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 §2 超心理学の方法論的な欠陥

 筆者の理解するところによれば、〈超心理学〉とは、科学理論による説明が難しいとされる超常現象の中で、個人の(主として意志的な)意識活動に起源を持つと解釈される現象を、《超科学》の方法論によって説明しようとする学問的体系を指す。〈超心理学〉がどこまでを守備範囲とするかについては、研究者の間でも見解の相違が見受けられるが、全ての人が共通して取り上げているのは、テレパシーや透視などのいわゆる〈ESP(感覚外知覚)〉である。このほかにも、「スプーン曲げ」を引き起こす能力としてマスコミを通じて周知のものとなった〈念力〉や、頭の中で思い描いているイメージを写真乾板に直接現像する〈念写〉は、〈超心理学〉の対象としてかなり多数の賛同者を得ているようだが、一瞬にして別の場所へと移動する〈テレポーテーション〉のような“派手な”超能力は、超心理学者からも受け入れられていないようである。また、死を境にして魂が肉体を抜け出すと主張する〈死後生存〉の学説をこのジャンルに入れる人もいるが、本論文では、その一つの現れである〈臨死体験〉に限定して別に論じる機会を設けてある。
 この節では、さまざまな〈超心理学〉的現象の中から、特に〈ESP〉のみを議論の対象とする。その理由は、これが〈念力〉などと較べると比較的“穏やかな”現象であるため、論述があまりにSF的になって正統的な科学の信奉者に読んでもらえないという虞れが少ないからである。また、〈超心理学〉が〈ESP〉を論じる際の方法論的な問題点を明確にしておけば、より“強烈な”〈念力〉などの現象については、あえて議論の爼上に載せなくとも、筆者の言わんとするところが類推できると考える。
 〈ESP〉は、一般的には〈テレパシー〉と〈透視〉に分類される*1。前者は、送信者から受信者へ既知の通信手段によらないやり方で何らかの情報を伝達する過程であり、後者は、送信者なしに情報を獲得する過程である。ただし、この区別は厳密ではない。意図的な送信者がいたとしても、受信者が送信者の思念を受け取ったのか、それとも送信者が参照した情報源を〈透視〉したのか、峻別できないからである。さらに、〈テレパシー〉に関する実験は、少なくとも2人の被験者を扱わなければならないという点で、錯誤や不正の生じる危険性が高くなる。したがって、以下の議論においては〈透視〉をもって〈ESP〉を代表させることにし、そこでの論法を〈テレパシー〉へと転用する作業は読者に委ねたい。なお、時間的未来を〈透視〉することを〈予知〉と呼んで別枠で取り扱う立場もあるが、ここでは(予知能力を重視していないこともあって)採用しない。
 通俗的な〈超心理学〉的現象の記述では、偶発的なエピソードに関する報告が多く見られる。これは、例えば「夫が交通事故に遭遇した瞬間に、はるか遠方にいた妻がその光景をありありとイメージした」といった内容のもので、具体的な事例は大衆向きの書物に溢れている。この種の報告は、確かに印象的ではあるが、学問的な主張の論拠とするにはいささか信憑性に乏しい。実際、人間はふだんから知覚情報に即さない無数のイメージをぼんやりと思い描いては、明瞭に意識しないまま忘却するという生活をしているため、こうしたイメージの一つがたまに事実と一致すると、他の膨大な非現実的イメージの存在は忘れて、偶然以上の何かを感じてしまうことがある。報告された〈透視〉能力が、こうした錯覚によるものでないという保証はない。「ありありと事故の光景をイメージしたものの、現実には事故は起きなかった」という事象の統計が取れると、学問的データとしての信頼性も多少は増すだろうが、この作業自体は非現実的である。さらに、人間には、意図しない作話傾向があることも指摘しておかねばならない。良く知られた話だが、心理学の実験として、電車内で起きた暴行犯罪の模擬シーンを被験者に見せて誰が犯人かを問いただしたところ、そのような事実はなかったにもかかわらず、「あの男が暴力を振るっているところをはっきりと見た」と報告する者が現れたという*2。また、犯罪現場を直に目撃したはずの人が結果的には誤りだった証言をして、冤罪を生むもとになったという例も、決して稀ではない。こうした一種の「作話」は、必ずしも意図的になされているのではなく、脳裏にはっきりしたイメージが形成されているため、本人自身も実際に見たと信じ込んでいるケースが多い。こうした事情があるため、この論文では、〈透視〉に関するさまざまな個別的エピソードについては、あえて取り上げない。もっとも、専門家もこの辺りは心得ているようで、偶発タイプの事例は、〈超心理学〉的な現象がどのようなものかを具体的に示すための手段として引用し、その実在性を示す学問的な証拠になるとは考えていないようである。
