体が示す外延の曖昧さ──例えば、個体としての“ライオン”の概念には、消化管の中にある未消化物や、風になびく体毛の状態まで含めるべきかどうか判然としない──の故に、議論が紛糾すると予想されるからである。後の議論では、主に微視的な物理理論で用いる対象に注目するが、これは、アスペクト変換を行うための便宜を考慮したからであって、それだけが《客観的世界》における存在者として措定されているのではない。ある地平においては、捕食者−獲物という図式の下にライオンとシマウマが、別の地平では、解剖学的な観点から消化器官や神経系が並んでいるかのような記述がなされており、何が存在者かについての一般的な合意はないが、常に記述対象が並列化されているというのが、科学的記述の特性なのである。

 科学的記述で用いられるカテゴリーを整理することによって、上の議論を明確化できると考える論者もいるかもしれない。しかし、それは必ずしも有効な論法とならない。科学者たちは、実用性を重んじながらモデル化を進めているため、普遍的なカテゴリーの枠に当てはまらない論法を、平然と使用するからである。集団遺伝学では特定の機能を持つ不変な要素として扱われる遺伝子は、分子生物学の分野では、メチル化の有無などの状況に応じてタンパク質と相互作用する動的な要素に姿を変える。ある分野では世界は有限個の離散的な要素から構成されると仮定され、ある分野では、無限自由度の連続媒質として扱われる。時間や空間の存在しないモデル、状態の確定しないモデルも稀ではない。このように、先験的でないカテゴリーを自由に活用しているため、科学的記述を包括的に議論することが難しくなるが、逆に言えば、この自由闊達さが、カントのいわゆる先験的誤謬を回避するのに役立っているとも言える。

 科学は、世界のさまざまな観点から描き出す。天文学者の描像では、地球は、惑星磁場以外にはほとんど自由度を持たない球形の小天体として扱われ、地球物理学の立場からは、ダイナモとなる核や対流を引き起こすマントルなどの層構造を持つダイナミックな存在としてモデル化される。結晶学者は、その中に埋もれているちっぽけな結晶に注目しており、分子化学の専門家は、ニューヨークにあろうとクンブクツーにあろうと、二酸化ケイ素は、共有結合によって4面体構造を形作る巨大分子として全称命題で記述するが、地誌に興味のある者は、不純物の成分を地域ごとに分類した特称命題で語る。諸科学は焦点を異にしながらも微妙に重なりあい、断片的な記述がパッチワークのように結びつけられて、ある統一的な全体を暗示する。他のいかなる科学とも共通項を持たない孤立した科学は、有効性を主張すべくもないだろうし、異なる分野から相互に矛盾する結論が提出された場合には、両者を調和させるように修正していくことが科学者の責務となる。こうして、科学は、直接的な言明としてではなく、間接的な形で、ある「世界」を提示する。

 ただし、そこに「私」は存在しない。


「求心性」と「並列性」の相克

 「求心性」と「並列性」の相克は、実在論の文脈で本質的な役割を演じる。科学的な記述においては、(素朴な意味での)「科学的真理」として、並列性を示す《客観的世界》の実在性が語られる。その一方で、日常的な実感によれば、求心的な《主観的世界》こそありありと感じとれる実在でなければならない。2つの世界像はあまりに懸け離れているため、言語分析などの姑息な手段によって両者の対立を解消することは全く困難である。

 容易に想像できるように、「求心性」と「並列性」の調和を図ることが、いわゆる「心身問題」の要諦である。われわれが実感する〈心〉が、常に特定の《自己》を形造る「求心的な」過程であるのに対して、客観的な対象として認識される〈身体〉あるいは〈脳〉は、多くの異なる個体が並存する「並列的な」事物である。

 〈脳〉と〈心〉の統一を図ろうとする議論を試みる場合、「求心性」と「並列性」という論点を迂回してしまうと、どのように緻密な論理を張り巡らそうとも、決して実りある結果は得られない。例えば、同一の実在を実体(ハードウェア)と機能(ソフトウェア)の2つの側面から眺めた場合、前者が〈脳〉、後者が〈心〉ないし〈意識〉に対応するという主張がある。一見、もっともな説と思われるかもしれないが、実際には、何の解決にもなっていない。なぜなら、科学的記述の対象として多くの〈脳〉が並列的に存在しているにもかかわらず、ある1個の〈脳〉が、特定の《自己》の内面における求心的な〈心〉の機能を特権的に発現できるのか、全く説明がなされていないからである。確かに、生理学的な神経活動を通じて、いくつかの興奮パターンの間に相関が生まれ、情報理論における内部表現モデルに類似した機能が実行されるかもしれない。しかし、それはあくまで「並列的に」存在する個々の脳に随伴する過程に過ぎず、それ自体、他の脳における神経興奮のパターンとともに、《客観的世界》の中に並存しているだけである。たとえ、「神経活動を内側から見たのが〈心〉の機能である」と言ってみたところで、「内側」という表現が《主観的世界》のアナロジーをもとに意味を与えられている以上、論点先取の詭弁でしかない。

