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§3.制御論的アプローチ


 直接的に《意識》を論じる最初のステップとして、中枢神経系で生じる物理的過程の中から、意識に関与するものと、そうでない(無意識的な)ものを峻別する作業が必要になる。こうした段階を踏むことは、ともすれば迂遠なルートと思われるかもしれない。しかし、実は、《意識》の本質的な特徴──やや先走って言えば、異種データの連合をリアルタイムで行う過程でのハウスドルフ次元の拡大──を示す上で、この作業は避け得ぬものなのである。ここで着目するのは、神経活動における「意志機能」である。人間が意図的な行動を起こす際に、中枢神経系でやりとりされる膨大な情報の中で、意識の俎上に上るのはきわめて限られた部分でしかない。それが何であるかを明らかにすることにより、《意識》の特質がより鮮明になってくると期待される。

 現在、科学界で受容されている通常の見解によれば、人間の精神的な営みは、脳における神経活動に由来するとされる。特に、確定された目的を持つ意図的な行動については、大脳連合野から運動野に送られる指令によって制御されるとする見方が一般的であり、その生理学的な根拠も明らかにされつつある。具体的には、個々の部位間の線維結合に関する解剖学的な観察や、課題遂行過程での血流量の変化を調べる実験が行われている。だが、こうした科学的な見解は、内省によって捉えられる日常的な心理過程を、充分に説明し得るものではない。その理由は明らかである。すなわち、科学的な言説は、中枢神経系における生理現象を(イオン濃度や血流量のような)集団座標によって記述し、これを(目標値の設定やフィードバックなどの概念を援用して)制御理論の立場から解釈する――という方法論に依拠しているが、こうした手法は、あくまで精神活動の機能的側面を記述するにとどまり、基盤となる物理的実体を明らかにすることができないからである。特に、意識的過程と無意識的過程とを峻別する理論的根拠が欠落している。

 以下では、短時間で遂行される簡単な随意運動の発現に関する神経科学の知見を援用しながら、さらに、いくつかの仮説を付加することによって、意志機能を有する精神活動の実体論的な記述を試みる。

 主要な論点は次の2点である:

  1. 意識される内容は、最初に生まれた行動プランではなく、(運動を制御する中間段階で、異なった部位から前頭連合野に送られる)多くの情報を連合したものである。すなわち、《意志》は、1次運動野への指令に先立って形成されるというよりは、高次運動野での情報処理と協調しながら意識化される。
    もっと簡単に言えば、われわれは何をするか意識してから筋肉に指令を出すのではなく、行動プランとして何をするかが決まった後に初めて意識するのである。
  2. 制御指令の意識化は、異種情報の連合を通じて神経の興奮状態が不安定化され、アトラクタのハウスドルフ次元が急激に増大することに対応する。この主張は、意識レベルが中枢神経系における協同現象の次元数と量的に結びつけられることを前提とする。
    直感的な言い方をすれば、行動プランや知覚データのような性質の異なる情報のぶつかり合いによって生まれるものが意識なのである。
参照 意志と行為の時間関係

 意識される意志内容が、随意運動に関する目標の設定とその実現という時間軸方向の構造を示すこと、および、個々の筋肉収縮の情報が表象されないなどの選択特性を有していることは、いずれも上記1と2から導かれる。この点については、意志機能を有する精神活動に関する議論を通じて、徐々に明らかにされるはずである。

 議論の対象を、短期的な随意運動に限定した理由は、主に技術的なものである。指示された図形に目を向けたり指差したりするというような簡単な随意運動については、これまで多くの研究がなされ、利用可能なデータが蓄積されている。この種のデータの中には、サルを用いて(人間を対象としたのでは不可能な)特定部位の破壊実験を行ったものも含まれている。これらを援用することによって、憶測に頼らない具体的な議論が可能になる。ところが、事前に複雑なプランニングを行い、それに基づいて行動を起こすような状況は、無数のファクタが関与するため、厳密に制御された条件下で実験的に作り出すのが難しい。さらに、現実問題として、微小電極を刺入したり破壊実験を行ったりすることができないので、データもきわめて制限されている。こうした事情があるため、ここでは、実験心理学で扱えるような短い時間での随意運動に話を限った。また、意志的でない精神活動――眼前の光景をぼんやりと眺めたり、静かに瞑想に耽ったりすること――も、議論の基盤となるべきデータが乏しいので、あえて触れなかった。


