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結語 人間の尊厳と自由




 この論文では,現代科学の成果に基づいて,物理的な<決定論>と人間の<自 由>にっいての解明を試みてきたが,援用した諸科学の広範さに比べて,論理 構造の単純さをいぶかった読者も多いのではないかと思われる。序論にも示し た通り,本文全体を通しての立論の構図は,前半で<過去>から<未来>にわ たる全事象が「事実として」決定していることを述べ,これを受けて,後半で は自発的な選択能力のないはずの人間がなぜに自分を自由だと信じるかを探究 するというものである。このため,「現代科学は,人間の外面的な行動や生理 機能について記述できても,方法論的な限界のために精神の内面にまでは踏み 込めず,意識や自由のような問題について何ら語る資格がないのではないか」 というような根本的な問いかけは,はじめから等閑視されていた。このような 論法自体に,微妙な心遣いが必要な精神の領域に土足で上がり込む科学至上主 義の傲慢さを感じ取る者もあるかもしれない。
 しかし,筆者の考えでは,この論文の主張は,決して人間の尊厳を踏みにじっ てまで冷徹な「科学的真理」を押し付けるものではない。確かに,論旨の展開 に当たっては,主として科学的な知見に合致するような仮説の構築に心を砕き, それが人生の価値とどのようにかかわるかについては(ウェーバーの規範を 守って)意図的に言明を避けてきた。しかし,もし結論として人間の尊厳が全 く否定し去られることになったならば,いかに科学的方法論の有効性を評価す る筆者といえども論証に何らかの致命的欠陥があると考えざるを得ず,論文の 執筆をためらっただろう。正直に言えば,<決定論>が人間の価値にとってそ れほど破壊的でないと信じるに足る理由があったからこそ,論文を刊行する気 になったのである。
 それでは,<過去>から<未来>に到るまで全ての事象が「事実として」決 定している世界において,いかにして人間の尊厳が保証されるのだろうか。順 序立てて説明していきたい。
 はじめに,人文主義者が主張する(と思われる)<自由>の意味について改 めて考えてみよう。いささか類型化して言えば,人間の<自由>とは,倫理的 な価値の異なるいくつかの行動バターンが可能なとき,個人が外部からの規制 を受けずに最終的な決断を下し得ることを意味する。ここで,判断の対象とな る選択肢が(明示的か否かを別にして)複数であるという条件は本質的である。 実際,もし倫理的に可能な行動が常にただ一つしか許されていないならば,人 間に<自由>が備わっているとは言えないだろう。この点を考えれば,現代科 学が支持する《事実的決定論》は,実現され得る行動が唯一の事実以外の何物 でもないという点で,人文主義者が主張するような<自由>とはそもそも相入 れないものである。こうした事情は,たとえこの<決定論>が「因果性」の極 にない場合でも変わらない。この結論は,《事実的決定論》が倫理的決断能力 を持つべき人間の価値を根本から否定するものと見えるだろう。
 しかし,上に述べた意味での<自由>が,果して人間に尊厳が認められるた めの必要条件なのだろうか。極端なことを言えば,次の行動バターンが複数の 選択肢の中から常にランダムに選ばれるとしても,因果的な物理法則の橿格を 逃れられているという意味で<自由>が享受されていると見なされるが,これ は人間にとって決して名誉なことではない。おそらく,倫理学的な観点から<自 由>が要請されるのは,これが絶対的な価値を有するからではなく,容赦なく 進行する物理法則の「非情さ」を緩和する上で役に立っためではないかと思わ れる。ところが,この目的を達成するには,正体の知れない決断能力としての <自由>よりも,むしろ(次に述べるような)簡約化不能なシステムの方が有 効に機能することが知られている。したがって,こうしたシステムに目を向け ることによって,<自由>に拘泥せずに人間の尊厳を語る可能性が開けるはず である。
 人々が物理法則を「非情」だと感じるのは,これが(ポオの短編に現れる振 子仕掛のように)抗しがたい力で特定の結果を招き寄せるからである。逆に言 えば,最終的に何が起きるか予想できなければ,そこへ人間を否応なしに引き ずり込む「運命の力」を実感することもないだろう。ところが,ある物理的な 現象がどのような結末をもたらすかは,たとえ因果的な決定論が妥当する世界 であっても,常に原理的な予言が可能な訳ではない。例えば,きわめて多数の・ 自由度を含んでいて時間発展が初期条件に敏感に依存するシステムでは,系の 長時間での振舞いを調べるのに(太陽系力学で惑星の大きさを無視して質点と して取り扱うような)モデル化した計算では誤差が積算されて有効性を失うた め,その系を完全に再現した上でシミュレートしなければ確固たる結論は出せ ない。ところが,この作業は当のシステムをもう1つ構築するのに等しく,実 際にシステムそのものを動かしてみなければ何が起きるか原理的にわからない ことを示唆する。このような系は,モデルによる計算ができないという意味で 簡約化不能と言われ,局所的な“素”過程を支配する<決定論>と全体的な振 舞いが非決定論的に見えるという<見かけの自由>を両立させるものである。 簡約化不能と思われる系は現実の世界においてさまざまな分野で見いだされる が,中でも膨大な情報処理を実行する巨大装置としての大脳神経系は,「振子 仕掛のような」単純な物理法則から最も縁遠いところに位置すると言えるだろ う。大脳にこうした性質があるからこそ,遥か未来に到るまで完全に運命が定 まっているとしても,人間は木石のように物理法則にがんじがらめに束縛され ていない存在としての地位を享受できるのである。
 ここで,<意識>の重要性を強調しておくことは有益だろう。<意識>を支 えるのは大脳の前頭葉から頭頂葉にかけての比較的限られた部位にすぎず,そ の他の脳組織は,それぞれ固有の機能をもって情報を分散処理しており,思考 が円滑に遂行されるように時宜に応じて処理結果を意識野に送り込んでいる。 このため,意識野の活動だけに注目すれば,あたかも統計力学の法則に反して 情報が自律的に拡大/発展しているように見えることになる。情報のこうした “自己増殖”は,意識的思考に物理法則と際だって対照的な自律性を付与する ことになり,内面的には自分が自由であるという直感を招来する一方,決定論 に従属しない人間の本質が意識の中にあるとする一般的な信念が生まれる根拠 となる。

