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序論



 現代科学の根底に位置する認識論的問題を議論するにあたって、一つの比喩から始めよう。
 現在のデジタル・コンピュータの延長線上に意識を持った思考マシンが出現できるか否かについては議論の分かれるところだが、仮に、銀行の出納をコントロールする大型コンピュータに突然意識が目覚めたと想定しよう。この場合、彼は世界をいかなるものとして認知するだろうか。彼にとって、人間の五感に相当するのは、各端末から入力される出納額についてのデータである。こうしたデータに基づいて、彼は、世界がある種の拡がりを持ち、一定の(しかし必ずしも必然的でない)法則に従って運行していることを知るに到るだろう。例えば、預金高の減少と利率の引き上げの間に正の相関があることや、特定の端末から連続して多額の預金が引き出されると同様の現象が他にも波及していくことなどを見いだすかもしれない。しかし、彼がどのように聡明であろうとも、このような数値データの変動の背後にある人間の知的活動まで理解が及ぶことは不可能だろう。そのような理解は、制限された知覚に基づく彼の認識能力を本質的に超越しているのである。
 以上の話は、もちろん、プラトンの『国家』に語られた洞窟の比喩を現代風にアレンジしたものであり、その教訓はおよそ哲学に興味を抱く者には周知のはずである。しかい、プラトンの時代には人間によらない認識を想定することが困難だったのに対して、認知心理学の意外なまでの進展を目の当たりにしている現在の人々は、「人間的な」認識がいかに人間の生理的特質に規定されているかを思い知らされているだけに、この一見語り古されたかに見える寓話が持つきわめて現代的な意味を看過することはできないだろう。人間が把握している「世界」とは、決して物自体の本質を暴露できるほど客観的ではなく、あくまで、人間の認知能力に制限された範囲の知覚情報をもとに特定の方略によって再構成されているものであり、この点では、コンピュータの場合と何ら変わりはない。それゆえに、ちょうど意識を持った銀行のコンピュータには思いもよらないような人間社会が彼の手にし得るデータの背後に存在していたのと同様に、人間の認識を越えた拡がりをこの世界が隠し持っていると想像したとしても、あながち無節操な空想として斥けることはできないはずである。


 もちろん、ここで筆者は方向を見定める羅針盤のない不可知論の闇の中に足を踏み入れようというのではない。そうではなく、人間の認識能力には越えることのできない限界があることを受け入れた上で、逆に、現在人間が所有する(と信じている)知識の存立基盤である基本的カテゴリに目を向け直すことにより、人間は世界をどこまで知っており、また知り得るかを認識論的な根拠に基づいて探り出したいと思う。この問題意識は、次のように敷衍して説明した方がわかりやすいだろう。すなわち、日常生活において我々は実に多くのこと−−例えば、目の前の石の厳然たる存在や過去から未来へと移ろう時間の不断の流れ−−を直観的に確実なものと思いこんでいる。しかし、こうした確実性の認識は、元を辿れば生活世界で安全かつ効率的な生を営むための便宜的措定であることが多く、日常的用法に限定された知識ベースのネットワーク内部でしか意味を持ち得ない。我々が所有する知識の中で、何がどのような形式で確実性を主張できるかを明らかにするためには、生活世界にのみ通用する合意を洗い流したあとに残る基本的な認識の形式を、議論の俎上に載せる必要がある。このようにして初めて、人間の認識能力の限界点近傍を論じることが可能になるのである。
 人間の認識をその存立基盤から探ろうとする試みは、かつては観念論哲学の主張として語られてきた。しかしながら、筆者は、現在の学問の潮流を鑑みるならば、この問題はより科学的な視点から具体的な素材に基づいて論じられるべきだと主張したい。なぜなら、現代科学は、以前には哲学的認識論において直観をもとに議論されていた問題領域に、確固たる科学的方法論を用いて乗り込んできており、こうした事実を踏まえれば、人間の知的能力はどこまで拡張することが可能なのか、またその先にはどのような困難が存するかを論じるに当たって、科学の業績を無視することは不可能になってきているからである。以上のような観点から、本書では、科学的知見に基づいて人間の認識能力の限界点近傍を考察し、従来の素朴な世界像が現代科学においてどのような変貌を遂げているかを明らかにすることがテーマとなっている。簡単にいえば、科学的認識論の最前線の検討である。


