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理論の構築



 歴史的に見ると、科学理論を概念的に構成する手法は二段階にわたって進展し てきたことがわかる.すなわち、19世紀中葉から今世紀初頭にかけて整備された モデル化の手法、および今世紀中葉以降に発展したシステム論的手法である.本 節では、このうちモデル化の手法を現代科学における理論構築の本質的要素と見 なし、その際に行われる具体的作業について考察することにしよう。

 科学が自然界の本質を開示する世界知ではなく、現象を有効に記述する技法で あることを最初に明確に意識し、その観点からモデル化された理論を積極的に採 用したのは、おそらくマクスウェルであろう。その電磁気学の建設途上において、 彼は電磁気的な作用を伝達する媒質の歪や渦動を想定することによって電磁場の 基礎方程式を導入したが、後になると、媒質に関する議論は系の性質を与える具 体例のデモンストレーションであるとし、これに代わる説明法が他に無数に存在 することを示唆している〔1〕。従って、電場や磁場の概念は、背後に明確な実体 を想定できないまま、現象の法則性を記述するための道具として使用せざるを得 ない。こうして、結果的にマクスウェルは、電磁気学の方程式系は有効な記述体 系に過ぎないとする科学哲学的立場を承認することになった。科学理論に対する 同様の見解は、方程式は経験を超えて諸事象を理想化するものだという形で、ポ ルツマンによって表明されている〔2〕。間違いなく19世紀最大の二人の物理学者 が示したこのような科学観は、たとえその時代に最も流布した思想でなかったに せよ、科学を哲学的な世界観から切り離して精緻な数学的理論として構成する彼 らの方法論の礎となリ、ひいては現代科学の離陸に到る道を切り開いたものと考 えられる〔3〕。
 科学史が語る所によれば、方法論の展開にはこの後もかなりの好余曲折が見ら れるが、ここでは歴史的変遷はさておいて、理念型としての「モデル化された理 論」を考察しよう。はじめに注意しておくが、本章で謂う所のモデルとは、実体 に関する直観ないし哲学的世界観に煩わされずに一定の要件をインプットしさえ すれば必要な結果が求められる機能モジュールを指し、理論を具体的にするため に利用される狭義のモデル(神経回路理論のマカロック/ピッツのモデルや大統 一理論のSU(5)モデルなど)とは異なる意味をもたせている。このように機 能モジュールとしてモデル化された理論は、その概念枠や機能、適用範囲が明確 に定められねばならないため、理論を構築する際にはこの要件を満たすための作 業が必要となる。以下では、こうした作業を、(i)概念化、(ii)理想化、(iii)数理化の 3つ段階に分けて、その具体的な内容について見ていくことにしよう。

(i)概念化 :  科学理論をモデルとして明確に記述するためには、理論で使わ れる話用語を外延が指定できるような形で内包的に定義しておくことが望ましい。 このような定義の作業を、本章では理論の概念化と呼ぶことにする。
 当然のことながら、科学的概念は、決して科学全体を厳格に支配するものでは なく、多くの不定性を含んでいる。
  1. 科学的概念は、一般に厳密に定義されているのではなく、異なる理論に流 用したり理論の発展に応じて変形する余地が残されている。 【例】「遺伝子」の 概念は、生物学理論の最上位層では遺伝形質の素因子として緩やかに定義されて おり、集団遺伝学にも分子遺伝学(「偽遺伝子」も登場する!}にも利用できる。 また、「出産時ストレス」のように、異常児の多発性の原因として概念のみを先 行して与える場合もある。
  2. 科学的概念はパラダイムの転換に連動して変化していくものであり、学界 の共通認識として揺るぎない形で固定されるには長期間を要するのが一般的であ る。 【例】近代物理学における「質量」の概念は、全ての物体に備わっている示 量数に始まり、ラプラス的な世界観の下で各質点に与えられた(マッハによれば 未定義の)定数としての地位を獲得したものの、特殊相対論によって運動に依存 して変化する量に読み直され、現在では方程式に特定の項に現れる定係数と見な されるに到っている〔4〕。
  3. 科学的概念を自律的に定義することは、科学の全ての局面にわたって可能 なわけではなく、こんにちなお少なからぬ科学的命題が日常的な直観を頼りに語 られている。その事例は、相互依存関係がきわめて複雑で還元主義的手法が通用 しない対象、なかんづく生理学的システム(免疫応答や学習記憶を司る系など) を取り扱う理論に見いだすことができる。

