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理論の評価



 科学理論の古典的な評価法では、理論の妥当性は,当該理論が自然現象を正し く記述しているか否かで判定された。しかし、現代科学では、機能主義の観点か ら理論の有効性を評価する方法論が確立している。
 ある科学理論が定説として採用されるに到るまでには、受容と正当化というニ つの段階を経るのが一般的である。ここに受容とは、科学者社会において当該理 論が研究に値すると認められ、実際に一部の学者が研究に着手することを指す。 また、正当化とは、さまざまな検証法によって理論の有効性が確認され、その時 点での定説として迎えられることを意味する。近代までの科学研究では、特定の 学者が理論の案出からデータとの比較まで行うことが多く、受容と正当化が切り 離せない場合がしばしぱ見られたが、こんにちのように研究の分業化が進んでい る状況では、両者は厳密に区別されねばならない。

a.理論の受容


 初めに、理論の受容について議論しよう。
 初歩的なことだが、理論が受容されるための最低条件として、これが学問とし ての体裁を整えていることが要求される。この条件としては、次のようなものが 想定される : 《1》体系性(理論は命題の羅列ではなく、何らかの体系を構成し ていなければならない);《2》相互依存性(理論は完全に孤立していてはならず、 他の領域と多少なりとも相互に依存していることが必要である);《3》有効性(理 論は何か無意味でない帰結をもたらす可能性を持つものでなければならない)。 いま、このような要件は満たされているものとし、その上で提出された理論が科 学の世界で受容されるにはどのような性質を備えていなけれぱならないかを、以 下に考察していく。
 ある科学理論が科学者の間で受容されるためには、それが理論としての内在的 な《能力》を有していることが必要である。この能力を、多くの物理学者が採用 している用語法に従って、《予言能力》と呼ぼう。ただし、ここで謂う予言能力 とは、必ずしもその時点で発見されていない現象を予見する能力ではなく、アド ホックな仮説を設けなくとも、理論の定義ユニットから独立で、かつ実験や観 察と比較できる(従って反証が可能な)理論的命題を提出する能力を指す.前節 の概念を援用すれば、自律的に機能バケットを生成する能力である。例えば、N 個のバラメーターを含む理論では、多くの場合、これらを調節することによって 大した困難もなくN個までの(極端でない)観測値に理論の予測を一致させられ る。従って、理論の定義ユニット(この場合は調節可能なパラメーター)から独 立な理論的命題とは、N+1番目の予測値を意味する。一般に、理論がこのよう な予言能力をもつならば、明らかな欠陥{内的矛盾や根拠のない仮定)がない限 り、その理論は(少なくとも暫定的に)受容される。逆に、科学者が理論を考案 する際にも、その理論が何を予言できるかを点検することから始める場合が多く、 科学者独自の評価基準を浮き彫りにしている。

 ここで、科学で要求される《予言能力》の意味を明確にするために、占星術で 行われている予言と比較してみることにしよう。
 一口に占星術と言ってもさまざまな流派があり、ホロスコープを利用する古代 パビロニアと五行説と結びついた中国とではその方式に大きな隔たりがある。し かし、ここでは一般的な通念に基き、生誕時の太陽・月・惑星の位置から個人の 運勢を一定の法則に従って予言する術を想定しよう。この場合、占星術は決して 直観に頼ろことなく系統的に予言を与えることになり、理想的には術者によらず 一定の結果が得られるはずである。具体的には、「火星は戦争と戦闘をつかさど り、月と水星の敵、金星の友である」のような命題に基礎を置き、きらに、惑星 の黄道十二宮での位置や相互の距離関係を勘案して予言を立てるという〔21〕。こ のような手法は、(概念化が不十分であることを別にすれば)科学的方法論にき わめて類似したものである。しかも、個人の運命に関する限り、占星術の方が科 学よりも予言の的中率が高い。なぜなら、《1》占星術の予言はそれを知った人物の 行動に(意識的・無意識的な)影響を及ぼし、結果的に予言が成就する方向に偏 向させることも可能である、また、《2》そもそも科学には、個人の生活史を反映さ せられるほどの複雑なモデルは現存しない――からである。
 にもかかわらず、おそらく大半の科学者は占星術に予言能力がないという点に 同意するはずである。その理由は次のようなものである。すなわち、科学者が行 う予言とは、援用する理論の定義に当初から含まれているものではない。当該理 論の適用範囲内で可能な任意の条件を課した――「核融合炉の重水素と三重水素 の比率を変えた」、あるいは「神経伝達物質の結合を阻害する物質を投与した」 などのような――「場合に一体何が起きるかを予測するのが科学である。これに対 して、占星術では、誕生日時などのごく限られた変数を別にすれば、予言内容自 体は占星術を構成する基本命題の中に既に含意されていると考えられる。いわく、 「12は木星の周期の数で、<成功>と照応する」ので今年は12年前に遂げたのと 類似の成功を再び収められると主張したとしても、この予言は引用した基本命題 を単に反復しているに過ぎない。しかも、基本命題と予言がこうして直接的に結 びつけられているので、現実の多様牲に対応するためには基本命題自体きわめて 曖昧な表現を取らざるを得ず、その結果、これを解釈するという名目でさらに多 くの基本命題が導入されることになる。このように、占星術は、予言を生成する のではなく単に膨大な命題の集積の中から適当な命題を探し出しているだけなの であり、科学で謂う所の《予言能力》、すなわち自律的に理論的命題を作り上げ る能力は備えていないと主張できる。

