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複雑な性質の単純な実現
〜量子論とクォリア〜
(第2稿)

吉田 伸夫


Simple Realization of Complex Properties

In a quantum system composed of small number of atoms some higer-level property such as regular-hexagonality of a benzene nucleus is realized in such a way that the wave function has a peak at a certain point in a high-dimensional state space. Since such a property cannot be reduced to simpler form represented by the combination of particulars of fundamental physics, the reductive materialism does not hold. It is an example of simple realization of a complex property, and we may refer to it as the quale of a quantum system.

○タイトル
○§1.論文の目的
○§2.物理学的な前提
○§3.量子場から分子へ
○§4.1つの例−−ベンゼンの正六角形性
○§5.量子論におけるクォリア
○§6.結語と補遺


§1. 論文の目的


 非還元論的物理主義(non-reductive physicalism)を論じる文脈の中で,Murphyは,還元論的物質主義(reductive materialism)を存在論的還元主義(ontological reductionism)よりも強い主張とし,両者を峻別すべきだという議論を提出した1.それによると,後者は,(生物のような)高次の存在物(entity)が(結晶や分子などの)より単純な存在物のみから構成されていると主張するもので,生物や意識の特性を説明するのに「生命力」や「魂」といった形而上学的概念を導入する必要がないことを意味する.これに対して,前者は,自然界の階層において,最低次の構成要素だけが“真に実在的”(really real)であり,高次の存在物はこれらを組み合わせたものにすぎないという主張である.存在論的還元主義が,多くの科学者にとって馴染み深いものである一方,還元論的物質主義は,意識の実在性をも否定する極端な世界観であり,哲学者に嫌忌されている.Murphyは,科学者と哲学者の双方に受け入れられる非還元論的物理主義として,存在論的還元主義を認めながら還元論的物質主義を否定する立場を採用した2.もっとも,彼女の主たる関心が,自由意志や理性などの倫理学的な観念を物理主義と調和させることにあったため,これに続く論述は,心的状態の因果の向きや性質の多重実現性に関する議論に費やされており,還元論的物質主義と存在論的還元主義の狭間に哲学的自然観を構築できるような立脚点があるかどうかは,必ずしも明確にされていない.Murphyがやり残したこの課題は,科学哲学の基本的なテーマとして検討に値する.

 非還元論的物理主義に言及する論文は少なくないが,その大半は,(「痛みの感覚」と「C-fiberの興奮」のような)心理現象と物理状態の関係に注目し,その上で,(「もし個体xが物理的状態sにあるならばxは痛みの感覚を持つ」といった)述語論理学的な定式化に基づいて議論を進めている3.具体例として心理現象を取り上げる立論は,心身問題が還元論を巡る議論における最大の関心事である以上,当然のことかもしれない.しかし,心に関する理解は本来的に(自分で体感した痛さのような)内観に依拠しているため,関係性を明らかにすべき心理現象と物理状態は,議論の出発点から全く異質のものとして扱われることになり,両者を結びつけるために,しばしば「付随(supervenience)」といった曖昧な概念に頼らざるを得なくなる.論点を明確にするためには,まず,比較的単純な物理系で,還元論の成否を確認することが必要だろう.

 この論文では,物理的階層における最低次の構成要素として量子場の状態を想定し,分子・結晶レベルで見られる高次の存在物に関して,「量子場のみから構成される」という存在論的還元主義は成立しているが,「量子場だけが“真に実在的”である」と主張する還元論的物質主義は妥当しないことを示したい.

 心身問題と直接の関係がない物理系を取り上げることは,決してトリヴィアルではない.次の2点を指摘しておこう.

  1. 分子や結晶のレベルにおいて“真に実在的”なのが量子場だけだとすると,それよりも上位にある生命現象や心理現象が実在的であると主張するためには,途中の階層のどこかで実在的な何かが創発的(emergent)に現れたと見なさざるを得ない.しかし,これは,存在論的還元主義に反する生気論的な考え方であり,一般的な科学者の賛同を得ることは難しい4
  2. 生命現象の特性に深く関与していると言われるアロステリック効果5は,酵素など生体高分子の持つエネルギー準位が,環境に応じて入れ替わることに起因する.また,心理現象の生理学的な基盤と目される神経系の興奮では,疎水基を内側にして脂肪分子が凝集した脂質二重層と,そこに埋め込まれてイオンの能動的移動などに関わる膜タンパク質が,本質的な役割を演じている.このように,分子のレベルは,生命/心理現象と物理状態を結びつける主要なリンクとなっており,そこで還元論の成否を議論することは,より上位の階層を問題とする際に参考になるはずである.

