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I−2 <客体化>に由来する存在認識




 一般的な用語法では,「存在する」あるいは単純に「ある」という語は実に 節操なく用いられている。われわれは,文の意味を充分に了解しながら,「目 の前に机がある」とか「数学の試験がある」とか言うことができるし,「日本 の出生率には減少傾向がある」あるいは「(正30面体は存在しないが)正20面 体はあえ」とも主張する。こうした<存在の述語>は,それぞれのコンテクス トにおいて異なった意味を持っており,外国語に翻訳すると同一の述語で表現 できないケースもある。しかし,少なくとも日本語で同じ動詞が用いられてい る以上,<存在の述語>には,これら全ての文に共通する何らかの機能がある と予想される。本節では,この共通項を手がかりにして,素朴な実在論におけ る存在概念について論じていきたい。

論理学における存在述語
 はじめに,議論全体の見通しを良くするために,ごく初等的な論理学におけ る存在述語について瞥見してみよう。
 記号論理学において,記号‘∃’は日常言語における存在述語に対応し,
   命題E:(∃x)P(x) は「あるxについてP(x)」または「P(x)であるようなxが存在する」と翻 訳される。この場合,命題Eに現れるxは束縛変項であるため,述語Pの内 容を表すモデルが与えられない限り,「xが存在する」と述べられても,実在 論的な存在認識を当てはめることは困難である。しかし,だからと言って,日 常言語の範囲で了解可能なモデルへの翻訳規則がなければ,命題Eが認識論 的な操作を何も指示しない「無意味な」記号列という訳ではない。実際,この 命題を前にした人は,Pの具体的な内容が明らかになる以前に,「存在する対 象として取り扱うことのできる何か」たるxを想定し,もしEが真であるな らば,既存の知識の中に含まれるある対象によってxを具象化できると考え るだろう。すなわち,論理学的な存在述語は,認識論的に何か意味のあること を語っていると予想されるのである。
 筆者がこのような主張を行う背景には,論理学的な諸規則といえども「現実」 から独立に成立するのではなく,特定の情報処理システムを前提しているとす る観点がある。確かに,論理学のさまざまな定義/公理には,客観的な世界の 法則をあらわに利用しているものはない。しかし,論理学で自明と思われてい るいくつかの手法は,決して任意の処理系で通用するものではないことに注意 すべきだろう。特に,論理学の名辞の定常性――すなわち,時間の経過とと もに変質せず,繰り返し引用されても同一の対象を指示するという性質は,き わめて特殊な処理を遂行するシステムを想定しているはずである。実際,自然 界においては,時間の経過は一般に個々の物体に対して本質的な変化を与え る――新鮮なリンゴと腐ったリンゴは質的に別のものである――にもかかわ らず,記号の場合に限って,印刷がかすれようと紙が変質しようと本質的な変 化を被らないという事情は,そう簡単に理解できることではない。こうした言 い回しを論弁と感じる人は,次の疑問を考察されたい:
(i)記号論理学では,個体や述語を表す記号は,(‘x’や’P’のような) 同一の内容を指示する類に分けられることが了解されているが,こうした 分類の不変性は,処理システムのハードウエアが安定した構造を保ってい ることを必要とするのではないか。人間の場合は,脳の基本的構造が各人 の間で共通していることが暗に認められているはずである。
(ii)基本ソフト(オペレーティング。システム)の設定によっては,記号 の定常性を保証できない処理システムを実現することも可能である。例え ば,記号を引用するたびにデータベースの内容を書き換えるようにプログ ラムすれば,同値律の反射則‘x=x’は成立しない。こうした基本ソフト を禁じる根拠はあるのか。