《意志》の機能的側面


 高次の精神活動を議論するときに注意すべきことは、機能的な側面と実体的な側面を分けて考える必要があるという点だろう。前者に関しては、従来の神経科学の範囲内でも、かなりの程度まで説明することが可能である。しかし、後者の実体的側面については、新たな仮定を導入しなければ、(意識などについて)概念画定を行うことすら困難になる。ここでは、《意志》の機能的側面について簡単に述べておくことによって、後段で論じられる実体的側面に関する論点を明確にする。

 常識的に言って、人が「自由な」《意志》として思い描くのは、理性的な選択に基づいて(広い意味での)行動方針を決定し、この方針の下に身体各部に指示を与える“指令塔”としてのイメージである。これを制御システムの機能として見ると、ある時刻の系の状態と各種の入力(感覚情報や欲動など)に応じて、身体の各部への指令を出力として生成するプロセスとして捉えられる。こうした常識にしたがって、とりあえず、《意志》と呼ばれるものは次の性質を具備していることを要求しよう:

 これらは、いずれも行動方針を決定する過程に関わるものであり、《意志》の・機能的性質・と呼ぶことができる。

 機能的性質(1)〜(4)を原理的に満たすことができるシステムを考案するのは、必ずしも困難ではない。実際、制御の目標値を求める計算機構がカオス的な振舞いをする場合、時間発展が因果的(=必要充分な初期条件を与えれば、それ以降の系の状態が完全に決定される)であっても、いくつかの条件の下でこれらの性質を実現することが(原理的には)可能である。このことを順次示そう。

 (1)創作性カオス的システムの特色は、初期状態に微小な差異があるだけで時間発展の帰結が全く違ったものになる点にある。このため、系に加えた刺激が思いも寄らぬ秩序形成をもたらし、しかも、かかる結果を招来した原因を入力情報の中から特定できないというケースも起こり得る。こうした状況を大局的な立場から記述すると、系の内外に当初は存在しなかった秩序が内部発生したことになるので、現象論的に創作性が実現されたと言える。

fig04_08.gif  (2)合理性カオスと言っても全くランダムに振舞う訳ではない。例えば、系の時間発展を表す位相空間内の軌道が、ある領域に引き込まれて2度と出て来なくなることがあるが、このような軌道が漸近していく先(ω集合)は“アトラクタ”と呼ばれ、系の定性的な振舞いを規定する。ある種の系が合目的的に振舞うように見えるのは、目的となるいくつかの状態がそれぞれアトラクタに相当しているからだと解釈される。意志機能を実現する制御システムの場合、こうしたアトラクタは「歩行による前進」や「動く物体の注視」などの一般的な行動方針に対応しており、与えられた初期状態から出発した後、あたかも特定の目的を目指すかのように、これらのいずれかへと漸近すると考えられる。

 (3)持続性:系が特定のアトラクタに引き込まれていくとき、近傍の吸引領域(そこを通る軌道が全て当該アトラクタに到る点の集合)があまり入り組んでいないならば、有限時間の範囲で系はほぼ確定した状態に落ち着く。こうした漸近状態にある段階で系が指令を発し続けると想定すれば、制御の持続性に対する説明を与える。

 (4)適応性:時間発展の途中で系が外部からの入力を受け付けなければ、最終的に到達するアトラクタは初期条件によって定められる。しかし、実際には、時間とともに系が好ましくない状態に近づいていることが判明し、行動方針の変更を余儀なくされるケースもある。こうした状況に備えて、適応的な制御システムは、フィードバック・ループを介して修正を図る機能を持っている。この場合、系は完全に自律的ではなく、既に吸引領域に入っている系の状態を別のアトラクタの近傍へとシフトさせる補助機構を備えていなければならない。また、しばしばランダムな揺らぎを入力することにより、系がいつまでも同一アトラクタ周辺に留まるのを防ぐ仕組みも必要となる。