 〈透視〉現象の根拠として現在の〈超心理学〉の研究で主に援用されているのは、厳密に管理された環境の下で行う実験の統計的な分析結果である。典型的なESPの実験として知られているのは、1930年代にライン夫妻が行った強制選択実験で、星形や波線が描かれたカードを用意し、別室にいる被験者にターゲットとなるカードの図形を言い当てさせるというものである*3。こうして得られた結果を、被験者がランダムな答えを述べた場合と比較して、統計的にみて有意な差が生じたときには、〈透視〉が行われたと解釈する。ただし、ターゲットの種類が限定されている強制選択実験では〈透視〉能力が充分に発揮されないとの批判もあり、ターゲットとして絵画や写真を用いるケースもある。
 実際に遂行された実験の中には、ランダムな回答の場合と較べて高度な有意差が認められ、〈透視〉能力の存在を強く示唆するものもある。専門の研究者によれば、有意な結果が得られなかった未発表研究を含めても、統計的にみて〈透視〉能力の存在は実証できるとされている。こうした主張の妥当性に関しては、この節の目的からはずれるので深入りしないが、筆者が〈超心理学〉の大部分を批判する立場に与している−−したがって、有意差を示す実験結果においては、統計的処理の誤りを含むトリヴィアルな錯誤や、意図的であるかないかを問わず何らかの不正がデータを汚染した可能性が高いと考えている−−ことは断っておきたい。

 前節では《超科学》が正統的な科学者から反感を買う背景に〈手法〉の問題があることを指摘したが、これが実際に学問的な主張の〈有効性〉を損なうかどうかについては、不問に付してきた。本節では、この議論をより実証的な方向に進めて、(必ずしも一般的ではないが)一つの結論を導きたい。具体的には、〈透視〉に関する研究において、《超科学》特有の手法がどのように用いられ、その結果として〈有効性〉がいかにして損なわれているかを提示する。
 〈超心理学〉に見られる方法論的な問題は、大雑把に言えばただ一つのポイントに還元できる。すなわち、理論を構築する際に科学的命題を生成する〈モデル〉を利用せず、代わりに広範な説明能力を持つ理論概念に依存している点である。いま議論しているケースでは、〈透視〉という概念が、理論的な〈モデル〉に立脚していない“宙ぶらりん”の状態で、さまざまな超常現象を説明するキーワードとして利用されているが、こうした用法が批判の主たる対象となる。
 以下では、やや恣意的に5つのテーマに分けて論述を進めたい。いずれも〈モデル〉を使用しないために〈有効性〉が減殺されることを示すものだが、はじめに取り上げられる「概念の不画定性」が他の諸問題の根源となっており、ここから、理論構築の場面で「階層性の無視」が、理論運営の場面で「反証不能性」と「対照実験の不在」が、それぞれ派生してくると考えられる。また、最後に取り上げる「基盤理論への反感」というテーマは、科学者の実在論的な世界像とかかわる哲学的な問題を孕んでいる。

 1.概念の不画定性
 最も基本的な(と同時に最も深刻な)問題は、何が〈透視〉なのかを判定する明確な基準がないままに、キーワードだけが一人歩きしていることである。正統的な科学においては、その機能が明確にされている〈モデル〉によって概念の内包が定められる。これに対して、超心理学者は、「網膜など既知の感覚器官によらずに対象に関する(視覚的な)情報を得る」というきわめて大まかな性質だけを与えるにとどめ、〈透視〉の外延を決定するのは、個々の事例を具体的に考察する段階まで先送りしている。このため、多くの報告の中から該当する事例を選択したり、被験者を用いた検証実験を計画するに当たって、研究者の主観的な判断が決定的な役割を演じることになり、概念を画定する上での恣意性を払拭できない。
