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第I部.マシン・ファクター


 現代技術の中に潜んでいる危険性は、大きく3つの観点から論じることができる。すなわち、マン・マシン・システムにおける人間と機械(道具)のそれぞれの側における問題点、さらに、人間と機械がネット・ワーク化されたシステムを組むことによる問題点である。はじめに、このうちの(広い意味での)機械がもたらす危険について見ていこう。

§1.製造物責任


 最近、製造物責任(Product Liability;PL)の話題がマスコミで取り上げられることが多い。これは、アメリカやECで採用されている厳格責任の発想に基づいて、日本においても、欠陥品による被害が発生したときにメーカー側の責任を重くみる方向で、製造物責任を法制化しようとする動きが活発になっているからである。現時点では、日本のメーカーは欧米に較べて製造段階での安全対策が徹底しているため、新たなPL法の制定は不要だとする意見も強いが、世界的な産業界の流れを見ると、近い将来に日本でもPL法を導入することは必然的だと思われる。

 欠陥の分類
 それでは、製造物責任のコンテクストに現れる「製造物の欠陥」とは、どのようなものだろうか。一般の人が思い描く欠陥品とは、主として、新品なのに映りの悪いTV受像機や異物が混入していた食品など、要求されている機能を充分に発揮できない製品のことだろう。しかし、法的な議論においては、「欠陥」の概念はより広範な意味を持っている。例えば、昭和50年に提出された『製造物責任法要綱試案』では、「欠陥品とは、製造物の通常予見される使用に際し、生命・身体または財産に不相当な危険を生じさせる製造物の瑕疵をいう」と定義されており、危険をもたらす可能性のあるものを全て包含する概念として定義されている。
 こうした定義に基づくと、「欠陥」という概念は、(1)製造上の欠陥;(2)設計上の欠陥;(3)警告・表示上の欠陥−−の3つに大きく分類される。
 (1)製造上の欠陥 : 製造段階で、原材料の不良を見落としや、安全装置の故障、あるいは品質管理体制の甘さなどがあると、所期の性能を発揮できない製品が生産されることになる。こうしたタイプの欠陥は、品質管理の徹底によって発生を最小に抑えることが理想だが、現実には偶発的な事故などがもとで不可避的に欠陥が生じてしまうケースが多い。例えば、ICチップのように、きわめて高い精度が要求される精密部品を大量に生産する場合は、歩留まりが10割になることは有り得ない。したがって、生産ラインのさまざまな段階で品質検査を行って欠陥品を取り除いていく一方、出荷後に欠陥が判明したときの修理・交換などの保証についても、あらかじめ規定しておくことが必要となる。
 (2)設計上の欠陥 : 設計の段階で安全対策が不充分だったり、複合技術の水準のバラツキを認識していなかったりすると、製造段階でミスがなくても、使用者に危険をもたらす「欠陥品」が生産されてしまう。特に、通常の使用状況とは異なる非常事態を想定していない場合、深刻な事故が引き起こされる可能性がある。設計段階における安全思想の欠如がもとで生まれた欠陥品としてよく知られているのが、 コルベアの例である。この自動車は、通常の走行では何の問題も起こさないが、車体の後部にガソリン・タンクを搭載しているため、後ろから追突されるとガソリンに引火して車両火災を引き起こしやすい。追突事故は頻繁に生じるものなので、こうした事態を充分に考慮しなかったのは、設計段階で基本的な安全思想に欠落していたと言わざるを得ない。
 (3)警告・表示上の欠陥 : 取扱説明書や警告ラベルが不備でユーザーが誤った使い方をしたために事故が生じた場合も、製品の欠陥と見なすべきである。日本では、こうした欠陥に対する認識が乏しく、危険性を強調すると商品のマイナス・イメージになるとして、あまり目立たないように表示するケースが多い。例えば、最近は、家庭用洗剤の前面に大きく「まぜるな危険」と表示しているが、これも、死亡事故が発生して初めて取られた措置である。家庭用洗剤には、(中性洗剤を別にして)塩素系のものと酸性系のものがあるが、両者を混合して使用すると、毒性の強い塩素ガスが発生して危険なことが知られていた。ところが、洗剤メーカーは、この点を強調すると商品の売れ行きに響くと考えたらしく、異なった洗剤を混用しないように注意した警告文は、洗剤容器の表面に貼られた「使用上の注意」の末尾近くに小さく−−文字通り虫メガネで見ないと読めないような文字で−−記すのが一般的だった。新たに洗剤市場に参入しようとした外資系のメーカーは、欠陥品訴訟の頻発しているアメリカの現状を知っているだけに、警告ラベルの不備に不安を覚えたが、これが日本の商慣習であるとしてそのまま受け入れたという。こうした中で、浴室を清掃していた主婦が、途中まで使っていた洗剤のビンが空になったので新しい洗剤を用いたところ、すでに散布していた洗剤と化学反応を起こして塩素ガスが発生し、呼吸困難に陥って死亡するという事故が発生した。しかも、充分な対策を打ち出せないでいるうちに、さらに2件目の死亡事故が起こったため、メーカー側も重い腰を上げて、目立つところに大きく「まぜるな危険」と表示するに到ったのである。