 こうした疑問の正当性を容認すれば,(記号)論理学が,いかなるモデルか らも独立に,単なる記号列の変換ルールを与えるだけだという「神話」を信じ ることは,難しくなるだろう。より明確に主張すると,論理学における記号列 は,日常言語で記されるような具体的な内容は持たなくとも,そこに何らかの 操作が含意されていると考えるべきである。
 誇理学的な存在述語が表す操作を理解するには,具体的な例を利用するのが わかりやすいだろう。よく知られているように,「現在のフランス国王は禿で ある」という文章は,存在命題:’(∃x)x=「現在のフランス国王」’を含 んでいる。少し考えれば明らかなように,この命題の正否を判定するのに,わ れわれは,現在のフランス国王についての(所在や風貌などの)実際の状態に ついて思いを巡らす必要はなく,単に,フランスの政治に関する言語的な知識 を思い出すだけで,その誤りに気づくのである。この例で重要なのは,存在命 題の検証に必要なのが,既存の知識ベースの検索という形式的操作に限られる 点である。ここでもし,指示される対象の存在論的な考察が必要とされるなら ば,存在述語に何らかの意味を与えるには具体的なモデルを提示しなければな らないことになり,論理学的な記号列自体には何の役割もないと結論される。 しかし,体系化された知識ベースの検索という操作は,知識の内容によらずに 形式的に規定できるので,存在記号を含む記号列は,この操作まで指示してい ると考えるのが素直である。より一般的に言えば,存在記号’∃x’とは,内容 が不定の知識ペースの存在を前提した上で,その中で項xの検索を行ったと きの正否を真理値として返すように指示する関数である。

 以上の考察において特に強調したいのは,日常言語に翻訳してはじめて意味 を獲得すると見なされてきた論理学的な存在述語が,実は,知識ベースの検索 という具体的な操作を指示していると考えられる点である。もちろん,日常言 語における存在認識が同様の操作に還元されるとは限らないが,それでも。し ばしば曖昧なままで放置されているく存在>の意味が操作主義的に理解できる 可能性を示したことは,以後の議論を進める上で指針となるだろう。