 第3−5節で展開する本論の要諦は,分子が有するいくつかの特徴的な性質が,部分に分割できない単純な事態として実現されるというものである.これは,量子論的な現象が高次元の状態空間で生じることの帰結であり,古典力学で同様の議論は成立しない.分子や結晶は,量子場という基本的な構成要素によって定義されるので,存在論的な還元主義が妥当するのに対し,分子の存在を規定する性質は,より単純な性質の組み合わせに還元できないタイプに属しており,還元論的物質主義は否定される.

 さらに,副産物として,「付随」という概念が持つ曖昧さが具体的に示される.この点に関しては,第6節で論じる.


§2. 物理学的な前提


 量子論において存在論的な議論を行おうとするときに障害になるのが,標準的なアプローチでは「そもそも何が起きているか」という具体的なイメージを掴めない点である.実際,「観測によって非因果的に波束が収縮する」とか「電子や光子は粒子であると同時に波動である」といった記述を受け入れてしまうと,それに合致するような何らかの実体(entity)を想定することは著しく困難になる.また,非相対論的な量子力学では,(1粒子系ではψ(q),2粒子系ではψ(q1, q2)というように)対象に応じて波動関数の基本形を変えなければならず,いかにも場当たり的に見える.

 こうした問題を回避するために,本論文では,(1)全ての階層における物理現象を量子場の理論に基づいてボトムアップ式に記述する,(2)量子論の解釈にはデコヒーレンス理論を用いる──という2つの前提を採用する.これにより,物理現象は,量子場の変数φが張る空間で与えられた波動関数を使って,一元的に表現することが可能になる.直観的に言えば,きわめて巨大な次元数を持つ空間の中に,あらゆる物理現象(ビッグバンから熱死に至る全宇宙の歴史において生起する森羅万象)が既定の状態として存在しているのである6


 ここで前提として用いた量子場の理論とは,基礎物理学の研究者に,あらゆる物理現象を原理的に記述すると期待されているものである.現実的な量子場の理論には,素粒子論と超弦理論の2つがあり,いずれも完成段階にあるとは言い難いが,半世紀以上もの間,一定の成功を収めた基礎理論がこの2つ以外に現れなかったことから,現時点では,還元論的物質主義における「最低次の構成要素」を記述する理論として,これらを想定するのが妥当だろう.超弦理論は,現象論的には素粒子論を包摂すると期待されるものの,形式的には,素粒子論を記述する標準的な場の量子論を,多重局所性を持つように拡張したものなので,ここでの議論のように,純粋に形式的な取り扱いしかしない場合には,素粒子論(標準的な場の理論)の用語法で統一することが可能である7

 量子場の理論の特色は,あらゆる物理現象を,場の状態として一元的に記述できる点にある.素粒子論の場合,点粒子という実体は想定されておらず,素粒子レベルの現象は,粒子性と波動性を併せ持つ量子場φが特定の状態にあることだと見なされる8.ただし,古典的な場とは異なって,場の不確定性関係に従う量子ゆらぎが存在するため,場の値は一意的にならず,φを引数とする波動関数Ψ[φ]で表されることになる9

 ここで注意したいのは,量子場をデモクリトス流の原子になぞらえて,「自然界の基本的な構成要素はφである」と見なすのは,妥当性を欠くという点である.φは,特定の値を持つ物理量ではなく,その上で波動関数が定義されるような「状態空間」の変数に過ぎない10.実体的な(substantial)構成要素となるのは,むしろ,実現されている状態の方である.実際,物質を構成する電子やクォークのような素粒子は,電子場・クォーク場の励起状態として現れる.量子場の理論において,全ての物理的な現象は,量子場φが張る状態空間での波動関数Ψの状態として実現されており,その基本的な構成要素は,「個々の量子場φが取る状態」である.


