実在としての精神
精神としての実在

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「大地よ、これがおまえの願いでは  
ないか、目に見えぬものとして    
我々の心の内に甦ることが?」    
  R.M.リルケ 『ドゥイノ悲歌


概要


 精神の問題は、科学者にとって蹟きの石である。
 こんにちのように、科学が「有効な」記述であることを求められる時代にあっ ては、そもそも確定的な結論を期待できない精神論を口にすることは、科学者の 堕落であると見なす者が多い。たとえ顕著な業績を上げた大家でも、ひとたび精 神をテーマに論述すると、たちまち「研究に行き詰まって哲学に逃避した」とい う陰口が学界でささやかれ、特に若手の研究者からは白眼視されるようになる。 また、当の学者の業績を回顧する際にも、この種の著作は等閑視されているのが 現状である。
 しかし、精神の問題を科学の枠内で論じることは、本当に無意味なのだろうか。 筆者は、そうは思わない。科学が、こんにち学問的に思考する上で最も強力な方 法論を駆使しており、また、適用範囲がある程度確定している豊富な知見を利用 することが可能な体系である以上、何らかの学問的な結論に到達するためには、 科学的に検討を加えることは不可欠であると信じる。少なくとも、内省的直観を 重視する従来の思弁哲学的な方法論よりは、的確な議論が遂行できると期待して 艮い。
 本章は、このような立場から、精神の問題を科学的に解明しようとするもので ある。このドン=キホーテ的な試みは、当然のことながら、風車に跳ね飛ばされ て終わるだろう。しかし、ここでは次のことを強調しておきたい。すなわち、お よそ学問的な議論を行うに当たって、現代科学を排斥する聖域を作ってしまって は、問題の本質的な側面を見落とす結果に陥りやすいということ、従って、たと え最終的な結論が得られなくとも、科学の立場から問題点に光を照射する作業は、 学問にとって必ずやプラスに作用するということである。
 本章は、3つの部分から構成されている。第1節では、精神について科学的に 論究するためには、(自)意識の根拠を解明することが最重要課題であることを 指摘する。次いで、第2節で、意識を論じるに当たって明らかにしておかねばな らない具体的な諸問題を考察し、最後に、第3節で、意識の実在性に絡む物理的 な議論が進むべき方向を示唆する。
この論文は、論文集『空間・時間・精神 〜科学的認識論の最前線〜』に収録されたものである。内容的には、『実在の探求』第3章や『この世界についての仮説』へと発展していく準備段階に当たる。


©Nobuo YOSHIDA