日常言語における存在認識と<実体化>作用
 上で示したように,(記号)論理学における存在述語は,体系化された知識 ペースを前提していると考えられる。しかし,人間が有している知識は,常に 更新され続ける不安定なもので,確固とした体系的知識は理想化された虚構に すぎない。逆に言えば,こうした虚構を対象とする学問が論理学なのである。 このため,<存在>の問題をより“現実的な”文脈で語ろうとするならば,知 識の可変性を考慮した考察が必要となる。
 ここで導きの糸になるのは,未知の情報を含む存在命題を理解する過程の解 析である。仮に「コロラドにはUFOの基地がある」という命題が提示された としよう。通常の人は,UFOの基地がどのようなものかは知らないが,文の “意味“は理解できるはずである。ここで,論理学的な存在述語と同様に考え れば,この文を理解するためには,主語に該当する項目が既存の知識体系の中 にあるかどうかを探索し,その結果に応じて当該体系内部での真偽を決定しな ければならない。しかし,現実には,あらかじめUFO基地についての知識を 持っていなかった人でも,この命題を真実だと思い込んだり,疑いながらもそ の可能性を認めたりする場合がある。このようなとき,知識ベースはどのよう な形で修正されるのだろうか。うっかりすると,(コロラドやUFOのような) 既知の概念で構成されている対象についての知識の追加は,単に,頭の中にあ るレキシコン(語集)に見出し語を付け加えるだけで遂行されると思われるか もしれない。しかし,概念的に固定された見出し語では柔軟性に乏しく,(基 地と言えるものではなく単なる発着場所だったことが判明したときなど)新た な情報を得たときに充分に対応しきれないはずである。したがって,知識ベー スの修正は,完全に観念規定されてはいない“ダミー”の<観念>を措定して, これに(状況に応じて訂正可能な)諸々の性質を付随させるところから始めな ければならない。その上で,「ある」という主張を取り入れるために,対象の 存在が意味を持つコンテクスト――「UFOは宇宙人の乗り物で,地球を監視 するために飛来している」といった筋書きを念頭に置けば良いだろう――の 中に当の<観念>を配置する必要がある。この段階に到って,ようやく存在命 題から新たな知識を引き出したことになる。
 以上の議論を敷衍すれば,く存在>についての命題の理解は,(1)<観念>の 措定と(2)コンテクストへの配置という2段階の操作から構成されていると結論 される。この結論は,物の<存在>が直観的に認識できるとする単純な思い込 みと衝突するだけでなく,しばしば無批判に提出される《素朴な実在論》の問 題点を明らかにする上で,重要な論拠となる。その点を踏まえて,もう少し解 説を加えよう。
 はじめに,<観念>の措定という最初の操作について取り上げよう。人間が 存在命題を理解するために,必ずしも概念規定されていない<観念>を利用し ているという主張は,おそらくなかなか理解しにくいものだろう。それほどま でに,人間は<観念>に依拠した思考法に馴染んでいると言える。しかし。次 のような身近な例を考えれば,存在認識において<観念>の果たす役割が納得 できるのではなかろうか。すなわち,われわれが親しい知人を認めるとき,そ の(日常的な用語法での)存在が疑い得ないとしても,いったいどのような性 質に基づいて当の人物を同定しているかは,あまり明らかではない。