 使用法の問題
 何が「製造物の欠陥」かを規定する上で忘れてならないのが、標準的な使用法からの逸脱がどこまで許されるかという点である。
 日本では、取扱説明書に定められた範囲を越えた使い方をして事故が発生した場合、メーカー側の責任が免除されることが少なくない。しかし、事細かに記載されている説明書の条項を全てにわたって遵守することは、現実には多くの困難を伴う。例えば、洗濯機を「湿気の多いところに置かないでください」と言われても、部屋の間取り上、どうしても風呂場しか置く場所がないこともあるし、「タコ足配線はしないように」と指示されながら、コンセントの数が足りないため、やむを得ず禁を犯すこともある。また、使用期限を過ぎているのを知らずに薬を服用してしまうケースのように、ついうっかりと使用上の注意を守らないケースも相当にあるだろう。このような「誤った」使用法は、決してユーザーを責められるものではなく、事故の原因になった場合は、メーカーの責任とするのが妥当である。ただし、あらゆる「標準外の使用」について、製造物責任の考えを押しつけるべきではあるまい。自動車を勝手に改造して事故を起こしたケースなどは、明らかにユーザーに責任が帰せられるからである。
 先に引用した『製造物責任法要綱試案』に記されているように、「製造物の欠陥」と見なされるのは、「通常予見される使用」の範囲で事故が発生した場合である。一般のユーザーは、取扱説明書を隅から隅まで精読することはないし、たとえ読んだとしても、禁止事項を厳格に守るとは期待できない。したがって、「この程度の逸脱は予想される」という使用法の範囲で安全性を確保することが必要であり、その範囲内で事故が起きた場合には、製品に欠陥があったと裁定される。例えば、洗濯物を乾かすために、コタツの中に入れたり、ときにはコタツをひっくり返して上に干したりする人がいることは充分に予想されるため、メーカー側でこれに対処する方策を練っておく必要がある。具体的には、ひっくり返すと電源が切れるような安全装置を取り付けたり、目に付くところに警告ラベルを貼っておくことが考えられる。
 こうした「余裕を持った」安全対策は、メーカー側に過度の負担を課すことになると思われるかもしれない。しかし、技術の現状からすれば、この程度の骨折りは要求して当然なのである。古典的な道具の場合、どのように用いれば安全か推量することは、それほど困難ではない。だが、こんにち製造されている種々の機械や道具の中には、新しい技術を採用しているため、その動作原理が一般の人には見当も付かないものも数多い。例えば、電子レンジは外見や機能はオーブンとそっくりなのにもかかわらず、焼き魚を作ろうとしても焦げ目ができず、饅頭を暖めようとすると破裂してしまう。こうした失敗を事前に予想することは、技術に疎い人にはほとんど不可能だろう。したがって、用いられている技術に詳しいメーカー側の方が、あらかじめユーザーのやらかしそうな誤用を想定しておいて、その全てに対して安全性を確保しておくべきなのである。

 古典的な製造物責任−−過失責任
 現在の日本(および、欧米先進国以外の多くの国々)においては、製品の欠陥がもとで事故が起きたとしても、その全てに対してメーカーが責任を負うわけではない。これらの国で採用されているのは、「過失責任」という考えであり、メーカー側に過失が認められたときに限り責任があるとされる。このため、メーカーの責任を弾劾するためには、過失が被害を招いたことの因果関係を明確にしなければならず、充分な技術関連資料を持ち合わせない被害者に不利となる。実際、こんにちのように技術の仕組みが複雑なシステムを構成している状況では、「過失→欠陥→事故」という因果連鎖を明らかにするのはほとんど至難の技である。例えば、オートマティック車の急発進事故が多発したときにも、設計ミスなどによる機械的な欠陥があったかどうか解明できないまま、マスコミから忘れられてしまった。このように、「過失がなければ責任がない」という立場では、メーカーの責任を充分に追求できない嫌いがある。
 ただし、ここで謂う「過失」とは、必ずしも積極的に犯したミスにとどまらず、危険が予想されたにもかかわらず有効な手段を講じなかったような消極的な場合も含んでいることに注意されたい。具体的な例として、石油ファンヒーターによる中毒事故のケースを挙げておこう。開放燃焼型と呼ばれる石油ファンヒーターは、石油をガス状にした上で外気を混ぜて燃焼させるもので、充分に空気を取り入れられないときには不完全燃焼により一酸化炭素を発生する危険がある。このため、取扱説明書などでは、空気の吸引口がホコリなどで塞がれないように清掃すること、および、ヒーターの使用中はしばしば窓を開けて換気することを要求している。しかし、こうした注意を守らないものぐさなユーザーはどこにでもいるもので、1985年の3月には、閉め切った部屋でヒーターを長時間使用したことによる最初の死亡事故が発生している。このヒーターは、空気の吸引口が上を向いていたため、ホコリが溜まりやすかったとの指摘もある。このとき、事故機のメーカーであるサンヨーは、新聞に「点検・修理のお願い」という社告を掲載したが、自社製品の(設計上ないし表示上の)欠陥を強調しておらず、命に関わる事故を引き起こしかねない重大事だとアピールする力には欠けていた。このためか、同年の12月には同種の事故が相続き、その時点ではじめて全品の回収に乗り出すことになったが、最終的には、同機種で4人の死者を数えるに到った。この場合、メーカーの最大の「過失」は、最初の事故によって明らかになった製品の欠陥を知りながらも、充分な対策を講じなかった点にあり、「過失責任」は免れがたい。

