前ページへ 次ページへ 概要へ 表紙へ


第2章.量 子 力 学

〜機械的原子論の終焉〜



○古典的物質像への疑念
 ニュートン力学とマスクウェル電磁気学を2本の支柱とする古典科学は、19世紀の終わりまでに多くの方面で華々しい成功を収めていた一方で、原理に関わるさまざまな問題点を露呈しつつあった。
 最も原理的な問題は、物質の安定性に関するものである。原子論が確立されつつある中で、原子同士が結合して安定な分子を形成する過程を理論的に説明するのは、困難をきわめた。1890年にはポアンカレが、万有引力の3体問題が解析的に解けないばかりか、その解軌道がきわめて複雑になることを明らかにしており、原子がクーロン力のような単純な引力に従って運動しながら、安定な分子結合を実現するとは考えにくい。
 この問題は、原子の世界に見られる秩序を実感できる現代において、いっそう鮮明になっている。例えば、走査型電子顕微鏡は、金属の表面に原子が整然と並んでいる姿を、ありありと見せてくれる。また、オージェ効果と呼ばれる現象を利用すると、表面の原子の影に隠れている2層目、3層目の原子の形まで見ることができる。さらに、有機化学でお馴染みのベンゼン環が、本当に6角形の姿をしていることも、(かなりぼんやりとしているが)写真で確かめることができる。原子たちは、なぜかくも整然と配置されるのだろうか。少なくとも、そこに働いている力学的な法則が、遠隔力が作用するニュートン力学の質点系の世界のものとは、質的に異なっていることが予想されるはずである。
 19世紀末から20世紀初頭の物理学者にとって、結晶や分子構造の安定性はまだ科学的な議論の対象になるほど解明されてはいなかったが、1911年には、解答を迫られる難問が突きつけられる。マースデンの実験結果をもとにラザフォードが考案した原子模型は、中心に原子の大半の質量を担う小さな原子核が存在し、その周りに軽い電子が存在するというものだった。この模型は、太陽系を彷彿として直観的にはわかりやすいのだが、1つの致命的な欠陥があった。すなわち、太陽系内部の惑星と同じように電子が原子核の周りを周回していると考えると、マクスウェルの電磁気理論に従って必ず電磁波が放出され、電子はエネルギーを失うことになる。ちょうど、地球の周りを回る人工衛星が、大気との摩擦でエネルギーを失って落下してくる(多くは大気中で燃え尽きるが、中には地表まで落ちてくる迷惑なものもある)のと同じように、電子も原子核まで落ち込んでいくはずである。当然、原子構造は崩壊し、すべての物質は跡形もなく潰れてしまう。そうならない理由を古典物理学の中に見いだすことは、できなかった。
 世紀の変わり目の科学者たちが頭を悩ましたもう1つの問題は、放射理論の破綻である。製鉄所などで見られるように、金属を高温に加熱すると、はじめのうちは鈍い赤みを帯びた光を放つが、温度を増すにつれて白く輝くようになる。このとき、金属が発する光のスペクトル(光の波長と強度の関係)を明らかにすることは、産業上の応用からも重要な課題だった。ところが、当時の物理学の知見を組み合わせた放射理論は、実験的に得られたスペクトルを再現できないことが明らかになったのである。ウィーンは、一般的な放射理論に半経験的な方法論を織り交ぜて、短波長で実験と一致する放射公式を作り上げたが、長波長では実験との間に著しいずれが生じた。一方、レイリーとジーンズは、電磁気学と熱力学の厳格な応用によって、ウィーンのものとは異なる公式を得ていたが、これは、長波長でしか実験と一致しないのみならず、短波長では放射されるエネルギーが無限になってしまうという根本的な難点を抱えていた。
 ニュートンが描き出した物質世界は、きわめてわかりやすい明解さを持っている。空虚な入れ物としての空間の内部に孤立した原子が存在し、各原子間に(その起源が明らかでない)力が作用することによって、一様に流れる時間と共に運動法則に従って原子が運動する。マクスウェルの電磁気学は、力の起源として必ずしも直観的には明解でない電磁場(エーテル)を導入したが、それでも、「空間の中に存在し時間と共に運動する原子」というわかりやすい物質像を維持することは可能だった。しかし、こうした物質像は、もはや20世紀初頭の科学革命を通じて、あえなく崩壊することになる。


