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 §1 《超科学》の何が問題か

 はじめに、《超科学》が正統的な意味での《科学》と異なっている点として、研究における〈領域〉と〈手法〉の双方を取り上げ、主としてどちらが科学者から反感を買っているのかを考察する。

 《超科学》に対する科学者の反感
 先端的な研究活動に従事している現役科学者の大多数は、《超科学》の主張をまじめに理解しようとはしない。実学を重んじる日本では、超能力やUFOに関する講座が大学に設置されることはまず有り得ないし、キャンパス内でこれらの研究がある程度まで認知されているアメリカにおいても、AAAS(アメリカ科学振興協会)が機関誌“Science” に超能力関係の論文を掲載しない方針を打ち出すなど、その学問的地位はきわめて軽んじられている。
 こうした科学者の反感は、必ずしも論理的な考察に裏打ちされておらず、往々にして感情のレベルにおいて《超科学》を排斥する意識が作用した結果である。実際、超能力実験の結果をどう解釈するか問われた科学者が示す典型的な態度とは、頭ごなしに「インチキだ」と決めつけて「どこかにトリックがあるはずだ」とあら捜しするというものである。これでは、《超科学》の正当性を主張する研究者は納得させられないだろう。もっとも、科学者のために一言弁解しておくと、“非”科学的な言説は、体系としての体裁を整えている《超科学》にとどまらず、「茶柱が立つと縁起が良い」といった明らかな迷信/俗説の類に到るまで枚挙に暇がなく、専門の仕事に忙殺されている科学者が、その一つひとつに反論する時間的ないし精神的余裕がないのは事実である。このため、たとえア・プリオリには否定できない命題−−その中には、「この世界は赤の王様が見ている夢である」という『鏡の国のアリス』の中のパラドキシカルな台詞すら含めて良いだろう−−であっても、子細に検討しないままに排除せざるを得ないのである。しかし、そうは言っても、自分の専門領域に関してははるかに厳格な評価基準を採用しているはずの科学者達が、こと《超科学》の問題になると、なぜこうも素朴な批判しか提出しないのか、疑問に感じられるだろう。
 科学者が《超科学》に対して反感を覚える理由として、便宜的に次の2つを分けて考えてみたい。第一に、《超科学》が取り扱う対象が、従来の科学研究が守備範囲としてきた領域から逸脱しており、保守的な意識の持ち主である科学者が反発を感じたという見方。これを〈領域〉の問題と呼ぼう。第二に、《超科学》が対象を取り扱う仕方に方法論的な欠陥があるため、議論の詳細を見る必要も感じないままにその受容を拒んだという見方。これは、〈手法〉の問題と呼ばれてしかるべきである。多くの科学者は両者の境界線上で判断を下しているようだが、ここでは、2つを別個のものとして、順に取り上げていく。

