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II−1 機能主義の影の実在論




 古代ギリシャの思想家達は,あらゆる自然現象を統一的に把握する「自然哲 学」が成立すると信じていたようだし,科学革命以前の近代物理学者も,多く は(ラプラスが示したような)単純な原子論的世界観が最終的には妥当すると 考えていたらしい。しかし,科学的な知識の集積がリヴァイアタン的な存在に て覆ったケースを想起されたい。このとき遺伝学者達は,それまでの通念がひっ くり返ったからといって右往左往することもなく,議論の出発点において「例 外的なRNAがある」と書き添えるだけで事態を切り抜けてしまったのであ る。このように,現場の科学者は,研究の都合に合わせて,あたかも粘土細工 をこねまわすごとく自在に<理論>を取り扱っており,自分の提出した教義に がんじがらめに縛られて発想の自由を失う(かつての自然哲学者が犯した)愚 は避けているのである。

評価基準としての有効性
 研究の現場に精通している人ならば,こんにちでは科学理論が(疑い得ない 真実ではなく)現象を解明するための道具として利用されているという状況を, 何の違和感もなく受け入れるだろう。しかし,当然のことながら,科学理論が 道具にすぎないからといって,現実の世界と無関係にこれを弄んで良い訳はな い。むしろ,当該理論が「役に立つ」かどうかによって《実在》との繋がりの 一端が窺えると想定される。この点を足掛りに,科学の中で発言権を持つ《実 在論》の問題に踏み込むことができないか,考えてみたい。

 既に述べた機能主義的な性格から示唆されるように,科学理論は《実在》と (素朴な意味で)直接的に対応するものではないため,《実在》を正しく記述 しているか否かを基準として理論の正当性を判定することはできない。このこ とは,次の点に注意すれば明らかである。すなわち,いかなる理論といえども, 確からしさの異なる数多くの仮定の上に成り立っており,その中には(集団遺 伝学における遺伝子の不変性のように)厳密には事実と異なるものが必ず含ま れているため,理論全体に真偽いずれかの値を割り振ろうとすると,常に「偽」 と結論せざるを得ない。かと言って,個々の仮定は特定の理論を機能させるた めに不可欠のものなので,理論から切り離して仮定ごとに真理値を設定しても 意味はない。例えば,集団内部での遺伝子分布を求めるに当たって,きわめて 長期にわたる定性的な議論を展開するためには,遺伝子の変化を前提とする分 子進化論のような別の理論を提出しなければならないが,1セ較的短いタイムス パンでの詳細な振舞いを知りたければ,むしろ遺伝子を不変なものとして扱う 集団避伝学の方が有効性が高いという事情があり,理論が用いられる文脈を無 視して「遺伝子の不変性」を云々しても何のメリットもないのである。さらに, 科学の歴史的な展開を視野に入れると,それぞれの理論の研究者は,実験デー タの蓄積や応用技術の進歩などの状況の変化に対応して,前提となる仮定を実 に柔軟に修正/交換していることがわかり,固定された「理論の真理値」など 設定しても仕方がないと結論できる。
 上のような事情があるため,こんにち研究の場で正当性が認められている理 詰は,決して自然界の現象を正確に記述している訳ではなく,まして《実在》 との対応関係を主張できるものではない。現代科学では,理論を正当化するた めに,こうした素朴な「正しさ」に代わって,より機能主義的な観点から<有 効性>に基づいて囲給を評価する方法論が案出されている。ただし,ここで謂 う所の<有効性>とは,当該理論を用いて生成した科学的命題が,他の領域で 何らかの作業を行う際にr役に立つ」ことを指示する。「役に立つ」内容は多 岐にわたるため限定できないが,応用研究の場合には,狭く「技術開発に貢献 する」ことを指すのに対して,より基礎科学の色彩の濃いケースでは,単に「実 験/観察データの由来を説明する」だけでも良いだろう。現代科学の文脈で<定 説>と呼ばれているものは,いずれも,何らかの意味で「役に立つ」ことが確 認されているく有効な>理論である。