○前期量子論の発展
 古典的な物質像に最初の楔を打ち込んだのは、皮肉なことに、古典物理学の信奉者だったプランクである。まさに世紀の変わり目となった1900年、彼は、レイリー=ジーンズの公式とウィーンの公式をつないで実験と一致する式(プランクの放射公式)を求めることに成功した。もっとも、それだけならば、便利な内挿公式を作っただけにすぎない。プランクの業績は、統計力学的にその物理的な意味を明らかにした点である。すなわち、振動数νの電磁波を吸収・放出しながら平衡状態に達している物体があるとき、電磁場とやりとりするエネルギーがhνの整数倍になっていると仮定すると、プランクの放射公式が統計力学の手法に基づいて導き出されるのである(hは後にプランク定数と呼ばれる基本定数である)。プランク自身は、エネルギーが離散的な値になる理由をいっさい説明せず、あたかも計算上の便宜的措置であるかのように示しているが、これが、古典的な物質像を根底から覆す量子論の始まりであった。
 プランクの理論は、発表当初は同時代の物理学者の間にさしたる反響を呼び起こさなかった。この理論が持つ意味を、最初に明確に理解したのは、当時まだ特許局員という立場の一介のアマチュア物理学者にすぎなかったアインシュタインである。奇跡の年と呼ばれる1905年、アインシュタインは、特殊相対論やブラウン運動の論文と共に、後にノーベル賞をもたらすことになる光量子論の論文を発表する。「光の発生と変換に関する一つの発見的な見地について」というタイトルが示すように、この論文の主張は、数学をいじって導き出したものではなく、きわめて明解な物理的直観に基づいている。アインシュタインは、ウィーンの公式から熱力学的な関係式を導き出し、これが希薄な溶液の式と類似した形になっていることをもとにして、溶液の中に溶質粒子が浮かんでいるのと同様に、物質と相互作用している光(=電磁波)がエネルギーhνの固まり(量子)として空間中に存在していると見なせることを指摘した。ただし、「光=粒子」という単純な図式を提唱したのではなく、あくまで、ウィーンの公式が成り立つ短波長領域で、光が「あたかも、大きさhνの互いに独立なエネルギー量子から成り立っているかのように振舞う」と述べるにとどまった。
 光(=電磁波)は、マクスウェルの理論によれば、まぎれもなく電磁場の振動が伝播する波動である(マクスウェル自身は、電磁場の振動が伝播する速さが、当時測定されていた光速と一致することをもとに、光は電磁波だという結論を導き出している)。一方、アインシュタインの光量子論が正しいとすれば、光は粒子のような存在だということになる。すでに無線通信が普及し、光を波動と見なすことが常識とされていたため、光量子論はなかなか受け入れられなかった(「相対論のような独創的な理論を創り上げたアインシュタインも、時にはつまらない誤りを犯す例」に挙げられたこともある)。だが、光電効果(以前に発見されていたが精密測定は行われていなかった)やコンプトン効果(1923年に発見される)のように光量子論を前提とするときわめて明解に説明できる現象が見いだされるにつれ、しだいに、その正当性は疑い得ない状況になってきた。こうなると、「光はいったい波動なのか、粒子なのか」というハムレット的な苦悩が物理学者を苛まずにはおかない。「物理学者たちは月、水、金曜は光は波と考え、火、木、土曜は粒子と考える」というジョークもささやかれたほどである(日曜はお休みですね)。
