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3.問題の解決に向けて



 前節の議論では、意識を成立させる契機は、情報処理系の素材や未知の物理法 則よりも、系の各部分が協調的に作動する協同現象にあるとされた。しかし、こ れは問題点の範囲を制限しただけであって、精神現象の解明からは程遠い。本節 では、この点を詰める方向で議論を進めていきたい。

 議論のポイントとなるのは、日常的な直観において生き生きとした実在として 感じられる意識の実在性を、どのようにして現行の「客観主義的な」科学理論と 両立させるかという問題である。たとえ、レーザー発振や強磁性への相転移が協 同現象として理解されるとしても、「そこに意識が生じている」と考える者はあ るまい。従って、精神現象を解明するためには、意識が実在すると主張できるた めの科学的条件を明らかにする必要がある。
 「意識が実在する」という命題を科学の枠内で論じることに、レストランで肉 牛を殺すような違和感を覚える人は多いだろう。しかし、振り返って考えてみよ う。この世界で、科学的に一体何が実在していると言えるのだろうか。例えば、 碁盤のうえに碁石を正方形に並べたとしても、「この正方形が実在する」とは主 張できまい。「正方形」はあくまで知的生命によって認知される形式なのであっ て、構成員たる碁石の与り知る所ではないからである。ところが、こうした事例 を敷街して、一般に、現実に存在するのは物体だけであって、これらが構成して いるパターンは単に認知の形式に過ぎないと見なそうとすると、議論はアポリア に陥ってしまう。実際、物体が立方格子結晶から成っている場合、立方体の頂点 に存在する原子とこれが構成している立方体の関係は、上の碁石と正方形の関係 と同様である。とすれば、実在するのは原子のみと言えるのだろうか。だが、原 子も、陽子や中性子が構成する安定したパターンのはずである。さらに、陽子/ 中性子もクォーク/グルーオンが作るパターンであり、おそらくは、クォーク/ グルーオンも他の粒子から構成されているか、もしくは、ソリトンのような自立 的なパターンである〔12〕。従って、「パターン」を実在の範時から除外する立場 に立つと、現行の自然観の下ではそもそも実在はあり得ないという結論に到達す る。このアポリアを回避するためには、いずれかの段階で実在即物体という通念 を否定しなければならない。

