湿地も森林と同様に、長い間、経済的に無価値な“未利用地”として捉えられ、産業を発展させるために埋め立てられ消失の一途を辿ってきた。しかし、現在では、湿地には重要な環境機能があり、環境経済学的な評価を抜きにした干拓事業は、結果的に地域住民にとってマイナスになるケースがあるという認識が広まっている。
現在、湿地(wetland)は陸地面積の6%を占めると概算されているが、学問的に厳密な定義がある訳ではない。ここでは一般的な用法に従って、「浅水域および浸水土壌を持つ地域周辺」を指す総称と考えることにしよう。こうした地域としては、次のようなものがある(正確な分類ではない)。
このように、一口に「湿地」と言ってもさまざまな形態があり、塩分濃度もさまざまで生物種も一様でなく、単一の概念で包括することは困難だと考える学者もいる。しかし、一般に湿地と呼び慣わされている地域には、次のような共通の特徴がある。すなわち、水位が(内陸部の低湿地ならシーズン毎に、沿岸部の干潟なら潮汐に応じて)頻繁に変動し、それに伴って、浅水域のエリアが拡大/縮小を繰り返すという点である。例えば、アマゾン川流域の熱帯氾濫原では、年間を通して水位が7〜8mも上下し、雨期には見渡す限り水で覆われてしまうが、乾期になると草原が姿を現す。また、米国北東部の塩湿地では毎日3m以上、中西部のポットホールでは、雪解け水の量に応じて数年間にわたり1.2〜1.5m程度水位が変動する。
この「絶えず変化する」という特性が、湿原の生態系を独自のものにしている。環境が安定している場合は、その環境に最も適した生物種が支配的になり、しばしば種数が減少して生物の活動全体が停滞する。ところが、湿地のように水の状態が常に変動していると、水生/陸生いずれかの生物が圧倒的に強くなるということはない。湿地のダイナミックな変化に対応するため、生息する生物種は水生・陸生のものが水深や浸透の相違に応じて入り交じり、きわめて多様である。スゲ・ヨシなどが雨の多い年にだけ成長することに示されるように、植物のサイクルは水位によって切り替えられ、それと共に動物の種類も変化する。こうして、湿地ではさまざまな生物が共存し、状況に応じてある生物種が活発になったり沈滞したりする。この生態系の変動が、生物の多様性を確保する重要な鍵なのである。
湿地は、「破壊と再生」を繰り返す地域だとも言える。何年かに一度襲ってくる洪水やハリケーンは、堆積した沈殿物を洗い流し、周囲の土壌に有機物を与えて生態系を刷新する。干ばつは、水生植物を枯死させ有機土壌を酸化させるが、その一方で陸生生物が利用可能な新たな養分を作り上げる。大火災ですら、過剰な堆積物を土壌生物が吸収可能な養分に変化させてくれる。
多くの湿地は長期の間に位置や水量を変え、降水量の変化や分水嶺の移動によって生成・消滅する。水位を安定させようとする人間の試みは概ね失敗に終わっており、外見上の変化を憂える人間が、余計な手を加えて湿地を守ろうとすると、かえって微妙なバランスの上に成り立っている水循環系と生態系を破壊しかねない。実際、干上がりそうな湿地を救済する目的で小規模ダムを建設したところ、水流が阻害されて水が著しく汚染されたケースもある。人間は、いまだ湿地というシステムを完全に理解するには至っていないことを自覚すべきである。
湿地の保全を求める声が強まってきた背景には、これまで人間にとって何の役割も果たしていないと考えられた湿地が、実は、多くの環境機能を担っていることが明らかになってきたことがある。湿地の環境機能を列挙していこう。
近年、特に注目を集めているのが、干潟による水質浄化の機能である。都環境科学研究所の発表によると、盤洲干潟(千葉県)は、少なくとも年間1800tの科学的酸素要求量(COD:水中の汚濁有機物量の尺度)を除去しているが、これは、1日6万トンの汚水処理場に匹敵する。干潟がこれほどの水質浄化力を持つのは、太陽光線が届く浅い水域で植物プランクトンや海藻が光合成を行うことによって豊富に酸素が供給され、これを利用する好気性バクテリアや底生生物(ゴカイ、貝類など)が活発に有機物を分解するためである。特に2枚貝の浄化能力は大きく、環境庁が2000年に発表したデータによると、シオフキガイの軟体部分1グラム(乾燥重量)当たりの海水濾過能力は毎時3.0リットルになる(アサリやバカガイも同程度の能力を持つと推定される)。また、曝気法を利用する通常の処理場では処理できない窒素やリンも、細菌や海藻の働きで除去してくれる。
干潟はしばしば水鳥の飛来地となっており、希少種となった鳥の保護という観点から保全を求める意見も多い。確かに水鳥も貴重ではあるが、干拓事業の推進者から「鳥と人間とどちらが大切か」と言われると、この論拠では説得力に欠ける憾みがある。こんにち、干潟の保全が叫ばれているのは、むしろ、この地域が「地球の腎臓」と呼ばれるほど高度の浄化機能を備えているからであり、多数の水鳥が飛来するのは、浄化の担い手であるゴカイや貝が多数生息していることの証と見なされる。水鳥を保護するのではなく、「水鳥が訪れるような豊かな干潟を保全する」という考え方が必要になる。