 1913年、光を巡る混乱と平行して、量子論は新たな謎を物理学者に突きつけることになった。すでに述べたように、ラザフォードが提唱した中心に核のある原子模型は、古典論の範囲では安定でない。この問題に対して1つの解決法を示したのが、ボーアである。彼は、最も基本的なシステムとして、陽子の周囲に1個の電子が束縛されている水素原子を取り上げた。すでに水素原子が放出する光についての経験則(リュードベリの公式)が知られていたので、これを再現するように、半古典的な手法によって、電子の持つ物理量を計算していった。こうして得られた結果は、驚くべきものだった。原子核の周りを回転する電子の角運動量(回転運動の保存量)が、h/2πの整数倍になっていたのである(実は、このことはエーレンフェストが少し前に提案していたのだが、…歴史的事実など大して重要ではない)。こうして、光のエネルギーに続いて、電子の運動も量子化されていることが明らかになった。しかし、ボーアの理論は、アインシュタインの光量子論と同じく、斬新なアイデアと古典的な議論を天才の直観でつぎ合わせたもので、物質界を記述する統一的な理論には、いかにもほど遠い。自然は、神秘のベールの裾をかすかに持ち上げて、その素顔をわずかにのぞかせただけだった。
 ボーアの理論が提唱されてから10年ほどの間、彼の薫陶を受けた物理学者たちは、量子化の原理を明らかにすべく、悪戦苦闘を続けることになる。この頃発表された論文の多くはきわめて難解で、今となっては、著者の意図を忖度しかねるものも少なくない。中には、ボーア=ゾンマーフェルトの量子化条件や電子スピンの仮説(いずれも説明は省略する)など、現象の理解を一挙に深める進展もあったが、首尾一貫した理論とは言えなかった。
 曙光が見えてくるのは、1924年のド・ブロイによる物質波の理論が提唱されてからである(ボルン/ハイゼンベルグの行列力学は物質波の理論とは独立に展開されていたので、この言い方には異を唱える人があるかもしれないが、これが私の歴史認識である)。もともと歴史学を勉強していたド・ブロイは、物理学に転向してからも“文科系”の発想を維持し、緻密さには欠けるものの、直観的に自然の本質を洞察することのできた希有な学者である。彼は、光量子についてのアインシュタインの関係式(エネルギー=h×振動数)を電子のような物質粒子にもあてはめ、粒子−波動の二重性は自然界の基本的な性質であると主張した。この議論に従うと、電子の“波長”はh/mv(m:電子の質量、v:速度)で与えられる。ド・ブロイは、この波長を持つ波が原子内部に定常波として存在すると仮定すれば、ボーアによる角運動量の量子化が自然に導かれることを示した(定常波とは、弦や膜の振動で見られるような特定のモードを持つ振動である)。この理論によって、量子論の進むべき方向性が明確になったと言える。すなわち、自然界の基本現象である波動を記述する方程式を求め、その解を観測される量と結びつける方法論を定立することである。物質観の一大変革は、目前に迫っていた。


○量子力学の誕生
 ド・ブロイの(かなり素朴な)着想を発展させて首尾一貫した理論を作り上げることに成功したのは、シュレディンガーである。1926年に発表された一連の論文では、物質が従うべき基本的な波動方程式が導入された。特に、水素原子の場合にこれを解くと、ボーアが半古典的な手法で求めた角運動量の量子化が、定常状態の解の特徴として自然に導かれることがわかる。こうして、シュレディンガーの「波動力学」は、多くの学者の支持を集めるようになった。
 一方、ボーアの原子模型を洗練する方向に議論を進めていった物理学者たちも、20年代の半ばまでに、漸く一つの理論体系に達していた。これが、いわゆるボルン=ハイゼンベルグの「行列力学」である。1925年に一応の完成を見たこの理論では、物理量が行列と呼ばれる特殊な数学的表現で記述されており、ある状態から別の状態への遷移は、時間軸に沿った連続的な変化ではなく、直観的には理解できない「量子飛躍」によって起きるものと見なされた。概して、行列力学の理論的方法はきわめて難解で、このパラダイムを信奉する者以外には、ほとんど取り扱えないうらみがある。それでも、原子のスペクトル(原子が吸収・放出する光の振動数と強度の関係)を説明するなど、かなりの成功を収めていたため、無視できない存在になっていた。