 く有効性>について,若干の補足的説明を付け加えておこう。第1に,<有 効性>とは,適当なデータを入力したときに半自動的に科学的命題を生成する 能力――いわゆる《予言能力》と密接な関係を持つ。実際,多くの宗教的な議 論がそうであるように,与えられたデータを前もって用意していた「原理」に 則ってく説明>するだけでは,そのデータを異なる局面に活用できるようにな るとは期待できない。―般的に言って,少数の法則から実りある帰結を引き出 せるような理論こそ,応用力が豊かでく有効性>が高いと判断される。このこ とは,現象を解明するために提出される数多くの理論の中で,ごく少数のもの 膨れ上がった現代においては,全ての領域で通用する“万能”のドグマを提出 することは,研究を遂行する上でもはや何の価値も持たない。こうした状況に 対応するため,現代科学は,その学問領域全体を機能主義的にシステム化する 方法論を採用し,従来のいかなる知的体系にも優る柔軟性を獲得している。現 代科学の実態を解明するためには,何にもまして,こうした科学的方法論に 目を向けなければならない。

機能主義的なシステムとしての科学
 はじめに,現代科学に見られる「機能主義的なシステム」の何たるかについ て,多分に理想化した形で説明しよう。ただし,詳しい解説は別の機会に譲る ことにして,ここでは,後段の議論を理解するために必要なポイントだけを, 概略的に述べるにとどめる
(i)その内部で完結した機能を担っている科学的素材のまとまりは,広い 意味での〈理論〉と呼ばれる。ただし,ここで謂う「機能」とは,適当な データを入力すると,半自動的に新しい(当該理論の定義に内包されてい なかった)科学的命題を生成する能力を指す。個々の〈理論〉を定義する ための具体的な条項は,可能な限り明示されているため,機能的に同一の 〈理論〉を複数の科学者が独立に研究できるばかりか,定義を僅かに変更 するだけで,無数の“変異体”を容易に創り出すことが可能である。
(ii)適用領域を共有する<理論>は,相互に研究成果を引用することによっ て結び付き,理論クラスターを形成する。こうしたクラスターは階層構造 を成しており,「遺伝学」や「理論物理学」のような上位のクラスターか ら,「特定のDNAと調節タンバク質の相互作用モデル」あるいは「素粒 子のSU(5)模型」といった下位クラスターに到るまで,重層的に構成さ れている。通常の科学的研究は,こうしたクラスター内部における理論間 の対抗を通じて,よりすぐれた機能をもつものを決定する作業である。
(iii)クラスター相互でのデータの交換は,個々の理論で各データを利用す るのに必要十分な内容に整理した上で行われる。このことは,特に実験/ 観察の結果を発表する場合に重要である。実際,「原子核乾板の軌跡」や 「クロマトグラフィーのしみ」などの生データが得られるたびに,個々の 理論ごとに解析を行っていたのでは手間がかかりすぎるので,これらは, 実験家(装置メーカーの技術者を含む)がそれぞれの実験装置に応じて,「イ オンの電荷/質量の値」や「DNAの塩基数」など,各部門の理論の展 開に利用可能なデータに変換して伝達される。

 このようなシステムの内部で,数多くの<理論>が,時には協力し時には争 いながら発展消長を繰り返す有様は,傍で見ているとなかなか壮観である。 ギリシャ哲学的な発想に馴染んでいる人には,科学における<理論>が,何 らかの世界観を背負って立つものではなく,単なる機能の担い手だという点に, 納得いかないかもしれない。しかし,現場で働く科学者にとっては,<理論> を道具として取り扱うのは当り前のことである。科学者のこうした姿勢は,研 究態度の端々に現れている。思いつくままに,いくつか列挙しよう。第1に, 科学論文を執筆する場合は,自分と異なった世界観の持ち主にもその結果が利 用できるように,客観化された結論しか著述しないように心がけている。