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第5の問題.瞬間に幅はあるか



 人間が知覚する時間には有限の識別閾があるため、幅のない「瞬間」を実体験と結びつけることはできない。このため、前科学的な段階において、時間間隔を短くしていった極限をどのように取り扱うかは、各文化圏固有の哲学的/神学的思考に委ねられている。仏教では、時間間隔を零に収斂することは不可能とされ、短い時間の極限を《刹那》と称している。このような幅をもった「瞬間」については、アウグスティヌスをはじめ、多くの思想家によっても語られており、人間の知覚に即したかなり普遍的な概念であると思われる。これに対して、近代における古典力学的世界観では、時間を数学的な連続体として表現しているため、任意の2つの時刻は完全に別個のものであり、また、その間隔は無限定的に近づけることが可能とされる。本節では、こうした「瞬間」の拡がりの有無について考察していく。ただし、現行の理論の基本前提に疑いを挿し挟むことになるため、これまで以上に不確定な要素の多い議論となる。

(i)ゼノンのパラドクス瞥見


 時間の幅についての論説を始めるに当たって、この問題に関する哲学的議論の嚆矢となったゼノンのパラドクスについて瞥見してみるのは妥当だろう。
 こんにち、ゼノンのパラドクスは、哲学者が面白がるほどには物理学者の関心を惹かない。むしろ、この古典的な謎は、新しい物理学的知見をもたらさないにもかかわらず、その解決が一筋縄ではいかないという点で、物理学者にとっていらだちの種となる。ここでは、このような事情を踏まえた上で、哲学的な議論には立ち入らず、物理学的な観点からどのような考察が必要になるかを示してみたい。
 まず、ゼノンのパラドクスが何であったかを復習しよう〔37〕。よく知られているように、いわゆるゼノンのパラドクスとは、アリストテレスの『自然学』第6巻に掲げられた次の4つの命題である:
  1. 二分割(移動する物体は、目的点に到達する以前にその半分の距離の点に達していなければならないので、運動できない)
  2. アキレウスと亀(最も速く進む物体も、最も遅く進む物体に追いつけない)
  3. 飛ぶ矢(移動する矢は停止している)
  4. 競走場(反対方向に等しい速さで運動する物体を考えると、半分の時間がその2倍の時間に等しい)
 この4つは、それぞれ、時間を連続的(i/ii)または離散的(iii/iv)と仮定した場合、絶対的(i/iii)または相対的(ii/iv)な運動が不可能であることを証明しようとするものである。
 この4つのパラドクスは、科学的な観点からは、もはや同等の価値を持っていない。例えば、相対運動を論じる場合は、異なる時刻における運動体の位置の比較が必要になるため、位置を時間の関数として措定せざるを得なくなる。従って、相対運動についてのパラドクスが成立するか否かは、採用する関数論に直接的に依存する。特に、時間と(1次元座標上の)位置をそれぞれ実数として、運動をR→Rの連続関数と仮定すれば、パラドクスは成り立たない。同様の議論が、二分割についても妥当する。このような状況を鑑みれば、これらのパラドクスについて今後の論点になるのは、パラドクスの成否そのものよりも、むしろ、(1)実数を用いた理論が果たして現実の有効な記述になっているか、(2)人間がこれほどまでに実数に執着するのはなぜか−−という間接的な議論だと予想される。
 4つのゼノンのパラドクスの中で、こんにちなお科学的な議論に値するのは、第3の飛ぶ矢のパラドクスのみである。これは、飛んでいる矢がある時刻において占めている位置は、静止している場合のそれと同一であることを論拠として、矢の運動そのものを否定する主張である。実際、飛んでいる矢を撮影したフィルムを考えると、運動しているという状況はコマごとの位置の変化によってのみ表され、1コマだけに注目していたのでは、運動しているか静止しているかを決定することはできない。映画のコマでは、まさに飛ぶ矢が静止しているのである。この結果は、直接的には、離散的な時間観念、すなわち、時間を原子論的な「瞬間」の積み重ねと見なし、系の運動は各瞬間ごとに決定されているとする自然観を否定するものである。しかし、飛ぶ矢のパラドクスがもともと離散的な時間における運動の負荷農政を論証しようとするものであったにもかかわらず、現代物理学のコンテクストでは、これを初期値問題を解くために位置の他に速度が境界条件として必要になるという事態と結びつけて考えることが可能である。この点について、議論をさらに進めてみよう。