 こうした計算機構を有する制御システムは、意志が持つべき性質の多くを兼ね備えている。おそらく、物理学的な発想の持ち主は、この段階で人間の《自由意志》が解明できたと主張するだろう。しかし、現象学的直観によれば、これだけでは重要な要素が欠落していると言わざるを得ない。


先導性とフィードフォワード制御


 ここまで述べてきた(1)〜(4)の性質は、《意志》の機能的側面を表しているが、これに加えて、現象学的直観を通じて得られる性質である次のものを落とす訳にはいかないだろう:

 もし、カオス的振舞いを示す計算機構での物理過程がそのまま意識を構成するのならば、人の意識は、アトラクタに相当するいくつかの(準)安定状態を行き来するだけの一連の流れとなり、自らが率先して何かを実現しているという先導的な感覚は生じないはずである。逆に、先導性の条件が満たされているならば、精神現象としての《意志》には、随意運動に関する目標の設定とその実現という時間的な構造が見られることになる。

 意志的な精神現象が既存の法則に従属する受動的活動でないと自覚できるためには、少なくとも、(1)行動方針の決定は識閾下でなされ、かつ、(2)決定された内容が身体各部の制御に用いられることが必要である。第1の条件は、(行動指令となる)制御目標値の計算が意識から切り離された領野でなされ、決定された目標値が意識野へ投射されることを要求する。このとき、無意識的な計算機構が合理性を備えているならば、意識に上るのは、法則に束縛されずに卒然と立ち現れる合理的な指令内容だけになる。第2の条件は、制御機能を持たないランダムな想念を《意志》のカテゴリーから排除するもので、この条件を満たさないプロセスには、精神病理学的な症状である作為思考などが含まれる。

 先導性をもたらす条件に創造性(creativity)を加えなかった点に対して、哲学的な観点から批判がなされるかもしれない。これには、心理学的な事例をもとに反論しよう。すなわち、ある個人がとった行為が(客観的に見ると)外部からの指示にしたがっているにもかかわらず、行為に際しては指示内容が意識主体に隠されており、知覚を通じて事後的に投射された結果、あたかも先導的に実行したように認識されるケースが報告されている:
 (1)左右の大脳半球をつなぐ脳梁が切断された離断脳において、右脳が指示した行為であるにもかかわらず左脳が先導性を主張する。具体的には、てんかんの治療のために脳梁を切断した被験者に対して、(右脳だけが認知できる)視野の左側に左指で特定の図形を指示させる課題を提示して遂行させたケースがある。このとき、図形を認知して指を動かすことができるのは、右脳である。ところが、なぜ指を動かしたかを口頭で尋ねると、言語優位脳である左脳が、身体指令を発していないにもかかわらず、“自分が”率先して指を動かしたと答えることがある。このとき、指を動かした動機を質問すると、しばしば作話による理由付け(「この図形がおもしろい形をしていたから」など)を行う。
 (2)後催眠によって与えられた指示を、自ら「やりたい」と感じて遂行する。例えば、催眠中に「あなたは大根を生で食べるのが好きだ」と暗示を掛け、覚醒させた後にリリーサーとなる刺激を与えると、(催眠術の掛かりやすさに大きな個人差があるが)人によっては実際に生の大根をおいしそうに食べ始め、「自分は昔から生大根が好きだ」と答えたりもする。
 これらの事例が示すように、意志の先導性は、行動方針を決定する過程が非拘束的である──すなわち、外部から強制されずに「創造的に」何を行うかを決めている──ことを意味するのではなく、決定された内容が意識に現れる形式に依存していると考えられる。

