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1.問題の設定



 デカルトの2元論を持ち出すまでもなく、精神を物質から峻別する発想は、近 代哲学の主要な流れを形成している。この発想の基盤にあるのは、精神が物質と は質的に異なった機能を担っており、物質界の法則で支配されているとは信じが たいという日常的直観である。しかし、科学的検討を加えた上で、なおかつこの (精神と物質の)区別が妥当であるかは、現時点では判然としない。そこで、本 節は、精神を物質から隔てる確固たる根拠の有無を調べることから始めよう。

 精神は、その機能的な側面に着目すれば、知覚情報を一定の方略のもとに分類 し、学習記憶を援用しながらこれらを連合・加工して、必要に応じて運動の指示 を与えるものであり、その合目的的な性格が、物質界ときわだった対照を示すと されてきた。もし、こうした機能を、かつて「生気論」対「機械論」の論争で使 われたような、古典的な少数自由度決定系のアナロジーをもとに把握しようとす ると、本質的な困難が生じよう。なぜなら、人間にそのプロセスが理解できる程 度の単純な系では、精神に見られる合目的的な性格は現れるべくもないからであ る。
 しかし、人間並びに他の高等生物においては、このような少数自由度系とは比 較を絶して複雑な中枢神経系が、ハードウェアとして整備されていることを、忘 れてはならない。神経細胞間のシナプス結合に限って言えば、その総数は脳全体 で10の15乗程度になり、これをトランジスタの接点と考えると、現在のLSIの 水準からみて桁外れに大きいものではない。しかし、中枢神経系において学習の 機能を担っているのは、固定されたシナプス結合ではなく、興奮の頻度/バター ンに応じて変化する結合の強さであり、状況によってはシナプス結合の形成や消 滅も起こり得る。これをシミュレートするためには、階層性のあるニューラルネ ットにおいて、結合部の重み関数を適当な学習アルゴリズムによって変更してい かなければならない〔1〕。従って、各シナプスはそれ自体が、このアルゴリズム を内蔵したLSIと見なすことができる。しかも、ニューロン損傷後の再生実験 から予想されるように、近接した{神経伝達機構が共通の)ニューロン同士は、 常にシナプス結合を形成する可能性を持っている。中枢神経系が、シナプス結合 を形成し得るN本のニューロンを含むM個のブロックから構成されていると近似 すると、可能なシナプス結合の総数はM・(N−1)!個となる。以上より、 中枢神経系の(ハードウェアとしての)構造をシリコン・チップで模倣するため には、この想像を絶する個数のLSIを用意しなければならない。これだけの部 品が並列演算を実行するのであるから、単純な少数自由度系のアナロジーが妥当 でないのは、きわめて当然である。
 現在の発生学の知見では、中枢神経系がこのように組織化される過程は、ごく 一部分しか解明されていない。しかし、神経系が発達する過程の中で、遺伝子の DNAに生得的にプログラムされているのは、おそらく、大略的な機能区分のみ であり、それ以外の組織化の過程については、神経増殖因子の濃度勾配などの状 況に応じて後天的に形成されるものと想定される。この説を支持する印象的な実 例は、治療のため大脳半球摘出手術を受けた幼児の予後に関する臨床報告である 〔2〕。幼児期に発症する難治性のてんかんの治療として、一側大脳半球の大部分 を切除する手術を施すことがあるが、多くの場合、予想されるような術後の顕著 な知能低下は認められず、言語性/動作性IQが共に平均値を上回る事例すらあ る。その理由は、残った一側半球の神経組織が高度に発達し、失われた半球が担 うべき機能を補償するためと考えられる。ところで、脳の一部が切除された場合 に備えて、半側的な神経系の増殖を促す方式が遺伝子にプログラムされていると は、いかにも想像しがたい。きらに、損傷ニューロンに見られる側枝の発芽が、 標的細胞を特定した上で定方向的に行われるのではなく、ランダムに成長した中 で偶然に正しい結合を作ったニューロンが生き残っていると考えられる証拠もあ る。従って、大略的な構造が完成した後の神経系の生後発達については、各神経 細胞への入力の頻度、強度、ないしパターンに応じて局所的に定まるものと考え て良いだろう。とすれば、中枢神経系の機能に見られる合目的的な性格には、遺 伝的な要素は余り重要な役割を演じていないはずである。
 そこで問題となるのは、基本的な神経回路が与えられた上で、シナプス結合の 強度を学習を通じて変えることにより、合目的的な機能を遂行する秩序化された 組織を形成できるかどうかである。これは神経回路の自己組織化の問題であり、 学習に際しての「教師」の有無が本質的な意味を持っ。確かに、「教師」のない 学習――具体的には、頻繁に提示されるパターンの同定、あるいは常に隣接して 提示される刺激間の連想についての学習だけでは、人間が有する多様な能力が成 立する契機として余りに貧弱である。ところが、現実の中枢神経系は、情報を受 け入れるだけではなく、遠心性の神経組織を通じて外界に対する働きかけを行っ ており、こうした(広義の)行動の成果がフイードバックされて「教師」として の役割を果たすことができる。実際、サルの前頭前野には、課題に対する反応の 正誤に対応して発射頻度が変化するニューロンが観察されており〔3〕、学習にお ける「教師」の機能が分化している可能性を示唆する。もし、ある神経興奮のパ ターンが望ましい結果を与えると(生理的な報酬によって)判定されて「教師」 ニューロンが発動したとき、当該パターンを惹起するシナプスの結合が何らかの メカニズムで強化されると仮定すれば、相当に複雑な自己組織化が可能になる。 従って、中枢神経系における合目的性の謎は、ニューロンやシナプスの量的な膨 大さが理解を阻んでいるものの、原理的に理解困難な神秘と解釈すべき理由はな いと言える。
 以上のように、一見、精神特有の機能と思われた合目的的な機能を物質界の現 象ヘと格下げしていった場合、なお、精神を物質から峻別する要素が残っている だろうか。この問いに対しては、精神を脳内過程として客体化せず、これを内省 的に観照する態度に出れば、肯定的な解答が得られるはずである。すなわち、デ カルトのいわゆる《コギト》、言い換えれば、世界における《我》ないし(自} 意識の存在が、精神を物質から本質的に区別する要素となっている。
 この問題を科学的に定式化するにはいくつかの障害があるが、最も基本的なの は、「意識」を明確に定義することの困難さである。日常的にも「意識」なる語 は、「社会意識」のような高度に文化的な観念から、「無意識」という覚知され ない精神過程の説明に到るまで、きわめて多義的に用いられている。また、医学 的には、意識の有無は強い呼掛けに対して応答するか否かで判定し、患者の内面 には立ち入らないのが通常である。
 このような用語法の曖昧さに起因する混乱を避けるため、本章では、「意識」 なる語を(《コギト》との同義性を重んじて)次の意味で用いることにする。す なわち、表象としての世界が「自己」を中心として求心的に構成されているとき、 この世界は意識を持つと称する。換言すれば、意識とは世界の求心性の表現であ る。ここで、「自己」とは、単に中心を指示する契機として述べられておリ、そ の実体が何であるかを問わない。
 もちろん、「求心性」の意味を明らかにしていない以上、このような意識の定 義自体、余り明確ではない。直観的には、自己が厳然と存在するという自覚が全 ての表象に行き渡り、1冊の本もただの物体ではなく「眼前にある本」として現 れることを意味すると考えて良いだろう。しかし、日常的には自明なこうした事 態を、学問的な用語で表現するのは容易なことではない。ここで敢えて曖昧な定 義を提出したのは、意識の厳密な概念画定は現時点では必要ではなく、混乱のも とになるいくつかの要因を排除できれば実用上は充分だと考えたからである。上 の定義において、諸他の「意識」概念との相違が強調される点には、次のような ものがある:(1)意識は特定の(表象としての)「世界」に付随する要素であり、 外面に現れる機能に還元することができない。(2)意識は、「何かについての」意 識という形式に限定されず、世界全体にかかわるものである。(3)意識に対立する ものとしての「無意識」を想定することはできない。これまで無意識と呼ばれて きたものは、本章のコンテクストでは、言語的観念との連合性の乏しい精神現象 の一種と解釈すべきである。(4)医学的に意識の量的変化と見なされる意識混濁は、 意識が関与する世界の器質的な機能不全と解される。
 このような「意識」は、「なぜ自分が存在するのか」あるいはむしろ「なぜ自 分が存在するとかくも確信できるのか」という問いに解答しようとする際の議論 の根拠になるものである。従って、物質から峻別されるべき精神の特殊性として、 「意識」の存在を掲げるのは妥当だと考えられる。よりラディカルな言い方をす れば、意識を備えた世界が精神なのである。

