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 §3 超常現象の科学による解明

 これまで見てきたように、《超科学》の方法論には、そのままでは学問的な主張としての〈有効性〉を保つことが困難になる要素が含まれている。このため、多くの《超科学》的言説は科学者の受け入れるところとはならず、正統的な学界で事実上無視されているのが現状である。こうした状況に対して、《超科学》の信奉者から、「現実に、既存の科学理論では説明できないような現象が観察されているではないか」という反論が寄せられると予想される。科学的方法論を絶対視する立場からは、この反論を黙殺することも許されるかもしれないが、やはり、いかに奇怪な超常現象といえども、可能な限りは科学理論によって説明を試みるのがフェアだろう。この種の試みは、《超科学》と《科学》の確執の原因が〈領域〉の問題にはないことを実証するためにも必要である。ただし、《超科学》に含まれる実験や観察の中には、ESPカードによって〈透視〉能力を検証するケースのように、それ自体が科学的な発想法に馴染まない形にアレンジされていて、何らかの錯誤や不正があったとしか説明しようのないケースが多々ある。これらは議論の対象から除外させて頂くことにして、ここでは、科学的に説明づけることが可能な事例として、UFOと臨死体験に関する報告を取り上げたい。なお、この節の議論は、前節における方法論的な議論の補遺となるもので、本論文の他の部分からは独立している。

 UFO現象の科学的解明
 こんにち、UFOに関する報告はTVや雑誌などで特集されることが多く、大げさに言えば国民的関心事にすらなっているようである。人々の反応は、大きく4つに分けられよう。すなわち、少数のUFO信者、半数を越すと思われる消極的賛同派、同じく半数程度の懐疑派ないし無関心派、そして少数の積極的否定派である。ただし、個々人のUFO観は必ずしも信頼できる情報に裏打ちされている訳ではなく、かなりの程度まで、商業主義に毒されたマスコミの誘導によって形成されたものであることは看過できない。しばしば発せられる「UFOを信じるか否か」という問いは、地球以外の天体から来訪した知的生命による人工物体としてのUFOを前提としているようだが、これなどは話を面白くするための週刊誌的な二分法でしかない。UFOについて真剣に議論するためには、より科学的な考察を積み重ねておく必要がある。その上で、はじめて宇宙人云々を口にする条件が整うのであって、いきなり「UFO=宇宙からの来訪者」という命題を振りかざすのは、本末転倒と言わざるを得ない。
 それでは、現在に到るまで数多く報告されているUFO現象の背後にある過程として、どのようなものが想定できるだろうか。意図的なトリックや虚偽の報告を別にすれば、UFO現象は、(1)心理的現象、(2)自然現象、(3)人工物体−−のいずれか、または、その複合したものと解釈される。さらに、各分類の中で、従来の科学の範囲内で既知のものか否かで小分類することが可能である。これらの分類項目について、順次論じていこう。

 はじめに、UFOが心理的要因に基づくものだという仮説を検討してみる。
 高速道路で長時間単調な運転を続けたドライバーから、「白っぽい服を着た女性が道路上を追ってくるのを見た」などのような報告がされることがある。報告内容の分析や同様の状況を設定した実験をもとに、こうした現象は、大脳皮質へ入力される情報量が減少したために大脳の活動が低下し、いわゆるレム睡眠時幻覚が生じた結果だと判明している。日常的な光景から切り離されて変化の乏しい空ばかり見ながら操縦している航空機のパイロットが、この種のレム睡眠時幻覚に陥って奇妙な飛行物体を見たと思い込むことは、心理学的見地からも充分に予想される。特に、「空飛ぶ円盤」なる呼称のもとにもなった米軍パイロットの報告は、「皿状のものがピョンピョンと飛び跳ねている」という内容からして、典型的なレム睡眠時幻覚の性格を示している。
 なお、こうした幻覚が「円盤状」のものとして顕現する心理的背景として、ユングが興味深い見解を示している*1。すなわち、人間には〈元型〉と呼ばれる基本的なイメージが刷り込まれており、中でも〈円〉は多くの文化圏に共通して重要な役割を演じている。この〈円〉のイメージが個人よりも優れた存在者に重ねられ、これが天上から自分を眺めているという宗教的幻想が形成されると、表層意識のレベルでは、天空に投影されたイメージとしての〈円盤〉が登場することになる。ユングの説明は、必ずしも科学的な実験/観察データに依拠しておらず、そのままでは信憑性が高いとは言えない。しかし、他のいかなる図形にも増して〈円〉が強い喚起力を備えていることは間違いなく、この特質が「円盤状」のUFOを生み出す契機になっていると考えることは妥当だろう。
 人にUFOを見せるもう一つの心理的な機構として、際だった事象を「モノ」として対象化する傾向性があることを指摘しておかなければならない。例えば、水面に立つ三角波は、あくまで水の一部が構成する状態であって、それ自体が独立して存在する物体ではないにもかからわず、他の部分から切り離された「三角波」として目に飛び込んでくる。このような客体化の操作は、あらかじめ用意されている認知のテンプレートに合致する部分を特定する作業を通じて実現されるもので、〈地〉から〈図〉を分離する生得的な認知過程の一種である。人間にはこうした傾向が備わっているため、日常生活で見慣れていない特異な事象を目にしたとき、それを「モノ」として背景から分節することは、ごくありふれた錯覚である。その中には、「目の端で何かが動いたような気がする」といった些細なものもあるが、煌々と輝く金星や地平線近くの満月の前を雲が風に飛ばされていく光景を目にしたとき、より際だった金星や満月の方を客体化するあまり、「UFOが雲の向こう側を高速で飛んでいく」という人騒がせな報告になる場合も稀ではない。

