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I−3 いかにして認識論的規制を逃れるか




 前節で述べたように,人間が存在を認識する過程で特定の操作を行うため, もともと自然界には備わっていなかった性質が,認識対象に押し付けられると いう事態が生じる。この結果として,次のような“歪んだ”世界像が形成され ることが予想される;
世界は,空虚な<空間>の中に存在するく物体>によって構成される。各 物体は,時間に依存しない安定な性質によって規定され,その性質を保っ たまま<時間>の中で運動や変形によって状態を変えることにより,世界 に変化が生じる。

 もちろん,哲学的な素養を持たない全ての人が,こうした世界像を自然に獲 得しているとは限らない。世間には,質の高低を問わなければ,(各種の迷信 まで含めて)実に多くの思想的言説が充満しており,知らず知らずのうちに影 響を被ることが稀でないからである。だが,一般的に言って,「空間の中に存 在する物体」という構図に囚われずに実在の問題を論じるのに,心理的な困難 が伴うことは否めないだろう。たとえ死者の魂といえども,ふわふわした物体 のようなものとして表象するのが,自然な発想法なのである。本節では,
 (i)還元主義的な手法
 (ii)意味論的な手法 を例にして,こうした“呪縛”を直観的に納得のいく方法で逃れられるかを考 察し,これに否定的な解答を与える。この結論は,そのまま,次章における科 学的方法論の議論に受け渡される。

還元主義的手法の限界
 素朴に考えると,<観念>が自然界の本質的な状況を適切に表現できないの は,認識される対象の細部に注目せず,全体的な役割だけに基づいてステレオ タイプ化するからだということになろう。ちょうど,幼児が,ゼンマイ仕掛の メカニズムや塗料の剥げ具合いに拘泥せずに,玩具とは「自分を楽しませるも の」と一般化するように。したがって,外界の実態を正しく把握するためには, 全体ではなく個々の部分の性質を分析的に見ていくべきだと主張される。この 手法は,全体的な機能を各部分に帰属する性質の総和として理解しようとする 点で,<還元主義>なる呼称がふさわしい。しかし,この手法を徹底させるこ とは,いかなる巨視的な現象も(語句の本来の意味での)アトムの反応によっ て記述できるという《機械的原子論》を生み出し,かえって歪められた世界観 をもたらしてしまう。この点については,歴史的な考察がわかりやすい例を提 供してくれよう。
 既に近代科学の出発点において,複雑な自然現象を解明するために,対象と なる過程を単純な,あるいは理想化された要素に分解して解析する手法が有効 なことが知られている。例えば,ルネサンス期のレオナルド・ダ。ヴインチが, 複雑な軌跡を描く砲弾の弾道をありのままに記述しようとしたのに対して,近 代科学の黎明を告げたガリレオは,(空気抵抗など)現実には存在するものの 微小な摂動として後処理できる諸要素を適度に縮約することによって,放物運 動の数学的定式化への道を拓いたのである。ガリレオが採用したこの「還元主 義的な」手法は,抽象的な<質点>とく力>の概念を駆使したニュートンの力 学体系において,いっそう自覚的に利用され,理論を展開する上で基盤となる 方法論としての地位を占めるに到る。
 ガリレオ/ニュートン的な「還元主義」の基本的な立場を現代の用語でバラ フレーズすれば,自然現象の根底には,数学的に明解な形式をとる“素”過程 が存し,現象の外見上の複雑さは,膨大な数の“素”過程が絡み合った結果と 解釈するものとされよう。この立場は,“素”過程が有限個数の範疇によって 分類されることを前提としており,広い意味で《機械的原子論》と呼ぶのは当 を得ていると思われる。こうした原子論的手法が具体的な成果を上げたのは, 天体力学などの比較的限られた領域であり,物質の変化のような身近な現象に は,この観点からの解析はほとんど無力であった。にもかかわらず,《機械的 原子論》は18〜19世紀の支配的科学思潮を形成するに到る。その理由として, 次のような事情を指摘することができよう。すなわち,ニュートン力学に基づ く太陽系諸天体の運動論は,ある時刻での初期条件を与えれば以後の運動が数 学的に確定した形式で定められるという意味で,自動的に科学的命題を生成す る能力――いわゆる《予言能力》を備えている。ところが,「予言の提出とそ の検証」は,モーセの事績からも知られるように,(科学に限らず)あらゆる 主張を正当化する上で最も説得力のある手法であり,ニュートンの理論がこれ を実践して見せたという事実は,当時の人々に強い印象を与えたに相違ない。 特に,現在と異なって,当時は予言能力を有する<対抗理論>がほとんどなかっ ただけに,この印象はわれわれの想像以上のものだったろう。―方,物質の化 学変化など日常的な現象については,“素”過程の絡み合いが複雑すぎて解析 の対象にならないものと見なし,これこそ自然の本質を理解する前提として明 らかにしておくべき必須課題であるとの意識が一般に薄れていたように思われ る。こうした状況の下で,ガリレオ/ニュートンに端を発し,ラプラスによつ て最も先鋭な形で表現された《原子論的世界観》は,産業革命を経て技術優位 の世紀へと移り変わる時代精神とどこか呼応するように,先端的な科学者の頭 脳を席捲することになる。
 以上のような経緯で支持されるに到った《機械的原子論》は,しかしながら, 次のような限界を持っているため,そのままでは自然の本質に迫ることはでき ない:
(i)分割された部分同士は,いかに微弱といえども何らかの相互作用をす るはずなので,各部分に関する記述には,周辺の状態に関する情報を含ん だ境界条件が必要になる。しかし,部分の性質を調べるために前もって周 辺の知識を用意しなければならないというのでは,論理的に一貫しておら ず,この作業を現実に遂行するのは困難である。
(ii)対象を分割する過程で,一般に「空間的な意味での部分」を想定する が,こうした発想自体が,認識論的な規制の範囲内にある。