 次に、予言能力の多寡が、ある理論を科学者が受容するか否かの決断に本質的 な影響を与えるという点を考察しよう。この命題を支持する実例は、科学史を辿 れば容易に見いだすことができるが、ここでは、素粒子物理学における大統一理 論とサプ・クォーク理論との角逐を見ることにする。

 大統一理論もサブ・クオーク理論も、現在までに観測されている素粒子の分類 を説明するために考案された理論(=モデル)である。現在の分類によれば、全 ての素粒子は、物質の構成要素であるフェルミオンと相互作用を媒介するゲージ ・ポソン(および、存在が確認されておらず疑問視する向きも多いスカラー・ポ ソン)に分類される.このうちフェルミオンは、《世代》と呼ばれるクラスに分 けられ、各世代での素粒子の種類や相互作用の形式は共通だが、一般に、第1世 代、第2世代…と進むごとに質量が大きくなる。一つの世代に属するフェルミオ ンは(現時点では)クォークとレプトンに分けられ、それぞれ《弱い相互作用》 と関連するアップとダウンの2つのフレーパー状態がある。さらに、クオークに は、プルー/グリーン/レッドの3つのカラー状態があリ、《強い相互作用》の 起源になっている。第1世代について図で表せば、次のようになる。
クォークレプトン
アップgbrν
ダウンgbr


 ここで問題となるのは、上の分類法ではクォークとレプトンが独立の粒子とし て取り扱われているのにもかかわらず、現実には、両者の電荷は厳密に整数比を なすという事実である〔23〕。従って、クォークとレプトンを統一するより根本的 な理論が存在すべきことは間違いない。このようをクォークとレプトンの共通性 を説明するのに、大統一理論は、ある世代に属する全ての素粒子は実は同一の粒 子の異なる状態であると仮定し、サプ・クォーク理論は、これらは同一の基本粒 子から成る複合粒子であると主張する〔24〕。直ちにわかるように、この二つの理 論の間には、統一の水準に大きな隔たりがある。すなわち、大統一理論ではただ 一つの粒子から全ての粒子状態を導こうとするため、内部空間の次元が比較的大 きい(自然な理論では10程度〔25〕)と仮定して、その自由度から現実の素粒子の 多様性を説明しなければならない.これに対して、サプ・クォーク理論では基本 粒子の個数を複数に選べるので、その組合せから多様性を説明できるという特長 があるが、構成要素となるいくつかの基本粒子のの性質をただ一つの原理に還元 することはそもそも理論の範囲外なのである。
 このように、大統一理論とサプ・クォーク理論はいずれも素粒子を統一的に理 解するための理論粋であるが、科学者による受容のされかたには大きな相違を生 じた。実際、標準理論がほぼ確立され、次の課題としてクォークとレプトンの統 一が目標とねった1979年以降に限ると、大統一理論に関する論文数はサプ・クオ ーク理論のそれを常に一桁上まわっている〔26〕。このほか、研究会やシンポジウ ムの開催数から見ても、同様の傾向を如実に読み取ることができる。
 ところが、こうして圧倒的多数の科学者に大統一理論が受け入れられたのは、 これが成功Lた理論だったからではない。事実、大統一理論の予測は、陽子の崩 壊にせよ宇宙初期における磁気単極子の生成にせよ観測データとは合致せず、困 難が生じるたびにアド・ホックな仮定を付け加えてこれを回避してきたというの が実状である。また、(数え方によっては数十にのぼる)素粒子の多様性を説明 するのに、構成要素をさまざまに組合せる可能性を無視して、そもそも自然には それだけの自由度があると主張するのは、日常的な自然観から見て無理がある。 にもかかわらず、この理論がかくも大々的に受容されたのは、(筆者の見解によ れば)これが他nどの理論よりも確定的な予言を生成する能カをもっていたから である。例として素粒子の質量について考えると、束縛状態の結合エネルギーを 求める計算技法が完成していない現状では、サプ・クォーク理論によって予言値 を与えることは困難であろが、大統一理論では、モデルを(変数として残される パラメーターがないように)完全に定義すれば、既存の計算法を用いて自動的に 各粒子の質量が求められる。計算値が観測データと一致しない場合は、そのモデ ルを捨てて別のモデルを考案すれば良い。このような議論の進め方は、生成され た理論的命題がデータと一致するようになるまで定義ユニットの修正を行うとい う現代科学の典型的を手法であり、そうした方法論を可能にする理論を科学者が 受容するのは、むしろ当然のことと言える〔27〕。従って、データと多少の食い違 いが生じた程度では理論枠自体を破棄するには到らず、モデルを手直しする方が 好まれるのである,