 現代的な製造物責任−−厳格責任
 近年、製品の欠陥による被害が認められさえすれば、たとえ過失から被害に到る因果関係が明らかにされなくても責任を負わなければならないとする主張が、欧米諸国では一般的になりつつある。こうした考えは、「厳格責任」−−あるいは、「過失責任」と対照させて「無過失責任」−−と呼ばれ、EC諸国や合衆国では主流になりつつある。こうした流れの背後には、現在のように技術が複雑化すると、過失と被害との因果関係を解明するのが現実問題として困難だとする状況認識がある。ただし、「厳格責任」は、決して「製品によって被害が生じた場合は全てメーカーが賠償する」というものではなく、あくまで製品の「欠陥」が認定されることが前提となっている。当然のことながら、TVを運送している最中にうっかり取り落として足を怪我したとしても、メーカーに賠償責任はない。
 「厳格責任」の特性を明らかにする好例として、Lトリプトファン事件を引用しよう。数年前からアメリカで話題になっていたこの事件は、Lトリプトファンを含んだ健康食品を摂取した人々に血液異常や筋肉痛が多発したもので、死亡者27人を含めて1500人以上の被害者が報告されている。米食品医薬品局によると、患者が摂取したLトリプトファンの大半は昭和電工が製造したものであり、さらに同社が特定期間に製造した製品には、他社の製品には含まれない不純物があったことも判明している。現時点では、不純物が混入した経路がいまだに明らかになっていないばかりか、その不純物が果たして疾病の原因かどうかも解明されていない。したがって、過失から被害に到る因果関係はもちろん、昭和電工に何らかの過失があったと断定することもできないのが現状である。しかし、「厳格責任」の考えに立てば、たとえ過失が明らかでなくとも、(不純物の混入という)製品の欠陥が被害を生んだことは状況証拠から充分に推定されるため、昭和電工に賠償義務が生じることは動かしがたい。ただし、同じ事件が「過失責任」の立場をとる日本で起きた場合は、被害者が被害に見合うだけの賠償金を勝ち得るには多くの困難が伴うと予想される。

 製造物責任の判例
 近年、アメリカでは製造物責任の考えに基づく訴訟が多発し、一部では、深刻な保険危機に発展しているとも言われる。こうした事態を指して、アメリカは、膨大な成功報酬を当てに被害者にたかる弁護士に牛耳られている「クレージーな訴訟社会」であると論じるのも、あながち的外れではないだろう。多額の賠償金を課す判決が続いたことによって、結果的に新製品に対するメーカーの開発意欲がそがれているのは事実である。アメリカに見られる異常な訴訟の例としてしばしば引用されるのが、「雨に濡れた猫を乾かそうと電子レンジに入れた老婦人が、猫が死んだのは 「動物を乾かすのに使ってはいけない」 と警告していなかったメーカーの責任だとして訴えた」ケースであり、これなどはいささか常軌を逸したものと見られても仕方がない*1。しかし、製造物責任に絡む訴訟のかなりの部分は、販売に際してメーカー側の思慮が足りないことに起因しており、受けた被害の程度と比較しても賠償金が過度に高額とは言えないものが多い。したがって、日本のメーカーも、アメリカでの訴訟の実例を検討し、もって他山の石とする態度が必要となる。
 製造物責任の問題がクローズ・アップされてきた背景には、消費者意識の高まりとともに、現代工業の提供する(広い意味での)製品が、きわめて“わかりにくい”ものになってきたことが指摘される。実際、猫を乾かすのに使われた電子レンジにしても、火を燃やすわけではなし、どのようなメカニズムで加熱するのか、一般の人にはほとんど理解できないだろう。赤熱したヒーターや燃え上がる炎があれば、経験的に危険性を察知できるはずだが、電子部品が取り付けられたただの匡体を見せつけられても、なぜ危険なのかさっぱりわからなくて当然である。日本では、TVや口コミを通じてパブリシティが行き届いているため、電子レンジが特定の食品を加熱する製品であることは周知のものとなっているため、取り扱い説明書にその旨を記載していなくても、さほど心配はいらない。だが、外国で一人暮らしをしている老人が、使い方を誤って(猫はともかく)洗濯物を乾かそうとしないとも限らない。メーカー側は、このような「予見される使用法」に対して、充分な安全策を講じておくべきであり、それを怠った場合には、莫大な賠償金を請求されても当然なのである。特に、現場の開発担当者は、ふだん使いなれているだけに、技術に疎い一般人がどのように製品を扱うか、思い及ばないことがある。したがって、安全対策を専門とする部署を開設して、さまざまな可能性を想定しなければならない。

