前ページへ 次ページへ 概要へ 表紙へ



第1の問題.現在は実在するか



 素朴な直観に従えば、人間が体験する時間は現在に限られていると言って良いだろう。しかも、この現在は不断に更新され続けており、過ぎ去った現在は蒼ざめた既定の過去の中に封じ込められ、未だ来たらざる現在は未定の未来として霞んでいる。こうして、存在様式の全く異なる過去と未来のはざまに、生き生きとした現在があるというのが、すべての人にとっての日常体験に基づく実感であるはずだ〔7〕。
fig  しかしながら、こうした時間の認識を科学的に記述しようとすると、多くの困難に遭遇する。中でも最も本質的な困難と考えられるのは、パラメータとしての時間から「現在」という時刻を分離することが可能かという問題である。ただし、パラメータとしての時間tは、過去から未来にわたる全事象を順序づける座標を指し、また、これから「現在τが分離される」とは、既定と未定の界面が、あたかもドミノ倒しのコマのようにパラメータとしての時間の中を進んでいくことを意味する。アリストテレスはすでにこの問題に気がついていたようで、その著『自然学』の中で、「現在」が運動状態から独立に存在することを否定し、これが運動によって規定的に定義されるものと見なしている〔8〕。もしこの見解が正しいとするならば、各時刻の運動状態に応じて、すべての時刻がその運動状態を実現している「現在」として同等に定義されることになり、人間が実体験している生き生きとした《今》が失われてしまう。逆に、素朴な直観を信じて現在の実在性を認めるならば、運動状態から独立した−−従って、何らかの方法で物理的に測定することが可能な−−「現在」の定義を与えなければならないはずである。こうした問題について、現代物理学の知見からどのような議論が引き出されるか、以下で見ていくことにする。

 はじめに結論を述べると、現代物理学は、「現在」が他の時刻から峻別される特権的な時刻として実在するとは認めない。すなわち、すなわち、過去から未来に到るすべての時刻が、同等の資格を持って存在していると主張しているのである。この結論は、物理学的な記述の中に現れるパラメータとしての時間が、日常的に体験される直観的な時間と同一視できる場合には、「時間=ローレンツ計量を持ったハウスドルフ多様体上の座標」とする物理学的な定義から必然的に導き出されるものである。問題は、パラメータとしての時間以外に現在を与える時刻を含む物理的に妥当なモデルを構成することができるか否かという点にある。具体的に考えてみよう。
 過去から未来にかけての世界の全変化を一つの状態ベクトルで表現した場合、時間パラメータtの他に現在の時刻τを導入するのは困難である。なぜなら、現在とは移り行くものであり、τはそれに応じて異なる値をとらなければならない。しかるに、状態を可変量τの関数として取り扱う限り、現在の時刻τはパラメータtと本質的に区別されないからである。この困難を回避するには、τを状態を決定するのに必要な状態量として固定し、世界をさまざまなτを持つ状態の重畳と見なせばよい。式で表せば、Ψをある状態ベクトルとすると、適当な重み関数α(τ)で重ね合わせた ∫dτα(τ)Ψ(τ;t) が世界の状態となる。ただし、Ψ(τ;t) はτを現在とする状態で、t<τのときは過去の状態、t>τでは未来の状態を表し、τについての積分によってこの世界に「現在」の異なる状態が存在することが含意される。もちろん、これだけでは次の現在へと時間が経過するという経験事実を説明していないので、τが異なる状態間の結合を仮定しなければならない。しかし、形式的には、パラメーターとしての時間から独立に現在という時刻を定義することができたわけである。
 現在という時刻を物理理論の中に導入するもう一つの方法として、いささか力づくではあるが、時間の平行移動に対する不変性を放棄するというやり方がある。現行の理論は全て、時刻tにおける物理法則とt+Δtにおける法則は等しいと仮定している。これを否定するならば、運動状態ではなく法則の状態によって現在を規定することが可能になるかもしれない。

 上に述べたような「現在」の導入法は、しかし、こんにち知られている物理学の基本原理と矛盾する。
 まず、直観的にも明らかなように、時間パラメータとは別個に「現在」という時刻が存在するとしても、これを実験的に測定することは不可能である。なぜなら、人間が用いている時刻の測定法は、太陽の位置や振り子の振動回数などの周期的現象を媒介として、いくつかの事象の時間間隔を決定するものにすぎず、まさに生起しつつあるという「現在」の特徴を捉えることはできないからである。実際、時計を見て「今、午後1時である」と判定したとしても、それは単に太陽が南中するという物理的状態が実現されてから1時間が経過したことを意味するにすぎず、既定と未定の境界としての「現在」を測定したことにはならない。
fig  こうした事情を、より物理的に説明しよう。多様体上の座標とは別に「現在」という時刻を想定した場合、この時刻は空間的な(すなわちその上での任意の2点間の空間的間隔が時間的間隔より大きい)超平面を指定することになる。直観的には、この超平面以前の時空点は過去に属し、以後の点が未来に属している。ところが、このような「現在」を表す超平面の数学的表現τ(t;x)=τ0は、座標を(t,x)から(t',x')へローレンツ変換すると、同一の式で表されなくなる。実際、上図から明らかなように、
τ(t'(t,x),x'(t,x))≠τ(t,x)
このことから、超平面の物理的な実在性は相対論的不変性と両立し得ないと結論される。確かに、相対論それ自体はあくまで一つの学説にすぎず、将来において大きな変更を被るかもしれない。しかし、単純なローレンツ不変性に関しては、原子時計を使用した実験などによってきわめて高精度で検証されており、これを反駁するにはかなり巧妙な立論が必要とされよう。従って、既存の理論と同程度に有効性が示される対抗理論を提出できない限り、科学の土俵上での反論は無効であるという科学的方法論に則れば、「現在」は実在しないという現行の理論を否定することはできない。