 〈領域〉の問題
 もし、《超科学》の受容を拒む理由が〈領域〉の問題にあるならば、事態は比較的単純である。この場合、“正統派”の科学者は、〈歴史的障壁〉に遮られて眼前の《超科学》的現象に目が向けられない保守主義者に過ぎない。逆に、《超科学》の正当性が認められた暁には、その研究者は学問の新開地を切り拓いたパイオニアとして高い評価を受けることになるだろう。こうした見解は、《超科学》の推進者が正統的な科学者を非難する際に一般に採用されているようで、彼らに言わせれば、ESPやUFOの実在を証明する証拠が次々に提出されているにもかかわらず、これから目を背けて伝統を墨守しようとする正統的科学者の頑迷固陋さの方が不可解なのである。
 確かに、(Science や Nature のような)専門の学術誌に掲載される科学文献でテレパシーやUFOが取り上げられることはなく、科学者が《超科学》独特のジャルゴンを意図的に排除しているのは明らかである。しかし、だからと言って、《科学》と《超科学》の研究領域が相異なっているとは結論できない。それどころか、筆者は、次のような理由で、〈領域〉の問題は、《超科学》を排除するメカニズムにおいて本質的な役割を果たしていないと考える。
 《科学》が提出するさまざまな法則は、自然現象のあらゆる領域を横断する普遍性を有していると仮定されており、当然のことながら、その適用範囲には人間を含めて生物個体が関与するケースも入っている。科学に疎い一般人は、社会の片隅で誰にも知られないように超能力者が細々と生きていても、さほど不思議はないと感じるかもしれない。たとえ、サイキックパワーによってエネルギー保存則やエントロピー増大則が破られ得るとしても、それが社会にとって微細な影響しか及ぼさない程度のものならば、日常生活が混乱することはないはずだ−−という訳である。しかし、科学者にとっては、社会の片隅であろうとなかろうと、普遍的な法則が破れること自体が重大問題であり、その影響は、超能力者の周辺にとどまらず、当該法則が関与するあらゆる現象に及ぶはずである。したがって、もし《超科学》的な現象が既知の科学的法則に多少なりとも抵触するならば、それだけで、正統的な科学と最も重要な領域を共有していることになる。
 もちろん、科学者が法則の普遍性を盲目的に信じていたのでは、法則に違背する《超科学》的現象が観察されても「見れども見えず」のままで黙殺されるだけだろう。しかし、現代科学はそれほど頑なではない。こんにち採用されている科学的方法論によれば、エネルギー保存則のような基本法則も含めて、あらゆる法則はモデル理論を構成する仮説(ないし特定の仮説からの帰結)以上の何者でもないことが含意されている。こうした諸仮説は、新たな実験や観察データによって覆される可能性が常に予期されており、しかも、ある仮説に反するデータが提出された場合、それに代わる対抗仮説を考案するのも科学者に課せられた重要な責務なのである。このことは、次の主張を導く:もし《超科学》における現象の記述が、方法論的な面で《科学》における実験/観察データと同質のものであるならば、少なくともその一部分は、対抗仮説の建設を促進する根拠として科学者の視野に入って来なければならない。例えば、サイキックパワーの存在を許容するために、「エネルギーの保存は統計的法則であり、自由度がきわめて大きい系の集団運動を通じて、特定の方向へ偏向され得る」という“科学的な”仮説が提案されてもおかしくないはずである。言い換えると、科学的方法論に則っているとの前提の下では、《超科学》は《科学》に直接的な影響を及ぼす立場に位置することになり、上に述べたような〈領域〉の問題は霧散してしまう。
 こうした主張に対して、「科学者はそれほど状況に柔軟に対処していない」との反論が寄せられるかもしれない。しかし、筆者の個人的体験から言わせて頂ければ、科学者ほど好奇心が旺盛で、しかも“しなやかな”思考法を身につけている人種は見あたらないのである。この傾向は、特に基礎科学の領域において著しい。実際、素粒子論や宇宙論の研究者が、新しい発見にいっせいに群がったかと思うと、あっという間にしゃぶり尽くして別の研究に乗り換えていくさまは、ほとんど軽薄に見えるほどである。こうした“しなやか思考”が、「宇宙の相転移」や「超ひも理論」のような突飛な発想を可能にしているのである。それだけに、「現代科学で解明できない謎」が自分達の体系のすぐ近傍にあるとなれば、涎を流して飛びつかないはずがない。彼らがそうしないのは、何らかの理由で研究に値しないと判断しているからであって、科学者の目を曇らせる〈歴史的障壁〉があるからとは考えにくい。
 以上の議論から明らかなように、科学者が《超科学》を受け入れようとしないのは、それが正統的な科学の研究領域から逸脱しているためではない。とすれば、科学者が抱く反感の起源は、むしろ〈手法〉の問題にあると想定すべきである。次に、この点に議論の矛先を向けよう。

