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§3の終わりで述べたように、連合過程の意識化とは、中枢神経系における協同現象の実体たる“構造物”の次元数が巨大化する過程である。ここで、うっかりすると、「誰が(あるいは何が)意識するのか」と問いたくなるかもしれない。だが、こうした問いは、意識を巡る無限後退のアポリアに人を連れ込んでしまう。このアポリアを避けるには、意識そのものを対象化する方法論を採用すべきである。「意識は対象化可能な個物(モノ)ではなく事象(コト)ではないか」と思った人は、「対立項の解消」の節に戻っていただきたい。時空を統一する観点からすれば、個物と事象を截然と区別することはできない。この区別を解消することによって、「神経が(時間とともに)活動することが意識である」あるいは「神経活動を通じて意識が派生する」という了解しがたい命題から逃がれられるのである。
《意識》を論じる上での前提として、いくつかの点を確認しておきたい。
これらの点を確認した上で、改めて《意識》とは何かという問いに答えたい。情報の連合における意識化が、神経興奮の実体である“構造物”の次元数が巨大化する過程であることから、ただちに、次の結論が導かれる:
《意識》とは、協同現象の実体である“構造物”の中で巨大な次元数を持つものである。
この主張は、上に述べた《意識》に関する要件を満たしている。
いくつかの点について、簡単な言い訳をしておきたい。
“構造物”は厳密に定義された概念ではなく、高次元φ空間内部で状態関数のピーク近傍を指すものである。明確な定義が必要な場合は、状態関数を数値化し、これがある規定値以上になる領域を取り出して、積形式に分割したものと言えば良いはずである。ただし、状態関数の数値化は可能か、規定値とはいくらか──といった定量的な疑問には、現在の手持ちの理論では答えられない。また、重要なのは《意識》についての全体的な描像を提出することであって、それほど厳密な議論が現時点で必要だとも思えない。
同様に、《意識》を他の現象から峻別する「巨大な次元数」についても、数値を指定することはできない。むしろ、「これ以上の値を取ったものは意識である」といったしきい値(threshold)は存在せず、次元数の大小に応じて意識の覚醒度に高低があると考えた方が良いのだろう。この考えに従えば、石や木にも微かな意識が存在することになり、物理学に基づく唯物論的な議論が唯心論(あるいは「仏性を道取するに…牆壁瓦礫なり」という禅宗の思想)に通じるという興味深い一面を示唆する。また、“構造物”は高次元φ空間の中で入れ子状になることもあるので、特定の意識が、より覚醒度の低い意識に包摂されることも想定される。前頭前野に局在していると推測される人間の《自意識》も、中枢神経系全体が形成するほのかな意識に含まれ、さらには内臓を含めた身体全体の意識の中に包み込まれているのかもしれない。
前頭前野における協同現象の実体たる“構造物”を《意識》と同一視することにより、従来の認識論では容易に解決できなかった次の3つの難問に対して、解決の方向性を示せる:
以上の3つの謎について、順番に説明していこう。
神経科学という限定されたジャンルにおいて、前頭前野での神経興奮は、「並列的な」構図を示す《客観的世界》内部の事象として記述される。このため、科学的な記述の上では、「中心−周辺」という階層性が語られることはない。しかし、実体論的な解釈を行った場合、協同現象としての神経興奮には、《身体図式》との結びつきの強弱によって、自然と階層性が生まれてくる。これは、意識化の過程において、感覚や記憶などの生の情報が、運動プログラムという《身体図式》の元になる情報と連合されることの直接的な帰結である。もともと単なるコーヒーカップの像として入力された感覚データも、ひとたび連合野で処理されて意識の対象となると、「自分がこれから掴もうとしているカップ」として表象されるのである。脳幹を経て常時入力され続ける体性感覚や、行動プランに重大な変更を要求する知覚情報──こちらに向かって自動車が突っ込んでくるといった──は、《身体図式》と強く結合する形で処理されており、《意識》の中心部を形成する。これに対して、視野の端に映じた通行人の姿や、一瞬間だけ想起されては消えていく記憶断片は、《身体図式》との結びつきが弱く、《意識》においては周辺的な要素としかなり得ない。こうした状況が、《意識》が中心−周辺の階層性を持つ「求心的な」構図を示す理由だと考えられる。