 こうした限界があるにもかかわらず,《機械的原子論》の手法が無批判に適 用されると,複雑な自然現象を(古典力学における質点や連続媒質の運動と類 似した)きわめて単純な“素”過程に分解して解釈しようとする・過度に還元 主義的な世界観が生まれやすくなる。実際,19世紀から20世紀初頭にかけての 科学理論においては,このような「行き過ぎた還元主義」がさまざまな弊害を もたらしていたと言えよう。
 近代科学における《原子論》的な色彩が悪影響を及ぼしたのは,主として生 体や社会のようにきわめて複雑なシステムを取り扱う領域であろう。中でも, 複雑系を構成するさまざまな要素の中から“素”な部分を抽出し,これを適当 に調節することによって系全体を意図的に制御できるとする発想が,悪しき還 元主義の典型と言える。複雑系に適用された《機械的原子論》の功罪を判定す るに当たっては,西洋近代医学が恰好の素材を提供するだろう。近代的な医学 では,生体内で見られるさまざまな現象は――個体レベルでの活動は内臓や 筋肉などの器官レベルの機能に,また,器官の活動は細胞レベルの機能にとい うように――それぞれ下位の階層における諸機能に還元して解釈するのが一 般的である。その結果,感染症の原因を特定の病原体に帰し,病気の治療には 当該病原体の駆除が最も有効であるとする疾病観が広まるに到った。この疾病 観に依拠する医療措置は,天然痘や狂犬病などの予防/治療に見られるように 個々の病原体に特異的なワクチンが利用できるときにはきわめて有効であり, 歴史的に見ても人類に大いなる福音をもたらしたことは明らかだろう。しかし, その一方で,身体の異常を分析的に追及するあまり,統合されたシステムとし ての人体像が不明確になり,いかなる疾病も全身にかかわるものだという統一 的な視点が欠落しがちなことも否めない。実際,―般人が抱きがちな西洋近代 医学の「常識」に反して,人間が罹患する多くの疾病は,体内に侵入した病原 体の活動そのものというよりも,これが免疫系の機能を活性化することによっ て惹起される一連の生体反応全般として解釈されるのである。例えば,細菌感 染の際に生じる<炎症>とは,血液の流動性を低下させて患部にマクロファー ジなどを集め,免疫の効率を上げるという防衛反応の一環であって,決して細 菌が「悪さをした」結果ではない。このような知見をもとに,感染症とは,病 原体をストレッサーとする全身性のストレス反応であると主張しても,誤りで はないだろう。ここであえて「全身性」と形容したのは,疾病に伴う身体反応 が,ATPに担われる生体エネルギーの配分や生化学的物質の産生/分解を通 じて,あらゆる生理過程にかかわってくるからである。西洋近代医学に欠けて いたのは,こうした統一的な身体観であろう。このような欠陥を内包していた ため,西洋医学は,病気の原因を追及しこれを取り除くことを主眼として,治 療過程それ自体が生み出すさまざまな副作用にっいての配慮が欠けていた。極 端な場合には,習慣的に炎症を起こすという理由で軽度に肥大した扁桃を摘出 してしまうような「力づくの」治療が行われ,かえって健康を損ねる危険があった。
 19世紀から20世紀初頭にかけての近代諸科学の展開において,複雑なシステ ムを《機械的原子論》に則って割り切ろうとしたため,ややもすればシステム 全体を統括的に把握する視点を失いがちになったのは,なにも医学の領域に限 られる訳ではない。動/植物学にせよ経済学にせよ,複雑なシステムを対象と している学問の中でこの弊を免れたものは稀である。ここで,諸学に共通の問 題点として指摘できるのは,(1)複雑な現象を分析して得られる“素”過程が(古 典力学における物体の運動のように)直観的に了解可能であり,さらに,(2)“素” なる要素の変更が現象レベルで近似的に線型の応答を引き起こす――という 還元主義の手法である。この手法をもとにして,刺激一応答のスキーマに基づ く動物の行動分析や需給曲線を援用した経済動向予測など,単純な要素から複 雑な現象を説明する議論が数多く見られた。ところが,生物や社会のようにき わめて複雑なシステムになると,現象と線型の相関関係を示すような“素”過 程など本来あるはずもなく,研究が進むに従って,《機械的原子論》に依拠す る還元主義では必ずしも現象の複雑さに対応しきれないことが判明してきた。
 こうしたことから明らかなように,還元主義的な手法は《実在》の本質に迫 るには不充分であり,より有力な方法論を捜さなければならないと結論される。

