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研究体制



 これまで述べてきたような現代科学の方法論を実行に移すために、現在の科学 者社会における研究体制は独自の様式に従って組織化されている。特に顕著な傾 向は、理論レベルで機能を中心にしたクラスター化が推し進められた結果、細分 化された各領域ごとに専門的な研究者が現われ、社会的なレベルでの分業体制が 確立した点であろう。ここで重要なのは、こうした分業化が産業資本などからの 社会的な要請によって促進されているのではなく、あくまで学問の内的欲求の発 現と考えられることである。加えて、科学理論が高度に抽象化されたためにもは や人間の直観的な認識能力が追随できなくなり、数理モデルによる自動的な命題 生成に頼らざるを得なくなったという事情も、このような傾向に拍車をかけてい る。実際、こんにちでは、素朴な発想による発見の重要性は相対的に減少し、代 わって、多数の学者を動員しながら各専門領域で膨大な命題(機能バケット)を 作りだし、これに基づく理論の展開を個々に検討するという学術的戦略がとられ るようになっている。

 このような分業化に、科学者を特定の専門分野に沈潜させ、学問全体の動向を 見失わせるなどの欠点が存することは否めない。こうした欠点は、基礎科学の非 効率性として顕現する。こんにち、基礎科学の領域では膨大な量の論文が執筆き れているが、その大部分は、ものの数年も経過するとほとんど引用されることも なくなり忘却の淵に沈むという運命を辿る〔32〕。しかも、その原因は、必ずしも 研究内容に誤りがあった、あるいは正式な方法論に則っていなかったからではな く、手段として用いた理論自体が有効性に欠けると判定され、学界から無視され るようになったためと考えられる。例えば、素粒子物理学において60年代に大量 の研究論文を産出したS行列理論が、70年代には対抗理論に破れて影をひそめた のが、その良い例である。このように、有能な科学者の労力が結果的には建設的 でない仕事に費やされるというある意味での「人材の浪費」が生じる原因の―つ として、(特に若手の)科学者がその時点での最先端理論に熱中するあまり、学 問の大局的な流れを見失いがちであるという事情を指摘しなければなるまい.こ のことは確かに、現代科学の体制に内在する欠点と見るべきだろう。
 しかし、その功罪を秤にかけるならば、研究の分業化については、圧倒的に利 点の方が上回ることは確実である。第一に、研究の主題を理論の特定機能に集約 することにより、安易な観念化によって人間の思考の限界を科学に押しっけるニ とを回避できる。第二に、理論の細分化の結果、各部門ごとに研究が尖鋭化され、 特殊技能をもつ専門家によって研究が内容的にも技巧的にも洗練される。第Fに、 発見の文脈では理論全体の構造を考慮する必要がなく、自由なアイデアの提出や 他の領域との交流が容易となるため、学説の新陳代謝がより活発になる。以上の ような利点があるため、研究の分業化は現代科学の体制として必須の要素となっ ている。
 とりわけ、明確な機能をもつ数理モデルをさまざまな領域に適用していく理論 物理学では、個々のモデルの取り扱いに習熟した専門的数理科学者の存在は、学 問に益するところが大きい。実際、今世紀の初頭において巨大な業績を残したア インシュタインやポーア、ドゥ・プロイらが、いずれも哲学的な科学者として自 然とは何かという問いを常に発し続けたのに対して、現代科学の方法論が整備さ れた今世紀中葉以降の大物理学者であるフェルミやランダウ、ファインマンらは、 揃って有効性の高い数理モデルの適用を得意とする専門の数理科学者である。こ の二つの世代にはさまれて、科学的方法論の変化を体現して見せているのがハイ ゼンべルグで、彼の挙げた業績の中では、不確定性原理やS行列理論を提出する 際に示した哲学的を議論がもはや往年の学問的意義を失っているのに対し〔33〕、 数理科学者の協力を得て建設した行列力学(ポルン、ヨルダンと共同)や場の量 子論(パウリと共同)のようなモデル的な理論は、こんにちなお物理学の基礎理 論としての役割を果たしている。