 こうした「求心性」と「並列性」の間の溝を、論理的に納得のいく形で埋めることは可能だろうか。多くの保守的な思想家は、この問いに対して懐疑的である。しかし、解決を試みずに思索を放棄するのは、あまりに敗北主義的だと言わざるを得ない。

 この論文における私の立場は、次のようなものである:《主観的世界》の構図は、個人が実感し得るものであって、これを否定し去ることは困難である。とすれば、科学的に記述されている《客観的世界》の構図が変更可能かどうかを点検するしかないだろう。実際、「空間−時間−物質−力」といった古典的概念を用いたスキームは、20世紀以降に開発された基礎物理学によってすでに葬られており、こんにちでは、世界を記述するための新しい道具が提出されている。これらを適切に用いることによって、《客観的世界》を従来とは異なる構図の下に描出しようというのが、本論の主旨である。

 次章以降の議論では、多岐にわたる個別科学を包括的に取り上げることを諦め、主に、基礎物理学的な記述に限定して考察する。これは、世界の構図に直接的に関わる点に集中することにより、問題の本質をより明確にするためである。実際、生物学などの(基礎物理学以外の)個別科学は、厳密性に目をつぶるならば、「空間内部で個体が時間とともに変化する」という古典スキームに則っていると言えるので、基礎物理学におけるスキームの問題が解決された暁には、他の分野に議論を拡張することは容易であろう。


2つの世界の差異に関する追記

 この論文では、素朴な議論で安易に用いられる主体−客体の2分法(あるいは、意識作用−意識内容−意識対象という3項図式)を採らず、世界に関する相容れない2つの記述ないし描像として、主観と客観を想定している。この前提から議論を始めるならば、同じ世界に属する対立要素として主体と客体を扱うことによる解決不能の混乱は、避けられるはずである。「意識する主体としての〈私〉」が存在することを自明な前提として「〈私〉とは何か」と問いかけることは、問題設定自体が誤っている。「多くの人間が並存する世界」と「私と呼べるのはただ一人でしかない世界」が、同じ世界の異なるアスペクトとして共立するような記述は、原理的に可能か──この問いに限定することが、本論で採用した戦略的アプローチである。

 とは言っても、やはり、構図に関する考察だけでは、仮説を構築することは困難である。いくつかの副次的なポイントを顧慮することによって、議論の方向性を補正することが可能になる。ここでは、2つの世界に関する性質のうち、仮説の構築に当たって私が念頭に置いていたものを、詳しい解説抜きで指摘しておく。

 第1に、《主観的世界》の諸事象が、《客観的世界》のそれとは異なり、還元不能な複雑性を備えていることを上げておこう。ここで謂う「還元不能な複雑性」とは、構成要素があらかじめ具備していない高次の性質であるにもかかわらず、単純な要素の複雑な組み合わせとして実現されていないものである。ブルックナーの交響曲に深く感動したときの心の動きをいくら分析しても、単純な“情動素”といったものの組み合わせに帰着させることはできない。音響の知覚自体は、音程や音色などいくつかの要素的知覚に分解できるものの、そこから引き起こされる複雑な心理過程は、単純なものの複雑な組み合わせとして実現されているとは考えにくいのである。この点については、「部分と全体」の章で考察される。

 第2に、《主観的世界》には、事象の“強度”に差があることを指摘しておきたい。ここで“強度”と言ったのは、「意識のレベル」とか「想起の強さ」とも呼ばれるものである。主観を「意識作用」と「意識内容」に区分する立場からすると、この“強度”は、意識作用に帰属するものと見なされ、能動的な過程に何らかの強弱があると解釈されるだろう。しかし、私の立論では、こうした区分は採用していないため、世界内での存在様式自体に“強度”の起源を求めなければならない。この論文内で“強度”の正体を完全に解明することはできないが、議論の最終段階で、「次元数」との関係が指摘される。




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