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第1章.原 子 核 物 理 学

〜現代科学の光と影〜


 物質の究極的な構成要素を追求することは、かつて(ヨーロッパにおいては19 世紀半ばより前)は哲学の営為だった。「この世界は、いったい何からできて いるのか」という思弁的な問いかけに対して、思弁をもって解答することが、物 質について探求する学問で採用されるほとんど唯一の方法論であった。しかし、 こんにちでは、物質を対象とする科学的な研究は、実験と理論を用いて実践され 、技術的な応用を通じて社会的に評価される。科学的な物質像のこのような変貌 は、特に、今世紀初頭から中葉にかけての原子核物理学の進展に、象徴的に現れ ている。
 物質が原子と呼ばれる分割不能な構成要素から成り立っているという考えは 、科学の世界では、19世紀末までに受容されるようになっていた。
 科学史的に見れば、原子論の始まりは、古代ギリシャまでさかのぼることが できる。デモクリトスは、「物体は無限に分割できるか」という問いを立て、無 限小の物体などあり得ないという判断から、有限の大きさを持つ分割不能な構成 要素があるという結論を導き出している。水や空気のような媒質の中でも物体が 運動できるのは、原子と原子の間に空隙があり、これを押し広げることによって 隙間を作っていくからだとされた。一方、この見解に反対したのがアリストテレ スであり、「何もないことを唯一の根拠とする存在があり得るか」という発想を もとに真空の存在を否定し、真空がなければ有限の大きさを持った原子も存在で きないと主張した。アリストテレスの哲学が中世ヨーロッパを席巻したため、原 子論は長らく影が薄かったが、近代科学の勃興と共に再び注目されるようになる 。力学的な理論を構築する過程で原子論的な世界像を念頭に置いていたニュート ンは、「時間−空間−物質」という基本的なカテゴリーを提出し、光を含めたす べての存在を、空間の特定地点に位置する原子の集まりとして取り扱った。ニュ ートンの考え方は、光学の分野で重大な反撃を受けることになるが、少なくとも 、物質を構成する諸元素に関しては、ドルトンらによる化学反応−−特に反応量 比−−の研究をもとに、原子論的な見解が広まっていった。19世紀の前半には、 まだ、原子の実在性に対する疑いが根強く残っていたが、末頃にもなると、マッ ハなどわずかな反対者を除いて、大半の科学者が原子を実在的なものとして認め るようになる。
 ただし、原子の実在性が明らかにされたとは言っても、これを技術的に操作 する可能性については、まだ誰も考えが及ばなかった。原子は、あくまで科学的 研究の対象であって、技術的応用を論じるべくもなかったのである。
 19世紀の科学では、すでに、かつての哲学的な発想がかなり薄くなり、実証 的な方法論が援用されるようになっていた。しかし、「自然とは何か」という探 求心に基づくアカデミックな学問という性格は、決して失われたわけではない。 科学研究に携わる人々は、大学を中心とする狭いサークルの中に閉じこもってお り、研究成果を技術面に応用しようとする意欲を持った人は、いまだ稀であった 。科学が産業発展の先導役を果たすようになるのは、19世紀末から20世紀初頭に かけて、新素材の開発に化学の知識が利用されてからであり、それまでは、最先 端の電気工学にしても、(エジソンに代表されるような)技術者の職人芸的な技 能によって支えられていたのである。
 世紀の変わり目と共に、さまざまな変化が訪れる。原子の世界にも、常に応 用を志向する技術者の発想を持った新時代の科学者の手が伸びていった。

○物理学の英雄時代
 原子物理の分野において、「自然の謎を探求する科学」から「技術的応用を 志向する科学」への変貌を決定づける研究を行ったのは、皮肉なことに、19世紀 的な風貌を最も色濃く残していた科学者の一人であるラザフォードだった。
 彼がJ.J.トムソンの弟子として原子の研究を始めた頃、すでに、新時代 の幕開けを予感させる多くの発見がなされていた。代表的な発見として、次のも のを挙げておこう。
 1896 ベクレル ウラン塩の放射能発見(ウラン線と呼ばれる)
 1897 J.J.トムソン 陰極線が電子の流れであることを解明
 1898 キュリー夫妻 ウラン鉱中のラジウムを分離
 1899 ベクレル β線が高エネルギー電子の流れであることを発見
 この流れを受けて、ラザフォードは、1903年頃から、ラジウムが発するα線 を使ったさまざまな実験を行っていた。初期の実験により、α線がヘリウムイオ ン(後にヘリウム原子核と判明する)の流れであること、また、原子が持つエネ ルギーがきわめて巨大であることを見いだしている。