 当初、行列力学と波動力学は、物質を記述するための対立的な理論と考えられ、それぞれの陣営に属する科学者の間で論争が闘わされることもあった。しかし、1926年にシュレディンガーによって両者が数学的に同等であることが証明され、さらに、27年のディラックの変換理論によって、同じ理論体系の(互いに変換可能な)2つの記述法であることが明らかになった。こうして、行列力学と波動力学は合体して「量子力学」と呼ばれる理論体系に発展する。量子力学は、こんにち、あらゆる物質の振舞いを記述する基礎理論と目されており、現代における科学的物質像の基本的な枠組みを提供している。
 ただし、ボルン/ハイゼンベルグとシュレディンガーの方法論の差異は完全に解消された訳ではない。物質の状態を記述する基礎方程式としては、シュレディンガーの波動方程式が用いられるが、その物理的解釈には、ボルン/ハイゼンベルグ流のいささか晦渋な議論が援用される。このため、量子力学は専門家以外には(いや専門家にとっても)なかなか理解できないものとなっており、量子力学的な世界像とは何かと問われても、にわかに解答することはできない。ここでは、量子力学において、物質とはどのように取り扱われているかを簡単に見ていこう。


○粒子と波動の二重性
 物質の状態が波動方程式によって記述されることからもわかるように、量子力学の基本的な原理として、「物質が波のように振舞う」という命題がある。この考え自体は、物質の安定性を理解する上で、受け入れやすいものではないだろうか。例えば、結晶の中で原子が整然と配置されているという事実は、ニュートン流の原子論に依拠していては理解しがたい。しかし、物質が(意味ははっきりしなくても)「波のようなもの」だとすると、ちょうど矩形の水槽を振動させたときに水の表面に幾何学的な定常波の模様が生じるのと類比的に、原子が整列することの理由を納得することができるだろう。
 物質の波動性をより直接的に露わにする現象は、電子の二重スリット実験によって観察できる。光源から出た光を二重スリットを通してスクリーンに投射すると、スリットに平行な濃淡の縞模様ができる。これは「干渉」と呼ばれる現象で、波動特有のものである。ところが、光源の代わりに電子ビームを発射する電子銃を置き、適当な二重スリット(光の場合よりずっと小さいものが必要になる)と電子が到達した場所が“感光”するスクリーンを用意すると、光の場合と同様に干渉縞が観察される。この現象は、電子が「波のように振舞う」ことの直接的な帰結である。また、電子顕微鏡は、電子ビームが光線と同じように像を拡大する効果を持つことを利用したもので、電子の波動性を実用化した例である。
 このように、物質が波動性を示すことは疑い得ない事実であるとしても、物質の実体が何らかの媒質の上に生じた波であると解釈するのは、妥当ではない。実際、上で述べた電子の二重スリット実験にしても、1個1個の電子はスクリーン上にスポット状の痕跡を残すだけである。膨大な数の電子がスクリーンに到達してはじめて、点の集合に濃淡の縞模様が見えてくるのだ。
 はたして電子のような物質の“実体”は粒子なのか、波動なのか。とりあえず、物理学者たちがどのように考えてきたのかを見てみよう。
 物質波の概念を最初に提唱したド・ブロイは、粒子と波動をともに実在的なものと考えていたようである。彼の議論はかなり思索的であるが、あえて素朴に解釈すれば、電子の実体は粒子だが、これに波動性を示す場が付随しており、ここに生じる波に導かれるように電子が運動することになる。ちょうど、波に運ばれるサーフィンを思い浮かべれば良いかもしれない。こうした描像は、直観的にはイメージしやすいが、波動場を記述する理論的な枠組みが与えられておらず、現在では正当な解釈とは見なされていない。