 先導性を実現する最も簡単なモデルは、身体制御の目標値を求めるカオス的な計算機構とは別に、指令内容を投射するサブシステムを設定し、ここでの信号処理を意識化の機能と見なすものである。興味深いことに、こうしたモデルは、フィードフォワード制御を行うシステムとして、容易に構想することができる。

fig04_09.gif  フィードフォワード制御とは、外界の状況変化による影響を被る以前に、あらかじめ変化を予測しながら各部の出力を決定する手法で、高度なデータ処理能力を必要とする一方、目標値と結果の差異をフィードバック補償するだけの場合に較べて、応答が速いといった特長を持つ。例として、食品原料などを容器内で熱媒体によって加熱するケースを考えよう。原料の流量が変動する場合、一定の温度に加熱するためには、熱媒体の量を適切に調節しなければならない。ここで、目標温度と温度計の測定値の差を熱媒体ポンプにフィードバックして温度を一定に保とうとしても、温度計に熱が伝播するまでにタイムラグがあるため、温度が目標値に収斂せずにオーバーシュート(行き過ぎ)が生じやすい。これに対して、原料の流量を測定する流量計の値と現在温度をもとに必要な熱媒体の量を計算し、その値をポンプに指令すれば、より適切な温度調整を行うことができる。このように、将来の変化を予測して制御を行う手法をフィードフォワード制御という。

 人間の中枢神経系において、現実にフィードフォワード制御が行われていることは、脳神経科学の研究を通じて明らかにされている。最もよく知られているのは、無自覚的な運動を行う際の小脳の制御である。次の項目を参照のこと。

参照 小脳のフィードフォワード制御

 中枢神経系で行われているフィードフォワード制御が、意志機能に見られる先導性を生み出している可能性があることは、次のような考察によって示される。

 フィードフォワード制御の場合、状況変化を予測しながら目標値を設定してはいるが、不充分な情報に基づく予測は一般に誤りを含んでいるため、新規の情報をもとにリアルタイムで目標値を修正していかなければならない。こうした修正は、信号を中継する“1次運動野”に制御指令を投射する際に、これに随伴する形で同じ内容を“意識野”とでも呼ぶべきサブシステムに送り込み、ここで他の情報(人間なら感覚/記憶情報)と比較検討した上で、計算機構にフィードバックすることによって実現される。したがって、このサブシステムでの処理過程が意志内容を意識化するものであるならば、(1)行動方針は意識野に入力される前に(無意識的に)決定されており、さらに、(2)処理される情報が実際に身体制御に利用されるのであるから、先に述べた先導性の2要件を満たしていることになる。

fig04_10.gif

 以上の議論をまとめると、意志的な活動を実現する制御システムは、(1)制御目標値の計算機構がカオス的振舞いを示し、かつ、(2)フィードフォワード制御に用いる目標値が“連合野”に随伴発射される──という性質を備えているはずである。そこで問題となるのが、中枢神経系が現実にこうしたシステムとして機能しているかどうかでなる。


中枢神経系における意志機能


 ここでは、前段の議論を受けて、現実の精神活動を担っていると想定される中枢神経系が、「意志機能を実現する制御システム」の具体化と見なせることを簡単に示そう。

 意志機能が持つ諸特性(創作性〜先導性)の中でカオス的振舞いに起因するもの(創作性・合理性・持続性・適応性)に関しては、その起源を中枢神経系の性質に求めることに、原理的困難はない。神経興奮のプロセスが、多数の自由度が関与する非線形過程で、初期状態のわずかな相違が時間とともに拡大するカオス的な振舞いを示すことは良く知られている。したがって、「環境や身体の状況が与えられても、そこから行動プランを一意的に導き出すことはできない」という意味での創作性が成立する。また、神経細胞間の情報伝達部位であるシナプスは、興奮の多寡に応じて結合強度を変化させる能動的素子であり、合目的的な入出力特性を備えた神経回路を組織化する能力を有している。こうして自己組織化された神経回路に特定の入力がなされると、時間の経過につれて準周期性を示す連鎖的な活動パターンが優勢になり、持続的な興奮状態が暫く保たれることになる。こうした神経興奮のパターンは、合理性持続性を備えたアトラクタの役割を果たす。さらに、中枢神経系には多数のフィードバック経路が用意されており、わずかなタイムラグで環境の変化に応答できるという点で、適応性を示すことができる。