 「これらすべてを考慮すると、原子の中に潜むエネルギーは、通常の化学変 化で解き放たれるエネルギーよりもずっと膨大なものであると結論できる」(ラ ザフォード/ソディ、1904)
 
 ラザフォードの最大の業績は、原子核の発見である。
 それまでは、J.J.トムソンを初めとする多くの物理学者は、正の電荷が 連続的に分布し、その中に(プディングの干しぶどうのように)ポツポツと電子 が浮かんでいるものとして、原子の姿を描写していた。こうした描像が好まれた 理由の一つは、それ以外の描像では、原子の安定性を説明することが困難だった ためである。例えば、正の電荷が原子の中心部に集中し、電子が(太陽を回る惑 星のように)その周りを周回しているというモデルでは、電子が電磁波を放出し て一瞬のうちに中心部に落ち込み、原子が崩壊してしまう。何人かの学者は、土 星の環のように電子軌道が安定するモデルを考察したが、あまりうまくはいかな かった。
 ラザフォードが実践したのは、理論をひねり回す前に、まず、実験によるデ ータを集めて、これを説明する仮説を考えるというものである。彼は、1906年以 来、α線を金箔に照射して散乱させるという実験を通じて、多くのデータを手に していた。1909年に、彼は、この実験の変形版を若いマースデンにやらせてみよ うと考えた。それまでの実験では、α線の測定器(といっても、蛍光スクリーン を人間がじっとみつめて、α粒子の衝突で生じた閃光をカウントするという素朴 なものだが)を、金箔をはさんでα線源と反対の位置に置いていたが、今度は、 線源と同じ側に置いて、α粒子が大角度で散乱されるかどうかを調べようとした のである。もっとも、ラザフォード自身は、巨大なエネルギーを持つα粒子が跳 ね返されるとは、思っていなかったようである。それだけに、もたらされた報告 に驚愕させられた。
 
 「2〜3日して、ガイガーが非情に興奮してやってきて、『何個かのα粒子 が後ろに跳ね返されるのを見つけた』と言ったのです。これは、それまでの私の 生涯で起きた最も信じられないものでした。もし、みなさんが、1枚のティッシ ュペーパーめがけて15インチ砲弾を撃ち込んだところ、それが跳ね返ってきてみ なさんに当たったとしたら、それを信じられるでしょうか」(ラザフォードの回 想、『電子と原子核の発見』より)
 
 この信じがたい実験結果を再現する仮説について思索を重ね、1911年、彼は 、中心に原子質量の大部分を有する原子核が存在するという「太陽系型」の原子 モデルを発表する。このモデルによれば、金箔に照射されたα粒子の大部分は原 子核と原子核の隙間を通るためほぼ直進するが、一部のα粒子が原子核に接近し てはじき返されることになる。実験精度の問題もあって、ラザフォードが求めた 原子核の電荷などには数値としてかなりの誤差があったが、少なくとも正しいオ ーダーを与えることには成功した。もちろん、このモデルには、原子の安定性を 説明できないという(理論としては致命的といって良い)欠点があったが、大角 度散乱の実験結果を再現する唯一のモデルとして、強い説得力を持つものであっ た。安定性の謎が解明されるには、ボーアらによる量子論の展開を待たなければ ならない。
 ラザフォード本人は、自然の謎を解明することに喜びを感じる古典的なタイ プの科学者だったが、彼の採用した方法論は、すでに、現代科学の方向性を明確 に示すものである。19世紀末から20世紀の初頭にかけての原子に関する論文を読 むと、その難解さに辟易させられる。例えば、原子の質量と原子の電荷を同一点 にあるものと見なして良いか、ということに明確な指針が与えられておらず、ひ どく回りくねったロジックにつきあわせられる。この傾向は、特に、ドイツを中 心とする大陸系の科学者に著しい。ところが、ラザフォードの原子モデルは、実 験結果を説明するものとして案出されただけに、実に明快である。空間の中に、 正に帯電した粒子状の原子核が、厳然たる実体として存在している。こうしたわ かりやすいモデルがあるからこそ、何らかの装置を通じて操作を加えるという発 想も、ごく自然に浮かぶことになる。このとき、科学が物質を見る見方が、思弁 の対象から操作の対象へと変わっていったのである。
 J.J.トムソン、ベクレル、レントゲン、キュリー夫妻らが活躍し、ラザ フォードの登場で頂点を迎える時期は、物理学の英雄時代と呼んでもいいだろう 。天才的な科学者が、産業資本の助けを借りずに、学識と知恵を駆使して自然の 謎を次々と解き明かしていったのである。彼らにとって、科学研究は、それを何 かに利用するためのものではなく、それ自体が人生の目標だったに違いない。だ が、「古き良き時代」は(これまで何度かあった「古き良き時代」が常にそうで あるように)間もなく終焉を迎える。1930年代−−科学にとっても人類にとって もターニングポイントとなる時代が訪れようとしていた。

