超科学と対峙する

表紙を表示する 総目次へ 本文へ



概要

 この論文では、いわゆる《超科学》が、現代科学の限界を超克し、学問として新たな地平を拓く可能性あるかどうかを考察する。結論としては、大半の《超科学》的な論説が、方法論的に見て欠陥があるとの理由から、学問的主張としての有効性を持たないとされるが、だからと言って全ての《超科学》を否定しさる訳ではなく、いくつかの積極的な価値を認めることになる。
 科学哲学的な観点から見て《超科学》が興味あるのは、そこに、現代科学の(歴史的ないし方法論的な)障壁を考察するための手がかりが見いだされるからである。思弁的な考察に限れば、既に多くの哲学者が、「科学の限界は奈辺にあるか」あるいは「限界を乗り越えるにはどうすれば良いか」に関してさまざまな観点から労作を発表している*1。しかし、研究の実務に就いている科学者にとって、こうした論考が仕事を進める上で何らかの参考になるとは考えにくい。実際、いくら思弁的に科学の限界を打破するためのプログラムを考案しても、それに基づいて現行の科学を上回る成果を上げることは、現実問題として不可能である。そこで、この論文では、「現代科学の限界」について、より具体的な方向からのアプローチを試みる。すなわち、現代科学とは本質的に異なった方法論を採用している《超科学》を議論の爼上に載せることによって、《科学》と《超科学》の間にある「垣根」が持つ科学哲学的な意味に改めて注目し、これと「現代科学の限界」との関連について考察しようとするものである。

 《超科学》とは何か
 本論文を通じて筆者が《超科学》として取り上げるのは、超能力/UFO/臨死体験/気功など、該当する現象を実際に観察したという信頼のできる報告がなされながら、これを既存の科学の枠内で合理的に解釈することを放棄し、議論の出発点として科学とは異質の説明原理を導入する体系的な論説である。これに対して、「ネス湖の恐竜」や「魔のバミューダ海域」などのように(筆者の知る限りでは)そもそも信憑性が認められない噂話、あるいは「夜毎に髪が伸びる人形」といった単発的な怪奇譚については、考察の対象には含めない。
 こうした選別を行う理由は、次の通りである。第一に、信頼できる報告がなされた事象に議論を限定することによって、この種の議論につきまといがちな“いかがわしさ”を回避し、説得力のある論証を行うための基盤が確保できると期待される。この選別基準は、「ネッシー」や「雪男」のような“いかがわしい”話と同列に置かれることに嫌悪感を示し、自分達の見解は確固とした論拠に基づいていると主張する《超科学》の研究者からも、同意を得られるだろう。第二に、一回限りの出来事についての叙述を重んぜず、体系的な論説を主眼とすることによって、同一の概念装置を多数の現象に適用できるという意味での〈一般性〉が(ある程度まで)保証されるはずである。世間には、いくつかの不可思議な事象を並べたてた上で、「たたり」だの「霊界」だの常識では理解できないジャルゴンを使って説明しようとする人もいるが、こうした言説まで射程に収めようとすると、どうしても個別的な事例の特殊性を考慮せざるを得ず、《超科学》に関する議論の一般性が失われてしまう。もちろん、個々の超常現象の中には学問的な観点から見て興味深いものも含まれているが、この論文で取り扱う範囲からは逸脱する。
 ここで注意しておきたいのは、“非”科学的言説の代表と見なされている〈占星術〉の体系が、そのままの形では《超科学》の範疇に入らない点である。西欧的な〈占星術〉は、天体が人間に及ぼす一般的な影響に関する理論部門と、その結果として決定される個人の運勢をホロスコープを使って予言する応用部門とに分かれている。このうち、後者については、個別的な事象にかかわる特殊性を払拭できない−−例えば、木星の影響の下に「12年周期の成功」が予言されたとしても、「成功」が具体的に何を意味するかは、個人の生活史に実質的に左右されてしまう−−ため、上述のクライテリオンに従うと、《超科学》の一部門とは認められない。ところが、〈占星術〉の体系とは、その大部分が(近代天文学の知識を用いないで)ホロスコープを描くための手順の解説に費やされており、これを除外すると、残りはほとんど体系化がなされていない単なる命題の集積になってしまう。実際、火星が「戦いの星」だという知識は、他の要因から演繹されたり新たな天文現象を予測したりすることなく、直接的に個人の運勢に結び付けられるだけの「単なる命題」にすぎない。もし〈占星術〉を《超科学》として再編したければ、「星の赤さが人間の闘争本能に及ぼす影響」のように一般化された知識の体系を指向すべきだろう。同様の議論は、諸他の占いに対しても妥当する。
 なお、《超科学》という語感から多くの人はいわゆる「超常現象」を連想するかもしれないが、そう限定する必然性はない。たとえ人間の意識のような日常的な現象でも、これを(科学では解明できない)〈魂〉と〈肉体〉の結合の上に成立していると考えて体系化すれば、立派な《超科学》である。しかし、この論文では、《超科学》の方法論的な性格を明確にするために、便宜上の処置として、超能力や臨死体験のように世間的に広く知られた超常現象を中心にして議論を進めていく。