 理論の受容に際してこのように予言能力に重きを置く評価法は、自然科学の領 域で発見的方法論としての帰納法の用い方に大きな変化をもたらした。次に、こ の問題を見ていくことにしよう。
 現代的な帰納法では、多数の観測結果を統計的に処理することによって(多く は数値的な)データを作成し、これを使ってある仮説の妥当性を適当な信頼度の 下に検定するという作業が行われる。具体的には、「条件Cの下では反応Rが生 じる」(ここで《条件》や《反応》は一般的に境界画定できる事象を指すものと する)という仮説Hの妥当性を調べるには、条件Cが満たされている標本群と満 たされていない対照群を観察し、その結果から、「仮説Hは危険度Pで検定され た」という命題を導き出せぱ良い〔28〕。もちろん、多くの(特に基礎科学の)領 域ではこうした統計的手法が援用できるほどのデータが集まらず、危険度がきわ めて大きくなるか、または全く推定できないことも稀ではない。しかし、帰納的 な命題を提出するための前提が統計数学の考え方であることは、科学者の間では 広く認識されている。
 ここで重要なのは、上のようにして導出された帰納的命題が本質的に予言能力 を持っていないという点である。確かに、この命題を使ってさらに観測を続けた ときの結果を予測することはできる。だが、そうして得られる予測は、命題を導 くのに使ったデータと形式的に同一のものでしかなく、データに含意されていな かった新しい内容を生成することは不可能である。従って、帰納的命題を軸に構 成されている学説は、単なる観測データ以上のものではなく、科学理論として学 界に受容されろことはない〔29〕。逆に言えぱ、帰納的手法を使って理論を建設す るためには、与えられたデータとは形式の異なる予言を生成するモデルを考案す る必要がある。
 例をあげて説明しよう。現在の分子生物学の知見によれば、核染色体の遺伝子 コード(ヌクレオチドの配列とタンパク質との対応関係)は全ての生物種で同一 であると考えられている。しかし、地球上に棲息する生物種の多様性(特にバク テリアに見られる膨大な遺伝子変異)とこれまでに実験的に解明された遺伝子コ ードの少なさを考慮すれば、統計的な帰納法では、この仮説はかなり高い危険度 を伴うことになる。にもかかわらず多くの生物学者がこの仮説を支持しているの は、これを帰納的命題と見なさず、より根本的な理論からの論理的帰結と考える からである。こうした根本的理論の候補としては、生命発生の初期の段階でアミ ノ酸とRNAの偶然的な会合によって採用されたコードがそのまま固定されたと いう偶然凍結説と、アミノ酸とRNAの立体構造に基づくより効率的なコードが 分子進化での淘汰を通じて残されたという立体化学説があるが〔30〕、いずれの観 点に立つにせよ、上の仮説には、単なる観測データの統計的結論以上の意味づけ がなされていることは明らかである。また、だからこそ、細胞内器官の遺伝子コ ードの一部が核染色体とは異なるという発見があったときも、古典的帰納法のよ うに理論そのものの危機を招来することなく〔31〕、分子進化において進化樹の分 岐を想定するという理論的説明で切り抜けることに成功したのである。