○原子変換と核エネルギーの利用
 原子が永久不変なものでなく、変化する可能性があることは、放射性崩壊が 発見されてから知られていたが、人類の手による原子変換が実現されるまでには 、相当の時間がかかる。
 最初に原子変換を実行するのは、例によってラザフォードである。1919年、 彼は、窒素にα線を照射することによって、これを酸素に変換することに成功し た。
    N+α→O+p
 ただし、これが具体的にどのようなプロセスで生じたかについて、まだ、明 確な考えはできあがっていなかった。
 1932年、チャドウィックが中性子を発見するや、原子核はより明確なものと して理解されるようになる。それまで、原子核内部に電子が存在するかどうかに ついてさまざまな議論がなされていたが、中性子の概念を使えば、原子核を、陽 子と中性子が何個かずつ集まった固まりとして直観的に表すことができる。例え ば、次のように。
           陽子   中性子
 α粒子(ヘリウム)  2個   2個
 炭素         6    6
 窒素         7    7
 酸素         8    8
 ウラン235    92  143
 個数があまり多くないときは、陽子と中性子はほぼ同じ数になるが、多数の 陽子/中性子からなる原子核では、中性子の割合が多くなる。専門的になるので 、その理由は述べないが、このことは、核分裂の連鎖反応を実現させるときに、 決定的な重要性を持つ。
 原子変換のプロセスは、原子核の構成要素の組み替えと見なすことにより、 簡単に思い描くことができる。陽子n個と中性子m個からなる原子核を(n,m )と表すと、ラザフォードによる原子変換は、
    N(7,7)+α(2,2)→O(8,9)+p(1,0)
 となる。ここで、O(8,9)は、陽子8個、中性子9個からなる酸素原子核で 、自然界に豊富に存在する酸素より中性子が1個多い同位体である。
 原子核内部に膨大なエネルギーが潜んでおり、さらに、原子核を人工的に組 み替えることが可能になってからも、ラザフォードは、その実用的意義を認めな かった。1933年に行った講演で、彼は、(タイムズの記事によれば)次のように 述べている。
 「(原子変換のような)現象が起きる確率は低く、エネルギー生産の手段と しては非常に効率が悪い。だから、原子変換によってエネルギーを手に入れよう とするのは、月影(moonshine)について語るようなものである」
 ここで用いられた「月影」という文言は、タイムズの記者による創作らしい が、それにしても、ラザフォードが原子核エネルギーの利用が実用的でないと考 えていたようである。
 しかし、歴史は、ラザフォードの思惑とはかなり異なった方向に進んでいっ た。その先鞭をつけたのが、マリー・キュリーの娘イレーヌ・キュリーと、夫フ レデリック・ジョリオである。1932年に、二人は中性子の発見にあと一歩のとこ ろまで迫りながら、最後の解釈を誤る(中性子による現象ををγ線に起因するも のと解釈する)という失敗を演じた。だが、原子核について天才的な洞察力を持 つかれらは、ただちに新しい実験を開始し、これを成功させる。すなわち、人工 放射性物質の生成である。(ちなみに、イレーヌは、この直後に、核分裂の発見 にあと一歩のところまで迫って、再び失敗する)。
 ジョリオ=キュリー夫妻が行った実験は、上の表記法を用いれば、次のよう に書かれる。
    Al(13,14)+α(2,2)→P(15,15)+n(0,1)
 この実験成果は、人工的な原子変換を化学的手法で検出することに成功した という点で評価された。実験がうまくいった直後の光景を、ジョリオは次のよう に回想している。
 「マリーキュリーは私たちの仕事を見に来た。初めて人工的に作られた放射 性元素の入った小さなガラス管をイレーヌと私が見せたとき、マリーに浮かんだ 深い喜びの表情を決して忘れることができない。私たちが話したことを確かめる ように、彼女は自らガイガー計数管にサンプルを近づけた。計数管はガーガーと いう検出音を発した。まぎれもなくこれは、彼女の生涯における最後の大きな満 足に包まれた瞬間だった」