 もう1つの前提であるデコヒーレンス理論の採用は,量子論の範囲で存在論的な議論を行うことを可能にする.この理論は,実用性に乏しいために量子論を道具として用いる研究現場にはあまり浸透していないが,アドホックな仮定を必要としない自己完結的な理論であり,量子論の解釈としてきわめて有望である.理論の詳細については他の文献11に譲るが,簡単に紹介すると,「互いに干渉しない歴史の完全な集合(full sets of decohering histories)」が対象系の最良の記述を与えると見なすものである.デコヒーレンス理論は,「非因果的な波束の収縮」や「意識を持つ観測者」といった未定義概念を導入することなく,量子変数(量子場の理論の場合はφ)によって定義される状態空間と,そこで与えられる波動関数だけを使って,系の変化を記述することを可能にする.巨視的な系に見られる決定論的な振舞いは,粗視化を通じて自然に現れるので,(電子の波動関数ψ(q)を「電子が位置qに見いだされる確率振幅」と見なすように)古典論の概念を使って再解釈したり,巨視的装置による測定結果など量子論以外の何かを“手で”付け加える必要がなく,量子論的な概念をそのまま用いて一貫した対象記述を行うことができる.特に,1つの歴史に着目する場合,状態空間における系の量子論的な状態は定まっている.こうした歴史は,事実そのものではないものの,「事実に合致している(in accordance with the facts)」と考えられるので,存在論的な議論を行う上での障害は(古典論と同程度にしか)ない.


§3. 量子場から分子へ


 系のエネルギー密度が十分に大きいときには,量子場は,高温高圧の無秩序状態に陥る.しかし,現在の宇宙では,エネルギー密度がきわめて低く,量子場の大多数は真空に近い状態にあり,主に恒星からの短波長光によってエネルギーを得た一部の変数だけが励起状態になるため,秩序構造が形成されやすい.こうした秩序構造は,多くの場合,膨大な数の量子変数が少数のパラメータに支配される集団運動として記述することができる12.本節では,この集団運動の階層を,量子場から分子・結晶のレベルまでボトムアップ式に辿っていく.


 真空状態に近い量子場で見られる最も簡単な集団運動は,素粒子の1粒子状態である.特にエネルギーの小さい場合は,近似的に,非相対論的量子力学に従う粒子が存在する系として扱うことができる.

 量子場の集団運動として1粒子状態がどのように表されるかを,素粒子論における自由スカラー粒子の場合を例に取って説明しよう.このとき,量子変数は時空点(t,x)を引数とするスカラー場φ(t,x)となり,そのフーリエ成分は波数kを持つ粒子を生成(または消滅)する演算子a(またはa)になる:
  φ(t,x) = ∫[dk]{exp(iωt-ik・x)a(k) + 共役項}
この生成演算子を適当に重ね合わせると,ある状態fを作る生成演算子afを構成することができる13
  af = ∫[dk]a(k)f(k) 非相対論的な近似の下でfを適当に選べば14,ある点qの付近で1粒子を生成する演算子となり,これを真空に作用させると,非相対論的な量子力学における1粒子状態|q〉が得られる.この状態は,xがqに近いφ(t,x)が励起している状態を重ね合わせたもので,qは言うなれば,そうした1粒子状態に関わる量子変数φを“束ねた”ような──正確に言えば,ある重み関数を付けて足し合わせた──集団座標となっている.粒子が動き回るのは,座標xで表される3次元空間の内部ではなく,もともとの状態空間を(集団運動だけに注目するような)粗視化によって次元数を小さくした空間である.このことは,同種粒子が2つあるときの波動関数が,各粒子が存在する位置でピークを持つような1変数関数ψ(x)ではなく,それぞれの位置座標を変数とする関数ψ(q1, q2)で与えられる点に反映されている.2つの粒子は,高次元状態空間の異なる部分に属しているのである.