 次に、裁判においてメーカーの製造物責任が問われたケースを具体的に見ていこう。すでに述べたように、製品の「欠陥」には、(1)製造上の欠陥;(2)設計上の欠陥;(3)警告・表示上の欠陥−−の3種類があるが、このうち(1)については改めて説明を要しないと思われるので、(2)と(3)について取り上げたい。

 【事例1】 プラスティックを切断する機械を運転中に手をロールに巻き込まれ、作業員が左手の指4本を失った。この機械には安全カバーが取り付けてあったが、事故時には外されていた。被災者は、「安全カバーを取り外すと作動できなくなる装置を25ドルで取り付けられた」と主張。裁判所はこれを認め、 125,000ドルの賠償金をメーカーに課した。

 各種の作業現場では、ロールやプレス機など特に危険性の高いクリティカルな領域があり、そこに手足を挟まれると、重篤な障害を引き起こしやすい。当然のことながら、こうした機械を製造するメーカーも、作業員がうっかり手足を差し込まないように、安全カバーなど各種の安全装置を設けて事故の回避に心掛けている。しかし、この種の安全装置は、えてして作業に支障をきたしやすいものであり、安全装置の誤作動で生産ラインがストップしてしまう事態もまま見られる。このため、安全管理の厳しくない作業場では、往々にして安全装置のスイッチを切ったりカバーをはずして作業を進めることがある。中には、作業員が機械に詳しい専門家ばかりのときなど、安全装置を解除しても危険がほとんど生じないケースもあるが、現場の人の予想を越えた危険性が生まれることも稀ではない。こうした事態に対処するため、安全装置を簡単に取り外せないように二重三重の安全設計しておくことがメーカー側の責務となる。もちろん、そのための費用が予期される危険性をはるかに上回る場合はしかたがないが、上の事例のように、安価に設置できるにもかかわらず怠っていた場合には、設計上の欠陥が認められ、メーカーに賠償義務が発生する。ただし、「過失責任」の考えを採用している日本では、このケースで被害者がメーカーに対して勝訴できるかどうか、疑わしい。

 【事例2】 ステレオ・セットを毛足の長いカーペット上で使用したため火災が発生、アパートの一部を焼失した。取り扱い説明書には、「決して装置を柔らかいものの上に置かないこと。そうするとシャーシの下部からの換気が妨げられる。装置の上方および後方には少なくとも2インチの隙間を設けること」と書かれていた。裁判所は、「この警告文が、警告を無視したときの危険の程度を明らかにしていない」と述べ、原告勝訴の判決を下した。

 日本では、商品の危険性を示唆するような表示は極力抑えられており、やむを得ない場合に限り小さな文字で記すのが常である。上の事例にしても、メーカーのどこに責任があるのか、不思議に思う人も少なくないかもしれない。しかし、「厳格責任」の立場からすれば、このケースで製品に警告上の欠陥があったことは明らかであり、メーカーの責任は免れがたい。実際、家電製品の取り扱い説明書や医薬品の使用上の注意には、やたらに注意事項が書き連ねられており、その全てを遵守するのはかなりの困難を伴う。このため、多くのユーザーは、素人なりにこの程度はかまわないだろうと考えながら、少し症状が重いときは3錠と規定されている風邪薬を4錠服用してみたり、コンセントから取るように指示されている電源をタコ足配線にしたりするのである。そうした「逸脱した使用法」の中には、さしたる危険を伴わないものも少なくないが、逆にユーザーが予期しない危険が発生することもあるため、特に大きな危険が予想される場合は、あらかじめメーカーが適切な警告を示しておく必要がある。アメリカでは、引き起こされる危険の程度に応じて、“DANGER”“WARNING”“CAUTION”と警告の文言を使い分けており、特に“DANGER”と記されているときには、身体・生命に重大な危険が及ぶことが予想されている。上の事例でも、単に「決して〜しないで下さい」という婉曲な言い回しではなく、“DANGER”という警告を含む強い表現で注意を喚起すべきだった。
 ただし、メーカーに危険性を表示する義務があるとは言っても、誰が見ても危険が明白なケースが除外されるのは当然である。当たり前のことだが、ガスコンロの前面に、「危険!炎に触れると火傷します」と記す必要はない。アメリカにおける訴訟の多発ぶりを聞きかじった限りでは、あらゆる危険物に警告を付記しなければならないように思えるかもしれないが、何もそこまで非常識なことが要求されている訳ではない。例えば、ビニール袋を見た人の皆が皆「幼児が頭からかぶると危ないな」と思うとは限らないので、その点を警告しておく必要があるが、粒の大きい豆菓子の場合は、常識ある人なら誰でも、小さい子供が食べると喉につかえそうだと感じるはずだから、いちいち“DANGER”と記さなくてもよいのである。かつて、ピーナッツ・バターに入っていたピーナッツのチップを喉につまらせて窒息し脳障害を起こした幼児の母親が、危険性を記した警告文がなかったとして製造元を訴え、最終的に示談によって賠償金を得たケースがある。これも、うっかりすると、あらゆる豆菓子に警告文を添付しなければならないのかと反論したくなるが、それほど非常識な訴えではなく、あくまで、ピーナッツ・バターのように、喉につかえるほどのチップが入っていると誰もが予想するとは言えない製品に限って警告が必要なことを主張しているのである。

