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§2.原子力産業の形成



アメリカにおける原子力産業の形成


 アメリカ国民は、戦争を終結に導いた新兵器である原子爆弾を、科学技術の勝利として好意的に受け止めていた。終戦後、人類が手にしたこの「第3の火」を、平和のために利用しようとする気運が高まってくる。原子力の平和利用に関しては、科学評論家らによる宣伝活動も盛んに行われ、高速鉄道や地域暖房などに応用されて市民生活に恩恵を与えるという見方が広められた(この影響を受けて、日本でも手塚治虫が原子力で動くロボットを主人公にした『鉄腕アトム』を発表している)。

 ただし、第二次大戦終了後の数年間、核開発はもっぱら軍事目的で進められる。原爆完成とともにマンハッタン計画は目的を達成したが、最高支配層が莫大な予算を使って企業や科学者を自由に使い回すという「マンハッタン体制」は、そう簡単に解体するわけにはいかなかったのである。核開発の文民統制を定めた原子力法(1946年制定)に基づいて1947年に原子力委員会(AEC;初代委員長にはTVA総裁のリリエンソールが就任)が発足し、オークリッジやハンフォードに建設されていた核施設の運営をはじめ、原子力関連事業の管理を一括して担当することになるが、ソ連との対立激化の中で軍事用核物質の生産増強が優先され、非軍事利用への転換は果たされなかった。こうして、1953年までに、マンハッタン計画を上回る60億ドルの資金が軍事目的の核開発に投じられた。

 状況が変化するのは、1953年になってからである。この年、アイゼンハワー大統領は国連総会で“Atom for Peace”演説を行い、「原子力の平和利用」を進めるという国策の転換を明らかにした。翌54年には原子力法が改正され、商業的な原子力産業(主として原子力発電)の育成のフレームが決定される。こうした政策転換の背後にあるのは、「使われない兵器」である原子爆弾のための核燃料生産を増強してきた結果、ウラン燃料が供給過剰気味になり、新たな需要を必要としたという事情がある。さらに、水素爆弾の開発やソ連の核兵器配備などによって国民の間に反核感情が芽生え、核開発に莫大な資金を投じることへの批判が高まりつつあったことも、原子力の平和利用を急がせる要因となった。

 原子力発電の育成が政策上の既定路線となったため、原子力委員会は、さまざまな優遇措置を講じて民間業者が原子力の分野に参入しやすいような環境を整えた。当時は、核分裂物質は国有制であったため、民間業者が原子力発電を行うためには、濃縮ウランを適当な料金で貸し出し、炉内で消耗した分を弁済した上で使用済み燃料を返却するという制度を構築する必要があったが、原子力委員会は、貸出料金をきわめて安く(コストに見合う額の1/3程度に)設定し、さらに、燃料の返却の際に炉内で生成されたプルトニウムを買い取ることにした。この結果、原子力発電はコスト面で優遇される上、強い放射毒性を持つため扱いの難しいプルトニウムの処理も原子力委員会に任せることができるため、民間業者にとって有利な条件が揃ったわけである。

 こうした政策的な優遇措置が功を奏して、アメリカでは1950年代後半から60年代前半にかけて商業的な原子力発電が産業として独り立ちするようになる。1957年には、シッピングポートに設置された6万kwの加圧水型原子炉が稼働を始め、ソ連・イギリスに次ぐ世界3番目の発電用原子炉となった。その後、全米各地に商用原子炉が次々と建設され、原子力産業の順調な成長を印象づけた。こうした流れを受けて、1964年には原子力法が再改正され、核物質が国有制から民有制へと移管されるなど民活路線が採用される。これを機に、GE(General Electric)やウェスティングハウスなどの大手原子炉メーカーが国際的に進出するようになり、原子力発電はアメリカの有力産業として発展する。

 原発の発注数の推移を表す次のグラフから読み取れるように、アメリカでの原子力産業は、1960年代後半にピークを迎える。この頃、火力発電に比べて原子力発電の方が採算性に優るとの見方が広まり、多くの電力会社が原発の新設を決定したためである。ただし、1970年代前半から原子力発電の経済性・安全性に対する疑念が高まり、1979年のスリーマイル島原発事故を契機に原発の新規発注が途絶え、すでに発注した分もキャンセルが相次いで、アメリカの原子力産業は衰退の一途を辿ることになる。

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(武井満男著『原子力産業』(同文書院)より)


各国における原子力産業


 戦後のヨーロッパでは、イギリスやフランスなどで国家主導の核開発が進められていたものの、商業的な原子力発電に対しては懐疑的な見方が強かった。しかし、1960年代に入ってGEやウェスティングハウスが進出してくると、各地で商業原発が稼働し始める。イギリスやフランスでは、当初はガス炉を用いた独自技術による原発を模索していたが、後にウェスティングハウスなどと提携してアメリカの技術を用いた原子力発電を推進する。一方、核開発を行っていなかった西ドイツでは、1950年代後半という早い時期からアメリカの技術を導入して原子力産業を立ち上げた。少し遅れて、イタリア・スペイン・スイス・スウェーデンなどでも、GEやウェスティングハウスの技術を得て原子力発電が始まっている。ただし、フランス以外のヨーロッパ諸国では、スリーマイル島やチェルノブイリの事故以降は原発に対する批判が強まりつつあり、スウェーデンのように原発からの撤退を決定した国もある。

 日本の原子力発電は、1959年にイギリスの技術を導入して始められるが、1960年代に入ると、三菱−ウェスティングハウスおよび東芝・日立−GEという2つの系列が主流になる。1970年代以降は国内での原子炉製造が可能となり、技術の自立化が進められている。

 GEとウェスティングハウスの技術はアジアや南米など(東欧圏を除く)世界各国に輸出され、現在でも、東アジアを中心に新規発注が続いている。アメリカから原子力技術が輸入できなかった東欧圏は、ソ連の独自技術をもとに西側よりかなり遅れて原発を作り始め、電力供給の不足を補うために80年代以降に次々と増設している。

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©Nobuo YOSHIDA