《実在》の探求

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概要

 哲学史を繕くまでもなく,《実在》についての議論は,個々の哲学者の関心 に応じてさまざまの異なった視点からなされてきた。実際,一口に「実在論」 と言っても,唯物論的なイデオロギーを補強する道具として利用されることも あれば,(波動関数のように)科学理論に現われる素材が自然界に対応物を持 つか否かをめぐる論争の中で登場する場合もある訳で,その内容は各々のコン テクストに応じて千差万別となっている。このため,現代哲学においては,「そ もそも《実在》とは何か」という根元的な問いかけは往々にして等閑にされ,《実 在》に関する論考は個別的な「実在論」に対する解説や批判に還元されがちで あった。しかし,表面的にはいかに多様に見えようとも,およそ《実在》を議 論の俎上に載せる以上,これら無数の「実在論」に共有され,それによって哲 学者相互の(素朴な意味での)コミュニケーションが可能になるような根本的 な了解事項がなければならない。この了解事項とは,誰にとっても本心からの 反駁が不可能なほど明証的であり,また,これを否定するとそもそも<存在> や<確実性>といった諸概念の意味が把握できなくなってしまうような基本的 な前提――すなわち《自己の実在性》である。
 もっとも,(実存主義の信奉者はいざ知らず)学問的な議論の前提としてわ ざわざ《自己の実在性》を掲げる人は,あまりいないだろう。なぜなら,およ そ学問的思索の主体たるものは,すべからく己れが実在していることを直観的 に察知していると予想され,この点についてあえて断わる必要はないからであ る。だが,デカルトを引用するまでもなく,内的な直観によって保証され る自己実在の確かさこそが,他の全ての哲学的言明を確実ならしめる根拠と なっている以上,この問題から目を背けたままで《実在》を論じることは,物 事の本質をないがしろにするものである。例えば,《科学的実在論》と称して, 「目の前の机が実在するように,電子も実在する」と主張してみたところで,「実 在」の意味に任意性がある限りは言語遊びの域を脱せず,僅かばかり定義をい じるだけで「目の前の机が実在しないように,電子も実在しない」等々という 逆の命題すら正当化できる余地が残されているのである。したがって,有意味 な《実在論》を展開するためには,あらゆる《実在》概念の基礎にある《自己 の実在性》を射程に収めることが必要不可欠の条件となる。
 おそらく,いかに懐疑的な人であろうとも,現に感じられている知覚や感情 そのものを否定することは困難だろう。たとえ,事故で切断されたはずの腕の 先に痛みの感覚が走ったとしても,何らかの疑念が生じるのは客観的に構成さ れた身体像と比較する段階に限られており,痛みが感じられること自体は事実 として疑い得ない。換言すれば,「痛み」や「悲しみ」のような直接的な所与 は,それ自身の性質によって存在の確実性が保証されているのである。簡単な 内省によって知られるように,こうした直接的な所与の確実性は,《実在》と いう概念を意味規定する際に常に援用されている。例えば,この概念が(客観 的な世界を解釈するための手段として)机などの表象に適用された場合も,「机 がある」ことの確実性ないし事実性が机自身の性質によって保証されており, その他の要素――人間に認識される過程のような――は必須でないことが含 意されている。このことからもわかるように,通常の意味での《実在》と は,「それ自身の性質によって現にあることが確実な何か」を指している訳だ が,ここに,「痛み」や「悲しみ」といった直接的な所与とのアナロジーを見 て取るのは容易だろう。以上より,《実在》とは,もともと,直接的な所与 ――あるいは,直接的所与の総体を統括するものとして措定される<自己> ――の確実性に基づいて規定される概念であり,これによって表象を解釈す ることは.その意味を類比的に拡張した応用だと考えられる。このような事情 を考慮すれば,《実在論》を展開するに当たって,《自己の実在性》を無視す ることが許されない理由が判然とするだろう。
 《実在論》の対象に<自己>を含める立場をとると,同じ《実在》という概 念で表現されるとは言っても,直接的な所与と解釈された表象とでは,その現 れ方が本質的に異なっているという事実に,嫌でも気づかざるを得ないだろう。 なるほど,たとえ目を閉じて視覚像を消失させても「目の前の机」が存在し続 けることは(常識的には)間違いなく,人間の知覚を越えた確実性を備えてい ると解釈しても誤りではあるまい。だが,この確実性をもとにして表象のいく つかに《実在》のレッテルを貼っていくと,最終的に得られる<客観的世界> は,認識の主体とは無関係に多数の《実在》が並列的に存在する。統一のない 世界になってしまう。こうした状況は,「痛み」や「悲しみ」が常に<自己> を中心とする求心的な構図の中に据えられる<主観的世界>と,鋭い対照をな すものである。比喩的な言い方をすれば,<客観的世界>――あるいは,誤解 の虞れのない言い換えをすれば<外界>――が「民主的」な現れ方をするの に対して,<主観的世界>――あるいは,広い意味での<自我>――はあくま で「独裁的」なのである。しかも,この2つの世界の相違は,もともと直接的 な所与の総体として統一されていたはずの<自己>の概念すら分裂させてしま う危険を牢んでいる。実際,個人にとっての身体は,何よりもまず肉体感覚を 通じて直接的に与えられるものであり,鏡像の姿をとって客体の領域にも顔を 出すものの,<主観的世界>にとどまる限りは,この直接的所与から切り離さ れることはない。ところが,表象された身体をひとたび<外界>の中に定位し ようとすると,嫌も応もなく他の《実在》と並んで存在する「ある身体」に格 下げされ,「自分の身体」という特性はいとも簡単に剥奪されてしまう。こう して,く主観的世界>の独裁者としての<自己>と,<客観的世界>の「大勢 の中の1人」としての<自己>が分裂して現れることになる。
 <外界>とく自我>の間の懸隔の大きさを示す印象的な事例が,「数の不一 致」と呼ばれる問題である。―般的な了解に従えば,く外界>は時間と空間の 中に物質が存在するという様式で統一されており,いくっかの小世界の集合体 と解釈することはできない。ところが,こうした<外界>の中には,自分と類 似した身体を有し同じような規範に則って行動している多数の<他者>が存在 しており,これらの人々に<主観的世界>としての<自我>を認めないことは, 倫理的な裏切り行為のように思われる。したがって,常識的な見方によれば, ただ1つの<外界>と数多くの<自我>が存在することになり,同一の《実在》 が2通りの見え方をしていると解釈するのは,(<自我>が1つしかない場合 に比べて)相当の困難を伴う。特に,多くの<自我(self)>の中の特定のもの が<自己(my sefl)>という特権的な地位を持つに到る理由が,全く不明である。 いかなる方法であれ,この「数の不一致」の問題を解決しない限り,《実在論》 が健全な哲学的見解となり得ないことは明らかであり,たとえ,「机は実在し ない。実在するのは原子の運動だけだ」といった言い換えをいくら積み重ねた ところで,所詮は,小手先のごまかしにすぎないのである。
 以上の議論から自ずと明らかなように,《実在論》の課題は,「並列性」と 「求心性」,あるいは,「民主性」と「独裁性」といった背反する性格を示す <外界>(=<客観的世界>)と<自我>(=く主観的世界>)を統一的に取り扱 うような方法論を確立することにある。ここで,現代の哲学者が,過去数十 年の偉大な先人よりも有利なのは,膨大な分量に達している科学的知見を利用 できるという点であり,逆に,この利点を生かさない限り,これまでの(あま り豊かでない)《実在論》の成果に多くを付け加えることはできないだろう。 このような観点から,この論文では,科学の成果に依拠しながら,<自我>と <外界>を統一的に取り扱う《実在論》の構築を試みる。こうした難問に対し て断定的な結論が得られないのは当然であるが,少なくとも,今後の科学哲学 的な議論が進むべき道を示すことには成功していると考える。