 このとき、マリー・キュリーは、すでに、長年にわたって放射性物質を扱っ てきたことが災いして、悪性の再生不良性貧血に罹っており、数ヶ月後に死亡す ることになる(彼女の実験ノートは、こんにちなお、ガイガー計数管で測定でき るほどの強い放射性を帯びている)が、物理学の英雄時代を彷彿とさせるエピソ ードである。しかし、ジョリオ=キュリー夫妻の実験の重要性は、単に、通常の 化学的方法では困難な微量元素の検出に成功したというだけにとどまらない。こ の実験で、アルミニウム(Al)から生成されたリン(P)が放射性物質だった という点でに、重大なポイントがある。放射性物質は、核エネルギーを外部に放 射線の形で放出する。したがって、ジョリオ=キュリーの実験は、原子核内部に 閉じこめられ、人間には取り出すことが不可能だと思われた核エネルギーを、( α線のエネルギーを利用したとはいえ)人工的に外部に引っぱり出すことに成功 したものと解釈することもできる。
 夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞するが、このときの受賞講演で、ジョ リオは次のように述べている。
 「元素を意のままに合成したり分割したりする技術を手にした科学者たちは 、爆発物のような物質を作り出す可能性についても考えさせられるようになった 。もし、こうした物質変換が、物質中を拡散するようにして伝わることが起こる ならば、膨大なエネルギーを取り出すことも考えられる」
 実際、この頃から、核エネルギーは、ラザフォードが言うような「月影」で はなく、人類の手の届くところにあることが、多くの科学者に認識されるように なる。ここでは、質量分析器の発明者であるアストンが1936年に行った予言的な 講演を引用しておこう。
 「(核エネルギーを解放する)研究を法律で禁止すべきだと主張する者もい る。すでに人間の破壊力は十分すぎるというのだ。だが、われわれの祖先に当た る最も猿に近い有史以前の人類も、食物を料理することに反対し、新たに見つけ た道具や火を使用するのは危険だと言ったことだろう。私個人の見解では、原子 内部のエネルギーは身近なものになり、そしていつの日か人類はほとんど無限と いえるその力を解放し、かつコントロールするようになるだろう。われわれは、 こうした流れを阻止できない。ただ隣人を吹き飛ばすようなまねを絶対にしない ようにと願うだけだ」

○原子核研究の初期の技術的応用
 ところで、この時代に、原子核研究の成果が、社会でどのように受容されて いたか、簡単に見てみよう。まだ、科学的な研究を技術面で応用するシステマテ ィックな方法論ができあがっていなかったので、面白そうな結果をつまみ食いす るような利用法が目に付く。
 興味深いのは、ラジウムが異常なほど積極的に利用された点である。当時は きわめて珍しかった女性の科学者が発見したこと、その内に有する巨大なエネル ギーを絶えず放射していること、鉱物であるにもかかわらず暖かさを感じさせるこ と、こうした事情が、人々の間に一種のラジウム信仰をもたらすことになった。 医学者の間でも、ラジウムがガン、心臓病、結核、精神病などの治療に効果があ ると信じられるようになり、1931年の調査によれば、全米の287病院と414人の開 業医がラジウムを使用していた。それどころか、ラジウムが放射する神秘的なエ ネルギーを人体に取り込めば健康増進につながると考える人も現れ、放射性ハミ ガキやヘアトニック、肌を輝かせるというラジウム入りクリーム、強壮作用のあ るラジウム・ウォーターなど、今考えるとぞっとするような商品が1920年代から30 年代にかけて大量に出回っている(当然のことながら、利用者の中には、これ が原因で致死的なガンに罹患した人も多い)。
 このことに関しては、ラジウム治療を押し進めたマリー・キュリー自身にも 若干の責任があるが、それ以上に、科学に無理解なまま無邪気にその成果を受け 入れる社会の側を問題視すべきだろう。ラジウムの有害性は、専門家の間では、1920 年代後半から議論されるようになってはいたが、放射線の許容量が定められる のは、1940年代にはいってからである。
 これと良く似た現象は、X線についても見られる。パリ万博で喧伝されたこ ともあって、人体を透視する神秘の光線として人々の興味を引いたものの、多く の場合、見せ物以上の利用はなされなかったようである。わずかに、発明家のエ ジソンが、これを医療に利用することを考えたが、X線がコンスタントに放射さ れ続けている所に患者を立たせ、前面においた蛍光スクリーンで観察するという 物騒な方法だったため、被験者や技師に傷害を負わせる結果になった。さらに、 女性の服だけを透視する(本当ならば楽しい)X線メガネなるものも登場したと か。

○核分裂の発見と科学者の反応
 核エネルギーが人工的に利用できる可能性が拓かれてから、世界中でこの方 向で研究が進められるようになる。特に、フェルミに率いられたイタリアのグル ープと、ドイツにいたハーンとマイトナー(彼女は、イレーヌ・キュリーととも に、原子核の分野に決定的な貢献をした女性科学者の一人である)が、研究をリ ードしていた。