 仮に〈透視〉というアイディアを残したままで科学的な議論を行う場合を考えると、概念画定のための弁別的な指標を導入することによって、こうした曖昧さを軽減するような配慮がなされると予想される。例えば、(ほとんど有りそうにはないが)光子の集団的な振る舞いを決定する量子力学的な波動関数自体を知覚する能力が人間に備わっているとすれば、現実に光が伝播していなくとも、波動関数についての知識をもとにしてターゲットの情報を得るという一種の〈透視〉が可能になるだろう。しかし、この機構によって〈透視〉できる対象は、一定の周波数の光とある値以上の強度で相互作用するなど、いくつかの条件を満たしていることが要請される。この条件に適合しないケースは、たとえ「既知の感覚器官によらずに情報を得た」ように見えても、〈透視〉現象とは認定されない。こうした自己抑制的な概念画定によって、科学の領域においては、特定の理論概念が乱用される危険を最小限にとどめているのである。
 ところが、〈超心理学〉では、概念の乱用を防ぐ手だてが講じられないまま、科学では充分に説明のできない“奇妙な”現象を、全て〈透視〉の名の下に統括しているように見える。この結果、外見上は〈透視〉の定義に合致する現象の中に、どうしても各種の錯覚やトリックに起因するものが含まれてしまい、これらをあらかじめ排除することは不可能となる。また、日常的な視覚認知の過程から〈ESP〉を分離するのも難しい。実際、眼球や網膜などの視覚器官がダミーでしかなく、「目の前の机」も実は〈透視〉によってイメージしている可能性は原理的に排除できないし、傍らにいない恋人の面影を想起するとき、これが単なる想像以外のものを含んでいるのか判断しようがないだろう。こうした概念画定の曖昧さがある以上、〈透視〉に関する言明には確実性が欠如することになり、それに伴って、言明をどこかに応用する上での有効性も必然的に減殺されてしまう。
 こうした欠陥が如実になるのは、〈透視〉を実験的に検証しようとする場面である。実際、この現象が「感覚器官によらない」というネガティブな形式で定義されているため、物理的パラメータを決定するような定量実験を計画しようにも、何を測定すべきかすらわからない。通常の科学実験では、ある物理量の変動を実測するだけで、そのピーク値や半値幅などから現象に関する多くの情報が得られる。これに対して、〈透視〉の検証を目的とするこれまでの実験は、いずれも既知の科学理論が予想する結果が示されるか否かという対立的な二項に焦点を絞っており、現象の定量的な側面には配慮していない*4。このようなセッティングでは、何らかの原因で実験が正常に遂行されないと、たちまち〈透視〉の存在を示唆する「科学の予想に反した結果」が得られてしまうため、検証実験としての信憑性はきわめて乏しいことになる。

 2.階層性の無視
 〈透視〉がいかなるものかを言い表すのに、「目を閉じていても、まるでじかに見ているように対象の姿が浮かんでくる」という表現がされることがある。こうした状況は、既存の科学的知識には含まれていない未知の搬送メディアが存在しており、これが視覚を通さないで対象に関する情報を伝達していると仮定すれば、理解可能だと思われるかもしれない。しかし、事態はそれほど単純ではない。どのような過程にせよ、搬送される情報の形式は、媒介するメディアの物理的性質によって規定されるはずである。当たり前のことだが、ある楽器が奏でている音楽が何かはいくら目を凝らしても見えないし、キャンパスに描かれた風景を知るのに耳を澄ませてもしかたないのである。とすれば、異質なメディアによりながら「目で見る」のに匹敵する内容の情報が送られるためには、かなり不自然な状況を想定しなければならない。このことが、〈透視〉能力を媒介する過程の実在性に対して、根本的な疑義を提起する。