この ため,(たとえて言えば)機械的な原子論の信奉者である高分子化学の研究者 と,生体の神秘に魅せられている医学者が,特定の酵素反応についての研究を 介して,互いに有意義な意見を交換することが可能になるのである。第2に, 現象を解明するのに役立つと考えた場合,科学者はあえてアド=ホックな仮定 を設けることにやぷさかでない。例えば,ゲルマンが素粒子の分類を説明する ため「八道説」を提唱したとき,クォ−クと呼ばれる仮想的な粒子を導入しな がら,正当化できる理由がないままこの粒子は決して観測されないと主張して いる。この主張は,後になって正当性が認められたものの,当初は全くアド= ホックな仮説であった。第3に,理論の根幹を揺るがすような新発見があった としても,科学者は,往々にして,根幹の部分“だけ”を書き換えることによっ て理論を生き長らえさせようとする。具体例としては,「遺伝の発現は,遺伝 子の本体である核酸に特定のタンパク質が結合することによって調節される」 という遺伝学のセントラル。ドグマが,酵素機能を持ったRNAの発見によっ だけが研究に値するとして科学者集団に受容される理由を説明する。すなわち, 科学者達は,どのような科学的命題を生成するかを実地に研究する以前に,《予 言能力》の多寡を見積って当該理論のく有効性>を評定しているのである。第 2に,く有効性>は常に相対的に評価されることを指摘しておきたい。なぜな ら,どのような理論も,与えられたデータと完全に一致することは困難であり, 常に何らかの誤差が伴う以上,その理論と両立できない・より有効な他の理論 が存在する可能性を棄却できないからである。したがって,通常の研究での理 論の評価は,同一の現象に適用された2つ(以上)の対抗理論の間で<有効性> を比較することによって行われる。

機能主義の陰の実在論
 科学の機能主義的な性格は,個々の科学者が抱懐する世界観が表に現れるこ とを禁止している。もし(貴子方学における多世界解釈のように)特定の世界 観を援用しなければ論述できない状況が生じた場合は,この世界観を何らかの 形式で明文化して,理論を構成する諸要素の1つに付加することが要請される のである。しかし,だからと言って,科学者が特定の世界観を持たずに「職人 仕事」に徹しているとは限らない。研究成果を応用する場面ではともかく,最 初に理論を構想する段階では,現代においても,実在論的な発想が盛んに行わ れていることが指摘できる。ここでは,現代科学における《実在論》の地位を 確認するために,簡単に歴史の流れを振り返ってみよう。
 17世紀以降,ニュートンの力学を基礎として展開されてきた近代物理学 は,「延長を有し」「相互に排斥し合う」物体の存在を認める素朴な実在論の 上に築かれていた。しかし,19世紀も半ばを過ぎ,電磁場の媒体と目されてい たくエーテル>の力学的性質が,従前の物体概念に適合しない奇妙さを示すこ とが明らかになるにつれて,物理理論が記述する全ての対象に実在性を付与す る素朴な立場に対して,科学者は次第に消極的になってきた。「“マクスウェ ルの理論”とは“マクスウェル方程式”である」というへルツの有名な命題は, この間の事情を物語っている。
 素朴な実在主義からいわゆる実証主義へという科学的思潮の転回は・20世紀 に入ってからは,方法論に力点を置く科学哲学者によって受け継がれ,とりわ け.カルナップらによる論理実証主義の台頭をもって洗練のきわみに達した感 がある。確かに,科学研究の実践を,「理論的な命題」と「非理論的なデータ」 を関係づける作業として規定し,観察可能な事象の背後に(この関係を越え た)《実在》を想定するのは無意味だとする主張は,きわめて明確で力強いも のに思われる。ところが,現実には,ウィ−ン学派の哲学者が論理実証主義の 手法を練り上げていくのと歩調を合わせるかのように,研究に携わる科学者の 聞では,実証主義が退潮し,代わって実在主義が復活ののろしを上げていたの である。