実際,相 貌は美容整形によって容易に変えられるし,前頭葉に傷害を受ければ,それま でいかに几帳面だったとしても一挙にだらしない性格に変貌するかもしれない。 また,細胞を構成する分子は頻繁に入れ替わっており,物理的な同一性すら保 証されていないのである。にもかかわらず,―般に,知人が常に同一人物であ ると信じられるのは,認識対象を定常的と見なす性向が,(外界の性質の反映 ではなく)われわれの側に備わっているからだと推定するのが妥当だろう。比 喩的に言えば,対象に付随するさまざまな性質は,取り外し可能なモビールの バ−ツのようなものであり,こうしたモビール全体を釣り下げるために天井に 取り付けられたフックが,性質が変わっても定常的に保たれる<観念>に擬え られる。こうした安定な<観念>をもとに情報を統括する手法は,前節の用語 を借りれば,<客体化>と呼ぶことができ,存在認識の背後には<客体化>作 用があると主張できる。
 次に,存在認識の第2段階をなす「コンテクストへの配置」について考えよ う。本節冒頭で指摘した存在命題の多様性を思い起こせば,単なる<客体化> がそのまま客観的世界における存在の認識と等価でないことは明らかだ が,(「目の前に机がある」とか「数学の試験がある」などを含む)全ての命 題に対応できるように,存在の様式そのものをケースごとに分類していくのは, 至難のわざである。これに対し,存在述語「ある」の役割を「物理的な存在」 などといった特定の存在様式の指定ではなく,主部の観念が特定のコンテクス トの中に置かれることを指示するものと解釈すれば,この述語がきわめて広範 な命題に適用できる理由が判然とする。実際,「数学の試験がある」と発話さ れるとき,「数学の試験」の観念は,これが「ない」と述べられたときに比べ て,「試験勉強の必要性」や「落第への恐れ」などと強く結び付くが,その理 由として,存在述語「ある」が結合したことによって,この観念が「認識主体 の学校生活における因果連鎖」の中に置かれると考えれば,経験的に納得がい くのではないか。存在を表す他の命題についても,同様の解釈が可能なことは, 具体的に確かめることができるだろう。

 以上の議論によって,人間は,存在命題を理解するために,かなり手の込ん だ認識論的な<操作>を行うことが示されたが,この結論は,直ちに,《実在》 についての素朴な議論に対する原理的な批判になっている。実際,《素朴実在 論》は,往々にして,「存在する」ことが何を意味するかについて一般的な了 解があると暗黙のうちに前提しており,その結果,存在論の主たる目的を,人 間が認識過程で付け加えた2次的な性質を捨象して,何が存在するかを明らか にする作業に限定している(ようである)。しかし,《実在》の問題を論じる 上で出発点となるのは,「存在を主張する命題は,そもそも何を意味するのか」 という疑問であり,この点についての認識論的考察を欠いては,《実在論》を 展開することは無意味である。さらに加えて言えば,「何かが存在する」とし か主張していないという《素朴実在論》に対する批判も,存在についての一般 的な了解を認めている以上は同罪である。こうした点を踏まえて,次に,存在 を理解するための<操作>が,いかに人間の認識を規制しているかを見ること にしたい。