 このような意識の問題は、明らかに従来の医学/生理学的な脳科学の枠内では 理解することができない。なぜなら、医学/生理学の見地からは、全ての中枢神 経系は器質的な差異はあっても存在としては同等で、特定の「中心」を持たない からである。誤解のないように注意しておくが、上で述べたような表象としての 世界の求心性と、情報処理において特定項目を優先させる方略を混同してはなら ない。科学的なコンテクストにおいても、個々の脳が「自己」を中心として機能 していることは明らかである。だが、ある科学者がこのような脳の機能を記述し ようとするとき、彼は(おそらく)自分の脳が他の脳と異なって「他者」に対す る「自己」という特別の地位を占めていることを自覚しており、しかも、そのこ とを論文に注記することは決してあるまい。科学的記述は、個々の対象に対して 本質的にデモクラティックなのである。
 それでは、科学的な議論は「意識」に関しては無効なのだろうか。しばしば引 用されるテューリング・テストは、この問題に対する科学者の消極的な態度を象 徴している〔4〕。確かに、実験科学的な立場から意識を捉えるには、内省に依存 しない手法を確立する必要があるのは事実である。しかし、意識はその性格上、 表象される「世界」と分離できないものであり、機能を外部から見るだけで意識 について判定しても、余り意味がない。一方、人間には理解不能な自然法則を仮 定して意識の根元に据える2元論的な発想も、科学の敗北を意味する〔5〕。
 以下では、「意識」を科学で積極的に取り扱うための素地を作るための作業と して、現代科学的な知見から明らかにできることを列挙しながら、問題の核心に 接近を試みたい。もちろん、科学は敗北するかもしれない。しかし、少なくとも、 現時点で科学に可能な議論を尽くすことが科学の有効性を検証する出発点になる はずである。

©Nobuo YOSHIDA