断わっておくが,この動きは,一部の哲学者による実証主義批判とは 何の関係もない。むしろ,現代科学の進展を通じて「事象の背後にある実体」 が次々にあばかれていったという事情が,こうした「揺り戻し」の契機になっ たと見なすべきだろう。具体的には,結晶などに見られる秩序構造の<背後> に電子/イオン間の量子力学的長距離相互作用があり,生物種の世代間におけ る形質の遺伝の<背後>にDNAによって構成された遺伝子があり,客体を 分節して表象する知的認識の<背後>にシナプスからの入力に対して悉無的に 応答するニューロンの階層的ネットワークが存在するのである。このように, それまでは観察された事象に適合するようにアド=ホックに説明的な概念を導 入せざるを得なかった領域で,実在論的な理論が成功を積み重ねていった結果, 20世紀後半における科学者の基本的姿勢は,外的対象の実在性を認めた上で, その時点で覆い隠されている部分を白日の下に曝すことを目標とするように なったのである。
 現代の科学者が実在論的な世界観を抱いている証拠は,どのような研究に着 手するかという発想の段階において見いだすことができる。実際,従来の理論 からは予想されない何らかの現象が報告され,これに基づいて理論を部分的/ 全面的に改変する場合,科学者がさしあたっての目標とするのは,新しい現象 の輪郭を完全になぞるような“説明”を提出することではなく,説明力が多少 不足しようとも,実体としての性質を備えたモデルを構築して,従前の理論に 欠落していた具体的要素が当の(予測できなかった)現象を惹起したと実証す ることである。その具体的な例は枚挙に暇がないが,近年の遺伝学の状況に目 を向けるのがわかりやすいだろう。細胞が分化する過程で遺伝子の発現を制御 する機構については,現在なお不明な点が多いが,一定の塩基配列やある種の 酵素の存在が重要な役割を果たしていることが判明しつつある。こうした研究 の過程で科学者が行うのは,単に「これこれの塩基配列の変化がこの遺伝子の 発現を抑制する」といった観察データを集積し体系化する作業にとどまらない。 ある程度までデータが集まった時点で,多くの科学者は,このデータを再現す る実体的なモデルの構築に力を注ぎ始める。具体的には,遺伝子と調節タンバ クの3次元的な構造が解析され,両者が立体的に結合する状況が近似計算に よって与えられる。こうして,特定の塩基配列がある酵素と特異的に結合して, 以後の生化学反応に影響を与える過程が,より明確に記述できるようになる。 このとき,科学者にとって,ある3次元構造を有する遺伝子や酵素は,19世紀 後半の科学者がその存在を疑いながら作業仮説として利用していた<エーテル> やく分子>とは異なり,明らかな実在性を担った対象として把握されている。
 このように,現代科学者は,少なくとも発想の段階では《実在論者》の心を 持っていることは間違いない。しかし,この発想を押し進めて(《機械的原子 論》のような)特定の世界観を抱いたとしても,これを研究発表の場であらわ にすることは,科学者間の交流において何のメリットもないばかりか,理論の 信憲性を疑われる結果を招きかねないため,表面的には《機能主義者》として 振舞わざるを得ないのである。こうして,実際に活動している場面での現代科 学は《機能主義》を旗印に掲げているが,その陰に《実在主義》が潜んでいる という構図を描くことができる。

科学をしていかに《実在》を語らしめるか
 現代の科学者達が,その基本的な世界観を理論の底に沈澱させたまま研究を 遂行するという状況は,科学の発展にとっては望ましいことかもしれないが, 科学哲学にとっては不幸な事態だと言わねばならない。なぜなら,特定の機関 に所属する研究者として業績を上げることが優先され,自己の世界観について 綿密に省察する機会がめったに訪れない通常の科学者には,その《実在論的世 界観》を洗練し発展させることは,到底期待できないからである。したがって, 哲学に関心のある人が,現代科学が解明する世界の本質についての開陳を科学 者に求めたとしても,その旧態依然たる素朴な世界観を聞かされて閉口するの がオチだろう。もちろん,科学者(特に,量子力学の研究者)の中には,物理 的実在の意味にっいて熟考している者も少なからずいるだろう。しかし,大半 の科学者にとっては,モデルとしての理論の背後に確固たる《実在》が存する のは「当り前」のことであり,この問題について思索をめぐらすのは時間の無 駄でしかないというのも事実である。