 ここまでの議論で示してきたのは、現代科学が、理論を受容する段階で予言能 力の有無に第一義的な重要性を見いだすという独得の評価法を採用している事実 である。こうした評価法は、今世紀における機能的科学の発展を通じて獲得され てきたもので、人間にとって理解しやすい形式で記述された説明的な理論よりも、 自動的に予測を生成していく数理的理論の方が最終的に信頼できる結果を与える という経験を反映していると考えられるn

b.理論の正当化


 科学者社会に受容された理論に対しては、理論的む研究および実験・観察デ− タとの比較を行うことにより、その正当性いかんを判定しなむければならない以 下では、この点を簡単に見ていくことにしよう(「簡単に」見る理由は、この問 題は既に多くの先人にしゃぶり尽くされ、もはや議論する余地があまり残されて いないからである)。
 正当性の判定に当たって鍵となる概念は、予言能力の有効性、すなわち、当該 理論を(道具として)用いて何らかの作業を行うに当たり「役に立つ」予言を与 えるか否かである。ここで注意しなければをらないのは、有効性の検証は理論の 運営として機能主義の観点から行われ、必ずしも古典的な科学が目指したような 「正しい」理論であることが要求されないという点だろう。極言すれば、科学理 論は有用でありさえすれば現実的である必要すらない。実際、こんにち有効性が 認められ正当なモデルとして通用している理論の少なからぬものが、その基礎に 現実から乖離した前提を置いている。その中には、量子電磁気学のように、同一 時空点で演算子積が定義できないという内部矛盾を抱えながら、《くりこみ》の 処方箋(不明な相互作用は仮想的な点相互作用にくりこんでしまうという手法) を利用すれば実験と驚くべき精度で一致する予測値を生成するために、理論とし て確固たる地位を獲得しているものもある。
 理論を正当化する基準がその有効性にあるという事情は、実は、受容の際に予 言能力の有無を責視する評価法の基盤とをるものである。このことは、《予言》 と並ぶ学問的論述の形式である《説明》と対比して、なぜ後者ではなく前者が重 要なのかを考えれば、一層明らかになろう。ここに《説明》とは、与えられたデ ータの概念的構造を、直観的に把握できるとされる別の説明原理と関連づける論 述で、宗教的・哲学的な議論にしばしば用いられる(雀が落ちたのは神の意志で ある!)。明らかに、《説明》は議論の対象としては所与のデータを利用するだ けで、それ以外の現実の事象には一般的には言及しないため、その説明を別の局 面に活用して役立てることはできない。従って、有効性に重きを置く限り、説明 的なだけの学説は正当化できないことになる。もちろん、現実に当の説明が正当 である可能性は否定できない。しかし、白然界の複雑さと人間の知的能力の限界 を比較考量すれば・その蓋然性はきわめて小さいと言えよう。こうして、説明的 なだけの学説に対して冷淡になる科学者特有の性格が形成されることになる。
 有効牲を判定する最も簡単な方法は、理論的な予言が現実の実験・観測のデー タを誤差範囲内で再現するか否かを調べることで、この結果に基づいて当該理論 を採用するか破棄するかを決定すれば良い。しかし、現代科学においては、こう した素朴な検証法は一般に完全には実施できない。なぜなら、現在のように理論 が機能的に細分化されている現状の下では、実験・観測データと比較できる予言 を生成するためには。多数の理論を組み合わせなければならず、たとえデータと 理論に食い違いが生じたとしても、それだけでは部分的な修正で済むか、理論体 系全体を破棄しなければならないか、判定できないからである。
fig  こうした状況に対処するために、科学における評価法として、(一部の精密理 論を別にすれば)定義ユニットを交換した結果を比較対照しながら、最も妥当な ユニットを採用するという手法が用いられるのが一般的である。すなわち、定義 ユニットのセット{a}をもつ理論Aと、他の部分は(概ね)共通で{a}の部 分が{b}に差し換えられている理論Bの結果を比べることにより、A,B(あ るいは{a},{b}、のいずれを選択するかを決定するのである。このように Aと競合する理論Bを「対抗理論」と呼ぶ。科学理論の評価は、 対抗理論が提出されて初めて意味をもつことが多い。例えば、 理論Aの予測とこれに対応する実験データが図1のような関係 になったとしても、これだけでは理論Aの正当性は明らかでは むい。一般に、それのみで(他 のあらゆる可能な理論を排除して)特定の理論の正当性を検証できるような「決 定実験」なるものは存在しない。しかし、Aにおいて不確定要素と見なされるユ ニットaをbと交換した理論Bの予言が図2のグラフで与えら れたならば、Aは(より根本的な理論転換が起きるまでの間) 正当な理論と認められることになる。 fig
 このほか、有効性を検証する場合に、理論の適用範囲や誤差 の評価が問題になるが、これらについては各理論に即応した専 門的な議論が必要となるので、ここでは取り上げない。

©Nobuo YOSHIDA