<客体化>された存在の虚構性
 人間は,存在を認識するために,
 (1) <観念>の措定
 (2) コンテクストへの配置
という2つの操作を行っている。こうした状況は,客観的な世界についての存 在論的な認識を遂行する際に,外界で生起するさまざまな現象の中から特定部 分をくくり出す過程で,認識する素材を「存在する/しない」という(必ずし も汎用的でない)<カテゴリー>に無理にはめ込んでしまい,結果的に本来の 性質を歪めることを示唆する。ここでは,まず,<観念>を用いることに伴う 歪みから論じよう。

 人間が何らかの現象を存在認識の俎上に載せるためには,認識すべき部分を <客体化>しなければならない。ところが,この作業を通じて,認識対象は抽 象的な<観念>によって統括されることになるため,もともと<観念>に付随 していたはずの性質が,いつの間にか(存在が認められた)対象の側に属する ものと思い込まれたり,この性質を示さない部分を存在認識の対象から(無意 識のうちに)外すことは,充分に予想される。<観念>に付随するこのような 特質として,何よりも重視すべきは,外からの擾乱に対する安定性ないし定常 性だろう。この性質は,本来は,脳の生理学的な活動――おそらくは,<反響 回路>と見なされる神経興奮バターンの形成――の現れであり,必ずしも外 界の実態に対応しているとは考えられない。にもかかわらず,われわれは,あ らゆるく存在者>の根底には何か不変なものがあって,これが外見上の移ろい やすさの陰で同一性を支えていると期待しがちであ。逆に,このような不変性 を備えていない場合は,その存在を正当に認識できない憾みがある。具体的に 考察したければ,コーヒーカップから立ち昇る湯気のことを思い描かれたい。 おそらく,湯気の「存在」を認識しようとすると,ゆらゆらと捉え所のないあ りさまに,誰しも居心地の悪さを感じるだろう。あえて認識対象として把握す るためには,細部の揺らぎには目をっぶって,白く拡がった存在として全体を 捉えなければならない。このように,<存在者>自体が安定していないときに は,その中で安定した性質――湯気の場合は「白さ」が相当する――を抽出 して,<客体化>の契機とする必要がある。こうした操作の不自然さが,湯気 のような対象の認識を居心地悪いものにしているのであり,また,強引な<客 体化>に対する不満が,一部の“還元主義者”をして「湯気は存在しない。存 在するのは水分子のクラスタ−だけだ」といった似非科学的な説明に飛びつか せてしまう。もちろん,実際には,湯気が現れる現象は単なるクラスターの存 在によって説明できるものではなく,周囲の飽和水蒸気との激しい相互作用を 伴った動的な過程を含んでいる。
 「安定な<観念>による現象の統括が存在認識の基盤にある」という状況は, 実は,人間のみならず,多くの高等動物に共通の事態だと信じて良い。実際, 犬が骨をどこかに埋めて隠すような場合,たとえ,匂いのような即物的な手が かりがなくなったとしても,記憶を頼りに再び掘り返すことが可能である。こ れは,まさに,埋めた骨を<客体化>してその<観念>を保持しているからこ そ可能な行為であり,人間と類似した存在認識の能力が高等動物にもあること を示唆する。こうした能力はダーウィン的な進化の過程で獲得されたと考える と,納得しやすい。すなわち,生存競争に打ち勝つためには,草原の波うつ緑 の陰から忍び寄る捕食者にいちはやく気がつき,森林の幹と梢のあやめの中に 潜む餌の小動物を即座に捉えなければならない。このため,輪郭線の存在や色 彩の変化,あるいはコヒーレントな運動を手がかりにして,捕食者や餌の個体 を“地”の風景から弁別する能力が自然淘汰を通じて発達したと推定される。 逆に,アメーバのような原生動物の場合は,外界の温度や照度などのアナログ 的な情報を利用する方が生存に有利なので,たとえ認識能力が存在したとして も,<観念>を用いるようになるかは疑わしい。
 こうした主張をすると,「それでは,現実に存在する物体は安定でないのか」 との疑問が寄せられるだろう。確かに,捕食者たるトラは,起きていようが寝 ていようがトラであることに変わりはなく,トラとしての性質は生物学的なホ メオスタシスによって安定性を保っている。また,人類をはじめとして多くの 高等動物が棲息する環境においては,こうした「安定な存在物」が生命を維持 する上で重要な役割を果たしているケースが多い。しかし,これは,あくまで 人間(および高等動物)のスケールでの事情であって,このスケールを逸脱す れば,安定でない方が一般的である。実際,きわめて長いタイムスパンを考え れば,(トラに限らず)あらゆる生物は,死に到る坂道を転がり落ちていく途 中の不安定な存在に過ぎない。さらに,宇宙に目を転じると,全物質の99パー セント以上は電子とイオンがばらばらになったプラズマ状態で存在していて, 存在論的な認識能力の網にかかりにくい。(湯気と同じく)安定な基底状態を 持たないプラズマは,人間にとってはごく抽象的な形式でしか認識できず,あ る程度の時間にわたって継続する渦や波が存在する領域に限って,はじめてそ の部分を把握することが可能になる。一方,ミクロな世界においては,分子レ ベルの化学反応を絶えず継続させることによって高次階層の動的な安定性を保 つ生体組織や,中間子の放出吸収を通じて互いに引力を及ぼしあう核子など, 定常的とは言えない現象は枚挙に暇がない。
 以上の議論を簡単にまとめれば,人間の存在認識には,次のような“通弊” がつきまとうことが指摘される:
(i)定常的でない現象の存在は認識されにくい。
(ii)認識された対象は定常的だと思われやすい。