 次に、UFOが自然現象に帰せられる可能性を検討してみよう。これに該当するケースは、いくつかのタイプに分類することができる。これらについては、多くの啓蒙書で論じられているので、ここではごく簡単に触れるにとどめる。
 (i)光学現象:UFOは実体がなく、単なる光のいたずらだという考えである。具体的には、地上の光が雲などに映じたり、太陽光が複屈折していわゆる「幻日」を生じたりするケースがある。UFOが物理法則を逸脱してフラフラないしジグザグした飛行パターンを示すときは、「人類には未知の技術」を逃げ口上としないで、光学的な意味での虚像ではないかと疑ってみるべきである。
 (ii)天文現象:UFOとして報告されながら、最終的には既知の天文現象として解明された事例も多い。流星は特に誤認されやすく、巨大なものは新聞種になることもある。このタイプのものは、天体観測の精度が向上しているため、比較的容易に決着がつけられる。
 (iii)気象現象:UFOに関する報告の中で特記すべきものに、その形状が必ずしも幾何学的ではなく、ピクルスのような奇怪な形をしていたという目撃談がある。これは、観察されたのが(人工物ではなく)雲などの気象学的な現象だと解釈すると納得がいく。報告されたUFOの性質は(当然のことながら)典型的な気象現象と一致していないが、「三重の虹」や「彩雲」のようにふつうの人は一生に一度も見られない現象も知られているので、全くの偶然が重なって特異な効果を生んだとしても、驚くには値しない。
 (iv)プラズマ球(火の玉):現在、多くのUFO現象を説明できる仮説として、最も注目を集めているのが、プラズマ球の理論である*2。プラズマ球とは、大気中の電気的エネルギーによって気体が局所的に電離状態になったものである。この仮説には、UFOの特異な性質のいくつかをプラズマ理論から自然に導けるという利点がある。具体的には、典型的なUFOに見られる「強烈な光を放ち、球に近い形状で、フラフラした飛び方をしている」点に関して、それぞれ、(1)電離気体が電子を捕獲する際の発光現象;(2)プラズマ内部の相互作用に起因する表面張力効果;(3)エネルギー供給源となる電界の極大点が位相速度で移動する効果−−という説明が与えられる。当然、プラズマ球仮説に対する批判もいくつかある。第一に、局所的に巨大なエネルギーを集中させる電気的なメカニズムが、不定形の境界を持つ自然界で実現されるかどうか。第二に、大気を構成する気体が、球状のプラズマ状態のまま(報告されているように)20〜30秒も安定でいられるかどうか。こうした批判に明確に答えられなければ、この主張を正当化する訳にはいかない。しかし、「UFO=宇宙からの来訪者」説に較べて、プラズマ球仮説が圧倒的にすぐれているのは、科学的な命題を自動的に生成できるという点である。実際、発光スペクトルや変形に対する応答などの観測可能な性質は、いくつかの物理的パラメーター(気体の組成、温度、供給エネルギー量など)を設定するだけで(少なくとも原理的には)定まるはずである。これは、プラズマ球仮説が「予言能力」を持っており、科学理論として有効であることを示している。