 《超科学》と《科学》の相違
 筆者が概念画定する《超科学》の本質的な要素は、既存の科学との間に一定のスタンスを保つ点にある。言い換えれば、僅かな変更によって科学的な知見と融合させられるような体系は、《超科学》の範疇に含まれない。
 例えば、地球全体を一個の生物として取り扱う〈ガイア仮説〉なる主張があり、これなどは、従来の科学から懸け離れた奇想として《超科学》と呼ぶにふさわしいと思われるかもしれない。しかし、この主張は、実は奇想でも何でもない。近年の地球科学の成果が示しているように、生物活動に深くかかわっている物質の循環を明らかにするためには、単に生態系にとどまらず、全地球規模でのシステム論的な考察が必要になる。実際、二酸化炭素ひとつとっても、サブダクションによる地殻への取り込みから火山活動による放出まで考慮しなければ、大気中の構成比が説明できないのである。こうした全地球的な物質循環のシステムは、微少な擾乱に対して原状を回復するホメオスタシスの機能すら示すことが知られており、これを生物個体になぞらえても何ら違和感はない。したがって、地球というシステムに対する統一的な視座を提供する〈ガイア仮説〉は、現行の科学の延長線上に位置する《新科学(ニューサイエンス)》ではあっても、《超科学》ではないと言うべきだろう。
 これと対照的に、世界各地で観察されているUFOを「エイリアンの宇宙船」と同定する主張は、地球外生物に関する知識が決定的に不足している現行の科学の間隙を突くものであり、これと背反しないニッチを獲得できそうに見えながら、実は、方法論的に科学とは全く異なった・紛れもない《超科学》なのである。このことは、UFOに特徴的とされる(フラフラした、あるいはジグザグの)奇妙な運動に対する解釈に顕著に現れる。航空力学の知識を援用すると、これこそUFOが飛行物体でないことを示す決定的な証拠であるにもかかわらず、「UFO=宇宙船」説を採用している人々は、「人類には理解できない未知の技術を用いている」として自説を曲げようとしないのである。このように「宇宙人の技術」をあらゆる奇妙さに対する免罪符とする態度は、科学の方法論と決定的に違背するものである。

 科学に立ちはだかる2つの「障壁」
 《超科学》が《科学》と異質な学問的体系であるならば、後者の発展を阻む何らかの障壁が存在したとしても、前者の助けを借りることによって乗り越える道が見いだされるのではないか−−そう考える人が現れても不思議ではない。この可能性を考察する準備作業として、現代科学にとっての「障壁」を、便宜的に2つの類型に分けて考えてみる。
 現代科学の発展を阻む壁として第一に考慮しなければならないのは、〈歴史的障壁〉だろう。科学のどのようなジャンルにおいても、全く自由な発想の下に理論が展開されることは稀であり、その時点までに確立されている知識ベースや学界の体制のような(広い意味での)歴史的なバックグラウンドが、科学の進行方向を決定する上で重要な役割を果たしている。とすれば、研究を推進させるバックグラウンドが欠如する場合は、そうした状況そのものが、敢えてその問題に取り組もうとするときの心理的な障壁になるばかりか、たとえ異端者が現れて何らかの学問的成果を収めたとしても、学界がそれを正当に評価せずに研究を萎縮させてしまう危険性がある。例えば、〈超能力〉が科学的に解明すべき現象だと考える者がいたとしても、現在の学界の状況では、研究テーマとして〈超能力〉を取り上げただけで、周囲の顰蹙を買って研究費の調達や地位の向上などの面で悪影響が出かねない。この結果、現役の科学者に見られる暗黙の了解として、実際に観察されている現象の中に研究対象として敢えて取り上げようとしない“アンタッチャブル”な領域が生じ、その周辺では科学が意味のある主張を行えなくなる。
 科学を制限する第二の壁となり得るのが、〈方法論的障壁〉である。現代科学においては、モデル化された理論をもとに(適当な境界条件を代入するなどして)科学的命題を生成し、これと実験/観察を通じて得られたデータを比較することによって、当該理論の有効性を検証するという方法論が用いられている。このため、科学的に取り扱われる対象ないし事象は、モデルに適合するように簡略化された形で把握されることになり、事態の細部に敏感に依存する性質に関しては意図的に無視される。例えば、「きょう、素敵な人と巡り会えるかどうか」といった個人的な運勢は、無数の出来事との関連の中で実現されるものなので、科学的に論じるのは困難だとされる。このような方法論が、自然に存する最も本質的な要素を看過させる結果になる可能性は無視できない。

 《超科学》は《科学》の限界を越えられるか
 一般的に言って、学問的な体系としての《超科学》は、「何を」「どのように」取り上げるかという〈領域〉と〈手法〉の両面において、《科学》との差異が認められる。科学哲学的に興味があるのは、この差がそれぞれ〈歴史的障壁〉と〈方法論的障壁〉を克服する契機となって、《科学》にはできなかったことを《超科学》が為し遂げる可能性はあるのか−−という点である。結論を先取りして言うと、既存の《超科学》の大半は、方法論的に見て明らかな欠陥があるために、科学の障壁を乗り越えるどころか、科学に対抗できる勢力を獲得することすらおぼつかない。この主張の根拠については、〈超能力〉を引き合いに出して『否定の章』で詳述する。しかし、《超科学》の中には確かに学問的に価値のある内容も含まれており、そこには、科学的知見を部分的に取り込むことによって、現代科学では得られていない新たな自然認識を生み出すための“きっかけ”が存在すると思われる。後半の『肯定の章』においては、中国古来の気功を取り上げて、この点を明らかにしたい。

1991年度 科学基礎論学会   



©Nobuo YOSHIDA