 一方、先導性をもたらすフィードフォワード制御というアイディアに関しても、中枢神経系の実態と大枠では合致している。記憶や感覚などからの膨大な情報を検討しながらリアルタイムで身体をコントロールすることが要請される中枢神経系では、状況変化に迅速に応答するためにフィードフォワード制御が多くの面で採用されている。人間に特徴的なことは、制御のための目標値自体が、細かな修正に応じられる《身体図式》としての具体性を備えている点である。例えば、「眼前の物体をつかむ」という一般的な行動方針が決定されると、手を動かしていく具体的なシークエンスが、(実行時の状況変化を考慮しながら求めた)筋出力の必要量を組み込んだ制御プログラムとして設定される。こうした具体性を備えたプログラムがサブシステム(“意識野”)に送られ意識化された場合、その内容は、身体運動のリアルなイメージとして実際の行動にわずかに先行し、これを導く形で意識に現れてくるだろう。

 「脳機能局在説」を援用しながら意志の特性を解き明かそうとすることに、違和感を覚える人もいるかもしれない。しかし、現在では、脳のどこかに意図的な運動プログラムを発案・実行する“主体”を帰属させることは、もはや滑稽な昔話でしかない。身体制御を行う機能としての意志は、脳のさまざまな部位が行う相互作用を通じて、結果的に実現されている。つまり、脳に“ホムンクルス”などいないのだ。

参照 脳に“ホムンクルス”がいるか?

 中枢神経系で実現される意志機能の先導性を明らかにするために、随意運動における運動プログラムの生成と階層的制御法について、もう少し詳しく説明していこう。

 随意運動の出発点となるのが、(体外/体内を含む)感覚および記憶からの情報をもとに、大脳(おそらく前頭葉)連合野で形成される抽象的な行動のプランである。しかし、こうしたプランは、身体各部の動きについての詳細を規定するものではなく、大まかな目標として措定されるにすぎない。時間的な構造を持った(どのようなタイミングで筋肉を収縮ないし弛緩させていくかという)運動プログラムは、(小脳や大脳基底核を含む)脳の異なる部位で階層的に組み立てられていく。現実の情報の流れは、錯綜した線維結合を介してきわめて複雑なルートを構成するが、ここでは、主たる道筋のみを簡略化して述べることにしよう。

 連合野から発せられた行動プランは、高次運動野(補足運動野、運動前野)に送られ、そこで、要素的な行動パターンを生成する大脳基底核や小脳の助けを借りながら、具体的な運動プログラムに練り上げられる。高次運動野では、個々の筋出力の設定までは行わず、物を指で掴むといった統合された動作を調節する。こうして組み立てられたプログラムは、中心前回に位置する1次運動野に送られる。この部位は、手指や唇など身体各部の動きと密接に結びついており、運動野の損傷は対応部位の麻痺をもたらす。1次運動野は、運動開始以前の準備活動も含めた高次の活動も行っているが、筋出力をコードした具体的な実行指令を脊髄や脳幹に送り出す中枢端末としての役割が大きいと考えられる。

 行動プランに基づいて高次運動野で生成された運動プログラムは、(各関節で骨をどの程度まで回転させるかといった)単なる制御情報だけではなく、制限や最適化などに関する多くのデータを含んでおり、情報処理におけるオブジェクトとして機能する。こうしたオブジェクト指向の処理が行われるのは、(特定の物体をつかむというような)身体運動の目標値から筋出力を求める問題が、数学的に不良設定(ill-posed) だからである。筋出力から身体運動を計算する場合とは異なって、同じ行動を実行するために必要な筋出力の解は一意的でないため、さまざまな条件――消費エネルギーを少なくするなど――を設定する必要が生じる。こうした詳細な条件設定を課すには、運動プログラム自体が、単なる制御指令にとどまらない身体についての具体的な情報を含んでいることが要求されるのである。

 こうしたオブジェクティブな情報を含んだ運動プログラムは、随意運動を遂行中の人に、運動する身体のイメージ(身体図式)として強く意識されている。実際、われわれは、眼前のコップをつかもうとする際に、現実の体性感覚とは異なる“動きつつある手”を感じているはずである。この“感じ”は、現実の運動にわずかに先行しており、リアルタイムで入力される感覚情報と必ずしも一致しない。本を読みながら何気なくコップの方に手を伸ばしたものの、定位を誤って何もないところをつかんでしまったとき、あるいは、階段のいちばん上まで達したのにもう1段あるつもりで足を出したときなど、先行する運動のイメージと感覚入力のズレをいやというほど実感することになる。とは言うものの、高次運動野で感覚情報を適切に処理しながら運動プログラムを生成している正常な中枢神経系においては、あたかも身体の動きを先導するかのように身体イメージが表象されることになる。