 以上の議論から指摘できるように、科学的概念は一般に理論を分節化する際の メルクマールに過ぎない。結果的に、方法論としての概念化も、安定した科字理 論の確立に直結することはなく、理論を構築する過程での一時的措置にとどまる 場合も稀ではない.
 にもかかわらず、たとえ厳密でも全般的でもないにせよ、諸用語に内包的な定 義を与えようとする概念化の作業は、日常的直観から切り離された自律的なモデ ルとして理論を確立するために必要不可欠であり、さらには、科学的議論が非科 学の領域にどこまで通用するかという領域画定の役割をも担っている。このこと は、科学的概念に染みっいていた生活世界の残洋が無用な哲学的議論を惹き起こ した実例――古くは「潜勢力」としての意味を与えられていたエネルギーに関す る概念的混乱から、新しくはアロステリック効果を下敷にした偶然か必然かの論 争〔5〕――を想起すれば理解できるだろう。こうして、概念化に際して最も重要 な過程は、理論の構築に有害な生活世界の諸要素をいかに排除するかにあること がわかる。
 この点を明確にするために、ここでは生物学における「適応」という概念を例 として取り上げよう。一般に適応とは、与えられた環境の下でより生存に適した 形態、機能または行動の獲得を表す概念であり、その内容がきわめて広範にわた ることから、もともと対立する立場であるはずのラマルキズムにもダーウィニズ ムにも理論を記述するためのキーワードとして同様に採用されている。しかし、 引用法がいかに多面的であろうとも、科学的概念としての「適応」は、日常的用 語法とは質的に一線を画するものである。実際、日常的な意味で「適応する」と は、与えられた環境に最もふきわしい形態等を獲得していることを指すが、この 立場からは、アフリカの大地に適応していた猛獣が動物園の狭い艦に移されてな おかつ故郷にいるときより長生きできるという事実が説明できない。こうした困 難を回避するため、多くの科学理論では、適応形態を環境の一意的関数とせず、 特定の条件の下で形態等についてのパラメーターを可能な範囲で変化させたとき 種の生存確率が極大になる点と見なしている〔6〕。この結果、適応とは、決して 生物種にとっての最適戦略ではなく、むしろ漸進的な変化の行き詰まり現象とし て把握することができるのである。観測データによれば遺伝的多型性が意外に豊 富(ショウジョウバエで遺伝子座位の約30%)であることから、低い淘汰圧の下 で遺伝子浮動による緩やかな進化が実現しているという可能性は高く、上記の適 応概念の妥当性を傍証している。
 如上の議論から読み取れるのは、科学的概念が日常的直観とは別個の論理で定 義されており、それゆえにモデル化された理論での議論が可能になっているとい う科学理論の構造である。しかも、既に述べたように、ここで謂う所のモデルが あくまで特定の範囲でのみ通用する機能モジュールに過ぎないものである以上、 科学における諸概念も、過度の一般化を避けて、モデルが機能することを基本日 標として定式化されていることは見やすい。
 もちろん、常にこうした概念化が功を奏する訳ではない。例えば、高度に抽象 的な学問である数学において開被覆によって明確に定義されているハウスドルフ 多様体を取り扱う場合ですら、数学者が想を練るときに利用するイメージはしば しばゴム膜のような固有の計量をもつ日常的な素材に依拠している次第である。 また、もともと巨大化した理論を整理するためのメルクマールにすぎなかった概 念が一人歩きを始めて混乱を生み出すこともあるかもしれない(アメフラシの産 卵行動をどごく一部の実例しか知られていないにもかかわらず、「行動の遺伝因 子」が論争を生む場合のように)。しかし、こうした問題点はあくまで、ある程 度の基盤が作られた学問を遂行する上での例外的なケースであり、概念化が科学 理論を構築する第一歩だという基本的構図は変わるべくもない。