 〈手法〉の問題
 《超科学》が正統的科学者に受容されないのは、主として、これが《科学》とは異質の手法を採用しているためと考えられる。それでは、具体的にいかなる点において両者は異なっているのだろうか。この問題を論じるための準備として、まず《科学》の方法論がどのようなものかを簡単に説明しておこう*1。
 科学的方法論の要諦は、理論の構築と運営という二つの側面から論じることができる。
 理論を構築する場面での最大の特徴は、機能主義的な〈モデル〉を援用するという点である。ここで、「機能主義」という呼称を採用したのは、科学における理論が、科学的命題の生成という特定の機能を果たすことのみを要請されており、それ以上の“思い入れ”を排除するように構想されているためである。19世紀までの自然科学においては、「ラプラス的な宇宙」や「自然淘汰に基づく進化」のように、世界観に関わるような理論的立場が提案され、宗教との相克が生じることすら稀ではなかった。しかし、現代科学で通用する理論は、そうした余分な要素をいっさい切り捨てて、機能性だけを追求した身軽な“道具”へと変身しているのである。こうした道具的な理論をもとにさまざまな命題を生成するに当たっては、(自然現象には調和があるべきだといった)汎用的な世界認識に“お伺いをたてる”ことができないため、理論自身の内部に命題を自律的に生成できる機構を備えておく必要がある。当然のことながら、このような機構は人間にとって操作可能なものでなければならない以上、自然を完全に解明できるほどの複雑精妙さを求めることは諦めて、単純な概念を用いて論理的な構造が明確になるように勘案すべきである。この要件を満たすのが〈モデル〉と呼ばれる命題生成のための装置である。一般的に言って、科学理論とは、ある〈モデル〉(または、いくつかの〈モデル〉の組み合わせ)とその取扱い方法についての規約、さらにデータを提供する実験/観察部門の指定をセットにしたものと見なして良いだろう。
 他方、運営面における科学的方法論のポイントは、理論が正当なものかどうかを評価する際に、生成された科学的命題の〈有効性〉を基準にするというものである。ただし、ここで言うところの有効性は、他の領域において何らかの意味で「役に立つ」ことを指す広義の概念である。この評価法は、上述のモデル化の手法を前提としている。実際、いかなる科学理論といえども、所詮は〈モデル〉の考察にすぎず、厳密な意味で“正しい”記述であるはずがない。したがって、現代科学においては、“正しさ”の代わりとして、理論の機能性に焦点を合わせた評価基準が必要とされるのである。ここで重要なのは、〈有効性〉が相対的な概念だという点である。すなわち、(与えられたデータとの一致や応用分野での使い勝手など)適用範囲や使用目的に応じて、いくつかの理論を比較した上で最も望ましい形式の命題を生成するとされるものに高い点数が与えられ、定説として正当化されることになる。したがって、応用面からの要請などに基づいて、ある領域での研究活動が熱を帯びてくると、それまでの理論に対抗する新たな理論が次々に提出され、互いに有効性の高さを競いあう争いに発展しがちである。こうした対抗理論は、必ずしも全く新奇なものとは限らず、理論を定義する条項のいくつかを変更あるいは棄却/付加することによって構成されるケースが多い。特に、条項Pが条項P′に変更された以外は元の理論と等しい対抗理論が提出され、実験/観察のデータなどによってこちらの方が有効であると認定された場合、条項Pを含む元の理論は「反証された」と言われる。科学理論は、(理想的には)命題生成の機構が明確な〈モデル〉を使って機能しているため、原理的に反証可能である。ただし、現実においては、ここに述べたような厳密な意味での反証は必ずしも実行されていない。

 科学的方法論がもたらす重要な帰結は、「理論の中に現れる諸概念は、それが言及されている〈モデル〉の枠内で解釈されなければならない」という点である。〈遺伝子〉なる理論概念一つを取って見ても、1形質1遺伝子の仮定に基づいていたメンデルの時代と、
 分子レベルでDNAの反応を分析している現代とでは、その内包に大きな差があり、〈モデル〉を離れて一般的な〈遺伝子〉を論じることは意味がない。しかも、こうした内包の変化は、理論を発想する段階における概念自体のアド=ホックな拡張に由来するものではない。むしろ、非メンデル遺伝を説明するために遺伝子を運ぶキャリアーの概念を導入するなど、実験/観察のデータが積み重ねられるのに応じて段階的にモデルを改良していった結果、付随的に〈遺伝子〉の概念が変化していったと考えるべきである。〈遺伝子〉という同一の名辞が一貫して使用されているために、うっかりすると理論概念の方が指導的な役割を果たしているように見えるが、これはあくまで(実験/観察データとの比較や異なる理論の間で情報を交換する上で好都合だという)便宜的な措置であり、科学における理論概念の地位は〈モデル〉に従属しているのが実態である。
 これに対して、《超科学》が一般的に採用している方法論では、理論概念が特定の〈モデル〉に依拠していないばかりか、むしろ概念の方が主導権を握って理論の内容を左右しているように思われる。実際、〈ESP〉や〈UFO〉といった概念は、ある〈モデル〉において特定の役割を割り振られてはいない。むしろ、既存の科学理論を用いて解明するのが困難な現象を取り上げ、それを説明するための記述全体を通じて言わば自己無撞着的(self-consistent )に定義されるのである。この意味では、フロイトの〈リビドー〉やユングの〈元型〉と同じく、“非”科学的な概念である。私の考えでは、こうした方法論こそ、正統的な科学者をして《超科学》を忌避させる最大の原因なのである。