 ソフトウェアの欠陥−−新タイプの製造物責任
 これまで取り上げてきたのは、主として、工場での製造物において、製造/設計/警告のいずれかの段階で欠陥が生じたケースであった。しかし、現在流通している商品の中には、こうした古典的な製造物の範疇に適合しないものもある。次の例を考えてみよう。

 【事例3】 放射線治療機による腫瘍の治療中に、安全基準を大幅に上回る放射線を浴びて患者が死亡した。原因は、装置を制御するコンピューター・プログラムにバグがあったため、特定の手順で操作したときに限って高圧アークが発生して大量の放射線が照射されるためである。担当の弁護士は、プログラムを製造物と見なしてソフト製作会社の責任を追求(係争中)。

 このケースが難しいのは、ソフトウェアが製品として特殊な性質を備えているからである。実際、その用途が製造段階から規定されている機械類と異なり、コンピューター・プログラムなどのソフトウェアは、ユーザー側の用途に応じてさまざまな分野に応用され、その過程で新たな価値を生み出していくことがあるため、古典的な意味での製造物とは認めにくい。例えば、市販されているパソコン用のワープロ・ソフトを会社で利用している際に、ソフトにあったバグ(プログラム・ミス)が原因で重要書類が消去されてしまった場合に、ソフトの開発会社はどの程度の責任を負うべきだろうか。あるいは、表計算ソフトのバグで決算報告書に誤りが生じたケースではどうなるのか。一般には、ソフトを購入するときの契約条項に、この種の被害に関しては責任を負わない旨が明記されており、ソフト開発会社は(一部の例外を除いて)賠償には応じていない。
 ソフト会社が賠償に消極的になる理由として、プログラムからバグを完全に取り除くのが至難の技だという事情もある。かつて銀行のコンピューターがストップして大混乱をきたしたとき、後で判明した原因がコンマ一個の打ち間違いだったことがあったが、膨大な行数に及ぶプログラムの中からそうした僅かな誤りを探し出すのは、まさに森で針を見つけるのに等しい。しかも、通常の機械と異なって、ソフトの使用法は実に多岐にわたっているため、可能な全ての操作手順に対して誤動作が生じないことを開発期間中にチェックするのは、ほとんど不可能である。上に挙げた事例でも、放射線が大量照射されるのは、ディスプレイ上に特定のリストを表示させると同時に、ある手順でキー操作を行った場合に限られており、事前のチェック・リストから漏れていてもおかしくないものであった。こうした事情があるため、コンピューター・プログラムなどのソフトウェアに関しては、製造物責任の適用を見送るべきだとの主張も根強い。
 しかし、社会のすみずみに情報機器が浸透している現状を考えると、製造物責任に関してソフトウェアを免責にするのは片手落ちだと思われる。特に、事例3のように(汎用ソフトではなく)用途が限定されているケースでは、たとえバグがあっても人的な被害を出さないように出力を調整することは可能なはずであり、開発段階でこうした対策を怠っていたとすると、製造物責任に基づく賠償義務が派生すると考えるのが妥当である。この事例では、ソフトが暴走しても放射線の量を安全基準以下に抑えるような設計がなされていなかったという点で、治療機の製造メーカーが最大の責任を負うことになるが、ソフトの暴走によってコンピューターからどのような制御指令が出され、それによって機械がどのように作動するかについての検討が足りなかった以上、ソフトを開発した会社も共同責任を免れない。
 わが国における法制化の動き
 欧米では、すでに大半の国において「厳格責任」の考えを取り入れた製造物責任法が制定されており、被害者救済に当たって大きな効果を発揮している。アメリカ合衆国では、1963年にカリフォルニア最高裁で厳格責任に基づく判決が出されて以来、この制度は(4つの州を除く)ほぼ全ての州に行き渡っている。また、ヨーロッパにおいても、1985年のいわゆるEC指令によって厳格責任の採用が各国に要請されており、これに従って、すでに(アイルランドやスペインなど一部を除く)大半の国が法制化を終えている。
 ところが、翻ってわが国を見ると、製造物責任に関しては民法の条文に基づく「過失責任」の考えが相変わらず援用されており、欧米に較べて消費者の権利を保護する動きは鈍いと言わざるを得ない。「厳格責任」の法制化が必要だとする主張は数年前から政府内部にも聞かれ、国民生活審議会でその妥当性が検討されていたが、1991年に立法化の是非を両論併記する報告が提出され、結果的に「製造物責任法」の制定は先送りが決定された。日本において厳格責任の採用をためらう意見が強い背景には、一つには、QC運動による品質の維持や安全保証マークの利用など独自の製品管理を行っているため、さらなる消費者保護は不要であるという認識があるが、それとともに、メーカーの利益を偏重する体質を指摘しなければならないだろう。ただし、欧米の動きを見ると、国際化の潮流の中で、日本も近い将来に「厳格責任」の採用を迫られることは明らかであり、法制化の準備を進めておくにしくはないと思われる。