(ii)理想化 :  科学理論のモデル化を進めるのに必要なステップとして、次に 理想化の作業を考察しよう。ここで理想化とは、自然現象の完全な把握を目標と せず記述可能な近似的体系を構想する作業で、理論と現象のずれは摂動として別 個の研究対象と見なされる。
 歴史的に見ると、科学が世界の真の姿を記述しているという信念は17世紀以降 の近代物理学の勃興とともに強まリ、19世紀半ばには力学および電磁気学の理論 によって原理的には全自然現象の確定的な記述が可能であるという見解も現れた。 しかし、今世紀に入って量子力学の出現により事態は一変し、ある理論が自然を 直接的に開示するものでをく、しかも完全かつ有効であり得るという認識が一般 的になっている。
 こうした量子力学の特徴については、若干の説明を要するだろう。
 第一に、量子力学は、波動関数によって状態の確率振幅を与えるにすぎず、自 然そのものに即応した記述ではない。ここで注意すべきことは、こうした量子力 学の適用限界は、観測者の存在や観測による波束の収縮とは無関係だという点で ある。いま、ある時刻tにおける状態を|Ψ>で表し、その後の時間Δtの間に 行われる観測によって2つの状態|Ψ1>と|Ψ2>のい ずれかに50%ずつの確率で分離するとしよう。ただし、|Ψ1>と |Ψ2>は観測によって区別される状態であり、従って直交することに なる。tからt+Δtまでの時間発展のユニタリー演算子をU(t+Δt;t)と貫けば、 観測を含むこの過程は次のように式で表される:
U(t+△t;t)|Ψ> = (|Ψ1>+|Ψ2>)/√2

さて、量子力学が自然そのものの記述でないという命題の意味は、自然界の真の 状態は|Ψ1>か|Ψ2>のいずれか一方であって、両者の混合状態ではないと いうことである〔7〕。ただし、観測された2つの状態は、時間発展演算子Uのユ ニタリー性より時間が経過しても直交したままとなる、すなわち、
<Ψ1|U|Ψ2
   = <Ψ1|Ψ2> = 0