 この課題の科学哲学的な意味は、次のような観点から眺め直すと理解しやすい だろう。現行の科学理論は、数学的に確定した構成を持っているため、形式的な 表示の変換を施すことにより、実質的に等価ないくつかの記法で表すことが可能 である。具体的には、古典力学におけるラグランジュ形式(位置と速度による記 述)とハミルトン形式(位置と運動量による記述)、あるいは量子力学における ハイゼンペルグ形式(演算子が時間に依存する}とシュレディンガー形式(状態 ペクトルが時間に依存する}などがある。これらの形式は、いずれも数学的に等 価であり、(たとえ教科書的な説明において特定の形式が好まれていようとも) その内容に実質的な差異は存在しない。しかし、現実には、往々にして、ある形 式に依拠した記述が他に優って自然の本質を表現しているように感じられる。そ の理由は二つある。第一に、問題としている理論がよリ根本的な理論の近似であ り、この《深層》理論が《表層》理論の等価な表示形式を差別化している場合。 第二に、人間の認知過程において特定の方略が採用されているため、これに即応 した記述がより本質的なものと誤解される場合がある。この二つのうち、前者に ついては科学な議論を深化させることによって解決ヘの道が拓かれると期待して 良いが、後者に関しては、人間の思考様式そのものを考察の対象とする科学哲学 的知見なしには理解しがたいものであろう。そして、科学における「実在」のア ポリアの原因は、まさに後者の「認知方略の適用限界」に由来する誤解にあるも のと推定される。
 人間が採用している基本的な認知方略の一つに、対象化の原理がある〔13〕。こ れは、注目すべき対象を他から独立した「一個の」物体として把握する認知形式 で、捕食者や獲物をすばやく同定するために進化の過程で獲得した能力と考えら れる。この原理に則って諸現象を認知するとき、物体として把握された対象は他 から画然と分離されて空間内部に定位されるため、結果的に、「空間内部に(空 間とは別個に)存在する明確な輪郭をもった物体」が諸現象の中から優先的に分 節されることになる。これが、物体を「実在」として他の存在様式から峻別する 認識論的な(だが物理的ではない)根拠である。
fig  このように「空間内部の物体」を特別視する認知形式は、しかしながら、物理 的な理論の表示までも差別する根拠にならない。この点について、まず、初歩 的な例をもとに見ていこう。
 こんにち支配的な自然観において物質の基本構成要素と考えられている素粒子 は、数学的には場の特異点であるが、認識論的な対象として取り扱われるときに は、場の変数の絶対値が急増する領域と考えるべきである。なぜなら、対象を識 別するデータは視知覚または触知覚から得られるが、こうした知覚は特異点その ものよりも、近傍の場の変動に基づく電気的な相互作用によって成立するものだ からである。従って、実在としての物体の本性は、図1のような場の量(ここで は電気的ポテンシャルを念頭に置いている)の変動にあると言える。ここで、図 1の場が「素粒子」の置かれている点で発散せずに有限にとどまっても、「物体」 が存在することに変わりはないはずである。
fig  さて、日常的な直観では、このよう な「物体」が存在様式として最も根本的なものであり、運動はあくまで「物体の」 運動としてこれに従属していると把握されている。ところが、数学的に等価な表 示の変換をすると、こうした主従の関係が決して正当性を主張できるものではな いことが判然とする。例えば、ある場の量Φが時間と共に振動していると仮定し よう(図2)。これをフーリエ変換すればスペクトルが得られるが、Φが調和振 動の場合には理想的にはδ関致に、現実的には特異性のなまった鋭いピークを持 つ関数になる(図3)。従って、フーリエ変換した空間では、座標空間における 「物体」と同様に場の変数が急激に変動しており、表示空間に応じて実在性に格 差をつける必然性は見いだせない。換言すれぱ、調和振動のようなある「パター ン」を示す質点の運動は、質点そのものと同程度の実在性を主張することができ るはずである。
fig  もちろん、こうした議論には、何らかの自制が必要である。実際、極座標表示 を用いて角度方向にフーリエ変換することにより、座標原点を中心とする円だけ を「実在」させることも可能になってしまう。こうした虚構を排除するには、現 在では物理的直観に頼るしかないが、将来にはより厳密に、表現形式を確定する のに必要なパラメーターを変動させたときのバターンの安定性が要請されること になるだろう。
 一般に、多数の自由度をもつ系がある種の秩序の下に集団運動している場合に は、運動をいくつかのモードに分解して記述したとき、この「秩序」を簡明に表 すモードが存する。このようなモードは、他に比べてゆっくりと変動するため、 断熱近似を用いれば、これのみ残して他のモードを消去することができる。具体 的には、レーザーにおける発振モードや超伝導でのクーパー対の運動が、こうし た「秩序」モードに対応している〔14〕。これらは、空間的に局在していない相互 作用を含んでおり、無論、調和振動よりも遙かに複雑であるが、適当な表示を用 いれば調和振動の場合と同様に「実在性」を主張できると期待して良い。
 こうした意見に対しては、「秩序」モードが断熱近似によって抽象された概念 であリ、人為的な認識作用を介して構成されている以上、原理的に物理的実在で はあリ得ないとする反論が予想される。しかし、断熱近似によって「秩序」モー ドを浮き彫りにするのは、人間にとって理解しやすい表現を与えるための便法に 過ぎず、系の集団運動を記述するのに不必要なモードを消去するための近似が本 質的な訳ではない。事実、実用的ではないが、ちょうど質点系の運動を重心運動 と相対運動に分解すれば重心に関する厳密な(積分)方程式が得られるのと同じ ように、「秩序」モード以外の自由度について積分して近似のない理論を作り上 げることも可能なのである。
 以上の議論をまとめれば、物体とは存在様式の異なる時間的・空間的パターン に実在性を認めることに対して、心理的にはともかく、物理的には根本的な反論 は存在しないと言える。
 もちろん、このような議論は、現行の物理学的理論が採用している数学的記述 の正当性を信頼する見地からなされており、より深層の理論において基礎的な前 提が根本的に書き改められる場合は支持基盤を失うことになる。例えば、各点が 確定した座標値を持つという、現在ではきわめて当然とされる時空概念が破棄き れたときには、もともとはフーリエ変換で結ばれているはずの状態の座標表示と 連動量表示が等価でなくなり、運動量表示でのパターンが物理的実在に対応しな くなる可能性も多々ある。しかし、この点については、科学がそれなりに進展し なければ何らの言説も意味がないので、これ以上は触れない。