 このような問題意識を表明すると、哲学者から観念論哲学に関する不見識を非難されることが予想されるので、この点について若干のコメントを述べておきたい。一般的な哲学異論としては、人間の感性的認識が仮想的存在としての物自体にまでその領域を拡張し得ないという主張は、近代哲学の出発点においてカントに理性批判の原点として喝破され、その後、主としてドイツ観念論の系列に属する多くの科学者によってほとんど議論し尽くされた命題である。従って、少々の科学的知見が蓄積されたからといって、いまさら蒸し返すに値しないとする見方も可能だろう。実際、感性的直観の対象としての「現象」が有する時間的・空間的な規定性から現象の根拠としての悟性によって想定される物自体を解放することによって、実践理性の自由を確保したカントの論法ひとつを取ってみても、一般論としては精緻を極めている。しかし、黎明期においてはもちろん現在に至るまで、観念論哲学に議論は、往々にしてその時点の科学的知見すら充分に活用していない抽象論に陥りがちであり、諸科学の具体的な応用に際して現れる認識論的諸問題に援用するには、方法論的に不充分なものが多い〔1〕。例えば、「時間」について古典論の範囲で考察しようとしても、理論的には一次元連続体と見なされる悟性概念として生得的に規定されているものなのか否か、あるいは、古典熱力学で利用された微小釣り合いの原理が流れの向きという構造を持った時間の直観と両立するのかといった問題を論じるのに、内省に基づいて悟性概念の形式を探求する従来の手法は余りに貧弱である。ましてや、昨今の人工知能理論や脳神経科学、理論物理学によって提出されたさまざまな哲学的何台は、もはやこれまでの観念論哲学の枠組みには納まりきらない新しいタイプの問題として、現代科学と密着した方法論によって処理しなければならないだろう。このような観点に立てば、人間の認識が認知過程にどのように規定されており、その結果として世界像がどのような影響を受けているか、また、そうした規定を越えて認識の地平を拡張することはどこまで可能かについて認識論的に考察することは、観念論を卒業したと見なされる現代においても充分有意義であると考えられる。
 一方、哲学的な議論から離れても、現代における問題解決の方法として近代合理主義の手垢にまみれた「科学」を持ち出すことに不快感を覚える人もあるだろう。近年、合理主義の行き詰まりを唱え、理性では割り切れないとしてこれまで看過されてきた領域に打開の鍵を見いだそうとする思潮がいくつかの流れを形成しており〔2〕、極端な場合には、超心理学への接近や東洋哲学への回帰といった動きが見受けられることも事実である〔3〕。しかし、筆者の立場としては、たとえ認識の彼岸を遠望するにしても、決して神秘主義、不可知主義の谷間に足を踏み入れることは肯んじない。合理主義の限界が奈辺にあるかを探り、それに対処する有効な方策はいかなるものかを究明するには、あくまでも再び合理主義をもってすべきだと主張するものである。譬えて言えば、現在の環境汚染が近代合理主義の申し子である技術振興の結果であるとしても、これを克服するに当たって東洋の英知などにすがることなく、環境アセスメントの組織化といった合理的な対策を打ち出すべきだという発想である。


 筆者がかくも科学を信頼するのは、歴史的に見て、科学的方法論こそ合理的な問題解決のために人類が獲得した最強の手法であるという自覚があるからである。もちろん、科学は必ずしも人類に幸福を与えてきた訳ではないし、科学によっては解決のできない多数の重要な課題があることも確かである。しかし、現実には、科学は壁に突き当たるどころか、かつて他のいかなる学問も為し得なかったような膨大な成果を上げ続けており、さらには、情報分析やシミュレーションなどの手法を持って心理学・言語学・歴史学などの他の学問分野にもその半とを拡張している。このように発展を遂げている科学に対し、少なくとも有効性という点で拮抗できる学問的方法論を提出することは、実際問題として困難だろう。もっとも、この事実を過大評価しても過小評価してもならない。科学はあくまで人間にとっての問題解決法であり、人間の認識能力の限界に応じてその適用範囲も必然的に限定されてくる。この点を踏まえた上でならば、科学は人間が利用できる最も強力な学問的手法だと主張することが許されるだろう。また、そうであればこそ、科学的研究を素材として認識論の最先端を議論することが有意義になるのである。
 ここで明確にしておきたいのは、筆者は科学の要諦はその方法論にあると見なしていることである。実際、科学は、ひとたび方法論的に整備されれば従前には科学の領域から排除されていた主題(火の玉や天災による生物種の滅亡など)をどん欲に己のものとする一方、骨相や血液型と気質の関係など一見科学で議論できそうなテーマも方法論に不備があればこれを無視してしまうのである。このように、科学とは、特定の方法論に則ってデータを処理し体系化する学問として定義される。従って、筆者の主張する科学的認識論とは、科学を既成の体系と見てこれを対象に議論を進めるのではなく、あくまで科学の内部で科学的方法論を援用しながら認識論的考察を遂行するものである。
 ただし、次の点は、注意しておかなければなるまい。すなわち、科学は与えられた課題に対する解決法を探求しながら発展していくため、その体系は基本的にプラグマティックであり、認識論的には密接に関連しているテーマが全く別個の言説の中に紛れ込んでいることが多々ある。従って、科学的認識論は、科学を素材とし科学的方法論に則って展開しなければならないにしても、その構成は既存の科学体系とは質的に異なったものとなるはずである。具体的には、物理学の論述の中に大脳生理学や認知科学の知見が引用されたり、また心理学的な問題が数学的な枠組みの中で記述されたりする手法が用いられることになろう。


 本書は、上に示したような観点から、科学の最先端における認識論を検討することを目的としている。ここで、基本的な問題意識が人間の認識能力の限界点近傍を探求するというものであるため、従来の科学評論に見られるような既知の科学理論における擬似哲学的な問題−−例えば、相対論が含意する4時限的な時空概念や量子論での粒子と波動の相補性など−−の解説は意図的に避け、観念論哲学の主要テーマでありながら科学の領域では必ずしも解決されていない問題に着目して、人間は何を知っており、またどこまで知り得るのかという視点を軸に考察を進めていきたい。

©Nobuo YOSHIDA