 シュレディンガーは、自分が提出した波動方程式をそのまま自然の実体を記述するものと見なす「波動一元論」の立場をとった。粒子のように見える電子も、その実体は、波束と呼ばれる1ヶ所に集中した波という訳である。この見解は、統一された自然像を提供してくれるが、残念ながら、致命的な欠陥があった。原子内部に束縛されていない電子に波動方程式を適用すると、はじめ1カ所に集中していた波束もしだいに拡散して無限遠まで拡がっていってしまう。ところが、電子ビームを使った実験で示されるように、自由電子は拡散することなく粒子として存在し続けるので、波動一元論は成立しない。
 いたずらに思弁的にならず実用上で便利な解釈が、ボルン流の確率解釈である。ボルン自身は、ボーアの影響を受けてかなり哲学的な議論をしているが、ここでは、後世の簡易化された解釈を見ることにしよう。それによると、電子の実体は粒子であるが、その運動法則は波動的な性質を示す。ただし、この波動性を担っている「何か」を理論的に記述することはできない。可能なのは、電子がある場所に存在する確率を求めることだけである。シュレディンガーの波動方程式は、この確率を与える計算式であり、そこで用いられる「波動関数」が実在しているとは見なされない。
 この(簡易化された)確率解釈とは反対に、粒子と波動の二重性が深い哲学的な意味を持っていると考えたのが、御大ボーアである。彼は、独自の「相補性」のアイデアを提出し、認識論的な議論を行った。すなわち、科学的な記述には人間に理解可能な表現形式を用いなければならないため、人間の認識能力を超えた対象を記述するに当たっては、いくつかの概念的に異なる形式を相補的に用いなければならないという訳である。いわく、「現象が古典物理学による説明の範囲をはるかに超えたものであっても、およそ確実な事実と言われるものの説明は、古典的な言葉で表現されなければならない」と。この考えによれば、物質は、説明される状況に応じて、粒子とも波とも記述される何かということになる。この見解は、哲学的には正当かもしれないが、物質についての理解を深めようとするときには、具体的な指針を何も与えてくれない。
 こうした物理学者たちの議論の中で、こんにちまで大きな影響を与え続けているのが、ハイゼンベルグの不確定性原理である。ハイゼンベルグは、これをボーアの「相補性」のアイデアを発展させたものと解釈したが、決して哲学的な議論ではなく、明確な物理的見解を提起している。


○不確定性原理
 物質を粒子と見なす場合、物理学的には、その位置qを時間の関数として記述することが可能になるはずである。これが、いわゆる「軌道」である(日常的には、物体が運動した道筋だけを軌道と呼ぶことがあるが、物理学では、どの時刻にどこにいたかということまで含めて軌道と呼ぶ)。物質の運動において軌道を指定できるならば、運動法則はともあれ、物質の実体は粒子であると見なすのが妥当である。常識的には、電子のような物質を構成する基本要素は、軌道を描いて運動していると考えられるだろう。しかし、量子力学では、こうした考えは捨てねばならない。量子力学の最良の教科書の1つであるランダウ=リフシッツの著書から引用しよう:「原子的現象を支配する力学−−いわゆる量子力学あるいは波動力学−−は、運動についての古典力学の考え方と原理的に異なった考え方の上に建設されねばならない。量子力学においては、粒子の軌道という概念は存在しない。このことが、いわゆる不確定性原理の内容である」
 実験的には、電子が運動する道筋は、ウィルソンの霧箱のような実験装置を使えば、小さな水滴の連なりとして眼で見えるようにすることができる。このように眼で見える道筋は、物理学で言うところの軌道ではないのか。ハイゼンベルグは、こうした問題を徹底的に考え抜いたあげく、次のような結論に到達した。霧箱の内部に電子の飛跡として現れる水滴は、電子の正確な位置を指定するものではなく、だいたいの位置を表しているにすぎない。一般的に、電子などのいわゆる「物質粒子」の位置qは、その値が厳密に指定されるものではなく、Δqの不確実さを持っていると考えられる。同様に、速度vにも不確実さΔvがある。対象となる「物質粒子」の質量をmとすると、次の関係式が成立する:
      Δq・Δv〜h/m (h:プランク定数)
これが、いわゆる不確定性関係である。もし、Δqが小さくなるように位置を精密に測定すると、この関係式からΔvが大きくなって、速度の値が決まらなくなってしまう。その結果、測定した直後にとんでもなく離れた位置まで粒子が移動してしまうかもしれず、なめらかな「軌道」を描くことは不可能になる。逆に、速度の精密測定を行おうとすると、今度は、粒子の位置が不確実になってしまう。ただし、hは日常的なスケールからすると充分に小さく、また、われわれが目にするような物体のmはきわめて大きいので、日常世界では、Δq・Δv=0と考えてかまわない。不確定性が問題になるのは、原子のスケールでの現象である(若干の例外はある)。
 当初、ハイゼンベルグは、不確定性関係が、あたかも人間の測定限界と関連するかのような書き方をしていた。例えば、電子の位置を正確に測定するためには、短波長のγ線を照射する実験を行わなければならないが、このγ線が電子を跳ね飛ばすため速度の値がわからなくなる−−というように。この考えを敷衍すると、電子の位置と速度は実際には定まっているのに、人間にはこれらを厳密に測定することができないことになる。しかし、ハイゼンベルグは、後に、この見解を改め、電子の位置と速度は、そもそも一定の値を持っていないという考えを主張するようになる。彼自身の言葉を引用しよう:「(位置や速度などの)量の値は、常に相反的な不確実さを免れ得ないが、この不確実さは、本質的には…(それぞれの)量の定義可能性の精度が限定されていることの結果なのである」
 不確定性原理の認識論的な位置づけを行うために、ハイゼンベルグはボーアの相補性の考え方を持ち出す。原子のスケールでの現象は、人間の認識能力の範囲では完全に表現することができず、粒子描像と波動描像という2つの枠組みを用いて相補的に記述するしかない。粒子描像では、対象の位置や速度といった概念を用いることができるが、古典的な質点力学の場合とは異なって、不確定性関係による制限が存在する。波動描像では、波動方程式による連続的な変化を計算することができるが、自由電子を表す波束が拡散するなど、時間・空間内部で運動する過程を直接記述することが困難になる。このように、いずれの描像も対象を記述するには不完全であり、両者を相補的に用いて、はじめて物質について十全な記述が得られることになる。
fig


○決定論と非決定論
 量子力学が与えた思想的な影響で最も深遠なものは、その非因果的な性格を巡る議論であろう。
 古典物理学においては、(孤立した)系のある時刻の状態を初期条件として与えると、それ以後(および以前)の状態は完全に決定されてしまう。初期条件によって系の時間発展が完全に定まることを、「物理学的な因果律が成立している」と言い、現実の世界が実際にそうした特徴を持っていると主張する思想は、決定論と呼ばれる。もし、この世界が決定論的であるならば、宇宙開闢の瞬間に、どのような歴史が実現されるか−−それこそ、きょうの昼に何を食べるかまでも−−が完全に決定されていることになる。このことを、印象的に語ったのが、18-9世紀の数学者ラプラスである。仮に、この世界が粒子状の基本的な構成要素から成り立っているとすると、ある瞬間の全ての粒子の位置と速度を完全に知り、各粒子についての運動方程式を解くことができるような能力を持ったデーモンが存在するならば、彼は、未来に何が起きるかを完全に予知できるはずである。
 決定論は、日常的な直観からは到底成り立っていると思えない主張であるにもかかわらず、ニュートン力学やマクスウェル電磁気学、さらにはアインシュタインの一般相対論などの古典物理学において、(きわめて特殊な例外を別にすれば)厳密に成立している。これは、古典的な理論が微分方程式によって定式化されており、初期条件を与えれば解が一意的に決定することの帰結である。物理学者の中には、この世界が実際に決定論的だと考える者も少なくなかった。