 最後に、UFOが人工の飛行物体であるという見解を取り上げてみたい。実は、このケースが最も蓋然性に乏しい。その理由はいくつか指摘できるが、最大のものは、その動きが航空力学的に見て、きわめて不自然な点である。UFOに特有の振る舞いとしてしばしば指摘される「ピョンピョン飛び跳ねる」「フラフラと漂う」あるいは「ジグザグに折れ曲がる」といった運動は、その主体が、物理的な実体ではなく、光学的な像やプラズマ球ないし錯覚であることを強く示唆する。また、UFOの形状が球や円盤あるいは不定形であることも、プラズマ球や気象学的な現象であるという証拠にはなっても、大気中を運動する物体であるという見方とは鋭く対立する。実際、空気抵抗を受けながら高速で自力推進する飛行体は、突出した先端部と流線型のボディを持つのが技術的な必然である。人工的な物体の中でこの形状に合致するのは、気象観測用ゾンデなどが気流に乗って流されているときに偏平な円盤状に変形しているケースだけだろう。

 以上のように、UFO現象は、科学理論によって完全に解明されないまでも、かなりの説得力を持った説明が可能となっている。もちろん、合理的に万人を納得させられるものではないかもしれないが、科学を支持する立場から言えば、こうした不満が生じる主たる理由は、UFO現象として、きわめて奇妙な状況が重なった特異なケースだけを選別している結果だと考える。

 臨死体験の科学的解明
 今年3月に、NHKでは立花隆のリポートに基づいて、臨死体験についての特集番組を放映し、この問題に関する新しい視座を提供した*3。これまでにも、死の寸前から生還した人の体験談として、「自分の一生が走馬燈のように浮かんだ」とか、「光に包まれてかつてない至福感を味わった」といった報告を耳にすることはあったが、散発的なものにとどまり、充分な信憑性は得られていなかった。これに対して、NHKの番組スタッフは、多くの臨死体験を収集した上で、インタビュー映像を中心に誤解を招きにくい形で編集しているため、どのような解釈を下すかという立場を問わず、この問題を論じる人に確固たる基盤を与えてくれた。こうした実証的な姿勢は、《超科学》と呼ばれるジャンルを検討するに当たって、議論を水掛け論に終わらせないためにも、きわめて有意義である。
 さて、NHKの特集番組をもとに、臨死体験が何を意味するか考えてみよう。実際に死に臨んだ体験の持ち主が、「意識が肉体を離れて宙に浮かぶのを感じた」「生と死の境界に川があり、その向こう側で死んだはずの祖母が手を振っていた」などと語っているのを見ると、強烈な印象を受ける。特に注目すべきは、(1)実際にこの体験をした人の多くが、強い確信をもってそのリアリティを主張している;(2)臨死体験の中には多くの人に共通した要素がある−−という2点である。古典的な生理学者の中には、臨死体験を「単なる幻覚」と決めつける者もいるが、上の2点を考慮すれば、“単なる”幻覚でないことは明らかである。
 そもそも、臨死体験を通じて認知される現象は“現実に”生起していると見なし得るのだろうか。この問いは、「現実とは何か」という科学哲学的な問題と結びついているため、イエス/ノーで割り切って答えられるものではない。一つの方向としては、人間に統覚を与える〈魂〉という《超科学》的な概念を導入し、肉体の死後もこの〈魂〉による意識が持続すると仮定することによって、さまざまな現象を“現実のもの”として説明する立場が考えられる。しかし、この説明では、現象の「理解できない」部分を〈魂〉という「理解できない」概念に押しつけることになり、〈肉体〉と〈魂〉の関係についての古典的なアポリアは、依然として解決されないまま残ってしまう。こうした袋小路に入り込まないために、ここでは、臨死体験の起源があくまで物質的な生理現象にあると仮定した場合、どこまで説明が可能になるかを考察してみたい。

