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II−3 科学的世界像と人間の価値




 科学とは非情な体系である。提出された理論の発展/消長は,主としてその 有効性に依存しており,当該理論が人間の価値を高めるか否かという点は全く 顧慮されない。このため,人間の尊厳を回復するためには,反科学的な立場を 取らなければならないと極論する者も現れる始末である。こうした科学への誹 謗を駁論するために,科学的なく世界像>それ自体は,人間の基本的な価値観 と矛盾しないことを示したい。ここで採用する論法は,「科学的な世界像にお いてはく人間>から価値が剥奪されている」とする常識的な発想を批判し,<人 間>が<創造的秩序>の基準に適合し価値を認定されることを,科学的な議論 を逸脱しないように心がけながら立証するものである。
 価値に関する議論を始める前に,<科学的世界像>について一言述べておく。 科学とは理論的モデルを使って理論外に適用できる有効な命題を生成するため のシステムであり,世界についての絶対的な視点を提供するものではない。し たがって,科学に固有のく世界像>を語ることは,そもそもの定義と矛盾する ように思われるかもしれない。しかし,こんにちの科学は,多くの理論集団が バッチワークのように組み合わされて均質的な構造体を形作っており,たとえ 個々の理論が機能主義的に考案されたものであっても,全体的な構造が生み出 す(自然と人間を含む総体としての)世界についてのイメージは<世界像>と 呼んでしかるべき明確さを備えている。ただし,科学の機能主義的な性格を反 映して,この<世界像>の内部で,「何が実在するか」あるいは「世界はいか なる法則に従うか」について断定的な主張が行われることはない。むしろ,人 間の思考能力の彼方にあることを了解した上で,(ちょうどバスカルによる「賭 け」のように)ある命題の蓋然性とその帰結を秤にかけながら世界にっいて語っ ているのである。

<魂>の不在と人間の価値

 現代科学は,かつて物質的世界と対等に存在すると見なされていた精神的世 界を,完膚なきまでに打ち砕いてしまったと思われている。実際,人間には物 理法則に支配されない<魂>があるとする主張は,科学が次々に繰り出す証拠 の前に歩が悪い。人間の精神活動は,ポジトロン放出の実験が示すように脳の 活動と密接に結び付いており,脳以外に精神の担い手を想定する根拠は見あた らない。さらに,もし<魂>のような非物質的存在が精神活動の背後にあると しても,それがいかにして物質的な脳の機能と連動できるのだろうか。物質界 と精神界を本質的に異なる領域と見なす二元論的な立場を採用すると,両者が 何らかの相互作用を行うと仮定すること自体,論理矛盾になってしまう。こう して,精神を物質から独立の存在と考える見解はじりじりと後退を余儀なくさ れ,こんにちでは,自由度がきわめて巨大な系において統計的な振舞いの陰に 隠される微弱な性質の中に,わずかに堡塁を残すのみである。
 それでは,く魂>のような非物質的な存在が精神活動の背後になければ,人 間の価値は保たれないのだろうか。確かに,われわれが日常的な経験をもとに 思い浮かべる物理現象とは,物体の放物運動や水面を伝播する波動のように単 調な過程であり,そこに価値を見いだすことはほとんど不可能である。しかし, 現代科学が明らかにしているように,自然界には厳密に物理法則に従っていな がら直感的にはとてもその全体像が把握できない複雑かつ精妙な秩序形成の過 程がいくらでも存在しており,こうした過程については,<創造的秩序>の基 準によって価値が認められるはずである。したがって,人間にも価値があると 主張するためには,何も物質とは異なった<魂>の存在など必要ではなく,た とえ形式的な物質法則の枠内であっても,そこに豊かな秩序を形成する過程が 実現されていれば充分なのである。そして,表面的な振舞いのみに限定して も,<人間>がこの条件を満たしていることは明らかである。
 こうした立論に対して,「どのように言い換えたところで,人間の営為も所 詮は単なる物理過程にすぎないのではないか」として,―種の“科学的ニヒリ ズム”を唱える人もいる。しかし,この主張には,致命的な欠陥がある。人間 のような複雑なシステムの場合,どのような秩序が形成されるかは,物理的な 法則だけではなく,系の微細な境界条件に敏感に依存しており,類似した状態 から出発しても全く異なった経過を辿ることが知られている。しかも,系の振 舞いを記述するための情報量としては,物理法則に比べて境界条件の方がはる かに膨大な量に達する。この点を勘案すれば,人間の肉体/精神両面にわたる 諸活動を物理的な秩序形成の過程として総括的に語る際には,境界条件に物理 法則と同等以上の重要性を認めるべきであろう。ところが,人間について「所 詮は物理過程にすぎない」と喝破するときには,概して僅かの法則性にのみ注 目して,きわめて多彩な境界条件の方を黙殺しがちである。その結果,秩序形 成の過程という価値判定のための基本的な要素をないがしろにしながら,人間 に価値が見いだされないと慨嘆するという愚を犯してしまう。科学的なニヒリ ズムとは,結局のところ,現象の本質についての無知に起因しているのであっ て,科学そのものが容認している訳ではない。