となるため、混合状態を仮定して計算を進めても両者が干渉しあうことはない。 いわゆる波束の収縮とは、干渉しあわない状態を計算に残しては無意味な煩雑き が生じるため、t+△tでの境界条件として|Ψ1>か|Ψ2> の一方を選ぶという便宜的措置を指す。
 量子力学の第二の特徴は、如上の限界があるにもかかわらず、科学理論として 量子力学が完全かつ有効であるという点である。量子力学の有効性については、 現在の物性理論の多々ある業績、特にエレクトロニクス分野での成果を想起すれ ば納得がいくだろう。また、理論の完全性とは、無矛盾の公理体系を構築できる ことの謂いであり、当該理論内部では証明できない仮定、あるいは他の理論から 得られる結果を援用する必要がないことを意味する。この点に関しては、既に量 子力学の公理化が完成されておリ〔8〕、その完全性が明確になっていることを 指摘しておこう。
 現代において最も大きな成果を生みつつある物理学理論が自然現象そのものの 記述ではないという事実は、物理学が真なる演繹体系であり、理論と観測のずれ は単に未知の境界条件に起因するというラプラス的な世界観を揺るがすのに充分 であろう。もちろん、将来の科学革命によって自然の本質を開示する理論が現れ ないという保証はない。しかし、たとえ現行の理論が暫定的なものにすぎないに しても、各方面に応用する際の有効性を否定することはできないはずである。こ うした議論を踏まえて、科学とはあくまで特定の応用のために理想化されたモデ ルを取り扱う学問であると主張しよう。換言すれば、科学は自然とは何かを語る のではなく、自然に関して「役に立つ』報告を記述する手段と言える。
 こうしたある意味ではプラグマティックな側面は、科学的記述を自然そのもの から手離させる危険を常に李んでいる。生理学を例にとって説明しよう。生物の 体組織を対象とする実験には、in vitro(生体外)とin vivo(生体内)の2 種類があり、後者の方が確実に自然の実態に近いものである。ところが、生体現 象ないくつかのメルクマールによって分節化し相互の影響関係を体系的に記述し ようとすると、in vitroで単純化された現象の方が一般に理論に馴染みやすい。 例えば、ニワトリの胚から切除した交感神経節をマウスのある種の肉腫細胞の近 傍で培養すると腫瘍に面した側に偏った神経繊維のハローが見られるという実験 結果から、溶解性の神経増殖因子(NGF)が神経突起の分化と成長を活性化す るという図式的理解が得られ、教科書にもそのように記述されがちである〔9〕。 しかし、こうした理解はあくまでin vitroの現象に限定されるものであって、 in vivoでは何重ものフィードバック機構を含むきわめて複雑な調節過程が実現 されている.従って、「NGF→神経増殖」という図式を医学の局面に拡張して 応用しようとすると、予期せぬ障害が発生することがあり得る。
 このような問題を回避するために、現代科学は、その教科書的記述において一 般に「但し書」つきの体系化を試みる傾向がある。すなわち、理想化された理論 を基幹としながらも現実の自然は常にそこからの差異を含むことを主張し、問題 となる差異は新たを研究の対象と見なすのである。この手法は、しばしば科学理 論のクラスター化を促進する。先の例を再び用いれぱ、NGFの生理活性機能と 調節機能をそれぞれ独立した領域として別個の研究者が取り上げている現状が、 このクラスター化現象に対応している。もちろん、現実の科学が常にこのように 効果的な体系化を実現している訳ではない。しかし、研究者が期待するのは、こ うした『但し書」の集積によって、科学が漸近的に自然への密着度を高めていく という発展的プロセスである。

(iii)数理化 :  モデル的理論を構築するための作業として最後に考察するのは、 数理化の技法である。ただし、ここで言う数理化とは、物理学における解析的手 法のみならず変換の理論に豪づいて離散系を取り扱う手法をも含めて、科学的議 論を半自動的に遂行できるような方法論を理論に取リ入れていく過程を指す。
 まず、数理化の問題を論じるための準備として、科学的議論の形式にっいて考 察しよう。一般に、科学理論が具体的に応用される際には、与えられた前提から どのような結論が引き出されるかが問題となる。しかるに、ある理論の守備範囲 内での前提の種類は通常きわめて多様(場合によっては無制限)であるため、前 提と結論の組を理論内部に羅列的に収録することは不可能であり、何らかの方法 で形式的推論を行わなければならない。古典的な論理学では、因果律が形式的推 論の枢要な地位を占めているが、科学の世界では事情が異なっている。これは、 原因と結果を直接結びつける因果律が中間の過程を省略しているためではない。 実際、化学における触媒の説明は、「酸はサッカロースの加水分解を促進する」 というように具体的作用の記述を省いていても、科学的に有効である。この点に ついて説明を試みよう。