§2.低レベル環境因子−−電磁波のバイオエフェクトを中心に


 製品の欠陥が原因で被害が引き起こされたことがはっきりしている場合は、製造したメーカーに賠償責任が発生するのは明らかである。しかし、さまざまな技術を応用した多数の製品が日常生活の細部にまで浸透している現状では、原因となった製造物を特定するのは必ずしも容易なことではない。それどころか、市民の側に損害を被っているという意識のないまま放置されているケースが、環境運動団体の活動などを通じて指摘されることもある。実際、きわめて微弱な影響を及ぼす原因物質に長期にわたって曝された結果として被害が生じた場合、被害者自身が外的な要因に気がつかないとしても、決して不思議ではない。このように、短期的に見ると危険性のレベルが低い因子が環境中に放出され、これに長期間被曝して損害を被ったとき、果たして製造元にどれだけの賠償責任が発生するのか、法律的にも倫理的にも明確な結論を出すのは困難である。
 低レベル環境因子は、昨今マスコミを賑わせている地球規模での環境問題と結び付けて論じられることが多い。最近、二酸化炭素に代表される温室効果ガスの蓄積によって地球の温暖化が進むことが話題として取り上げられることが多いが、数年前までは、温室効果ガスの大半は毒性が皆無であり、大気中に大量に放出しても窒息の心配がないため、いかなる規制も不要だと考えられていた。ところが、産業活動に伴って放出される二酸化炭素が蓄積されて大気中での割合が増大すると、太陽から地表に照射されるエネルギーと宇宙空間へ逃げていくエネルギーの微妙なバランスが崩れてしまい、地球の平均気温1〜2度ほど上昇して、結果的に農作物の収量の減少や海水面低下に伴う洪水の多発などの大きな被害を生むことが判明しつつある。こうした事態は、急性の毒性や催奇形性など短いタイムスパンで表面化する被害とは異なって、超長期的な視野に立ってはじめて明らかにされるものである。
 このほか、低レベル環境因子による被害と見なされるものとしては、次のような例が指摘される。
 フロンガス : 半導体部品の洗浄やエアコンの冷媒などとして広く利用されてきたフロンガスは、化学的にきわめて安定で毒性や腐食性がないため、環境中に放出しても安全だと考えられていた。しかし、長い期間にわたって放出し続けると、化学的に安定なために自然界で分解されることなく蓄積され、極地方の上空でオゾン層を破壊する。
 ラドン含有建材 : アメリカで話題になった事件として、放射性物質のラドンが含まれた建材を利用して住宅が建設されていたケースがある。強力な放射線を放出する物質の場合は、急性の放射線障害などを通じて比較的早期に危険性が表面化しやすい。しかし、ごく微量の放射能を示す物質となると、その実態が知られないまま放射線を長期間浴び続ける可能性がある。しかも、たとえこの放射線がもとでガンが発生してたとしも、被害者自身にも原因がわからないで終わる蓋然性が高い。
 水道水の塩素化合物 : 水道の水には殺菌のために塩素が添加されており、それ自体は毒性を示さない。しかし、この塩素が元になって、ごく微量の塩素化合物が生成されることが知られており、その中には、発ガン性を示すトリハロメタンも含まれている。こうした化合物は、ごく微量とは言っても、一生の間に繰り返し口にするため、どのような結果を引き起こすか不安が残る。
 残留農薬 : 現在、食卓に上る農作物の大部分は、生育の過程で大量の農薬を散布されており、どれほど洗浄したとしても、一部の作物にきわめて微量の農薬が残留することは避けられない。こうした残留農薬が、国民の健康に何らかの悪影響を及ぼさないか、現在の科学的知見では断定的な結論は得られていない。環境運動団体の中には、ここ 2〜30年の間に急増したと言われている子供のアトピー性皮膚炎の発生頻度と農薬の使用量の間に密接な相関があると主張するところもあるが、事実関係ははっきりとしない。ただ、残留農薬に由来する分解生成物が乳幼児の体内でアレルゲンとして作用して、さまざまなアレルギー疾患の原因になる可能性は無視できない。
 上で述べたような定レベル環境因子に共通しているのは、それがどのような被害をもたらすか、具体的な過程や定量的な予測がきわめて困難な点である。水俣病や四日市ゼンソクの訴訟に見られるように、有機水銀や亜硫酸ガスといった被害をもたらした原因物質が特定されているときには、(速やかに実現されるか否かは別にして)損害賠償を含めたさまざまな対策を講じることが容易であった。しかし、水道水や残留農薬でどの程度の被害が発生しているのか、その実態は現在なお全くと言ってよいほどわかっていないため、危険と利得を秤にかけながら合理的な判断を下すことが、事実上不可能になっている。
 このような状況に対して、われわれはどのような態度で臨むべきなのだろうか。この問題を考えるために、具体例に沿ってもう少し詳しく見ていくことにしたい。