<自由>の不在と人間の価値

 現代物理学が採用している相対論的な時空描像が明らかにしているように, 人間を含めた全ての事象は,過去から未来に到るまで(因果的か否かは別にし て)事実として定まっており,意志の力でこの“運命の連鎖”を断ち切ること はできない。この点を重視して,<自由>を持たない人間には(カント流の意 志の倫理学で想定されているような)尊厳を認めることができないと断じる人 が現れてもおかしくないだろう。こうした主張を,運命についての人間の無知 を盾にしてかわそうとする試みもある。比喩的に言えば,自分がその上を辿る レールの先を見通しながら生きる人生はさぞ味気ないかもしれないが,たとえ 決められた路線を走る列車であっても,はじめての土地ならば窓外の光景を楽 しめるはずだ――という考えである。しかし,この論法では,いずれにせよ運 命を改められないとすれば,それを知らないままでいる方がはるかに惨めだと 反駁されると,返す言葉がないだろう。こうして,科学はわれわれを再びニヒ リズムに導くかのように見える。
 確かに,人間の活動を決定論的な自然現象の一部として眺める限り,この種 のニヒリズムを克服するのは難しいだろう。しかし,実はこうした観点こそが, 事実を皮相的に曲解させるそもそもの元凶なのである。人間の意識は,自律的 な秩序バラメーターが作る部分空間内部で記述される特権的な物理過程であり, 意識内容だけを特別に抜き出して価値基準を適用しても,決して事態を歪曲す ることにはならないだろう。この作業によって得られる視座から精神現象を記 述すると,物理的な決定論が決して人間の価値を姥めるものでないという事情 が飲み込めるはずである。
 よく知られているように,人間の脳は機能を分散させており,意識の俎上に 上るのはそのうちのごく一部でしかない。具体的には,はじめに何らかの事件 を契機として意識内部にある発想が生まれると,その情報を特定の機能を営む 他の部位に送り,記憶との照合や論理的な推論などを通じて種々の加工を施し てから,再び意識野に戻すという過程で処理が進められている。このため,意 識野に現れる内容としては,はじめの発想の核が一方的に豊かに展開していく ように見える。この現象は,あたかもエントロピー増大の法則に矛盾するかの ように意識の中に秩序を形成しながら展開していく過程であるため,たとえそ れが決定論の桎梏に繋がれていたとしても,<創造的秩序>の基準に照らして 価値が認定されることになる。
 人間の精神的な活動が,物理的な決定論に従っているにもかかわらず価値が 認められるという上述の論考は,<責任>の問題について新たな光を照射する ものである。古典的な倫理学に親しんでいる論者は,人がどのように行動する かが事実として決定されているならば,各人は自分の行動に責任を持たないは ずだと主張するかもしれない。しかし,この主張を認めると,われわれは日常 的に感じているく責任感>と決定論的なく世界像>をどのように調和させるべ きか,頭を痛めることになるだろう。こうしたアポリアを回避するため,ここ では,<責任>を自由意志から切り離して定義したい。一般に,特定の社会集 団内部では,個人が置かれ得る状況のステレオタイプが与えられたとき,能力 /地位/出自などに応じて,なすべき(あるいはなすべきではない)行為のリ トが客観的に生成される。このリストが空でない場合,各人はリストアップさ れた行為に対して「責任を負う」と言われる。現実の場面では,(ステレオタ イプ化する過程で捨像された)諸々の事情によって実際に何をするかは不可避 的に定まっているはずなので,必ずしも当為の指示は守られない。こうした違 反行為は,マージナルな状況によって中枢的な規則が破られることを意味する ため,<創造的秩序>の価値を減殺するものである。逆に言えば,当為の指示 を守って「責任を果たす」ことは,自由意志の存在とは無関係に価値が認めら れる行為なのである。

<創造的秩序>の由来

 このように述べてくると,<創造的秩序>はまるでく科学的世界像>に適合 させるために説えた価値基準ではないかと思われるかもしれない。ちょうどフ ロイトの「無意識」やユングの「元型」と同様に,あまりに多くの現象を説明 してしまうために,かえって信憑性が怪しくなってしまうのである。残念なが ら,この懸念を論証によって払拭することはできない。せいぜい,この《範型》 が,われわれが日常的に感じている価値判断を抽象化したものであることを繰 り返し語るだけである。ただし,個人的には,<創造的秩序>とは,無機質レ ベルの単純な秩序形成が次第に複雑さを加えて最終的には人間の精神をも生み 出していくという雄大な流れ全体を考えるとき,その本質を剔抉する概念では ないかと思っている。そう解釈すると,これが最も基本的な価値の基準となる のは,人間の――と言うよりは宇宙の法則にかなっているという気もする。 しかし,これはもはや語り得ぬことであり,沈黙しなければなるまい。

©Nobuo YOSHIDA