環境経済学的な観点から、湿地が果たしている役割を分析して、その経済効果を評価する試みも行われている。現時点では、まだ充分な成果を上げているとは言い難いが、具体的には、次のような点を経済学的に評価していくことになる。
経済学的な評価についてより具体的に考えるために、ここでは、日本における長崎県諫早湾の干拓事業をケーススタディとして取り上げよう。
費用 | 効果 |
工事費2500億円
(浄化機能の喪失2600億円?) (漁業資源の喪失?) |
防災効果など1560〜2600億円 |
近代以降、湿地は、そのままでは産業活動に不適な土地として、干拓事業の対象とされてきた。例えば、ヨーロッパ人が移住する以前のカリフォルニアには、15000〜20000km2の湿地が広がっていたが、大半は19〜20世紀の間に干拓され、現在では、そのうちの5〜10%しか残っていない。南フロリダに位置するエバーグレイズ国立公園の大湿地帯は昔ながらの景観をとどめているように見えるが、20世紀初頭に始まる干拓によって周辺が農地化され、移住した住民が水を消費して湿地に流入する水量が激減した結果、急速に干上がりつつある。日本でも、琵琶湖に次ぐ湖(水深が浅く“潟”に分類される)だった八郎潟は、1957年に始まる干拓工事の結果、大部分が農地に変貌した。現在でも、開発途上国を中心に湿地の干拓が続けられている。15万km2に及ぶアマゾン浸水林は、特殊な適応を果たした植物群と、多様な水生および樹上動物を擁する地球上で最も豊かな生物圏だが、牛とバッファローの牧場経営者・ジュート麻の栽培者・森林伐採者の手によって急速に開発が進んでおり、このままでは、後10年程度で完全に消失すると言われている。
このように、長らく「無用な土地」と見なされてきた湿地に対する考えが変わるのは、1970年代に入って、その環境機能の重要性が認識されるようになってからである。ターニング・ポイントとなったのが、1971年にイランのラムサールでいわゆる「ラムサール条約」が採択されたことである。条約の正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といい、現在までに80ヶ国以上が締結している。当初は水鳥の保護を訴えるものだったが、次第に「湿地の保護と賢明な利用」を主眼とするようになる。法的拘束力はないものの、貴重な湿地を登録してその重要性をアピールする活動が行われており、日本の登録湿地は、釧路湿原(北海道)・伊豆沼(宮城県)・谷津干潟(千葉県)・琵琶湖(滋賀県)など10ヶ所に上る。こんにちでは、世界的に湿地の保護を求める運動が活発になっており、先進国を中心に、干拓事業を見直す動きが各地で見られる。
日本においても、近年まで湿地は開発される一方だったが、最近になって、湿地保護の動きが目立つようになってくる。2001年には、国土交通省が、釧路湿原など乾燥しつつある湿地について、再生事業を進める方針を発表した。しかし、以前から国土拡張のための公共事業として推進されている干潟の干拓に関しては、必ずしも抜本的な見直しが行われているわけではない。下に、いくつかのケースを紹介する。
2000年1月に、有明海で養殖ノリが黒くならない「色落ち」被害が発生、有明海4県のノリ販売額が前年同月に比べて150億円以上も減るという“大凶作”となった。直接の原因は、リゾソレニアという植物プランクトンが「海水が濁って見える」ほど大量に発生したため。このプランクトンが海水中の栄養塩を横取りしてしまうので、ノリが“栄養失調”に陥ってしまったという。プランクトンの異常発生は、黒潮の蛇行などによる有明海全体の海水温上昇に、1999年秋の長雨が重なったためだとされるが、それ以前から、有明海全体の富栄養化に伴う生態系の変化が報告されていた。こうした富栄養化は、都市化に伴う生活排水の大量流入、干拓工事による潮流の変化と浄化能力の喪失などによって進行し、赤潮の度重なる発生という形で顕在化していた。その中で、諫早湾干拓事業がどの程度の寄与をしているかは明らかでないが、有明海最大の干潟の多くが失われたことが、生態系の変化に無関係であるとは考えられない。
なお、ノリ養殖業者の中には、潮受け堤防の両端にある排水門を常時開放することを要求する者もあるが、すでに堤防内の底生生物は大半が死滅し、調整池にはヘドロが溜まっているため、排水門を開放しても生態系が復元されるとは考えにくい。
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