 自由スカラー粒子でなくても,電子のように低エネルギー極限で非相対論的な量子力学に従う素粒子の場合は,集団座標qを使った波動関数ψ(q)で1粒子状態を近似的に表すことができる.このとき,1粒子状態に関わる量子場の変数φに関しては,波動関数ψ(q)に支配された(すなわち,小さなゆらぎや内部自由度の状態を別にすればψ(q)によって完全に規定された)励起状態になっており,それ以外の膨大な量子場の変数は,零点振動のような互いに相関を持たない量子ゆらぎを示す.|ψ(q)|がある位置で鋭いピークを取るというきわめて単純なケースでは,もともとの量子場の波動関数Ψ[φ]も,1粒子状態に関わる小さな“部分空間”15において,ピークまたは同程度に単純な構造が形成されていると予想される.


 1粒子状態は,1つの出発点に過ぎない.あらゆる物理現象は,高次元の状態空間における状態として実現されているが,エネルギー密度が低い領域では,こうした状態は,ほとんど何もない空間の中で,互いにもつれたりほどけたりする微細なフィラメントの集まりにも似た構造を形作っている.フィラメントに相当するのが,1粒子状態に代表される量子場の集団運動である.集団運動は幾重にも重なった階層を構成し,最終的には,巨大な織物のような物理世界を生み出している.

 素粒子論によれば,集団運動の階層のうち,量子場から分子・結晶レベルに至るまでは,比較的簡単な構造を持つと考えられる.具体的には,核子や中間子などの複合粒子はクォーク場およびグルーオン場の集団運動として,原子核は核子と中間子の集団運動として,分子や結晶は原子核・電子・電磁場の集団運動として,それぞれ形作られている.複合粒子より上の階層で集団座標を具体的に書き下す理論は完成していないが,形式的には,低次の階層における座標qを使った経路積分
  ∫[dq]…
を,δ関数を使って,高次の階層での集団座標Q=f(q)による積分
  ∫[dQ]∫[dq]δ(Q-f(q))…
に置き換え,qを積分によって消し去ってしまう(integrated out)ことによって遂行される.高次の階層に移行するほど,集団座標の個数は少なくなり,従って,量子場の状態空間で見ると,高次の集団運動に関わる“部分空間”の次元は,低次のものに比べて小さくなる.量子場と複合粒子,分子・結晶と巨視的物体の間には,系を記述するのに必要な集団運動の次元数に十桁以上の差があり,質的に異なる階層を生み出している.


§4. 1つの例−−ベンゼンの正六角形性


 さて,当初の目的に戻ろう.分子や結晶レベルで見られる物理的な現象は,元をただせば量子場の状態のみに由来するものであり,Murphyが謂うところの存在論的還元主義が成立している.素朴に考えると,階層的なシステムが最低次の要素だけから構成されている場合,高次の階層における性質は,単純なものが複雑に組み合わされることによって実現されそうである.実際,碁盤の上に碁石を正六角形の形に並べたとしても,この正六角形が個々の碁石と同程度に実在的である(as real as)とは考えられない.なぜなら,正六角形だと認識されるのに必要なのは,近接する碁石の間隔と内角が誤差範囲内で一致するというデータだが,これらは,碁石が持つ位置のデータから構成的に作り上げられた副次的なものでしかないからである.分子・結晶レベルに見られるさまざまな性質も,これと同様に,単純なものに還元することができないだろうか.

 議論のポイントを的確に表しており,また,超伝導のBCS状態や高分子のアロステリック効果ほど専門的でもなければ,素粒子の1粒子状態ほどトリヴィアルでもない事例として,ここでは,ベンゼンの「正六角形性」に注目したい.ベンゼン環の6つの炭素原子が正六角形を構成しているというよく知られた性質は,碁盤上の碁石が形作る正六角形と同じく,構成要素が持つ性質を組み合わせただけのものだろうか.そうではなくて,この性質が構成要素と同程度に実在的であるならば,存在論的還元主義が成り立っているにもかかわらず,還元論的物質主義が妥当しない実例となるだろう.

 この問いは,一見してそう思えるほど易しくはない.確かに,ベンゼン分子の波動関数は,炭素原子核の位置座標ごとに分離されていないので,碁石の場合のように,正六角形性を原子核の位置データの組み合わせに還元できないことは,明らかである.しかし,量子場のレベルにまで遡及したとき,「ベンゼンが正六角形であるのは量子場が持つこれこれの性質が組み合わされた結果である」と説明できないかは,決して自明ではない.