 こうした状況を打破するためには,科学に基づいて《実在》を論じるという 明確な意図をもって,現代科学が内包する「沈澱した世界観」の掘り起こしに 取り掛からねばならないだろう。しかし,機能主義を貫くことによって得られ た科学の価値を減殺しないで,その成果を哲学的な議論に援用するためには, 方法論的に繊細な注意が必要となる。
 素朴に考えれば,「役に立つ」理論は,何らかの形で「現実」を反映してい るはずである。しかし,あまたの有効な理論から《実在》に対応するエッセン スを抽出することは,実際問題として困難であるばかりでなく,そもそも科学 的方法詩の基本原理に違背し,科学理論を利用する意味を無に帰せしめる。例 えば,現在までに知られている全ての物理理論が微分方程式を基礎とするから といって,あらゆる事象は滑らかな時空多様体上に生起すると結論することは 許されないだろう。むしろ,人間にとって取り扱いやすい解析学という手法を 利用したいがために,滑らかさを表象の枠組みに押し付けたと考える方が当を 得ていると思われる。したがって,科学に基づいて《実在》を論じるためには, 理論から導かれる特定の主張を本質的な要素として抜き出すのではなく,諸々 の理論が作り上げる科学の全体的な体制を「まるごと」利用してかからなけれ ばならない。
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 こうした態度は,古代ギリシャ的な自然哲学を愛する者には,受け入れがた いものだろう。個別科学の論述は,しばしば些事に拘泥して物事の<本質>を 見失うが,直観に基づく哲学的な方法論は,単純な<真理>を洞察できるはず だ――そんな声が聞こえてきそうである。しかし,人間の哲学的能力は,その ような期待に応えられるほど豊かなものではあるまい。この点については,論 理的に説明するよりも,上の図II−aを見て考えて頂きたい。左側の図は 一瞥して上下に並んだ(正)三角形と正方形だとわかるが,右側の図になると 簡単には図形を特定できず,図を見ていない人に説明するためには,各辺の長 さや頂角の大きさなどを指定する必要がある。ところが,これらの図形データ をコンピューターの知識ペースに打ち込もうとするとき,あらかじめ正方形や 正三角形の知識がプログラムされていないケースでは,簡略化した入力形式が ないために,左側の図形についても辺や角度の詳細なデータを使わなければな らず,データ量としては右側の図と等しくなり,もはや単純な図形とは言えな くなる。実は,人間が左側の図形を直観的に把握できるのは,幼児期以来の視 覚的経験を通じて正方形や三角形を表す認知の鋳型ができあがっており,これ と視覚情報を比較するだけで図形の認定が可能だったからにほかならない。こ の例は,人間にとって直観的に明らかな認識は,あらかじめ備わっている形式 に適合しているケースに限られることを示唆する。ところが,存在認識におけ る<客体化>のところで見たように,人間の認識形式は自然界の多様性に比べ てきわめて貧弱であり,自然の本質がこの形式に合致するとはいかにも信じら れない。それゆえ,《実在》に関する議論が直観的に把握しやすい簡明な形に まとまらず,科学理論の全体像を踏まえながら進めなければならないとしても, 何ら驚くに値しないのである。
 このような方針に基づいて,次節では,科学の成果を逸脱しない範囲での《科 学的実在論》が何を意味するかについて,論じていきたい。

©Nobuo YOSHIDA