 ターゲットとされたカードに描かれている「星形」を被験者が〈透視〉する実験を考えてみよう。うっかりすると、「星形」という図形の存在がすなわち物理的事実であり、被験者はこの事実を〈透視〉したと誤解されるかもしれない。しかし、「星形が描かれている」という事態は、実は、視覚的情報を階層的に特徴分析してはじめて認識可能になる高次の抽象的性質なのである。このことは、コンピュータによる画像解析の過程を思い浮かべれば明らかだろう。撮像機器を通じてディスプレイ上に特定の図像が映し出されたとしても、それが「星形」に見えるのは人間にとってだけであり、コンピュータから分析結果が打ち出されるためには、さらに多くのステップを踏まなければならない。具体的には、まず画素ごとに明るさの変化を調べる差分解析を行ってエッジを検出し、各エッジの形状と位置関係を調べる。その上で、あらかじめ用意してあるテンプレートと比較照合して、はじめて「星形」だと結論できるのである。人間の場合、こうした視覚情報の段階的な処理を、後頭葉視覚野に存する(解剖学的に区別できる)層状の部位で順次実行していることが知られている。ところが、〈透視〉による図形認知では、可視光に媒介される視覚的情報が利用できないので、ターゲットに含まれている(「星形」という)高次の抽象的性質を、段階的な手続きなしに直接に把握できると仮定しなければならない。こうした“超階層的な”プロセスを理解することは、物理的事実と心理的表象を峻別する常識的な科学者にとって、ほとんど解決の糸口すら見つからない難問である。
 〈超心理学〉の研究において、階層性を無視してもかまわない根拠を提示している論文は、筆者の知る限り存在しない(もっとも、〈透視〉とはそれほどまでに常識を超越していると言ってしまえばそれまでだが)。こうした無意識的な黙殺が生じた理由として、筆者は、〈透視〉という理論的概念が、特定の〈モデル〉によらずに日常言語の範囲内で定式化されている点を、改めて強調したい。実際、日常生活においては、眼前に「星形」が映し出されているとき、その存在が単純な事実であると考えても一向にかまわない。それどころか、脳裏に展開するあらゆる事象が、あらかじめ生活レベルで解釈された“意味”と渾然一体となって、「日常性」という同一階層の中でアマルガム状に表象されている。ちょうど、意識の上では、まず玄関のチャイムが聞こえてから来客の存在が推測されるのではなく、来客のイメージを伴ってチャイムが聞こえてくるように。こうした状況の下では、対象を認知する際に見られる複雑な特徴分析の過程は、全て無意識の彼方に押しやられている。おそらく、〈透視〉を概念化するに当たっても、日常的な生活レベルと同等の状況把握しか行わなかったために、本来存在している階層の重要性が看過されたものと推定される。
 もちろん、階層性を無視しているからと言って、それだけで〈透視〉というアイディアを棄却すべきではないのかもしれない。現時点の《超科学》では充分に論じられていなくとも、斯学の今後の発展次第では、何らかの説明が提出される可能性もあるのだから。例えば、次のような「逃げ道」が考えられる。
 第一に、〈透視〉は抽象性の最も低い物理的階層に対してなされており、そこから特定の性質を抽出する作業は、通常の認知と同様の分析過程だとする見解である。簡単に言ってしまえば、超能力者は、ターゲットのあらゆる状態について知ることができ、そのデータを自分の頭の中で分析しながら、「星形が描かれている」といった高次の性質を認知するのである。しかし、これが事実だとすると、認知心理学の常識が根底から覆されてしまう。視知覚に由来する比較的単純な情報を分析するだけで、何層にもわたる視覚野の組織をフルに活用した膨大な処理過程が必要となるのに、あらゆるアスペクトを含む膨大な情報をどうやって処理するのだろうか。
 第二の「逃げ道」として、いささか大胆に「階層性は現実には存在しない」と言い張る手もある。通常の科学的な議論では、自然界に生起するいかなる現象も、単純な“素”過程の組み合わせに還元できるとされている。しかし、そうした発想自体がそもそも誤っており、「星形」や「国家」や「資本主義」が実在すると見なすことも、絶対に不可能だとは断定できない。とは言え、ここまで話を拡張すると、何か有意義な発言が行える可能性はほとんどなくなってしまうだろう。

 3.反証不能性の問題