(ii)古典論および量子論の初期値問題


 はじめに、古典力学に従う質点系で初期値問題を定式化しよう。
 力学系の理論に関する最も一般的な定式化である最小作用の原理に従えば、質点の運動は、位置と速度に依存するラグランジアンL(q、q')(ダッシュは時間微分を表す)で特徴づけられ、運動の軌道は、両端で位置座標を固定したときにこのラグランジアンの時間積分が極小になるように定まるとされる。ここで、ラグランジアンが時間についての高階微分を含まないという仮定は、位置と速度を同時に与えれば系の状態は完全に決定されるという経験的事実に依拠している。確かに、このラグランジアンから求められる古典的な運動方程式…は、時間についての2階微分方程式となり、ある時刻における位置と速度の組が必要十分な初期条件となる。さて、ここにゼノンの議論を適用することが可能となる。なぜなら、速度は、はじめに有限の時間幅Δtを与え、これを零にする極限操作を通じて、
 q'(t)=lim{q(t+Δt)-q(t)}/Δt
のように定義されており、運動状態は一つの時刻tだけでは決定されなくなるからである。換言すれば、運動を定義するためには、拡がりをもった瞬間が必要なのである。
 しかし、実際には、古典論の範囲では、このようなパラドクスは見かけのものに過ぎない。このことは、ラグランジアン形式を、ルジャンドル変換を使ってこれと等価なハミルトニアン形式に書き換えてみれば明らかだろう。ラグランジアンが位置とその時間微分である速度との関数だったのと異なり、ハミルトニアンH(q,p)は位置と運動量という2つの独立変数に依存し、それから導かれる運動方程式は、…1階微分方程式となる。従って、その後の運動を決定するのに必要十分な初期条件は、ある時刻における位置と運動量になり、時間微分はどこにも現れない。このとき、時間は物理的意味を持たず、位置と運動量を座標成分とする位相空間において、軌道上の点を特定するパラメータに格下げされる。一般に、ガリレオ不変性を持つ決定系では、時間は便宜的に導入されたパラメータ以外の何者でもなく、時間を物理的実在と見なすような哲学的議論は無意味である。

 古典論の範囲では、上の議論で一件落着であるが、非決定論的な側面を有する量子論に話を進めると、事情は違ってくる。この理論では、位置と運動量は互いに非可換な演算子となり、正準交換関係:
 [q,p]=ih
を満たすとされる。従って、演算子に関する一般論より、物理的な状態が同時に位置と運動量の固有状態になることはできず、古典論のように運動状態を決定する状態量をある時刻に完備させることが不可能になる。実際、飛んでいる矢がある瞬間にある位置を占めるとすると、不確定性原理から矢の運動量は完全に不定になり、運動しているか停止しているか判然としない。こうした状況は、(厳密性を犠牲にした議論では)次のように説明できる。すなわち、多くの場合に運動量が位置の時間微分に比例することより、正準交換関係は、
 lim[q(t),q(t+Δt)-q(t)]/Δt〜定数
となり、ある時刻の位置q(t+Δt)がその直前の位置q(t)から因果的な影響を受けるため、両者を独立に決定できなくなっているのである。素朴な言い方をすれば、演算子が時間的に拡がっているために、運動量を位置と独立な変数として取り扱えないことになる。ただし、非相対論的量子力学は、それ自体が高度に公理論的な体系であるために、演算子の定義のような基礎面での改変を受け入れる余地に乏しく、こうした解釈に基づいて理論を展開することは、不可能に近い。こんにち物理学者の間で支配的な見方は、量子力学は現象を記述するのに有効な数学的体系であり、その内容を物理的実在と対応させて論じるのは無意味であるとするものである。

 これに対して、相対論的な場の量子論では、より踏み込んだ解釈が可能になる。…(以下の専門的な議論省略)

(iii)模型的理論による考察


(省略)

(iv)パラドクスは解消されるか


(具体的な議論省略)
 こうした困難を克服して現実的な理論を樹立することが可能かどうか、現在のところ見通しすら立っていない。しかし、飛ぶ矢のパラドクスという「素朴な」疑問に発した議論が決して不毛なものではないという信念は、失うべきではないだろう。

©Nobuo YOSHIDA