 ELF波の生体への影響
 現代文明は、電気産業の上に成立していると言っても過言ではあるまい。日本をはじめとする先進諸国では、あらゆる家庭に電気機器が備わっており、日々の利用に供されている。したがって、当然のことながら、こうした社会に生活している人間は、毎日かなりの量の電磁波を被曝していることになる。これまでの常識によれば、こうした電磁波の中で健康に悪影響を及ぼすのは、せいぜいミリ波以下の波長の短いものであり、家電製品から放射されている長波長の電磁波はほとんど無害だと信じられてきた。しかし、ここ数年、アメリカを中心に超低周(Extra Low Frequency ;ELF)波による健康被害がマスコミでたびたび取り上げられており、この常識が揺らぎ始めている。中でも、The New Yorkerは、この問題について3週間にわたって大々的な特集記事を組み、大きな反響を巻き起こした(P.Brodeuer, June 12,1989,p.51-/June 19,p.47-/June 26,p.39-)。ELF波とは、周波数が 100Hz以下のきわめて長波長の電磁波を指し、50/60Hzの交流電源を利用しているあらゆる家電製品は、多かれ少なかれELF波を放出している。したがって、もし、ここで論じられているELF波のバイオエフェクトが事実だとすれば、現代文明は自らを大きな危険の中に曝していることになり、その意味は深刻である。
 ELF波が健康に悪影響を与えるのではないかという懸念は、以前から一部で囁かれており、中には、電力会社の従業員や(大量に電力を消費する)アルミニウム精錬工場の労働者の間でガンの発生率が高いという報告もあった。しかし、こうした議論の多くは、科学的なデータに依らない直感的なものであったため、科学者の間で「ELF波は無害」という定説に疑義が生じることはほとんどなかった。
 科学者がELF波を無害と信じる理由は、大きく分けて2つある。
 第一に、ELF波は光量子のエネルギーが小さく、生体に影響を及ぼすような化学反応を起こすとは考えにくい。有害であることが知られている紫外線やX線は、化学結合を切断するエネルギーを持っているため、直接的に生体高分子を変化させたり、OH− やH+ などのラジカルを生成して遺伝子を破損する能力がある。また、それほどエネルギーの大きくないマイクロ波でも、同じ部位に照射し続けると、その部分が高熱になってタンパク質が変性する危険性が指摘されている。以前は、電子レンジのシールドが不完全だったため、加熱用電磁波の発生装置から漏れてくるマイクロ波が原因で白内障になったケースが報告されたこともあり、従来のマイクロ波の規制は、主として熱的傷害を生じさせないという観点から設定されていた。こうした短波長の電磁波に較べて、ELF波のエネルギーでは、分子のイオン化能はもちろん、熱的な作用もごくわずかしか及ぼさないため、生体への影響はほとんどないと見なすのが常識的である。
 ELF波が無害とされた第二の理由は、一般人が被曝する際の電場が、細胞膜に生じている電場に較べてはるかに小さいためである。細胞分裂をはじめとして、生物の細胞が示すさまざまな生体反応の多くは、細胞膜に存在するイオン・チャネルを通じて出入りするイオンの量を調節することによって制御されているが、このとき、細胞膜の内と外の間にどれだけの電位差があるかが本質的な役割を果たすことが知られている。したがって、外部から印加された電圧が、生体内での細胞膜電位に匹敵するオーダーになると、生命現象に大きな影響を与えることが予想される。しかし、家電製品や送電線の周囲に発生する電場によって細胞膜の両側に生じる電位差は、生体膜電位よりはるかに小さいため、その影響は無視できると予想される。
 ところが、1970年代に入ると、ELF波についての常識を覆す報告が少しずつ現れ始めた。1973年に提出された海軍のレポートによると、潜水艦と交信するためにELF波を利用している軍事施設の周辺では、家畜や住民の血清中トリグリセライドが異常に上昇しており、過剰なストレスが蓄積していることが指摘されている。ただし、この報告は、周辺住民の軍施設に対する反感を恐れたためか、公表はされていない。
 ELF波問題が一気に騒がれるようになったのは、1979年に社会病理学者Wertheimerの研究結果が公表されてからである。社会環境と疾病の関係を研究していた彼女は、高圧送電線と小児白血病の関係に着目し、コロラド州デンバーで実地調査を行った。当初の報告は統計学的に見て必ずしも厳密なものでなかったが、その後、物理学者のLeeperの協力を得て、磁場と白血病の間の定量的な相関関係を導きだし、学界に大きな衝撃を与えることになった。そこで採用された方法は、送電線からの距離に応じて日常的に被曝する磁界強度を推定し、それとともに白血病の発症頻度がどのように変わるかを調べるものである。ここで電場を無視したのは、磁場に較べてシールドの効果が高く、その影響が小さいと予想されるためである。調査によると、強磁場( 2〜10mG)に曝されている家庭で14歳以下の子供が白血病に罹患する確率は、平均的な家庭(およそ 0.5mG)の約3倍(誤差を考えると2〜5倍)になると推定される。
 興味深いことに、Wertheimerの研究に触発されて追試を行った何人かの報告は、必ずしもELF波が白血病の誘因となることを指示していない。例えば、Fulton(1980)は、磁場による白血病発症頻度の増大は認められないと報告している。また、Tomenius(1986)によれば、あらゆるガンを合計すると、磁場に曝されているグループの罹患率は平均の2倍程度になるが、白血病に限ると半分以下に減少するという。Savitz(1988)は、強磁界でのガン全体および白血病の罹患率は平均の 1.5倍程度になると計算しているが、誤差を考慮すると、その数値は1と矛盾しないという。他のいくつかのグループも、この結果を支持している。このように、現段階では、はたしてELF波の被曝と白血病の発症が何らかの相関を持つかどうか、判然としない。
 こうした調査結果は、どのように解釈されるべきだろうか。多くの学者は、Wertheimerが示した相関は人工的なものと主張している。実際、環境因子と疾病のいずれも多くの種類があるため、その中のあるもの同士が偶然に相関を示すことは充分に有り得る*1。また、高圧送電線の近傍に住宅を購入する人は、所得が相対的に低かったり環境因子に対して無頓着であるなど、特定の性質を示していると予想されるが、こうした性質が白血病の罹患と関係があるかもしれない。さらに、トランスに使用されている有機溶媒に発ガン性を有する物質が含まれている可能性も否定できない。
 一方、強磁場がガンを誘起する可能性を生理学的に実証しようとする動きも見られる。最近の研究では、ネズミを 0.8Gの磁界中で飼育すると、対照群と較べてメラトニンと呼ばれる調節ホルモンの分泌量が減少することが判明している。メラトニン濃度はガンの発生と密接な関連があることが知られており、この実験はELF波とガンを結び付ける有力な根拠になると考える人もいる。また、ヒヨコの脳細胞にELF波を照射すると、カルシウム・イオンが流出するという結果が報告されているが、カルシウム・イオンは、細胞の生体反応を制御する上で重要な役割をはたしており、その流出がガンのプロモーションと何らかの関係を持っている可能性はある。特に興味深いのは、この現象が起きるのが、周波数10Hz〜 110Hz、電界強度30〜40V/m の範囲に限られている点である。こうした「ウィンドウ効果」があるため、ある強さのELF波が有害でないと判明したからと言って、それより弱いELF波が安全とは結論できないことになり、安全基準を決定する上で大きな障害になると予想される。