 科学理論は、(理想的なケースでは)採用されている〈モデル〉の定義があらわにされており、その条項のいくつかを変更した場合の帰結を実験/観察と比較することができるという意味で、一般に反証可能だと言われる。これに対して、〈超心理学〉の理論の場合は、(ターゲットからの距離に能力が左右されるかどうかといった)細部に関する説明はともかく、〈透視〉現象の実在性そのものを決定実験によって反証すること自体が困難になっており、結果的に主張の〈有効性〉が損なわれている。
 このことは、〈透視〉の存在を実証するためにこれまで行われてきた数多くの実験結果について、研究者がどのように解釈してきたかを見れば分かる。例えば、ESPカードの図形を回答させる実験では、当てずっぽうで答えた場合よりも正当率が有意に高いとき、〈透視〉が行われたと想定されている。それでは、正当率がランダムに回答が出された場合と誤差範囲内で一致すれば「〈透視〉現象は存在しない」と認められるのかと言えば、決してそうではない。単に被験者の中にESP能力の持ち主がいなかったと解釈して済ませてしまう。それどころか、はじめにスクリーニングによってESP能力がある者だけを選別してから同じ実験を繰り返してみたにもかかわらず〈透視〉現象が観察されなかったとしても、いわゆる「下降現象」によって能力が減少した結果だと解釈すれば、理論との矛盾は回避される*5。このほか、プラスの〈透視〉とマイナスの〈透視〉による相殺効果や、時間をずらして〈透視〉するズレ効果によって、〈透視〉現象が測定しにくくなっているとする主張すら見られる。こうした「弁解」が許される限り、どのような実験によっても〈透視〉現象の存在を否定することはできない。
 反証不能であることが理論の〈有効性〉を減殺するという主張は、必ずしも全ての人を納得させられないかもしれない。通常の科学においても、素粒子物理学における〈大統一理論〉のように、(陽子の崩壊や磁気単極子の存在など)理論から得られた予想が次々に否定されながらも、なお根強く支持され続ける理論が存在していることは事実である。しかし、〈大統一理論〉の場合は、理論を定義する条項を僅かに変更するだけで、実験事実に基づく反駁を回避することが可能であるのに対し、〈超心理学〉では、定義自体が明確に確定されていないため、アド=ホックに(「下降現象」などの)仮説を積み重ねていかなければならない。これでは、いかようにも言い逃れられるという印象を強くして、理論全体の信憑性が疑われてもしかたないだろう。
 〈超心理学〉の信奉者の中には、正統科学の背後にある「自然現象が(夢ではなくて)事実である」といった世界観が反証不能な基本的仮定として暗黙のうちに了解されている点を取り上げて、〈超心理学〉はそうした常識的な発想に楔を入れるものだと主張する人もあるだろう。しかし、〈透視〉のような適用範囲の限られた能力については、それほど根幹的な世界観にかかわるものではなく、これが関与しない通常の世界を前提とし、その上に発現する付加的な効果として想定されている。したがって、もし〈超心理学〉が確固たる命題を作り出す機構を備えた生産的な理論であるならば、〈透視〉の事実性を認める立場と認めない立場の間に観察可能な差異を示せるはずである。逆に、それができないとすれば、〈透視〉の主張は、他の反証不能かつ非生産的なドグマ−−「雀一羽落ちるのも全て神の意志である」のような−−と同等の価値しか持たないことになってしまう。
 理論の運営の場面で反証可能性が重要視されるのは、これをもとにして、いくつかの対抗理論の間で〈有効性〉を競い合わせられるからである。「遺伝子の担体は核酸かタンパク質か」を明らかにするために、多くの生化学者が活発な研究を続け、最終的に「タンパク質仮説」が反証されるに到る道程は、現代科学の一つのハイライトシーンと言えよう。歴史を振り返れば明らかなように、科学を進歩させる原動力となっているのは、往々にして、こうした競争(あるいは、その勝利者に与えられる名誉)なのである。このプロセスを欠いた学問は、いかに科学的な体裁を整えようとも、進歩から取り残される運命を免れないだろう。

 4.対照実験の不在