 おそらく、こんにち物理学を勉強する学生は、科学哲学で馴染み深い原因と結 果という概念が、その教科書から事実上消滅していることに気づくだろう。これ は、古典的な原因概念である「動力因」が、きわめて単純なシステム以外では余 り有用でないことに起因する。例えば、ポテンシャル関数の極大値に当たる不安 定平衡の状態にあった系が微小な揺らぎのために極小値の状態に遷移した場合、 この遷移の動力因が揺らぎであることに間違いはないが、より本質的な役割を果 しているのは極大値と極小値を持つポテンシャル関数の構造それ自体のはずであ る。このように系を成立させている構造に帰着させられる原因を「構造因」と呼 ぶことにすると、明らかに、現代科学の対象となるようなシステムにおいては、 動力因よりも構造因が現象の性質を定める主要因となっている。しかし、科学的 記述の中で構造因があからさまに語られることは少ない。なぜなら、構造因の性 質から予想されるように、原因の説明はシステムの構造に関する記述に事実k吸 収されてしまうからである。さらに、構造因の概念は離散的なシステムにも拡張 可能で、この場合は、各要素間のリンクによって構成されるネットワークが構造 を与えていると見なされる。こうして、科学において前提から結論に到る論理n 流れは、単なる原因(動力因)→結果の連鎖ではなく、システムの構造を与える のに必要な諸要素およぴ要素間の結合関係(=法則)をもとにした操作的過程で あることになる。ここで、法則とは、連続系では方程式を、離散系では変換規則 を指すと考えて良いだろう。以上の議論をもとに、数理化とはシステムを要素と その間の関係によって記述する作業を指し、科学における推論形式を明確にする ための処置であると主張したい.
 さらに、数理化の内容を具体的に考察していこう。ただし、方程式に基づく連 続系の理論が数理的なのは明らかなので、ここでは離散的なシステムを対象とす る理論を数理化することの具体的意味に議論を限定する。既に述べたように、こ のような理論ではシステムの構成要素問のリンクを問題としなければならない。 この点について、分子生物学を例に説明したい。
 こんにちなお細胞の分化のメカニズムには多くの謎が残されているものの、分 子生物学者は不明な部分が理論の有効性を損なわない形でこの現象を記述するこ とに成功している。このことは、遺伝子の発現に関する記述に典型的に現れてい る。今世紀中頃までは、遺伝子の発現とは、遺伝子型と表現型のリンクの形式で あった。その後、DNAの構造と機能が解明されるにつれて、この二つの要素を 媒介する中間項として調節タンパクの存在が明らかになり、遺伝子によるタンパ クの合成とタンパクによる遺伝子の調節という新たなリンクが追加されるに到っ た。最近では、各遺伝子のやや上流に「プロモーター」と呼ばれる領域が存在し、 これに活性(抑制)因子であるタンパク質分子が結合するとDNAの転写が開始 される(されない〕ことが判明している〔10〕。こうして、次のような基本的な構 造と変換規則が得られる:(i)プロモーターと活性/抑制因子は結合というリンク で結ばれておリ、一方のリンクがオンになると他方は自動的にオフになる;(ii)活 性/抑制因子の結合リンクのオン・オフは、プロモーターと遺伝子の間の(転写 の)開始というリンクのオン・オフを支配する;(iii)遺伝子(DNA)とmRNA の間には転写のリンクがあり、これは転写の開始によってオンになる;(iv)活性/ 抑制因子は別の遺伝子と(mRNAのノードを介して)リンクされている。以上 のようを基本図式(もちろん、実際にはこれより遙かに複雑で、ときには量的な 扱いが必要になる)に、具体的な遺伝子、プロモーター、活性/抑制因子を代入 することにより、分子生物学における形式的推論が遂行されることになる。
 ここで重要なことは、離散系での変換規則は、その中間に予想される具体的な 過程を黙殺しているという点である。実際、プロモーターに活性因子が結合する とDNAの構造変化があって転写の開始に到ると想定されているが、この過程を 無視して「活性因子の結合→転写の開始」という単純な図式を与えても理論は有 効である。こうして、科学者はいたずらに繁雑な議論に巻き込まれることなく理 論を応用することが可能になるのである。
 なお、上に述べたような数理化によって得られた連続系の方程式ないし離散系 の変換規則は、今後は一括して「法則」の名称で呼ぶことにする。