 哲学的な議論の前に,ベンゼンがなぜ正六角形になるかを数式で示しておこう.一般に,1直線上にないN原子分子の場合,分子軌道法で求めた電子エネルギーを有効ポテンシャルに繰り込んだ上で,原子核が持つ総数3Nの自由度から並進運動と回転運動の自由度を引いた(3N-6)個の振動モードを考えることができる.基底状態で微小振動をしている場合,振動のエネルギーEは,平衡点からの変位を適当に1次変換して得られる基準座標Qiを使って,
  E = 1/2Σi(dQi/dt)2 + 1/2Σiωi2Qi2
と表される16.波動関数は,基準座標Qiを引数とする調和振動子解で表され,基底状態では,Qi =0 となる点でピークを持つガウス曲線(exp(-ax2)という式で表される曲線)になる.基準座標Qiが全て0になる点は,基底状態における分子の幾何学的な形状を決定する.すなわち,原子核の座標変数によって張られた(3N-6)次元空間内部のある点でピーク値を持つことが,分子がある形を持つことの物理的な実現となる.ベンゼンには,6個の炭素原子核,6個の水素原子核,42個の電子が存在するため,具体的な数式を書き下ろすことは難しい.しかし,コンピュータを用いた最適化構造の探索より,炭素原子核が正六角形の頂点に配位された状態がエネルギー最小の基底状態になることが判明しており17,6個の炭素原子核の座標変数によって張られる12次元(3N-6においてN=6)の状態空間において,炭素骨格が正六角形となる1点に波動関数のピークが生じていることがわかる.

 こうした状況を,量子場の視点から捉え直してみよう.すでに述べたように,原子核の位置は量子場の集団的な運動を表す集団座標であり,基準座標Qiの張る空間で波動関数が鋭いピークを持つならば,元の量子場の状態空間でも,このピークに対応する単純な構造が形成されていると推測される.これは,「正六角形性」という複合的に見える性質が,「波動関数がある単純な構造を取る」という事態として実現されていることを意味する.このような「単純に実現された複雑な性質」は,以下に述べるように,「最低次の構成要素と同程度に実在的」である.

 “実在的(real)”という概念はきわめて多義的であり,論者によって異なる定義が採用されているが,ここでは,「物理系において記述された対象が実在的であることの条件」として,当該対象に関する記述が,
 (1)事実(actual facts)を表現する内容を持つ
 (2)より単純な記述の組み合わせに還元されない
という2点を挙げておく18.状態が与えられていない量子場は,理論の形式を決めるだけで無内容であり,(1)の条件から実在的とは言えない.(2)の条件を併せて考えると,実在的なのは,「量子場が局所的なある状態を取る」である.ところが,ベンゼンの「正六角形性」は,観測可能な事実を表現しているのみならず,(基準座標Qiを使えばガウス曲線として表されるような)それ以上は単純化できないほど単純な形で実現されている性質であるため,他のものに還元することができず,「局所的な量子場の状態」と同程度に実在的と見なして良いはずである.「ベンゼンが正六角形であること」は,「ある電子が存在すること」と同じように事実を表し,同じように単純で,従って,同じように実在的である.

 単純に実現されているにもかかわらず,「正六角形性」が複合的に見えるのは,この性質を実現する集団座標の状態空間が,12次元と直観的にイメージできないほど高い次元数を持つからだと考えられる.実際,H2O分子の折れ曲がった形状の場合は,3次元空間なのでそれほど複雑には見えないが,タンパク質の3次構造に至っては,数万次元の状態空間で実現されるため,複雑さを通り越して概念化すら困難となる.

 ベンゼンの場合,炭素原子核が正六角形の頂点に位置しているという「正六角形性」が,その化学的な振舞いをほぼ決定する.ベンゼンの持つ特性の多くは,π電子の共鳴による強固な炭素骨格(ベンゼン核)が形成されることに由来しており,「正六角形である」ことと「ベンゼンとして存在する」ことは,実質的に等価である.従って,「正六角形性を持つ分子」として限定的に定義する限りは,ベンゼン自身も,単純に実現された実在的な存在物と見なして良い.このケースは,「最低次の構成要素だけが真に実在的」だとする還元論的物質主義に対する反例になっている.