意味論的手法の眼界
 通常の生活世界では,抽象的なものほど(現実に存在しない)単なる仮想的 な対象である蓋然性が高く,逆に具象的になればなるほど確たる実在性を持つ と考えられている。これを敷術すれば,具象性/抽象性の程度を判定すれば, 存在論的な考察が可能になると予想される。ところが,具象と抽象の区別は, 意味論的なネットワークにおいては,関連事項の多寡によって決まることが知 られている。動物の分類を例に取ると,鳥類/哺乳類といった階層では個体の 色や習性について記述できる内容はあまり多くはないが,ツバメやカラスなど と限定されればそれだけ具体的な特色を述べることが可能になり,さらに「我 が家の軒先に巣を作っているツバメ」となれば,「くちばしの脇に黒の斑点が ある」というように微に入った描写が許される。このように,ある対象が具象 的とされるのは,それに直接的に付随/関連する事項が充分に数多くある場合 である。したがって,関連事項の量を評価すれば,逆に,その対象の《実在性》 いかんについて論じられると期待する向きもあるかもしれない。
 しかし,直ちにわかるように,この試みも成功しない。その理由は,1つに は,関連事項は,決して原理的な制限によって範囲や数量が限られておらず, 創作的な連想に則って自由に生成することが可能な点にある。実際,ホテルに 篭って小説を執筆している作家にとっては,小説内での事件の方が“現実”よ りも豊かな意味連関をもっているだろう。しかし,それにも増して重要な理由 は,「抽象的だから実在性が薄い」とは限らないという事実である。このこと を理解するためには,科学における抽象的だが有効な概念を思い起こしていた だきたい。量子力学における<状態>や生体の機能を論じる際の<ホメオスタ シス>などは,日常的な用語と比べてきわめて抽象的な概念であるにもかかわ らず,科学的な発想を展開する際に重要な役割を果たしている以上,自然界の 実態と何らかの繋がりを持っていると考えるのが妥当である。こうした議論に 基づいて,抽象的/具象的という分類は,《実在論》を展開する上で信頼でき る論拠にはならないという結論が得られる。

 以上の議論はいずれも否定的なものだが,そこに導きの糸を見いだすことも できよう。すなわち,抽象的な概念でも有効性を持てば《実在》と結び付けら れ得るという上述の主張をより積極的に評価すれば,もともと有効性を判定基 準としている科学的な手法を援用することによって,「空間の中の物体」とい う構図を離れた《科学的実在論》が構築できると期待して良いはずである。次 章では,この観点から議論を進めていきたい。

©Nobuo YOSHIDA