 さて、実際に研究の分業化が功を奏した例として、非線型な力学系で観察され るカオスについての理論的展開を瞥見しよう。
 カオス的な振舞いを示す非線型系のモデルが最初に提出されたのは、気象学の 分野であった。ナヴィエ/ストークス方程式、連続の方程式、気体の状態方程式、 および熱伝導方程式を基本方程式系とする気象モデルを(適当に近似して)コン ピューターでシミュレートしても、1週間以上の長期にわたって精度の良い(的 中率が60%以上の)予報を提出するのは困難であることが知られているが、1950 年代までは、その理由は主としてモデル計算を遂行する際の近似の精度に由来す ると想定されていた。ところが、1963年にローレンツが簡単な3元常微分方程式 を使って、初期条件の僅かな差が予報結果を大幅に変動させることを示し、予報 の不確定性が単なる誤差ではなく理論に本質的な要素であることを明らかにした。 科学哲学的に見て興味深いことに、ローレンツの理論は気象学に直接的に貢献す るものではない。なぜなら、《1》過度に近似した方程式に基づいているため気象系 のモデルとして妥当ではなく、また、《2》確定した予報を提出することが不可能だ からである。にもかかわらず、この理論は、気象学のみならず、応用数学、理論 物理学、数理生物学などの各ジャンルに多大な衝撃を与えている。その理由は、 ローレンツ・モデルが初期条件に敏感に依存する非周期解を持つ非線型系の実例 であり、同様の性質が他の系にも存すると期待されたことにある。
 こうして、ひとたびある方程式系でカオス的な振舞いが発見されると、他の方 程式の解を具体的に探索するのは数学者、特にコンピューター計常の専門家の手 に任される。彼らは、物理的なモデルに形式上の制約を受けることがないので、 単純かつ(比較的)一般的な力学系の性質を調べることにより、カオス的な振舞 いが「奇妙な」アトラクターに起因するきわめて普遍的な性質であることを見い だした。この結果は、数値計算で求められた軌道のステレオ・マップを使って、 視覚的に表現することができる。
 コンピューターを駆使したカオスの解析は、従来の乱流の解釈を大きく揺るが すものであった。以前に流布していた解釈では、乱流は、独立な振動のモードが 複雑に組合わさって生じるものとされてきた。この解釈は、自然の複雑さは自由 度の多数性に起因しているとする自然観と対応している。これに対して、乱流を 奇妙なアトラクターに起因するカオスと見なす立場は、少数自由度の決定系でも 未来は不可知になるという全く異なった自然観に与するものである。しかしなが ら、現実の研究論文で自然観への言及がなされることは稀で、あくまで乱流に関 する数学的モデルの解析および(テイラー不安定性のパワースペクトル分析のよ うな)実験結果との比較が主眼となっていた。このようにある意味ではプラグマ ティックな研究に徹して自説に有利な結果を徐々に蓄積していくことにより、最 終的には、「乱流=カオス」説が旧来の解釈に代わって定説として多くの研究者 に受容されるに到ったのである。
 ここで示したような理論の展開が、分業化が進んだ研究体制をまって初めて可 能になったことは見やすい〔34〕。もちろん、ごれはあくまで一つの例にすぎない が、現代科学の他の業績を見ても類似の経過を辿って発展している場合が多く、 分業体制が一般に科学にプラスであることは否定できない,

 このような研究体制のありかたは、また一方で、研究そのものに対する科学者 の動機を大きく変貌させている。現在では、科学者が自然の本質を解明しようと する理想家であることは稀で、むしろ自分の専門理論の技巧面での先鋭化に専心 することが多い。その結果、科学者の意識は、理論全体あるいは理論が作るクラ スターの構造よりも、個々のモデルが有する特定機能の比較へと向けられがちで ある。しばしば指摘される科学者の先取権重視の風潮も、こうした意識に根ざす ものと解釈される。具体的には、
  1. 研究が科学者の自然観を問題にすることなく機能に即してモデル化された理論を対象とするようになったため、世界的に見て研究内容の等質化がすすみ、研究レベルを比較すろ基準がほとんど発表の時間順序しかなくなったこと、
  2. にもかかわらず、研究のタイムスパンが短くなり、学術発表も雑誌に掲載される以前に口頭や私信によって行う場合が増したため。誰が最初の提唱者か判定しにくくなってきたこと、以上の2点が科学者をして意識的に先取権を主張させる原因になっている。

 現在、先取権争いは、科学史的に見て重大な発見に対してのみならず、通常の 研究論文を提出する場合にも激しさを増している。このため、いくつかの弊害も 現れており、実験と合致する予測値の第一提唱者という栄誉に浴するために非現 実的なモデルを次々と案出したり(陽子崩壊の寿命を計算するに当たって、新し く動きだした実験プロジェクトで測定できる範囲の値を与えるために、多くの学 者が現実にはありそうもない非可換群を仮定した例など)、他に先んじようと不 完全なままの理論や実験データを提出する(量子色力学における散乱過程の因子 化定理は半ダース以上の「証明」が発表されたにもかかわらず、結果的には誤り であった〔35〕)などの問題行為が表面化している。ただし、視点を変えれば、こ のようを拙速ぶりは学説の新陳代謝を促すものであり、少数の学者が理論全体を 構想するよりも効率的であることは見逃せない,

©Nobuo YOSHIDA