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C.スケール不変な理論への長さの次元の導入




 このセクションでは、局所的ないし非局所的なスケール不変性をもつ古典的な 場の理論において、特定の状態中に長さの次元をもつ量が導入される機構を考察 する。多くの場合、スケール不変性がある理論では安定な古典解ほ存在できない が、不変性が局所的なときには、初期条件によって定まるエネルギー・運動量密 度を通じて系に次元量を導入できることが、2次元の非線形シグマ模型によって 示される。ただし、一般相対論のようなスケール不変性を有する現実的な理論に おいて次元量を与える機構を決定することは目標としていない。また、このよう な物理的考察がもつ哲学的意味も簡単に議論する。

【1.−4.省略】

5.哲学的含意


 このセクションの結語として、次元定数を含まないスケール不変な理論に関す る議論が含む哲学的な意味を考察してみたい。
 多くの心理学的な知見が示すように、人間が空間的認知を行う際に利用する表 象空間は、経験を通じて獲得された操作的な計量を具備していると考えられる。 しかも、計量を与える操作そのものは、神経系のハードウェアの中に組み込まれ てしまっており、 「大きさ」の覚知に対して日常生活の範囲で意識的になること はない。この結果、現実の世界に一定の大ききをもつ物体が存在するという事実 は、直観的には自明のこととして哲学的な議論の対象となることは稀である。
 しかし、物理学の模型的な理論の中には、物体が一定の大ききを保って存在す ることが、当該理論がもつ対称性からして不合理であるように感じられる場合も 少なくない。特に、スケール変換に対して不変な理論では、 (拡がりをもった) いかなる構造も不安定になって、時間が経過するにつれて崩壊していくと考える のが自然である。それだけに、比較的近年になって、次元定数を含まない系で幾 何学的保存則に基づく安定な古典解が発見されたことは、物理学者にとってもや や意外な結果であった。上で見てきた2次元非線型シグマ模型も、適当に物 質場と結合きせれば、長さの基準のない世界に、―定の大きさをもった構造を生 み出し得る理論である。
 現在までのところ、こうした性質を示す理論は、現実とは無縁の「おもちゃ」 として取り扱われているに過ぎない。しかし、境界条件に不定性が現れない一般 相対論を建設するためには、スケール不変性に付随する保存則をもとに世界に次 元量を導入するという機構が利用される可能性も充分にある。ところで、もし、 そのような(もともと長さの基準をもたない)物理理論が、現実に安定な物体の 存在を容認しているこの世界を記述しているとするならば、世界の恒常性に関す る人間の直観きわめて危うい存立基盤の上にあると言わざるを得ない。なぜな ら、このような物理理論の下では、位置や計量など従前の認識論でほ基本的概念 と見なされてきたものが、実は、特定の境界条件を与えて初めて意味をもつ2次 的な概念に過ぎないことになるからである。よりラディカルな言い方をすれば、 空間の中にある大ききをもった物体が存在するという観念は、そう考えた方が人 間が生存する上で都合が良いために採用されているのであって、必ずしも物理的 な裏付けがあるわけではないと主張されよう。人間の認知能力にこうした限界を 認める立場は、知覚は1次処理の段階で生物学的な自己維持に好適なように制限 を受けているという近年の認知心理学の研究成果とも合致するものである。
 以上の議論は、現時点ではその正当性を云々できるものではない。しかし、も し正当だとすれば、人間の科学的認識において直観の限界がどのような形で現れ るか、また、そのことが科学上の理論の展開にどのような影響を与えるかという 科学哲学的な問題についての考察に援用できるものと期待される。



©Nobuo YOSHIDA