 この2つのグループが主に行っていたのは、中性子をウランに照射するとい う実験である。当時、ウランは自然界に存在する最も重い元素として知られてい たが、中性子線をウランに照射すれば、ウランが中性子を吸収して、より重い原 子核ができるのではないかと期待されたのである。フェルミは、すでに、中性子 を減速するとウランと相互作用しやすくなるという大発見をしており、この実験 に強い熱意を持って臨んでいた。まもなく彼は、ウランを超える重い原子核らし きものが見つかったとして、論文を矢継ぎ早に発表する。同じ頃、ハーン=マイ トナーのコンビも、同様の結果を得ていた。だが、何かがおかしかった。超ウラ ン元素と思われたものは、あまりに多様な性質を示し、簡単に解釈することがで きなかったのである。
 1938年に、ハーンは、どうしても乗り越えられない問題に直面する。ウラン に中性子を照射して生成されたラジウムの同位元素らしき物質を化学的に分析し ていたところ、どうしてもバリウムと区別できなかったのである。バリウムはウ ランの半分以下の大きさしか持たない。そんなことがあり得るのか。ハーンは、 ナチスのユダヤ人狩りを逃れてスウェーデンの寒村に亡命していたマイトナーに 手紙を書く。
 「実を言うと、“ラジウムの同位元素”に関しては実に不思議なことがある のです。あまりに不思議なので、当分あなただけにしかこの話はできません。実 は、…分画法(元素を分離する化学的方法)がうまくいかないのです。我々の見 つけた“ラジウムの同位元素”はバリウムそっくりに振る舞ってしまうのです。 …ひょっとするとあなたなら、何かすばらしい説明を考えつくかもしれません。 そうは言っても、われわれはやはりウランが破裂してバリウムになるはずがない と思っているのですが」 (1938年12月19日)
 折り返し、マイトナーは書き送る。
 「あなたがたの実験の結果は、まさに唖然とするようなものです。減速させ た中性子を照射して、その結果バリウムを生じるだなんて!…いまはまだそんな 大規模な破裂が起きるということを認めるのは非常に難しい気がします。しかし 、わたしたちはこれまで核物理学で実に多くの驚くべき事実に遭遇してきました 。ですから何ひとつ、『そんなことはありえない』と頭から決めつけることはで きません(1938年12月22日)
 しかし、ハーンは、マイトナーからの返事を待っていられなかった。さらに 実験を重ねてウランからバリウムが生じたことを確信した彼は、『ウランの照射 によって生成されるアルカリ土金属とその振る舞い』といういささか曖昧なタイ トルの論文を書き上げて、12月22日に投稿する。そこには、「化学者としての立 場に立つと、…新しい生成物はラジウムではなく、むしろバリウムそのものであ ると言わざるを得ない」と述べられている。
 この論文をハーンから送られたマイトナーは、たまたま逗留していた甥の物 理学者フリッシュとともに、ウランが分裂する可能性を考える。そして、よく知 られたアインシュタインの関係式
   E=mc2 (エネルギー=質量×光速の2乗)
を当てはめれば、核分裂が大量のエネルギーを放出する過程として実現可能で あることを見いだす。ウランの原子核は、まるで細胞分裂(fission)のような 形で2つに分かれるのである。マイトナーは、この結果を直ちにハーンに書き送 り、さらに、続く手紙にこう記す。
 「私はいま、あなたが本当に(ウランが)バリウムに破裂することを発見し たと確信するようになりました。これはすばらしい結果です。あなたとシュトラ スマンに心からおめでとうと言います。いまやあなたの眼前には広々として美し い仕事の領域が開けています。そして、どうか私を信じてください。私はこの地 に手ぶらでおりますけれど、このすばらしい発見の知らせを受けたことをとても うれしく思っています(1939年1月3日)
 (手紙の引用は、C.ケルナー著『核分裂を発見した人−−リーゼマイトナ ーの生涯』(晶文社)から)
 実験設備もろくにない片田舎に蟄居させられているマイトナーのさまざまな 思いを、ここから読みとることができる。しかしまた、彼女が信じた「広々とし て美しい仕事の領域」が、実は、原爆開発そのものであったことに思いをいたす とき、歴史の残酷さを痛感せざるを得ない。

○軍事研究への道
 1930年代には、まだ、こんにちのように研究開発(Research & Development )の仕組みができあがっておらず、科学的研究の成果を社会にどのように還元す べきかについて、科学者の間に明確な意見は形成されていなかった。核分裂のよ うに巨大な影響力を持つと推察される発見があった後の科学者たちの動向を評価 するにあたっては、こうした社会的背景を理解する必要がある。