 〈超心理学〉研究者は、〈透視〉の存在を示唆するような不可解な現象の報告を多数集めており、なぜ科学者がこれらを認めようとしないのか不審に思っている。しかし、こうした黙殺的な態度は、何も《超科学》に対してのみ向けられているのではない。正統的な科学の世界においても、既存の理論では説明のつかない現象が数多く観察されており、しかも、その大半が、他の学者の興味を引かないまま、結局は錯覚や錯誤の類であったと結論されている。つまり、自然の謎を探求しているはずの科学者が、謎そのものとも言える現象の存在をなかなか認めようとしないのは、実は、その種の報告が誤りである蓋然性が高いことを経験的に知っているからである。実際、多くの実験科学者が認めているように、ある結果を得たいという心理的なバイアスが加わると、たとえそれが誤った目標であったとしても、そちらの方向に実験結果が偏位する傾向がある。その原因の一つは、予想と異なる結果が得られる間は測定装置の調整を続けるが、望ましい結果が出るとそれ以上は較正しようとしない態度に起因するのだろう。こうして、実際には有りもしない素粒子や細胞内器官を発見したという論文が、学界では引きもきらないのである。
 こうした誤報の氾濫を避けるため、実験科学の分野では、信頼性を高めるためにさまざまの手段が講じられている。最も一般的に採用されているのが、対照群と比較して判定するという手法である。どのように注意深く実験を準備しても、意図しないノイズが混入するのは避けられない。そこで、同一のノイズが混ざるような2つの実験装置を用意し、そのうち一方のみに測定したいシグナルが現れるようにすれば、両方の装置から得られたデータの差を取ることによって、ノイズが相殺されてシグナルだけが残ることになる。こうしたタイプの実験は、条件を多少緩和したものまで含めると、自然科学のみならず社会科学や人文科学においても遂行されている。
 特に厳正な対照実験が行われるのは、新しい医薬品の薬効を検査するケースである。この場合、被験者が投与される薬の効能をあらかじめ知らされていると、たとえ何の薬効もない偽薬を投与しても、心理的な作用だけで期待される効果が現れてしまう現象が観察されている。これを、プラシボ効果と呼ぶ。そこで、通常の試験では、被験者を2つのグループに分けて、一方に効能を調べたい真の薬を、他方に外見がそっくりで効能のない偽薬を投薬し、現れる効果の差をもって薬効を判定するという作業が行われる。ところが、この場合でも、医者の側がどちらが真の薬でどちらが偽薬か知っていると、やはりプラシボ効果が現れてしまうことがある。これは、医者が「この薬はどうせ偽で効かないから」という僅かな素振りでも示すと、被験者がそれを敏感に感じとってしまうためだと推測される。そこで、慎重な検査が必要な場合には、被験者はもちろん、投薬する現場の医者の側にも、それが薬効の期待される薬かどうか分からないようにして試験することがある。これが、二重盲験法と呼ばれる検査方法である。
 〈透視〉能力についての実験に、二重盲験法のような厳密な方法は必要ないと考えられるかもしれない。現に、実験心理学の調査でも、ここまで大がかりな実験が行われることは稀である。しかし、〈透視〉現象の有無は、決して心理学的なテーマではなく、基本的な物理法則の妥当性を揺るがす大きな問題であるため、厳密な実験が要求される。そのためには、対照群を用意して、二重盲験法で検査するのが最も確実である。
 ところが、〈超心理学〉の領域では、概念の定義があまりに広すぎるため、このような対照実験を遂行するのが困難になっている。対照群を設定するためには、〈透視〉が可能なセットとそうでないセットを用意して、被験者(および、二重盲験法の場合は実験者)がいずれの装置を利用しているか分からないままに、実験を遂行しなければならない。こうした手順を踏まえてはじめて、両者の結果の差から〈透視〉現象の有無が相当の確実性をもって判定される。例えば、鉛の遮蔽板がESP能力を遮断するならば、ターゲットと被験者の間に気づかれないように鉛板を挿入する装置を用意し、これを不定期的に挿入しながら実験を行うのが望ましい。ところが、一般的な〈超心理学〉の見解では、〈透視〉能力によってあらゆる範囲の事態を見透すことが可能とされているので、これが不可能になる実験装置を作ることがそもそもできないのである。