《意識》は、それだけで閉じた《全体》を構成しており、そこに他者の意識が混入してくることはない。《主観的世界》にあるものは、全て「自分にとっての表象」という形式の下に統一されている。精神分裂病に見られる幻聴の症状も、あくまで「自分が聞く声」として現れており、《意識》の全体性を損ねるものではない。生理学者の中には、これを、ある個体の脳が他の脳と神経接続を持たずに孤立していることの現れと解釈する者もある。しかし、この解釈は問題の本質を迂回している。実際、人間の意識形成に直接に関与しているのは、脳内部で遂行される物理的過程のごく一部にすぎず、神経伝達物質の分泌のような分子レベルの現象は、《意識》の構成要素とはなっていない。「部分でありながら閉じた全体を成す」という矛盾をどのように解消するかが、立ち向かうべき難問なのである。
“構造物”理論は、この難問に解答を与える。すなわち、《意識》は神経興奮の協同現象として実体を有しており、集団座標によって張られる「部分空間」の中にまとまった《全体》として存在する。高分子の化学変化など集団運動に参与していない自由度は、余次元(「部分空間」以外の次元)に追いやられてしまうため、この《全体》を構成する《部分》とはなり得ない(詳しくは、第3章§2「《全体》の実像」を参照されたい)。さらに、この「部分空間」は、そこにある“構造物”としての《意識》のみに占有されており、それ以外のものが入り込む余地はない。こうして、「そこから先は自分の意識ではない」という明瞭な境界がないにもかかわらず、それ自体で閉じた《全体》が構成されることになる。ある個人の《意識》を他者の意識から分け隔てるのは、脳を覆う硬膜のような物理的な境界ではなく、属している「部分空間」の相違である。
《意識》の実体である“構造物”の拡がりを厳密に定義することはできないが、カオス的な計算機構の持続的指令がベースになっているので、瞬間的なものではないことは確かである。にもかかわらず、われわれが実感する《意識》は、「現在」と呼ばれる(せいぜい数百ミリ秒程度の拡がりしか持たない)刹那に拘束されており、数秒以上の時間間隔は、《意識》の更新を通じてしか体験できない。しかも、こうした更新の過程は、意識の喪失がない場合は、(断続的ではなく)連続的に行われるため、うっかりすると、唯一の実在的な瞬間である「現在」が未来に向かって流れていくように錯覚されてしまう(物理的な時間の実態については、第2章§1.「時間と空間」を参照されたい)。
実体が「時間的な拡がり」を持ちながら、実感される《意識》が「現在」に拘束されている理由は、次のように説明される。
神経興奮の安定状態は、主として、閉じた神経回路内部で興奮状態がぐるぐると回り続ける「反響回路」によって実現されている(「《反響回路》と《観念》」参照)。このため、この状態を規定する集団座標も、その周期と同程度の時間にわたる範囲で定義される(ここで、時間は“流れる”ものではなく、異なる変数φが異なる時間に対応していることに注意すること)。ただし、こうした《反響回路》は、《意識》全体ではなく、準安定な部分構造を与えているにすぎない。前頭前野には、逐次的に膨大な情報が投射されるため、《反響回路》を形成するような興奮パターンのいくつかは直ちに不安定化され、それまでとは異なる安定状態へと遷移していく。連合野全体が密接に結びついた興奮パターンを維持しているのは、せいぜい数百ミリ秒間であり、時間間隔がそれ以上に拡がると、各部で遷移が生じて当該部分の結びつきが弱くなる。一つのものとして実感される《意識》が、数百ミリ秒程度の拡がりしか持たないのは、そのためである。ただし、異なる時刻の《意識》は、一連の集団運動として弱いながらも結合を維持しているので、特定時刻の《意識》が完全に孤立してしまうことはない。しかも、《身体図式》は、フィードフォワード制御を通じて行為を先導するものとして意識されるため、過去から未来へ向かう明確な方向性が示される。こうして、《意識》は数百ミリ秒程度の時間幅で最も密に結びついているが、どの瞬間を取っても時間的未来に向けて部分的な弱い結合を持っているため、あたかも、連続的に《意識》が更新され続けるかのように実感されるのである。
さらに、睡眠のような断絶がありながら、一生の間にわたって同一の《意識》の主体であり続けると感じられる根拠も、高次元φ空間における入れ子構造に求めることができる。前頭前野に局在する《自意識》は、《身体図式》をベースに多くの情報が密に結合されたもので、覚醒レベルが高い。しかし、中枢神経系の組織が生理的活動を通じて維持される過程も、協同現象である以上は、その実体となる(ハウスドルフ次元の低い)“構造物”を形成するはずである。後者が、覚醒レベルのきわめて低い《生理的自我》(とでも呼ぶべきもの)として、前者を包含していると考えることも、あながち不可能ではない。覚醒レベルの高い《自意識》は睡眠や失神によって中断されるが、生理的自我の実体は、胎児から脳死に至るまで、個体の生涯にわたって弱い結合を持って拡がっている。これが、「人格の同一性」の物理的根拠である。
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©Nobuo YOSHIDA