 ハーンらによる核分裂発見のニュースは、デンマーク出身の世界的物理学者 ボーアを介して、アメリカの学会に伝えられた。マイトナーらは、正式な論文を 発表するまで秘密にしておきたかったようだが、フリッシュに会ってこの知らせ を耳にしたボーアは、その意味するところがあまりに重大であるため、秘匿しき れなかったのである。当時、アメリカには、漸く育ち始めたネイティブな科学者 と、ファシズムを逃れた亡命科学者がいて、学会は活況を呈していた。そこに投 げ込まれたこの大ニュースは、瞬く間に広がって科学者を興奮させる。彼らの多 くは、核分裂が人類に何をもたらすかを直ちに見て取った。例えば、後にノーベ ル賞をもらう核物理学者アルヴァレは、次のように語っている。
 「(オッペンハイマーに核分裂に起因すると思われる大きなパルスを見せる と)およそ15分もしないうちにロバートはこれは実際に起きている現象だと判断 した。そして…(中略)…この反応の際に何個かの中性子が放出されている可能 性がある、それを利用すれば爆弾や発電ができると見て取った」 (『原子爆弾 の誕生』より)
 核分裂を起こすウランは、質量数の小さい原子核に比べて、中性子をより高 い割合で含んでいる。このため、ウランが2つに分裂した場合、分裂片となる核 種にはウランに含まれていたすべての中性子を取り込めず、2〜3個の中性子が こぼれ出てしまう。もし、このこぼれ出た中性子が他のウランを分裂させること ができるならば、そこからまた中性子がこぼれ出て、さらに別のウランを分裂さ せることになり、核分裂が次から次へと続いていくことになる。いわゆる核分裂 の連鎖反応である。この過程で放出されるエネルギーは、途轍もなく巨大なもの になる。
 最初に連鎖的な核反応の可能性を思いついたのは、ハンガリーの物理学者シ ラードである。このエピソードのあまりに多い科学者について、短い話でどれだ け語れるかおぼつかないが、彼が、科学の社会的役割について最も真剣に考えて いた科学者であったことは強調しておかねばなるまい。もちろん、核物理学にお ける純然たる科学的研の面でも突出した成果をあげており、ウランの核分裂の際 に中性子が実際に放出されていることを(フェルミと同時期に)最初に確認した り、核分裂しやすいように中性子のエネルギーを調節する減速材として黒鉛が適 当であることを見いだしている。しかし、それ以上に重要なのが、彼が、社会に おける科学者の位置づけを積極的に行おうとしたことである。もっとも、現在の 目から見れば、それは、科学が政治に利用される道を拓くものだったのだが。
 1939年頃から、シラードは、原子核研究は、その重大性に鑑みて、完全にオ ープンにすべきではないと主張している。理想的には、科学者が自由に研究内容 を発表し、データを交換することによって、科学は最も効率良く発展する。さら に、研究の公開は、特定の権力によって科学が利用されるのを防ぐ役割もある。 しかし、軍事研究のように、その公開が自国の国益を損なう可能性がある場合、 発表を制限すべきだというのも、一つの見識だろう。シラードは、こうした制限 を、科学者の側が自主的に行うべきだと考え、テラーやフェルミなどの亡命科学 者に話を持ちかけた。シラードの主張は、必ずしも他の科学者たちの賛同を得る には到らなかった−−実際、1939年4月の学会では、ボーアが「実験所とその周 囲何マイルもの土地を吹き飛ばすことができる」原子爆弾の可能性について講演 をしている−−が、後に、アメリカ政府が軍事目的の核開発を推進し始めると、 政策的に研究内容が機密扱いされるようになる。現在では、軍事的な研究はもち ろん、知的財産権が絡む産学協同研究においても、発表の自由がかなり制限され ているが、その一つの端緒をここに見ることができる(もちろん、ギルドにおけ る秘密主義の流れも忘れてはならないが)。
 軍事関係者に核エネルギーの重要性を知らせようとする試みも、シラードや 、彼と同じくハンガリー出身の亡命物理学者ウィグナーらによって行われた。1939 年3月には、ウィグナー−−彼は、戦後は平和主義者として著名になる−−が、 フェルミを海軍次官に引き合わせて、核エネルギーが爆弾や艦船の燃料として利 用可能であることを講義させている(もっとも、この軍人は理系の知識を持ち合 わせておらず、ノーベル賞を受賞したばかりの大物理学者の話を聞いてもほとん ど理解できなかったそうだが)。ここでも、科学者の側から積極的に働きかけて いることに、注意していただきたい。