 対照群を利用できないことは、この方面における実証的な研究の信頼性を大幅に減殺する。実際、こんにち行われている実験は、科学的な予想に反する「異常な」結果が現れたときに、それがノイズの混入かどうかを識別する確かな方法のないまま、〈透視〉が示されたと認定するものである。こうした状況は、実験データの信頼性を評価する上で、ほとんど致命的である。

 5.基盤理論への反感
 正統的な科学の世界においても、エーテルの存在と矛盾するマイケルソン/モーレーの実験結果のように、それまでの常識では理解できない現象の発見が、革新的な理論へのブレイクスルーの契機になったというケースは数多い。一方、そうした現象が観察されながら、何かの誤りだとして無視したために、大発見を棒に振った例も、また、枚挙に暇がない。机の中にしまっておいた写真乾板がいつの間にか感光しているのに気がついたとき、その原因を究明しようとすれば、キュリー夫妻以前に放射性物質を発見できたはずの物理学者もいる。現在の〈超心理学〉を取りまく状況も、これに似ていると感じる人もいるかもしれない。
 しかし、奇妙な現象にひとたび興味を示すとなると、科学者のとる態度は、超心理学者の場合とは明らかに異なっている。机の中の乾板が感光したのを発見したからといって、まともな科学者が、いろいろな机や箪笥に写真乾板を入れてみては感光したかどうかを調べるだろうか。それよりも、そもそも乾板を感光させる原因物質を探し出し、その効果を定量的に測定するはずである。こうした手法で研究を進めるのは、科学者が、科学的な意味での〈実在論〉と呼ばれる立場を採用しているからである。ここで、〈科学的実在論〉とは、単純に理論的な概念や法則が実在すると主張するものではなく、科学の体系が、無矛盾性を保ったまま、より稠密なものに発展することを期待する根拠である*6。こうした信念を背景にして、奇妙で不可解な現象を発見したとき、その現象をそのままの形で説明する(乾板の“自然感光”のような)ジャルゴンを導入することなく、基盤となる理論を構築しようとするのが、科学者の基本的な姿勢である。
 これに対して、〈超心理学〉においては、「基盤理論」という発想そのものが、ある種の胡散臭さを感じさせるようである。この方面の研究者は、不可解な現象に即した概念を提出するだけで、それ以上の掘り下げを行おうとしない。ここで言う「掘り下げ」とは、〈透視〉能力の距離の依存性を調べたり、〈透視〉能力を発現させやすい心理状態を探索する作業ではなく、この現象をもたらしている物理的(ないし“超”物理的)過程を明らかにするというものである。正統科学に携わる者ならば、こうした現象を媒介するのが電磁気的な過程か、あるいは第五の力のような未知ではあるが場の法則に従うものかを、理論的/実験的に解明したいと感じるだろう。しかも、そのための探索は、全く無謀な暴挙とは決めつけられない状況にある。現在の物理学では、量子力学など基本理論の厳密な検証が行われているのは、(孤立原子や低温結晶のように)自由度が実質的に制限された系に限られており、多少とも複雑な素材になると、統計的な推測に頼らざるを得ない。したがって、生物個体などのきわめて多数の自由度を持つシステムを律しているのが、少数自由度系では表面化しない未知の物理法則である可能性も否定できないのである。こうした事情があるにもかかわらず、〈超心理学〉の研究者は、この方面に打開の道を模索しようとはせず、あくまで表面的な現象の記述に固執しているように見える。
 こうした態度は、〈超心理学〉が〈実在論〉に荷担していないことを示すものと受け取られよう。しかし、この哲学的立場にどのような実質的な意味があるか、いささかおぼつかない。実際、科学者が採用している〈実在論〉は、単なる世界観の表明ではなく、新たな理論の提出を促すという実効的な機能を担っている。これに較べると、〈超心理学〉の見解は、基盤理論を探索しないという否定的な方向でのみ顕在化しており、学問的な主張を提出する上で何の役割も果たしていない。

 以上の議論は、〈超心理学〉が(明確な概念画定を行わないなど)科学とは異質の手法を採用しているものの、それが逆に主張の〈有効性〉を損ねる結果を招いていることを示している。当然のことながら、この種の研究が、科学の〈方法論的障壁〉を克服するための手がかりになるとは考えられない。これが、前節で提起した問いに対する解答である。


©Nobuo YOSHIDA