 本稿の構成は,以下の通りである。
 第I章は,予備的な考察として,多くの《素朴実在論》が示す誤謬の起源を 解明する。人々は,《実在》の問題を論じるために,「あるものが存在する」 という形式での解答を得ようとし,存在の主体として<原子>や<場>を分節 してきた。しかし,実際には,このような存在認識を行う過程で<客体化>と 呼ばれる認知的な操作が遂行されており,そのために,知覚その他からの情報 が「存在者の存在」という形式に当てはまるように歪められている。したがっ て,この形式に則って思考する限り,《実在》について正当な判断が下される とは期待できない。
 この結論を受けて,第II章では,「科学的な法則や概念の対応物が自然界に 存在する」という形式を排し,より妥当な《科学的実在論》について考察する。 科学の研究に際して一般に採用されている機能主義的な方法論は,特定の科学 理論が《実在》を指示することはないという立場を取るため,一見すると《実 在論》とは無縁のように思えるが,実は,科学の時間的発展を方向づける動機 の中に《実在》に関する見識が潜んでいることが指摘できる。こうした《科学 的実在論》には,単に局所的な理論発展の方向を予想するだけの“弱い”見解 もあるが,より“強い”立場から,科学が最終的な局面で示す体系の種類を分 類することも不可能ではない。ただし,科学的方法論の枠内では,実際にどの ような体系になるかを推定することは困難である。
 このような「科学の限界」を打破するため,第III章では,哲学的な問題意識 を前面に押しだし,有効性に頼る科学の自己規制枠を無視して<自我>につい ての擬似科学的な理論を作った上で,これが<外界>の理論と統一できるかど うかを考察する。この「挑戦」に対して肯定的な結果が得られることから,<自 我>と<外界>を同一の《実在》の異なる局面として解釈するような《実在論》 を構築することは決して不可能ではないという見通しを立て,これを全編の結 論とする。


©Nobuo YOSHIDA