§5. 量子論におけるクォリア


 前節で述べたベンゼンの例は,あくまで代表的なケースにすぎない.集団座標の波動関数が相互作用を通じて「1つのピーク」のような単純な構造を形成することは,波動的なダイナミクスに従う量子系において,(エネルギー密度が小さいという条件下で)一般的に見られる現象である.少数の原子から成る分子の立体構造は,1つのピークとして実現される.高分子における3次構造の形成や異種分子の凝集は,必ずしも1つのピークではないが,エネルギーの極小状態に相当するので,波動関数の単純な構造として実現される.

 波動関数のこうした振舞いは,古典的な統計力学系における安定な結節点(node)近傍の分布関数のそれと類似している.古典系では,結節点に代表されるさまざまなアトラクタが,しばしば系の全体的な特性を決定するが,量子系においても,同様に,少数の集団座標によって形成される単純な構造が,系の特性を表しているケースが少なくない.例えば,NaCl結晶が形作るイオン配列の規則正しさ(立方晶性)は,総イオン数の約3倍の次元数を持つ状態空間におけるピークの鋭さの現れである.ただし,古典論のアトラクタが巨視的変数を座標軸とするパラメータ空間で定義された数学的イデアであるのとは異なり,量子論における波動関数の構造は,(第2節で示した前提の下では)量子場の変数φによって張られる状態空間のある“部分”に,実際に形成されると考えて差し支えない.

 波動的なダイナミクスを通じて,状態空間の中に全体的な性質を表す単純な構造が形成されることは,古典論に見られない著しい特徴である.単純に実現された複雑な性質は,離散化された物理量という意味でのquanta (量子)と対句的に,量子論におけるqualia (質子)と呼ぶことが許されるだろう19.量子論は,単に物理量をそれ以上に分割できない飛び飛びの値に制限するだけでなく,構成要素の組み合わせに還元できないような性質を実現する.


§6. 結語と補遺


 以上の議論によって,あらゆる物理現象が(原理的には)量子場によって記述できるという存在論的還元主義の立場をとりながら,最低次の構成要素だけが真に実在的だという還元論的物質主義は反駁されたことになる.議論のポイントは,「複雑な性質は単純な要素の複雑な組み合わせに還元される」という見方を否定し,「量子論においては複雑な性質が単純に実現され得る」ことを示した点である.素朴な直観に反する結論が導かれたのは,物理現象が生起する状態空間の次元数がきわめて大きく,ピークが形成される“部分空間”も,かなり高い次元を持ち得ることによる.


 こうした議論の副産物として,「付随」という概念に曖昧さが生じる理由の1つを明らかにできる.ある性質の集合Pが状態Sによって完全に決定され,Sの変化なしにPに変化は生じないが,Pを指定してもSが一意的に定まらないとき,PはSに付随すると言われる20.この定義に従えば,ベンゼンの正六角形性は,ベンゼンが存在すると見なされる領域における量子場の状態に付随することになる.しかし,こうした議論を存在論の文脈で行う場合,Sとして全量子場の波動関数を想定することは,まずない.ベンゼンのケースでは,6個の炭素原子が正六角形の頂点の位置に配位した分子模型をイメージするのが一般的だと思われる.だが,この模型は,物理学的に見ると,集団座標として個々の原子の位置を選んで3次元空間に投影した近似的な描像であり,正六角形性を実現する12次元の状態空間は,その中に含まれていない.従って,「ベンゼン分子」という呼称が,6個の炭素原子核の波動関数を含む量子論的な状態ではなく,この近似的な模型を指示しているならば,「正六角形性」は「ベンゼン分子」の状態に付随した性質とは言えない.

 量子効果がもたらす多くの特徴的な性質──結晶における原子配列の規則正しさ,水溶液中での脂質二重層の安定性,タンパク質3次構造の濃度依存性など──は,いずれも,多変数関数として与えられるエネルギーがある領域で極小になることに由来しており,高次元の状態空間内部で波動関数の単純な構造として実現されている.これに対して,物質的な存在物としてイメージされるのは,主に,3次元空間内部に配置されたモデル──規則正しく並んだ原子の集団,細胞を包み込む膜,αヘリックスやβシートを持つ分子模型のような──である.こうしたモデルは,量子論的な性質が実現されている状態空間とは異なる“部分”での波動関数の振舞いをもとに近似的に構築されているため,当該性質はこれに付随していない.もちろん,モデル自体は,ある見方による系の状態を近似的に表しており,物理学的に誤っているわけではない.言うなれば,量子論的な性質の記述とは,アスペクトを異にするのである.当然のことながら,このモデルに付随する性質のいくつか(空間充填性など)は,量子論的な性質とは相容れない.