 はじめに、上に指摘した2つの特徴のうちの「リアリティ」について、既存の科学的知見に基づいて解釈しよう。これは錯覚の名の下に論断すべき現象ではなく、「リアル」と「バーチュアル」の差異を明らかにすることから始めなければならない。
 そもそも、われわれが何らかの対象をリアルだと感じるのは、遂行可能な手段を通じて得られた当該対象に関する情報が、同一のコンテクストの中へ整合的に配置できる場合に限られる。例えば、「眼前の机」がリアルなのは、単に「ありありと目に見える」からだけではなく、この視覚情報および触覚などによる他の感覚情報が、ふだんからその上で書き物をしているという日常性の文脈に矛盾なく納まるからである。さらに、外部に向けられた能動的な行動に対する応答がコンテクストから予想されるパターンと合致する場合、このリアル感は確信にまで高められる。極端なことを言えば、目に見える物質性を備えていないような仮想的存在−−管理国家における体制側の「権力」を想定すればわかりやすいだろう−−ですら、幾通りかの対抗的な行動をとったときに、いかにもそれらしい反応が生じると、その存在がリアルなものとして実感されるはずである。
 このような観点から、臨死体験を見直してみよう。直ちに指摘できることは、臨死状態においては、外部から観察できる覚醒レベルが低くなっており、構成的な思考や感覚情報の処理を行う能力も低下していると推定される点である。即物的なリアリズムの見地からすると、感覚情報が欠落するからにはリアル感が得られないと思われるかもしれない。しかし、脳の生理学的な機構に着目すれば、こうした状況は、むしろ上に述べた意味でのリアリティを助長すると考えられる。実際、感覚野から大脳皮質に到る入力路が遮断された患者に関する病理学的な知見が示唆するように、人間の大脳は、充分な感覚情報が得られないときには、その欠落部を適当に補償する傾向がある*4。このような補償作用によって構成された“現実もどき”は、その非現実性をあらわにするはずの情報がまさに欠落しているために、感覚に由来する情報の分析を通じては、そのリアル感を減じることができない。特に臨死状態(およびレム睡眠期)にあるときは、能動的な行動によって外部からの応答を確認する道が閉ざされているばかりか、学習記憶と比較して現実的かどうかを判定する能力も減退しているため、この“現実もどき”が認識できるほとんど唯一のコンテクストを形成しており、結果的に、利用できる手段を総動員した上でリアリティが認められたことになってしまう。このように考えると、臨死体験が、通常の幻覚とは異なって、白昼夢と類似したリアリティを獲得していることは、決して不可解ではない。
 断っておくが、以上の主張は、臨死体験のリアリティが生理的な起源を持つことを実証するものではない。あくまで既存の科学的知見との整合性を示したにすぎず、《超科学》的な見解に較べて学問的優位を唱えられる段階ではない。しかし、少なくとも、臨死体験をリアルなものと感じたという報告が現行の科学と矛盾していない点を強調しておいても良いだろう。