こうした制限を持つ存在認識が,現実の状況を必ずしも正しく反映していない ことは,想像に難くないだろう。

虚構としての空間と時間
 人間が存在認識を遂行するためには,<観念>を利用した<客体化>に引き 続いて,認識対象を適当なコンテクストの中へ配置する必要がある。ここでは。 この操作が,人間の世界観にどのような性質を押し付けるかを見ていきたい。
 存在命題が適用されるコンテクストは,それこそ身の回りの出来事に満ちた 生活世界から空想の翼を自由に拡げた神話/SFに到るまで,ほとんど無制限 に選択できる。ただし,そこに<実在性>なる(必ずしも明確でない)条件を 付与した場合,ほとんどの人々が採用するのが,「時間と空間の枠組みの中で 生起する事象系列」というコンテクストであろう。一般的な了解によれば,全 ての実在する対象は,空間の中に位置し,時間の中で持続するはずである。し かし,日常生活における道徳や風習などを考えれば明らかなように,多くのコ ンテクストは人間によって作られた虚構であり,時間/空間だけが外界の状況 に正しく対応していると信じる根拠は乏しい。この疑念は,次のような考察に よって裏付けられる。

 はじめに,<空間>の問題を取り上げよう。カントは,<空間>を悟性の形 式と見なし経験に先立って与えられると主張したが,幼児期における計量概念 の発達を観察すると,<空間>の概念は,身体運動を伴った操作を通じて獲得 されると考えるのが妥当である。ピアジェの述べる所によれば《23》,3〜4歳 の幼児は,三角形や円のような抽象的な図形の概念を持っており,頂点と辺の 関係などをもとに(あらかじめ提示された)図形を再認することが可能だが, 計量についての概念は未発達で,他の物体との相互的な位置関係の変化に応じ て固い棒も長さが変わることがあると考えている。これに対して,6〜8歳に もなると,適当な物体を基準にして長さを測ることを覚え,物体間の距離が一 意的に定まる「計量空間」のイメージを完成させている。こうした観察事実は, 空間的な計量を把握するためには,視覚的データを(基準物体を移動させると いう)身体的な運動の知覚と連合させる操作が必要であることを実証する。
 <空間>のイメージが操作的に構成されていることは,存在認識の様式をさ まざまな形で規制するが,その最たるものが,<空間>と<物体>の分離だろ う。人間は,表象された<空間>の中に直接に計量を刻み込んでいるのではな く,(たとえ仮想的にせよ)基準物体を移動させる過程をもとにして空間的な 拡がりを定義するため,物体概念を捨象した“原”空間は,単に何かを動かす 地」として消極的にしか把握されない。現実の事象が生起する場として人間が 想定する<空間>が,そこに存在する物体によって影響を受けないと(無意識 のうちに)仮定されているのも,この消極性の現れと解釈できる。実際,物体 の内部で<空間>がどうなっているかは視覚的データだけでは判断できないは ずだが,<空間>を操作的に定義する立場からすれば,基準物体を移動させる 動作が常に前提にあるため,いったん“障害物”を取り除いてから<空間>の イメージを作り上げることになり,何の葛藤も生じない。このようにして,そ れ自体は何の活動も行わない空虚な<空間>と,その内部で安定な性質を保っ て運動する<物体>という二元論的な世界像が生み出されることになる。

 <空間>が身体的な運動の知覚に基づいて構成されるのに対して,<時間> は意識の持続として現れる。しかも,存在対象の時間的な拡がりを直観的に ――すなわち,時間軸と空間軸を持つグラフを使って運動を表記するという 幾何学的な手法を用いないで――表象するには,(抽象的な観念のような非時 間的な対象と区別するため)継続的な意識の流れの中で対象の状態を変えてい かなければならない。このため,<空間>の場合と本質的に異なって,<時間> は対象の変化に従属する概念として捉えられることになる。ところが,存在認 識の対象となるく物体>は,<客体化>作用を通じて安定であることが条件付 けられているため,時間方向の拡がりは,個々の対象が安定性を保ったまま部 分的に変化していくという非本質的な事態と解釈されやすい。すなわち,(「机」 にせよ「知人」にせよ)存在が認められるく物体>は時間とは無関係に概念規 定することが可能であり,こうした確固たる存在が,時間の中で(自己同一性 を維持しながら)組み換えられたり変形したりするものと見なされるのである。 逆に,時間的な拡がりが本質的な要素となっている対象は,“真の”存在者と しての資格を疑問視されてしまう。こうして,「海面に三角波がある」という 存在命題は,往々にして,「海水が三角状に盛り上がっている」という状態変 化の命題に翻訳した方が現実に近いとされるのである。
 <時間>が常に対象の変化と結び付けられるという状況は,必ずしも“当り 前”のことではない。例えば,イヌは視覚よりも嗅覚を優先させた知覚表象を 持っていると想定されるが,匂いの強さは,その発生源となった(獲物や仲間 のイヌなどの)対象がその場所をどれだけ以前に通過したかによって決定され るため,嗅覚に基づくイヌのバースペクティプには,<時間>が含まれている ことになる。こうした考え方が奇妙に思われるならば,それは,人間の時間観 が,その認知過程によって大きな制約を受けているためと心しなければなるまい。

 ここまで述べてきたような<空間>と<時間>の性質は,当然のことながら, 外界についての認識様式をさまざまに規制し,その結果として,人間に特定の く世界観>を押し付けることになりやすい。特に,対象を定常的な<物体>と して取り扱う手法を強引に押し進めていくと,「この世界には,安定な性質を 保った何らかの<物体>が存在し,これらが部分的に変化したり空間内を運動 したりすることによって,あらゆる現象が生起する」という《原子論的世界観》 に到達してしまう。しかし,こうした見方が基本的に誤っていることは,すで に現代科学が明らかにしている通りである。それでは,どのようにすれば,直 観的な存在認識の形式に則らずに,“現実の”世界を表現することが可能にな るだろうか。次に,この点についての議論に移ろう。

©Nobuo YOSHIDA