 以上のような作業によって構築されるモデル的理論は、必然的に次のような性 質を具備することになる。すなわち、概念化・理想化の結果、モデルとしての理 論は自然の実体を直接的に表現するものではなく、あくまで特定の目的に従属し た道具として利用されることになる。さらに、数理化によって半自動的な推論が 可能になっているため、理論を利用する個人の生活史が関与する余地が少なくな り、得られた結論の(当該理論の前提の下での)普遍性が保証される。こうした 性質は、現代科学が技術文明の発展と軌を一にし、技術者の意向に強い影響を受 けながら従前の自然哲学的様相から変貌していったことを反映していると考えら れる。

 理論をモデル化するという現代科学の方法論は、しかしながら、哲学的に見て ある深刻な問題を惹起する。自然の現象の中で数理的な議論によってカバーでき る範囲は現時点では必ずしも広いものではなく、従って、哲学的な自然観のよう に現象全体を包括する理解が必要となる問題にまで論述が及ぶことは、正当な科 学論文では稀である。ところが、科学者の側からすれば、研究対象とする理論に 含まれている自然の理解法を、より広範な自然認識に拡張したいという欲求はき わめて当然のものである。こうして、科学的方法論によっては正当化され得ない 自然観が、まきに科学を遂行する当事者である科学者によって支持されるという 奇妙な事態が生じる。例えば、海馬体のシナプスにテタヌス(高頻度刺激)を与 えると興奮性シナプス後電位の振幅が長期にわたって増大するという現象が観察 されるが、これはあくまで神経細胞レベルでの生理学的な性質にすぎない〔11〕。 ところが、一部の学者はこの現象を学習記憶のモデルと見なし、人間の知的活動 が神経レベルの現象に還元できるという(科学では正当化でき在い)自然観の根 拠として利用している。しかも、この自然観は、単に哲学的思索n原点になって いるのみならず、テタヌス後の長期増強を高等生物の学習と結びつけろ目的で、 条件づけがなされたウサギの歯状回で貫通繊維の変動電位を測定するという新た な(科学的方法論に則った)実験の実施を促すという科学的帰結をもたらしてい る。
 このような非・科学的な(しかし有意味な側面を有する)自然観の科学におけ る役割は、科学を動的な体系と見なすことによって初めて明らかになる。実際、 科学がその内容を更新していく過程で、従前の理論を逸脱する自然観が新しい発 想の淵源になっていることは数多い。ただし、こうした発想は科学的方法論の枠 内にはない(従って論文にあらわに記されることは少ない)ため、研究結果の交 流(次節で述べるところの機能バケットの交換)の場で哲学的な自然観が重要な 役割を果たすとは考え難い。事実、現代素粒子論の一つの成果である大統一理論 は、当初は「自然は単純を好む」という自然観に基づいて構想されたものの、そ の後の進展においては、いくつかの実験事実(観測される素粒子の質量がきわめ て小さいこと、あるいは右巻きニュートリノや磁気単極子が発見されないこと} との弱合性を保つために、例外群Eεを利用したリ複雑な群表現を導入するなど、 統一前と同程度の複雑さを理論に内包するに到っている〔12〕。これを模式化して 言えば、「単純な自然」の観念は、大統一理論の根本的な要素としては他の学者 に伝達されなかったのである。この例が端的に示しているように、科学における 自然観は、科学の動的な局面において科学者個人の発想を下支えするものではあ っても、より重要な理論運営には余り関与しておらず、理論の展開を拘束するこ とはない。しかも、発想の段階においてすら、当の自然観が必須であるという根 拠はなく、別の科学者が全く異なる見地から同じ理論を案出する可能性は充分に ある。従って、哲学的な自然観が科学内部において果たす役割は科学の構造・機 能を論じる上でそれほど大きいなものではなく、少なくとも科学的方法論の議論 からはこれを除外してしかるべきである。言うなれぱ、科学者の自然観は、それ 全体が科学哲学よりは思弁哲学の問題なのである。

©Nobuo YOSHIDA