 以上の考察から予想されることは、《意志》の先導性(initiative)に関与しているのは、高次運動野で生成される運動プログラムを巡る情報の流れである。すなわち、運動プログラム生成までのプロセスが識閾下で行われ、これを感覚/記憶などの諸他の情報と連合する過程が意識化されるならば、先導性を示す《意志》が成立することになる。解剖学的には、この種の情報の流れを特定することは困難だが、少なくとも、運動前野から前頭前野(ブロドマンの9野など)への線維結合があり、身体図式を含む運動プログラムが、(ルリアらによって“最も高次の連合”を行うとされた)前頭連合野で処理されている可能性は高い。そこで、こうした連合が実際に行われていると仮定して、その過程のみが意識化されると想定することが妥当かどうかを検討してみたい。

 なお、上述の先導性は、あくまで短時間のうちに遂行される行動に関するものであり、長期的な計画を伴う場合には、前頭前野における注意機構の発現など、より複雑なプロセスについての考察が必要になることを付言しておく。


意識化のメカニズム


 中枢神経系の活動は、基本的には、個々の神経細胞の電気的な興奮と、シナプスでの化学的な情報伝達から成る。前者は、ホジキンとハックスリーが明らかにしたように、膜電位とイオン濃度を集団座標とする協同現象であり、偏微分方程式のセットを用いて近似的に記述することが可能になっている。後者は、エクソサイトーシスによる神経伝達物質(セロトニンやアセチルコリンなど神経細胞ごとに決まっている)の放出など一連の生化学的な過程として、解明が進んでいる。このほかにも、神経ペプチドによるシナプス効率の微調整や、グリア細胞の電気的ポテンシャルがもたらす効果など、必ずしも研究者の間で意見が一致していない部分もあるが、基本的には、従来の科学的手法で記述可能なプロセスであることが、ほぼ合意されている。このように、中枢神経系の活動に関して、要素的なプロセスが科学的な記述の枠組みに納まること、しかも、脳のどの領野も同じような物理的/化学的構造を示していて質的な差異が見られないことは、特定のプロセスのみが意識化される事実を理解し難くしている。

 前段で示唆したように、短期的な随意運動の場合、運動プログラムと感覚/記憶情報とが連合される過程だけが意識化されると推定される。したがって、ここで問題としなければならないのは、このプロセスが、他の処理過程といかなる点で異なっているかという点である。明らかに神経細胞における電気化学的な反応そのものには質的な相違はないので、差異があるとすれば情報理論のアプローチによって究明されるはずである。ただし、「意識がある」という事態は本人とって疑い得ない事実なので、単なる形式的な差異ではなく、物理的な違いとして記述されなければならない。以下では、「情報理論によって究明される物理的な差異」という二律背反的とも思えるものの実態を示そう。

 直ちに言えることは、運動プログラムを生成するまでの活動は、機械的な変換作業と解釈できる点である。例えば、手を動かす目的軌道x(t) が指定された場合、これを実現する筋出力u(t) を求める作業は、xをuの汎関数x=F[u]と置き、適当な条件の下でその逆関数F-1[x]を計算することに相当する。実際、小脳が行っているのは、こうしたタイプの(コンピュータで代替できるような)演算にすぎない。また、大脳基底核も、適当な手がかりをもとに記憶されている行動パターンをリリースするという機械的な役割を担当している。その黒質緻密部のドーパミン性ニューロンが変性/消失することによって発症するパーキンソン病では、自発的に行動が起こせず歩行が困難になるケース(アキネジア)が見られるが、歩幅を示す線を床に引いておくと歩くことができるという。 このように、外見上は複雑に思われる行動プログラムも、比較的単純で機械的に処理できるような要素を組み合わせることによって作られている。したがって、運動プログラムを中枢における神経興奮のパターンとして見た場合、時間的/空間的な相関の小さい多くの部分に分割することが可能となる。