 《超科学》に対する評価基準
 ここで論点となるのは、命題生成能力のある〈モデル〉を援用せず、説明的な理論概念を中心にして現象の記述を進める手法が、学問的に価値のあるものか否かである。これをどう評価するかによって、《超科学》に対する見方は大きく分かれるだろう。単純化して言えば、(1)《超科学》は科学的方法論では解明できない現象を取り扱うことができるという点で、科学の〈方法論的障壁〉を克服する契機となる;(2)《超科学》は《科学》に較べて方法論的に欠陥があり、学問としての価値を持たない−−という2つの見解が予想される。ここで、(科学と芸術のように)両者が中立的な関係を保つという可能性は排除したが、それは、既に述べたように、《超科学》と《科学》の領域が部分的にせよ重なっているため、完全に中立的になることは有り得ないと判断したからである。
 議論を進める前に明らかにしておかなければならないのが、「学問的な価値」の意味である。世の中には「シャーロキアン」と呼ばれるホームズ愛好家がおり、コナン・ドイルの想像上の人物であるはずのシャーロック・ホームズについて、いつ頃どの大学に在籍していたかとか、得意としていたのはピストルとライフルのどちらかとか、他人から見れば「たわいのない」研究に没頭している。しかし、この手の“学問”も人生を楽しくする効能がある訳で、一概に無価値だとは決めつけられない。もっとも、《超科学》の研究者にしてみれば、シャーロキアンと同列に置かれたのでは憤懣やるかたないだろうから、別の観点から学問が有する価値を定式化しておかねばなるまい。
 とは言っても、思弁的な判断基準によって学問の価値を判定するのは、きわめて危険である。これは、人間の思考能力が生物学的/心理学的な枠にはめられていることを考えれば明らかだろう。思考枠の存在を知る簡単な例題として「なぜ地球に生命が発生したか」という問いを取り上げたい。現代科学は未だこの疑問に答えるにはあまりに未熟だが、仮想的な進歩を遂げた遠い将来において、敢えて解答を提出しようとする科学の姿を想像することは、さして困難ではない。その場合に科学が行うのは、「海洋のどの地点で、いかなる化学反応が進行して生体高分子が合成されるに到ったか」を具体的に示した上で、こうした過程が地球上で実現された理由として、海水中の元素の含有比率や紫外線強度などの物理的条件を列挙する作業である。必要に応じて、この条件が整うために要求される原始太陽系での物質分布なども述べることになろう。さて、ここで自らに問うて頂きたい。この説明は、果たして「なぜ」という問いの解答になっているのかと。どのように考えるにせよ、この自問自答を通じて、おそらく、因果律を援用する人間の思考能力が、生命の発生のような複雑なプロセスに対しては充分に機能しないことを思い知るはずである。科学が提出する説明は、分析的な記述としては(原理的に)いくらでも精緻化することができる。それでも「これが真の解答なのだろうか」という不安が残るとすれば、それはもはや、「なぜ」という質問を発する思考形式自体の問題である。
 こうした事情があるため、この論文では、《超科学》の学問的価値を論じる際にも、思弁的な議論に立脚した基準は採用せず、一般の《科学》と同じく〈有効性〉を評価の基準としたい。ただし、《超科学》の場合は、《科学》と異なって自律的に生成された命題を実験/観察のデータと比較することができないので、ここで言うところの〈有効性〉とは、日常的な用語法に従って、素朴な意味において「役に立つ」ことを指すものとする。

 以上の議論をまとめると、《超科学》の学問的な評価を決定するのは、〈モデル〉を利用せずに説明的な理論概念を用いる手法に則って、果たして有効な学問的主張が行えるかどうかという点である。この問題を一般的に論じるのは困難であるため、次節では〈超心理学〉を例に取って実証的な議論を展開し、この部門に関しては、学問的に価値がないという結論を与える。


©Nobuo YOSHIDA