 シラード(およびウィグナー)がとった最も有名な政治的行動は、1939年8 月にアインシュタインにルーズベルト大統領宛の親書を書かせたことである。相 対論の建設者としてすでに神格化されていたアインシュタインの名声を利用して 、ルーズベルト大統領に原子核研究の重要性を認識させようとしたことについて 、戦後、さまざまな議論がなされたが、少なくとも、シラードがきわめて良心的 な立場からやむにやまれず行ったということは、認めて良いだろう。当時、すで に老境にさしかかっていたアインシュタインは、もはや科学の最先端にはさした る関心は抱いておらず、核分裂の連鎖反応の可能性についても知らなかったよう だが、シラードの真摯な態度にうたれて、シラードが書いた親書の草案に署名す ることに同意した。この親書は、すぐにルーズベルト大統領のもとに届けられ、 (直ちに読まれた訳ではないものの)大統領をして「ウラン諮問委員会」設置の 動きをとらせるのに力あったとされる。
 シラードが書いてアインシュタインが署名した大統領宛親書は、次のような 内容を含む。
  1. ごく近い将来、ウランの核分裂を利用して膨大なエネルギーを発生させられる ようになる。
  2. この現象を利用して、きわめて強力な爆弾を製造できる。
  3. こうした状況からして、信頼できる者に非公式に次の仕事をまかせるべきであ る。
  4. ドイツはすでに核開発に動き出している。
 ここで注目したいのは、シラードの提案では、あくまで科学者の自立性が保 たれているという点である。科学者は政府とも企業とも距離を置いたまま研究を 続けることが想定されており、政府と企業は、ウラン燃料の確保や資金および施 設の提供を通じて間接的に核開発に関与することになる。シラードは、その影響 力の大きさから核研究の重要性を政府に知らせることに躊躇しなかったが、だか らといって、科学者の自立性が完全に束縛されてしまうことまでは考えておらず 、政府や企業と対等の立場に立てると思っていたようである。
 しかし、現実は、シラードが考えたほど甘くはなかった。政府が核開発に首 を突っ込んだ当初は、まだ重大さがわかっていなかったのか、科学者たちをコン トロールしようとはしていなかったが、戦争規模の拡大につれて、次第に強権を 発動するようになる。いわゆる「マンハッタン計画」では、アメリカ政府は、軍 人のグローブス大佐を計画遂行の指導者に任命して軍との協力関係を打ち出す一 方、参加する科学者や企業は、完全にその支配下に置くことになる。特に、科学 者たちに対しては、契約書を書かせて機密保持を厳命するのみならず、社会との 連絡を絶つように物理的に隔離し、手紙の検閲を含めた強権的な監視を行う。「 政府と軍が企業の協力を得て科学を利用する」という産官軍複合体の仕組みは、 このときできあがったのである。

○原爆開発
 当時、優秀な科学者は、原爆が持つ意味を充分に理解していた。例えば、イ ギリスに滞在していたフリッシュとパイエルスは、1940年2月に「超爆弾」に関 する覚え書きを提出している。その中には、次のような文章が見られる。
  1. 兵器としての超爆弾に抵抗できる物質や構造は存在しない…
  2. 放射性物質が風によって飛散するので、この爆弾は多数の市民をも殺すことに なる。したがって、この国が用いる兵器としてはふさわしくない。
  3. …ドイツがこの兵器を開発しつつあることは、容易に想像できる。
  4. もしドイツが、現在または将来、この兵器を所有するとなれば、有効で大規模 な避難所はあり得ないということを承知しておかなければならない。
 こうした認識の下で、アメリカとドイツ以外にも、ソ連、イギリス、フラン ス、日本などで原爆の研究がされるようになる。だが、ドイツを含めたアメリカ 以外の全ての国で、必要な技術開発に失敗し途中で断念している。アメリカだけ が、国家的なプロジェクトとして、20億ドルの巨費とノーベル賞学者を何人も含 む多数の有能な人材を投じ、戦争終結直前に原爆完成にこぎつける。
 もっとも、アメリカが原爆開発に本腰を入れるようになるまで、いくつかの ステップがあった。その1つは、1941年7月にイギリスMAUD委員会からアメ リカに提出された報告書である。そこには、次のように書かれていた。
 「いまや我々は、有効なウラン爆弾を作ることが可能だという結論に到達し た。…我々は、その(物心両面での)破壊的効果が大きいので、この種の爆弾の 生産のためにあらゆる努力がなされるべきだと考える。…最初の爆弾に必要な資 材は、1943年終わり頃までに用意できる。…爆弾の完成前に戦争が終わったとし ても、完全な軍備撤廃にでもならない限り、いかなる国も、このような破壊力を 持つ兵器を保持せずにただ攻撃されるという危険にはさらされたくないはずであ り、その努力は無駄にはなるまい」