 これに対して、運動プログラムと感覚/記憶情報を連合させる過程は、情報処理に質的な差がある。このとき、環境や身体の状況を踏まえながらリアルタイムで一連の運動を制御することになるので、行動の各部分が独立ではなくなり、近接する状態と強い相関を持つようになる。例えば、下ろそうとした足が犬の糞に向かっていることに気づいた場合は、その時点での身体図式をもとにして筋出力を変化させて、次の瞬間に予想される着地の位置をずらすようにするだろう。それまでは、ちょうど糸に通したビーズ玉のように、要素的な行動パターンをつなぎ合わせただけだった運動プログラムが、感覚/記憶情報と連合させられることによって、各部分が互いに密に関連しあう統合的プログラムに練り直されるのである。

 このことは、他の部位での情報処理過程と比較すると、より明確になる。例えば、後頭視覚野での視覚情報の処理は、特徴的なパターンの抽出を中心的に行うもので、教師付き多層パーセプトロンのような比較的単純な人工装置によって、かなりの程度までシミュレートできる。このような情報処理は、円形の視覚像に関する入力から円をコードしているニューロンの興奮に到るといった機械的/単線的なプロセスであり、アトラクタが(ハウスドルフ次元1の)リミットサイクルになるような単純な力学系のモデルで近似することも可能である。

 意志的制御に伴う連合過程での情報処理は、機械的・単線的なプロセスに分解することが不可能である。別の言い方をすれば、連合された情報は、要素的な情報の直積の形で表現できない。眼前のコップを手で掴む動作にしても、筋出力に関するプログラム、コップとそれに漸近する腕の視覚像、腕の状態を伝える体性感覚、かつて物を掴んだ経験から得られた学習記憶──などを複雑に組み合わせなければならない。「これを掴もう」という意志がなければ、コップと腕の視覚像は、互いにさしたる相関を持たない別個の対象として処理されたはずである。しかし、ひとたび運動プログラムが発令されるや、フィードバック情報として活用するために、両者の関係を運動プログラムや学習記憶などと結びつける必要が生じる。一般的に言えることだが、全く異なった情報を組み合わせるよりも、似通った情報を比較し差分をとる作業の方が、処理機構にかかる負担は大きい。例えば、運動プログラムで想定されたものに較べて目で見たコップの大きさが異なるとき、どの部分が修正されるべきかを分析し、その上で、指の開き方についての筋出力の差分プログラムを作成して、直ちに送出することになる。

 こうした膨大な作業をリアルタイムで遂行する過程で、前頭前野には、各種感覚や記憶、運動プログラムなどの情報を組み合わせた形で含む神経興奮が生じる。このプロセスは多くの集団座標を含む協同現象であり、その実体としての“構造物”が高次元φ空間に形成されることになる。連合過程における情報の非分解性は、物理的には、高次元φ空間の“構造物”の非分解性と直接に対応していると考えられる。

 ここで重要なのは、当該“構造物”のハウスドルフ次元が、情報の連合の結果として、きわめて巨大な値になっている点である。ごく単純化して表現すると、連合される以前には、運動プログラムは「A→B→C→…」という1次元的な連鎖にすぎなかったのに、連合された段階では、「AとA′の差がこれこれになった場合は、Bの状況変化に応じてCにこの程度のバイアスを加え…」といった組み合わせになるため、A,B,C…の次元が全て足し合わさって膨大な数に達するのである。

 こうした知見をもとに、前頭前野における選択的な意識化を説明することが可能になる。私は、連合過程がハウスドルフ次元の爆発的な巨大化であることを踏まえて、きわめて単純に、“構造物”の次元数が(臨床心理学的な意味での)覚醒レベルを表すと主張したい。すなわち、行動プログラムの生成までは、興奮パターンが低次元の協同現象の積の形になっているため、いまだ覚醒レベルが低く識閾下のプロセスとなっている。ところが、感覚や記憶情報とリアルタイムで連合されると、異種データを統合する興奮現象として次元数が跳ね上がり、覚醒レベルが《自意識》の段階に達して、具体的な身体図式を伴った意識現象となる。この仮説は、意志的な制御において選択的な意識化が行われる理由を、直接的に説明する。



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©Nobuo YOSHIDA