【注】

1. N.Murphy : 'Nonreductive Physicalism: Philosophical Issues' in "Whatever Happened to the Soul?" (edited by W.S.Brown et al., Fortress Press, 1998). 還元論を巡る多くの議論において,この2つの主張は,存在論的還元主義として括られることが多い.例えば,F.Ayalaは,還元主義を方法論的・認識論的・存在論的の3タイプに分類しているが,Murphyの謂う存在論的還元主義と還元論的物質主義の区別はしていない.

2. 正確に言えば,Murphyは,還元論的物質主義とともに因果的還元主義(causal reductionism)をも否定しており,非還元論的物理主義の議論を展開する際には,後者の否定の方が重要な意味を持っている.

3. こうした内容の論文は数多い.比較的新しいものとして,R.Wedgwood: 'The price of non-reductive physicalism' (Nous 34 (2000)400)などがある.

4. 生物などの複雑系を扱う科学者には,創発性の重要性を強調する者も多い.だが,そこで謂う創発性とは,多くの場合,高次の階層では粗視化された初期条件と少数の法則だけからは予測できない性質が現れることを意味しており,存在論的な議論とは論旨が異なる.P.W.アンダーソン:「科学における創発性,還元主義,シームレスウェブ」(日本物理学会誌,vol.55 (2000)619)などを参照.

5. 生命現象の特徴としてアロステリック効果を強調したのは,次の著書である.J.モノー著『偶然と必然』(みすず書房,渡辺格・村上光彦訳,1972).

6. こうした直観的なイメージを具体的に表現してくれる物理学者は少ないが,Gell-Mann and Hartleの一連の論文に,その一端を伺い知ることができる.M. Gell-Mann and J.B. Hatle : 'Classical equations for quantum systems' (Phys.Rev. D47(1993)3345),およびそこで引用される論文参照.

7. 素粒子論では,「世界線x(τ)で表される粒子の運動を第2量子化した粒子場φ(x)」が用いられるのに対して,超弦理論では,「世界面X(σ,τ)で表される弦の運動を第2量子化した弦の場Φ(X)」が利用される.初心者向けの解説書には,超弦理論を,「弦の(量子論的な)運動によってあらゆる物理現象を説明する理論」と記述しているものがあるが,これでは第1量子化しか考えていないことになり,誤解を招きやすい.素粒子と同様に,超弦理論における弦も,実体として存在するものではなく,場Φの励起状態として現れる.弦の座標Xが2つのパラメータを持つので,超弦理論は,局所的な場の理論ではなく,多重局所場の理論となる.こうした点にまで踏み込んで解説してあるのは,残念ながら,高度な専門書に限られる.例えば,ミチオ・カク著『超弦理論とM理論』(シュプリンガーフェアラーク東京,太田信義訳,2000).なお,本文では,超弦理論の場も,φという記法に統一してある.

8. こうした見解は,基礎物理学の研究者の間では,一般的なものである.例えば,S.ワインバーグは,場の量子論の中心的な教義を解説して,「本質的な実在は特殊相対論と量子力学の規則に従う1組の場であ」って,電子や光子などの「素粒子は単なる随伴現象に過ぎない」と述べている.H.R.パージェル著『物質の究極』(地人書館,黒星瑩一訳,1984)p.36.宮沢弘成:「電子は質点か場か」(日本物理学会誌,vol.55 (2000)211)も参照されたい.