 この点と関連して、量子力学における観測の問題について、簡単にコメントしておこう。
 量子力学を非決定論的な理論であると解釈すれば、観測によって生じるいわゆる《波束の収縮》は、まさに未定なものが既定の事実で置き換えられる過程のように見受けられる。この観点に立つと、観測が量子力学的な系に「現在」を導入すると解されなくもない。
 しかし、もちろんこの見解は物理的に誤りである。何となれば、《波束の収縮》とは、状態関数の中に観測装置を含めなかったために必要になった境界条件の書き直しであって、物理的関係とは無関係だからである。(以下の物理的な議論省略)
 なお、量子力学に現実には波束の収縮が起こらないという結論は、次のような事実によって補強される。すなわち、こんにちエレクトロニクスなどの分野で応用されている量子力学では、シュレディンガー方程式が常に妥当すると仮定されており、デバイスの設計などに際して観測過程が考慮されることはない。にもかかわらず、現実に観測を行うセンサーを含めた現代技術の応用分野で、理論と実験の間に説明不可能な齟齬をきたしたという報告はない。従って、シュレディンガー方程式は、それだけで(非相対論の近似で)現象を記述するのに充分であると主張できる。
 以上の議論を総括すれば、量子力学においても、既定と未定を区分する特別な時刻は存在しないことが主張できる。

 現代物理において「現在」は実在すると見なされず、単なる心理的虚構にすぎないという結論は、おそらく即座に首肯されるものではないだろう。我々は、まさに現在を生き抜いているのだという生き生きとした直観が、こうした冷徹な科学的議論を拒絶するのである。この直観と科学の違背を説明するために、「現在」に関する人間の認識がどのように成立しているかを考察してみる。
 よく知られているように、人間が識別できる時間間隔には下限がある。聴覚の場合、2つの音を別個のものとして聞き分けるのは2ミリ秒以下でも可能だが、音の先後関係を識別するのには十数ミリ秒から百数十ミリ秒を必要とする〔10〕 。ここで数値に大きな幅があるのは、音の連続を全体的パターンとして認知する場合とそれぞれの要素を認識する場合があるためで、前者の識別では、単に経験を通じて獲得されたパターンを与えられたデータと比較するだけのものと考えられる。従って、実際に時間的な差異を認識するには、高次認知機能を利用した百ミリ秒以上を要する処理過程が必要になり、それ以下の時間幅では、時間の流れが把握できない、あるいは混同されることになる。同様の閾値が、視覚・触覚などの他の感覚、あるいは異なる感覚間の混合知覚においても存在することが実験的に確かめられている。こうした事実は、物理的時間での過去・未来の区別は、時間間隔が微小なときには、心理的な時間区分と対応しなくなることを示唆している。
 さらに、心理的な時間が、高次の情報処理によって、物理的な時間とは順序を組み替えられているという証拠もある。例えば、被験者に途中にクリック音が挿入されている文を聞かせてクリック音の位置を答えさせた場合、回答に見られる誤りのパターンには原文の句構造が反映されており、句構造の境界に置かれなかったクリック音は、誤って主要構成素の切れ目に移動されて知覚される傾向があるという〔11〕。句構造の分節は連合野における高次脳過程に起因していると想定されるので、現象の連鎖に関する人間の認識は、見かけとは裏腹に、物理現象を直接的に把握している素朴な直観によるものではなく、複雑な情報処理を施された結果だということになる。
 以上の心理学的知見の意味するところは、人間が決して時間の流れそのものを直観しているのではないという事実であり、その論理的帰結としての、生き生きとした「現在」の認識も、高度に加工された情報として構成されているはずだという予測である。この点については、時間の把握に関する認知心理学的な観察を積み重ねる必要があるが、予測が根本的に覆されることはあるまい。

 このように見てくると、「現在」に関する直観と科学の見解の相違は、前者が独自の方略をもって知覚情報を処理した結果と考えることができる。もちろん、心理学的虚構であるにせよ、「現在」の直観が人間の生に及ぼす影響は大きく、その哲学的意味づけにはなお多くの考察が必要であろう。しかし、議論の領域を科学的認識論、すなわち、科学において時間概念はどのように位置づけられているかという問題に限定するならば、「現在」は実在しないという科学からの結論は決定的である。

©Nobuo YOSHIDA