 こうした考えを根本から覆すのが、量子力学の非因果性である。ハイゼンベルグは、次のように語っている:「因果律の決定論的な定式化−−「現在を正確に知れば未来を算出できる」−−というのは、帰結ではなく前提が誤っている。現在をそのあらゆる規定要素に関して知ることは、不可能なのである。…このとき、知覚された統計的な世界の背後になお、因果律の成り立つ「真の」世界が隠れているのではないかという憶測に心をそそられるかもしれない。だが、このような推測は、…非生産的であり無意味である。物理学は、知覚の間の関連だけを形式的に記述すべきであろう。あらゆる実験が量子力学の諸法則に、したがって不確定性関係に従う以上、因果律が成り立たないことは、量子力学によって決定的に確立される」。ラプラスのデーモンが完全な未来予知を行うための条件は、ある瞬間における粒子の位置と速度を完全に知ることだった。しかし、不確定性を示す量子力学的なシステムでは、この条件は決して満たされることがない。それも、単に人間が知ることができないという問題ではなく、そもそも位置と速度が厳密に定まっていないために、未来も決定され得ないのである。こうして、量子力学は、宇宙開闢の瞬間に全てが定まっているという宿命的な決定論を否定することになった。
 ところが、こうした量子力学研究者の主張を肯んじない物理学者がいた。光量子論の研究によって量子力学への道を拓いたアインシュタインその人である。「…しかしアインシュタインは、現象を完全に決定するために必要なすべての要素を知ることが、原理的に不可能であることを認めようとはしなかった。「神はサイコロを振りたまわず」というのが討論中しばしば彼の口から聞かれた言い回しであった」(ハイゼンベルグ『部分と全体』より)。アインシュタインは、ボーアやハイゼンベルグらの量子力学研究者と何度か論争を繰り広げ、系の時間発展が完全に決定できないのは、世界がそうなっているというよりも、理論の不完全さを表すという主張を貫いた。しかし、歴史的には、量子力学に代わる「完全な」理論を提起できなかったため、アインシュタインが論争に敗れた形となり、非因果的な量子力学が正当な理論として学界に受容されていく。


○何が実在しているのか
 量子力学の正当性は、1920年代から30年代にかけて、実験と理論が見事に一致するという実証的な研究によって確かめられていった。しかし、不確定性原理や非因果性などの量子力学の基本的な考え方が、物理学者たちに理解された訳ではない。当代一流の学者の中に、量子力学は自然界の記述としては不完全であり、あくまで暫定的に使われるべき理論にすぎないと主張した人は、決して稀ではない。例えば、アインシュタインは、ポドルスキーおよびローゼンとの共同論文で、次のような論法で量子力学の不完全性を示そうとした:「物理理論についてなにか真剣な考察をするとき、理論といっさい関係のない客観的実在と、理論がそれを用いる物理概念との区別を考慮に入れなければならない。これらの概念は、客観的実在と対応することを意図されたものであり、われわれは、これらの概念を使って、客観的実在を自らのために描写するのである。…量子力学では、波動関数が、それに対応する状態にある系の物理的実在の完全な記述を、まさに表していると仮定されている。…だが、われわれは、この仮定が、…矛盾を導くことを示そう」(アインシュタインほか「物理的実在についての量子力学的記述は完全か」より)。また、量子力学の建設者の一人であるシュレディンガーも、量子力学が持つ哲学的な制約に不満を漏らしている:「量子力学の支配的教義は、認識論への逃避によって、(何が実在するかという)このきわめて困難なジレンマから自ら…を救おうとする。すなわち、自然対象の現実の状態と、それについて私が知っていること、あるいは、より適切には、私が努力さえすれば知り得ることの間にはなんら区別されるべきものがない、というわけである」(シュレディンガー「量子力学の現状」より)。