 こうした報告書を受けて、1941年12月、アメリカ政府 ウラン型原子爆弾の 開発に正式に着手する。マンハッタン計画の始まりである。
 マンハッタン計画は、原爆開発をすべてに優先させた軍事的なプロジェクト で、資本効率や採算性などは完全に無視されていた。しばしば、軍事研究は科学 を進歩させる効果があると主張され、原爆開発の副産物として各種の新素材や精 製法を生み出したマンハッタン計画が、その実例として挙げられる。しかし、私 は、この主張は妥当でないと考える。このプロゼクトに課せられた技術的課題は 、主として、ウラン燃料の分離・濃縮、および、起爆装置の開発の2点である。 これを解決するために、スタッフは過剰とも言える資金と人材の投資を行った。 ウランの分離に関しては、最適な方法があらかじめわからなかったため、電磁分 離法、遠心分離法、気体拡散法の3つ(後に熱拡散法が加わる)が平行して研究 されたが、そのいずれもが、莫大な資金と資材を必要とするものだった。電磁分 離法で用いられる電磁石用に何千トンもの銀が購入され、その費用は数億ドルに も上ったし、また、気体拡散法の工場は、その敷地面積が17haにも及ぶ広大なも のであった。ところが、原爆の燃料として実際に利用できたのは拡散法で得たわ ずかなウランだけであり、多くの投資が無駄な研究に費やされた。起爆装置(主 として、途中からプロジェクトに付け加えられたプルトニウム爆弾のためのもの )の開発に関しても、きわめて技術的な課題だったにもかかわらず、ベーテやフ ォン・ノイマンのような天才的な理論科学者が動員され、爆縮(implosion)効 率の計算などをさせられている(もっとも、ノイマンは、戦後のコンピュータ開 発にこのときの経験を生かしているが)。要するに、資金と人材の投資が異常に 多かったために戦争終結のタイムリミットまでに原爆開発には成功したものの、 その資本効率はきわめて低かったと評せざるを得ないのである。平時に研究公開 の原則の下で同程度の投資を行った場合には、成功見通しに基づく投資シフトと 能力に応じた人材の配備がなされるため、資本効率はより高いものになるはずで ある(ただし、開発期限の問題はここでは論じない)。
 原爆開発の過程で行われた研究の中で、科学的に最も高く評価できるのは、 フェルミによる連鎖反応の持続実験である。1942年12月2日、シカゴ大学の敷地 に建設された実験的な原子炉で、フェルミに率いられた開発チームは、連鎖反応 によってウランから持続的にエネルギーを得ることに成功した。この実験は、単 に連鎖反応を起こさせただけではなく、中性子を吸収する制御棒を出し入れする ことによって連鎖反応を制御できたという点で、きわめて重要である。実験に成 功したときの模様を、アンダーソンは次のように回想している。
 「最初に、カチッ、カタカタ、カチッ、カタカタという中性子計数管の音が 聞こえた。次にカチカチ音がだんだん速くなり、しばらくするとそれは唸り音に なり、計数管はもはやついていけなくなった。…みんな、静けさの中で、レコー ダーのペンの振れがどんどん増大するのを見つめた。恐ろしいような静寂だった 。…突然、フェルミが手をあげて、パイル(=原子炉)は臨界に達したと宣言し た」
 フェルミは、良くも悪くも純粋な科学者であり、シラードと比べて社会的な 意識はかなり乏しかったようである(最初の原爆実験のときも、あまりに巨大な 爆発力に多くの科学者が呆然とする中で、フェルミは冷静に爆発規模の測定を行 っていたという)。しかし、私は、頑固なまでに科学だけに奉仕しようとするそ の姿に、なぜか好感を覚えてしまう。



【第1章の参考書】
  1. S.ワインバーグ著『電子と原子核の発見』(日経サイエンス社)  著名な素粒子物理学者が、文科系の学生向けに行った講義に基づく啓蒙書 。軽い読み物だが、初学者にはわかりやすいだろう。
  2. E.セグレ著『X線からクォークまで』(みすず書房)  より本格的に研究の発展過程を記述する。核物理の専門家の手になるだけ に、科学的な解説はしっかりしていて読み応えがあるが、社会的・文化的な側面 への言及はあまりない。
  3. R.ローズ著『原子爆弾の誕生』(紀伊国屋書店)  原子核研究の初期からマンハッタン計画へと到る歴史を、ジャーナリスト の視点から叙述する。科学が政治に利用される過程を冷徹に描き出しており、必 読の名著と言えよう。
  4. C.コーフィールド著『被曝の世紀』(朝日新聞社)  今世紀における核開発とそれに伴う放射能汚染の歴史を示す。客観的なデ ータも多く、参考資料として有用だろう。ただし、内容的にこの講義と重なるの は、前半の一部だけである。


©Nobuo YOSHIDA