 ただし,このような議論をいくら積み重ねても,厳格な人文主義者は,精神 活動を決定論に従う神経興奮のバターンに還元する限り人間の尊厳は回復され ないと考えるだろう。たとえ,その振舞いがいかに複雑精妙で予想しがたいと しても,所詮は脳内部で生起する物理的過程であり,しかも将来において何が 起きるかはそもそも《事実的決定論》によって定まっているからである!
 こうした見解を抱く人に対しては,わたしは,次のような「宇宙マンダラ」 を思い描くように勧めたい。ここで言う「宇宙マンダラ」とは,ビッグバンを 中心に,ここから放射する方向に時間座標を,これを囲む同心円の円周に沿っ て空間座標を取って,その内部に宇宙に生起する全ての事象を素過程が織り成 す模様として書き込んだ図像である。このマンダラの(数学的特異点がある) 中心付近と(エントロピー最大の状態を表す)周辺部はいずれも単純な図柄に なっているが,中間域にはさまざまの美しい模様が現れるはずである。こうし た模様の中には,単調な繰り返しのバターンを示し,一部分を見れば他の領域 まで想像がつくようなものもあろう。しかし,その一方で,きわめて複雑精妙 に描かれた一群の模様も見いだされる。そこには,確かに法則性が存在するの だが,それが決して単調に陥らず,まるでブルックナ−の変奏曲のように,提 示された主題のさまざまな変奏が,時には厳格な様式感を帯び,時には思いが けない即興の遊びを見せながら,豊かに力強く奏でられている。決して同じバ ターンを繰り返さず,常に微妙に移ろいっっ,なお完全な統一感が失われな い――そんな模様が,宇宙マンダラの片隅にひっそりと描かれているかもし れない。
 このような宇宙マンダラの模様の数々を,あなたは美しくも荘厳であると感 じるだろうか。もしそれが可能ならば,同じ視点から身の回りの人間を,いや, 自分自身を見つめてほしい。人間とは,宇宙の中に描かれた最も美しい模様な のだ。それ以上のものでも,それ以下のものでもない。

©Nobuo YOSHIDA