 こうした批判が登場する原因として、量子力学が、「自然界には何が実在しているか」という基本的な問いに対してあらわに答えていないことを指摘しておくべきだろう。量子力学による記述に使われる「波動関数」にしても、ニュートン力学に登場する「質点」やマクスウェルの電磁気学に現れる「電磁場」のような(たとえ近似的であるにせよ)実在性を付与されておらず、あくまでも、理論的な予測を行うための道具でしかない。量子力学は、例えば、「ウラン235に中性子を照射するとどの程度の確率で分裂が起きるか」とか、「超伝導状態になった金属に磁場を加えたとき、磁力線はどのような分布になるか」といった問いに答えることのできる「役に立つ」理論ではあるが、「この世界は何からできているのか」と悩む哲学者にとっては、全く解答を与えてくれない。少なくとも、量子力学を発展させた素粒子論(場の量子論)が登場するまでは。量子力学は、自然の謎を解明することを目的とするロマンチックな古典科学が、技術的応用を果たすための道具としてこき使われる現代科学へと変貌するきっかけを作った理論と言えるかもしれない。
 量子力学の技術的な応用で最初に具体的な成果を挙げたのは、皮肉なことに、原子爆弾の開発であった(第1章参照)。さらに、トランジスタの開発に代表される半導体研究に応用され、驚くべき成功を収める。科学が技術革新をリードする時代が開かれたのである。
fig



【第2章の参考書】
 この分野では、物理学科の学生が読むような専門書には名著が多数ある(ファインマンやランダウ=リフシッツの教科書など)が、文科系学生を含めた一般人向けの啓蒙書の中に推薦できる著作は意外と少ない。思いつくところを挙げていこう。
量子力学の建設者の手になる著作の中では、
  W.ハイゼンベルグ『部分と全体』(みすず書房)
が、科学者の発想法を伺い知る手がかりともなり、得るものが多い。また、
  『世界の名著66 現代の科学II』(中央公論社)
には、ボーアやシュレディンガーらの興味深い論考が収められている。
現代物理学による記述が、古典的な世界像とどのように異なっているかを解説した著作としては、
  R.G.ニュートン『宇宙のからくり』(青土社)
  P.C.W.デイヴィス『宇宙の量子論』(地人書館)
あたりが楽しめるだろう(デイヴィスは「面白い」と「信頼できる」という2つの要素を兼ね備えた啓蒙書を書ける数少ない科学者である)。量子力学固有の問題を扱った著作には、
  H.R.パージェル『量子の世界』(地人書館)
  N.ハーバート『量子と実在』(白揚社)
などがある(もっとも、両方とも生真面目にすぎ、あまり面白くないかもしれない)。
観測問題を含む量子力学の原理的問題に関しては、
  M.ヤンマー『量子力学の哲学 上・下』(紀伊国屋書店)
に詳しいが、専門家向きで難解である。ボーム(『量子論』『全体性と内蔵秩序』)やディスパーニア(『量子力学における観測の理論』)の著作も有名だが、解釈が独自的すぎて勧められない。眉に唾を付けて読むことができるならば、インタビューを採録した
  P.C.W.デイヴィス/J.R.ブラウン編『量子と混沌』(地人書館)
あたりが、量子力学を巡る混乱を対岸の火事として眺めるための観覧席を提供してくれるだろう。「アインシュタインの立場から見た量子力学」という限られた視点ではあるものの、
  A.ファイン『シェイキーゲーム』(丸善)
の方が、かえって有用かもしれない。
量子力学を初めとする現代科学の知見をふまえ、その限界を打破せんとする気宇壮大な著作には、
  J.L.キャスティ『パラダイムの迷宮』(白揚社)
  R.ペンローズ『皇帝の新しい心』(みすず書房)
などがある。特に、後者は、今世紀を代表する数理科学者の野心作で、いささか「飛びすぎ」の気がしないでもないが、(理解できれば)無類に面白い本である。


©Nobuo YOSHIDA