 既に述べたように、意識が内在する「精神」は、物理的に見ると協同現象を基 礎としていると想定される。従って、当然、ある表現形式を用いることによって 「秩序』モードを抽出できなければならない。このうち比較的小規模な「秩序』 としては個々の神経軸索の悉無的な興奮に関するモードが知られているが、意識 活動に必要な神経興奮のパターンは、空間的にも時間的にもこれとは比較になら ないほど複雑である。空間的には、アイソトープによる脳内部の血流量の測定か らわかるように、思考過程では脳の大半が協調的に活動していることが知られて おり、逆にてんかんのような思考を阻害する症状が見られるときは、この協調性 に乱れが観察される。また、時間的には、刺激が与えられてから知覚が生起する までに0.2秒程度の遅延が観測されており、この間に高度に組織化された皮質活 動が展開されていると推定される。たとえシナプスの状態をオン・オフの2値に 限り、時間的に離散化したステップだけを考えたとしても、この過程で可能な神 経活動のパターンの総数は超天文学的な値(兆ないし京の桁数)になリ、人間の 想像力の及ぶところではない。このような(控え目に言っても)きわめて複雑な パターンに内在している秩序モードを意識の実体と考えても、少数自由度の系に 対する記述能力しか持たない現代科学の世界観とは根本的な矛盾を生じることは ない〔15〕。
 このような見解に対してはいくつかの反論が予想される。その一つは、意識の 覚醒と大脳皮質内の神経活動は必ずしも直接的に対応しているのではないという 観察事実に基づく反論である。確かに、覚醒状態を部分的に表すとされる脳波の 変化がしばしば外見的な活動と不一致を示す一方、夢を見ているREM睡眠中に 過覚醒時(反省や注視を行っているとき)の低電位高周波の脳波と類似した波形 が観察されることは、認めなければならない。しかし、このような事例は、神経 興奮のパターンと覚醒状態の間に相関があることを否定するものではない。例え ば、睡眠中に見る「夢」は、抑制系の機能によって感覚入力が遮断され、感覚系 からのフィードバックが存在しない状況では、高度に意識的な活動としての資格 を備えている。また、高電位低周波のアルファ波が現れる安静覚醒時は、さまざ まな想念が脈絡なく押し寄せる思考活動時に比べて意識が全般に均質的になって おリ、その点では睡眠時と類比的な関係にある。従って、「意識」(ここでは表 象世界の求心性を指す)に安静や注視などの状態に応じたさまざまな水準を想定 すれば、神経活動と意識状態の間に矛盾と呼べるものは存在しない。
 神経活動のパターンをある表現形式に変換したときの秩序モードを「意識」と 同一視することは、物質と精神を対立的に捉える二元論的な世界観の超克に通じ る。旧来の二元論では、物質界の法則性を精神界に拡張することは困難であると して、両者の間に一線を画していた。しかし、上の見解に従えば、両者は同一の 自然法則の別の表現と見なされる。にもかかわらず、物質が意識を所有できない として精神と峻別されるのは、物質に関する記述が、対象化の方略の下に空間内 部に定位される個々の安定状態の存在を優先的に分節するという形式でなされる ため、協調的なパターンを表現するのに不適当であるためと考えられる。こうし た事情は、ちょうど、べルーソフ/ザポチンスキー反応において、個々の分子の 運動方程式に着目する記述が、パターン形成を理解するのに有効でないことに対 応している。もちろん、蛮力を振るえば最終的に秩序を備えた状態に到達するこ とは確かである。しかし、人間のように有限の能力の内部で近似的に世界を記述 している情報処理系では、物体的な性格を示す対象を優先する過程で、世界につ いての理解に本質的な欠落が生じることになる。それが、協調的な秩序モードの 存在であり、極言すれば「精神」の実在性である。
 「精神」が実在するという主張は、おそらく即座には理解されないだろう。な ぜなら、「知的活動を行っている人間が存在する」という物質的な記述との差が 必ずしも明瞭でないからである。これは、人間の思考様式が、パターンの存在を 物質に従属させて表象するように規定していることにもよる。しかし、通常の思 考で行われるように、まず物質の実在を前提とし、パターンをその存在様式とし て従属的に考えると、かくも生き生きとした意識体験の根拠が不明になる。この アポリアを克服するためには、何らかの形でパターンに物質と同等の実在性を認 め、客体化された情報処理系ではなく自意識を伴った精神としての人間を想定す ることが必要になる。この立場からは、ある表現空間内部における存在者が、す なわち、自分の意識を生き生きと覚知することと等価なのである。
 もちろん、このような主張を行うためには、現実の秩序モードの表現をある程 度まで規定し、基礎物理過程と矛盾しないことを明らかにしなければならない。 この作業は、たとえ現実に可能であったとしても、気の遠くなるようなステップ を要するだろう。とすれば、さしあたって物質と精神を別個の法則に従うと仮定 しても、実際上はかまわないかもしれない。しかし、この問題に関する科学的議 論のどこに欠陥があり、どの方向に打開策があるかを自覚することは、科学の本 質的な地位を明らかにする上で欠かせないだろう。

©Nobuo YOSHIDA