 それでは、臨死体験のもう一つの特徴である「普遍的な共通項の存在」についても、物質科学の用語で説明できるか、具体的にチェックしていきたい。NHKの番組では、臨死体験の共通項を7つにまとめていたが、ここでは、その中から特に重要と思われるものをいくつか取り上げる。
 第1の共通体験として、死の直前から生還した多くの人が、死の間際には恐怖や苦痛を忘れて幸福感に満たされたと報告している点を挙げよう。実は、この項目が、生理学的に最も説明を付けやすい。既に知られているように、エンドルフィンなどのある種の神経ペプチドは、人間に強い快感を与える作用がある。こうした快感は、性交におけるオルガスムスのように、生物学的に見て好ましい本能的行動を動機づけるのに利用されるのみならず、きわめて苦しい状況に置かれたときにこれを緩和する手段として用いられることもある。例えば、戦場で敵が目の前に迫ってくるのを見て、足が骨折していながら懸命に逃げたケースがあるが、これなどは、神経ペプチドの作用によって一時的に苦痛が取り除かれてたケースだと想定される。また、新人のダンサーがミュージカルのオーディションを受けたとき、体調を崩してほとんど立てないほどの苦痛に苛まれていたにもかかわらず、いざステージに上がると楽々と踊ってみせたという話もある。このように、非常事態に際しての緊急避難的な対策として、ある種の神経ペプチドを放出して快感を与えることは、かなり一般的に見られる生理現象である。とすれば、“死”の瀬戸際という文字通りの緊急事態に直面して、苦痛を和らげて恐怖を取り除くようなメカニズムが機能したとしても、何の不思議もない。ついでに述べておくと、こうした現象が普遍的であると判明すれば、こんにちモルヒネなどの麻薬類を用いている末期医療において、より安全に痛みを緩和する治療法として応用される可能性もある。
 臨死体験の第2の共通項として、多くの人がトンネルを通り抜けて光の満ち溢れた世界に到達したことを告げている。これはいささか解釈に苦しむ報告だが、次のように考えれば物質科学の枠内で説明が付けられなくもない。すなわち、死の直前において、視覚野の機能が減退して視野狭窄が生じた状態で、脳神経系の膜電位の低下に伴うてんかん様の発作が起きると、狭められた視野の内部に激しい光が見えるという解釈である。もっとも、この推理には実験的な裏付けが欠けており、強力に主張するだけの根拠に乏しく、むしろ今後の研究が待たれる領域である。なお、“光”を見たという体験だけならばてんかん様発作として理解できるが、日本で多く報告される“川(三途の川?)”や“お花畑”のイメージは、それこそ“単なる”幻覚という以上の説明は困難である。
 多くの人の臨死体験に共通する第3の内容は、いわゆる〈肉体離脱〉である。〈肉体離脱〉とは、死の境界線上で意識が肉体から離れて浮遊するように感じる体験を指し、しばしば「上からこんなことが見えた」として、横臥した視点からは得られないはずの視覚情報を報告するケースもある。NHKのリポートでは、手術のために目隠しをされていたにもかかわらず、執刀医がどのような振る舞いをしたかを詳しく述べた患者が登場した。臨死体験が“現実の”出来事であると主張する人々は、この〈肉体離脱〉を最も重視しており、肉体から独立した意識主体である〈魂〉の実在性を示す証拠だと見なす論者も少なくない*5。この問題については、前2項以上に詳細な議論が必要である。
 生理学の観点からすると、こうした〈肉体離脱〉現象の基本的なメカニズムは、既存の科学的知見の範囲内で明確に説明できるものであり、臨死体験が生理的変化に伴って方向づけられた幻覚の一種であることを示唆する。
 簡単な内省によって知られるように、われわれは、内観的なイメージにおいては、ごく日常的な状況の下でも肉体の桎梏を脱している。例えば、けさ朝食を摂ったときの光景を想起して頂きたい。すると、本来は目の前の料理や手の先しか見えなかったはずなのに、想起されたイメージの中には、側面や上方から見た自分の姿が含まれているだろう。こうしたケースでは、無意識のうちに視点を肉体の外へと移動させているのである。同様の視点の移動は夢の中でも体験することができる。自分の後ろ姿が見えるかどうかが夢と現実を区別する鍵になるという話は、吉行淳之介の『夕暮れまで』の中で印象的に語られている。また、意識が半ば覚醒したままレム睡眠状態に入ったときには、臨死体験で語られる〈肉体離脱〉にきわめて類似した現象が生起しやすいことも、実体験を通じて了解できるだろう。
 このようなイメージの上での〈肉体離脱〉が生じる生理的な機序は次のようなものである。人間が自己の身体像を形成するとき、視覚はきわめて重要な役割を果たしているものの、視覚的情報そのものを枠組みとしている訳ではない。実際、日常的に体験できるように、目を閉じたり視線を移動したりしても身体像が急激に変形されることはなく、むしろ多少の視覚情報の摂動に対して恒常性を保ち続ける傾向がある。このような性質を担っている身体像の神経科学的な起源は必ずしも解明されてはいないが、おそらく、その背後には、小脳による運動制御と類似したフィードフォワード制御が存するものと思われる。すなわち、筋肉へ出力を指示する際に目標値とする情報が、制御の準備段階で連合野に投射されると、これが身体像として意識されるのである*6。したがって、人間が意識する自己の身体像とは、各種の知覚情報を総合しただけのスタティックなイメージではなく、それをもとにどのような運動が可能になるかを指示するダイナミックな内容から構成されている。こうした内容は、現実に手足を動かす際に用いられるだけではなく、仮想的に身体を動かしながら他の物体との位置関係を明らかにする作業においても利用されている。このような動的な情報に立脚しているため、自分の体がどのような定位されているかというイメージは、完全に空虚な空間の中に受動的に放り出されているといったものではなく、そこで運動が可能になる操作対象としての空間と密接に結びついている。別の言い方をすれば、自分の身体について思い描くとき、そこに現れる空間は、人間の手の内にあってその中を自由に移動できる「活動の場」なのである。意識が覚醒している状態では、身体像は常に知覚情報によって修正され続けるため、パイロットが空間識失調に陥ったときのような例外的状況を別にすれば、視覚的イメージそのものと混同されがちである。ところが、何らかの事情で知覚情報の絶対量が低下すると、外在的な状況から遊離して脳が自分勝手に身体像を生成するようになる。こうなると、もともと表象された空間内部を自由に動き回るダイナミックなものだけに、身体像が本来の視点からかけ離れた位置に移動していくのは、きわめて当然である。瀕死の病人の脳でこうした神経生理学的な過程が生起していると考えても、決して不整合ではないだろう。もちろん、これはあくまで仮説にすぎないが、集中治療室で看護される患者の中には脳波を記録されているケースがあるため、〈肉体離脱〉が実現されている間の脳波に関する知見をもとに、近い将来、より具体的な生理過程が明らかにされると期待される。