9. 素粒子論・超弦理論とも,成分や交換関係に異同のある各種の場が用いられるが,ここでは細部に踏み込まず,φで包括的に表すことにする.φは,系の全物理的自由度に相当し,連続極限では無限個存在する(素粒子論では,時空点(t,x)を引数とする関数φ(t,x)という形で表される).また,波動関数Ψ[φ]は,きわめて多数の(連続極限では無限個の)φを引数としており,標準的な場の理論では,φ(t,x)という関数の汎関数となっている(引数を角括弧内に示しているのは,そのためである).なお,デコヒーレンス理論における波動関数は,経路積分を使って陰伏的(implicit)に定義されるもので,散乱実験の漸近場のように特別なケースを別にすると,具体的に書き下すことはできない.

10. 本文中で状態空間と呼んでいるのは,量子変数φの定義域Ωのことである.量子論的な状態が定義されるヒルベルト空間とは,Ω上で|ψ(φ)|2がルベグ可積になる複素関数ψの集まりである(非相対論的な量子力学の教科書では,通常,量子変数としてqという記号が用いられる).定義域Ωに対する一般的な名称はないようだが,次の翻訳で「状態空間」という呼び方が採用されており,本文ではそれに従った.J.v.ノイマン著『量子力学の数学的基礎』(みすず書房,井上健ほか訳,1957)II-1.

11. 注1のM. Gell-Mann and J.B. Hatle の論文.同様のアプローチとして,R. Omnes: 'Consistent interpretations of quantum mechanics' (Rev.Mod.Phys. 64(1992)339)や,R.B. Griffiths : 'Choice of consistent family, and quantum incompatibility' (Phys.Rev. A57(1997)1604)などがある.デコヒーレンス理論の解釈は著者によって若干の差があるが,「孤立した量子論的系の時間発展を古典力学と同様に確定した歴史として記述する」という点は共通している.ただし,デコヒーレンスが起きる条件などに,未完成の部分が残されている.

12. 古典論の範囲では,統計力学的な多自由度系において集団運動により秩序構造が形成され得ることが,一般的な理論として示されている.H.ハーケン著『協同現象の数理』(東海大学出版会,牧島邦夫・小森尚志訳,1980)などを参照.量子論の場合は,扱いが格段に難しくなるため,分子反応や結晶構造など,個別的なモデルに基づく議論が多い.

13. 量子力学と量子場理論の関係を解説した教科書は少ないが,次のものが比較的わかりやすい.新井朝雄著『多体系と量子場』(岩波書店,2002)

14. 正確に言えば,fとして紫外領域で切断された正弦関数exp(ik・q)ρ(k)(|k|が小さいときはρ〜1,|k|→∞のときρ→0)を選ぶ.

15. 集団座標に関わる量子変数が張るのは,関数空間論で謂うところの部分空間ではないので,引用記号を付けた.

16. こうした扱いについては,多くの教科書で解説されている.例えば,ランダウ=リフシッツ著『量子力学 2』(東京図書,好村滋洋・井上健男訳,1970)第12章.

17. ベンゼン環については,HFS方程式をコンピュータで解くことによって,1%程度の誤差で原子間距離まで正しく求めることができる.平野恒夫編『分子軌道法MOPACガイドブック』(海文堂出版,1991)などを参照.

18. 条件の選び方には任意性があるが,ここでは,2種類の対象が「同程度に」実在的かどうかだけを考えているので,「関与する集団座標の数が少ない方が実在的」というように,両者に差を付けるような条件を課さない限りは,問題ない.ちなみに,実在性の基準として他の文献で挙げられている条件──「自立性がある」「確立した理論で要求される」「観測者に依存しない」などに関しては,いずれも「同程度」と判定される.

19. qualia (単数形quale)という語は,通常は,心的状態としての「質感」の意味で使われるが,ここでは,quantus - qualisというラテン語の親近関係をもとに,「質のまとまり」という物理的な意味で用いた.

20. よく使われる定義(例えば,"The Oxford Companion to Philosophy " (edited by T.Honderich, Oxford University Press, 1995)におけるO.R.Jonesの解説)では,付随性は「性質の集合間の関係」とされているが,物理系の場合,ある性質を完全に規定するのは有限個の性質の集合ではなく系の状態なので,ここでは,性質と状態の関係に言い換えた.ただし,この種の議論でしばしば用いられる「可能世界」などの哲学的概念を物理系で取り扱うことは難しい.

(2003年3月10日脱稿)
Simple Realization of Complex Property
--Quantum Mechanics and Qualia--


©Nobuo YOSHIDA