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 §2 現代科学の限界と《超科学》

 ニュートンの時代には、人間の知識など見渡す限り果てしない大海原のひと雫にすぎないと言われたものである。それでは、当時とは較べものにならないほど科学が進歩した現在、われわれはどの程度の知識を獲得したと誇れるのだろう。増えたとは言っても、せいぜいバスタブ一杯ではなかろうか。科学は確かに人類が手にした最強の学問的方法論ではあるが、それでもなお、この世界は人間にとって本質的に未知な要素に溢れている。それも世界の根幹にかかわる難問だけではない。なぜ胃腸薬が腹痛に効果があるのかといった日常的なことですら、科学はいまだに解明できないでいる。こうした状況に行き詰まりを感じて、科学の限界を越える新しい学問を待望する人々は、以前から跡を絶たない。TVを中心としたUFOや超能力などの《超科学》ブームも、根はこの辺りにあるのだろう。
 それでは、《超科学》は科学の限界を乗り越えるための救世主となり得るのか。序論でも述べたように、科学の進歩を妨げる要因としては、〈歴史的障壁〉と〈方法論的障壁〉の2つが指摘できる。ところが、《超科学》が対象とする領域は、決して科学とは無縁でないばかりか、むしろ一般的な法則を介して科学的研究の射程に入っていると見なすべきなので、この方面の研究が〈歴史的障壁〉を克服するための足がかりになるとは考えにくい。もし《超科学》が何らかの貢献を示すとすれば、それは〈方法論的障壁〉に関するものとなるはずである。科学はきわめて規範的な方法論に則って組み立てられた学問体系であるため、この方法論で把握しきれないタイプの現象に対しては、充分な威力を発揮できない。特に、人体や社会のようにモデル化が困難な複雑系に関しては、全体的な振る舞いを記述することは科学の任ではない。このような場合、《超科学》の手法に従って、〈モデル〉に依拠せず、(単純な因果枠に納まらないような)複雑な諸現象を統括的に説明する理論概念を持ち込んだ方が、事態の解明に有益なケースがあるかもしれない。
 もちろん、《超科学》的な言説の大半は、そもそも耳を傾ける価値がない。既に論じたように、超能力やUFOを論じる手法には致命的とも言える欠陥があり、そのために学問的な〈有効性〉が損なわれている。ただし、気功術のように、確かに免疫系を賦活し健康を増進する現実的な効果を示すものもあり、全ての《超科学》が一様に無価値だとは言い切れない。《超科学》の台頭を待望する人の中には、これを西洋的科学と対置させられる東洋的叡知として一般化する傾向も見られるが、事態はそれほど単純ではない。この方法論に従う諸説は文字どおり玉石混淆なので、個々の学問的手法を検討した上で学説を取捨選択していくという厄介で地味な作業が、さらに必要となってくるのである。しかも、そうして選ばれた《超科学》が新たな学問として活躍の場を見いだせるかというと、これもおぼつかない。そもそも、選別作業を経なければ信憑性が保証されないこと自体、リーダーシップを握る実力のない《超科学》の学問的立場を物語っている。私が《超科学》に期待するのは、正統的な学説との背反をものともしない居丈高な主張ではなく、むしろ科学との調和を志向しながら、水先案内人としての役割を果たすことである。
 この(いささか保守的な)期待に答えてくれそうな《超科学》として、繰り返し名を挙げている「気功」以外に、何か推薦できるだろうか。はっきり言って、これと指名できるものはない。しかし、秘かに興味を持っているのは、個人の意識に関する理論である。意識について語ろうとするとき、どうしても語彙の不足を感じるのは、私だけではないだろう。全ての人に共通すると想像されるにもかかわらず、意識を議論するための概念的基盤が整備されていないのは、驚くべきことかもしれない。この領域に、概念画定の曖昧さを伴わない《超科学》的な言説が組み立てられると、ちょうど〈気〉の解明を目標とする生理学的な研究が始められたように、意識を対象とした科学的理論を生み出す呼び水となるのではないだろうか。


©Nobuo YOSHIDA