 ただし、以上のような生理学的な議論では説明できない要素が〈肉体離脱〉体験に含まれることも、また見逃せない事実である。すなわち、もしこれが脳の生み出した“作話”にすぎないならば、肉体を離れている間に得たとされる情報は病床のベッドに横たわりながら見聞きできる範囲内になければならない。ところが、既に述べたように、こうした体験を通じて、見えるはずのないものを見たと報告する例は決して少なくない。もちろん、その中には、「それまで目にする機会のなかった頭頂部の禿が、空中に浮遊しているときにはじめて見えた」とする主張のように、事前に知っていながら意識には上らなかった情報が具体的イメージをとって現れたと解釈しても充分に納得できるものもある。しかし、目に覆いを掛けられた手術患者が執刀医の身ぶりを覚えていたという例は、どのように解釈すべきだろうか。私は、これを人間の高度な情報処理能力の現れと考えたい。具体的には、衣ずれや足音などの僅かな聴覚情報、あるいは空気の微妙な振動や体温の知覚をもとにして、視覚的なイメージを再構成したのである。実際、すぐれた猟師は獲物の姿をじかに目にしなくても、いわゆる“手ごたえ”によって弾丸が命中したかどうかを判定できると言われており、視覚以外の情報をもとにした人間の総合的な推察力の大きさに驚かされることがある。さらに指摘しておきたいのは、〈肉体離脱〉に際して脳が構成するイメージでは、比較的確実性の高い情報だけが明確な外見を与えられるため、見かけの上で報告の信憑性が増すという仕組みの存在である。たとえ病床にあって(上から浮遊した状態で見た場合に較べると)僅かな情報しか得られなくとも、外部の状況で不確実な部分については(ちょうど夢の中で登場人物の顔がどうしても判定できないときのように)「見れども見えず」の状態に放置したままでもかまわないため、回復後に語られる体験談においては、不足気味の情報から強引にイメージを作り上げたために生じる誤謬が意外と少なくなるのである。このように解釈すれば、見えるはずのないものを見てきたかのような報告がなされたとしても、これが実際に肉体から離れた〈魂〉によって観察されたと結論する必要はない。
 残念ながら、こうした主張を実証するためには、〈肉体離脱〉によって得られたと主張される観察内容が、病床にあっても他の手段によって知り得ることを示すだけでは、不充分である。この作業に加えて、さらに、感覚情報から遮断されたときに大脳皮質が生み出す“作話”の基本的な特徴を調べ、これと同様の性質が〈肉体離脱〉の報告にも含まれることを示さなければならない。そのためには、きわめて多数の体験談を根気よく収集しなければならず、現時点でああだこうだと議論しても、各陣営ごとに意見が対立したまま物別れに終わるだけだろう。

 ここで挙げた以外にも臨死体験に見られる共通項はいくつかあるが、上の3つほど重要ではない。例えば、日本では、一般に、〈肉体離脱〉した後では既に死んだ人々と出会うと言われているが、欧米では、逆に、遠くで生きているはずの人の姿を見たという報告が多い。臨死体験のさなかで遭遇するのが他者の〈魂〉だと考えると、これは互いに矛盾するので、この種の報告は、文化的な背景に裏打ちされた幻覚と解釈するのが妥当だろう。生と死の境界線となる“三途の川”や彼岸の“お花畑”なども、同様に取り扱える。
 以上の議論は、必ずしも臨死体験を幻覚の一種と論断するものではなく、その多くの特徴を物質科学的な観点から解釈する可能性を示したにすぎない。今後は、こうした解釈が妥当かどうかを検証していく必要があり、この作業を経て、はじめて臨死体験を科学の枠に組み込むことができる。ただし、現段階でも、主張内容は既存の科学的知見と充分に整合しており、〈魂〉の実在性を唱える立場と較べると、説得力は優っていると思われるが、いかがなものだろうか。


©Nobuo YOSHIDA