 ELF波問題の対策
 ここまで見てきたように、ELF波が生体に悪影響を及ぼすかどうか、いまだにはっきりしたことはわかっていない。しかし、科学的に安全宣言を出せるほどの知見が得られていないことも、また事実である。確かに、X線や紫外線と同じメカニズムで生体を損傷する可能性がほとんどないことは判明しているが、一般的にELF波が安全だという結論を導くだけの科学的な根拠は存在しないのある。
 もし、ELF波に(ガンを促進するなどの)バイオエフェクトがあるとすると、その社会的影響はきわめて多岐にわたる。実際、身の回りに置かれたあらゆる電化製品が有害因子の発生源となるわけで、予想される被害を取り除くための対策には膨大な経費が必要とされる。例えば、TV受像機やパソコン端末のCRTからは、背後と横方向にかなりの強度のELF波を放射していることが知られている。近年、日本でもパソコン端末を操作するオペレーターに、目の疲れや手指の疲れを主訴とする症状が多発しているが、これらがELF波に起因する可能性も一概には否定できない。また、電気毛布は、肌に密着させて使用するために他の家電よりもはるかに強い電磁場に曝されることになり、人体への悪影響が懸念されている。電気毛布を使用する妊婦の間で流産する割合が高くなるとの報告もあるが、確認はされていない。こうした製品の一つひとつに対して、適切な安全基準を設定する作業自体が膨大なものになるが、さらに、基準を満たさない製品に対する処置や、ELF波被害に対する損害賠償まで考えると、ほとんど雲を掴むような話になる。特に、送電線を全てシールドするのは現実問題として不可能に近い。
 こうした現状に対して、具体的にどのような施策が考えられるだろうか。最も保守的な方法は、科学的にはっきりした根拠がないことを理由に、態度決定を先送りすることである。ELF波のように有害か否かもはっきりしていない問題に対しては、こうした無策とも言える対処も、いたしかたないかもしれない。ただし、この場合でも、行政側が入手している科学データは住民が自由にアクセスできるような形で公開しておくべきことは言うまでもない。こうした対策は、こんにちアメリカ連邦政府で採用されているものである。
 もう一歩踏み込んだ方法としては、既存の科学的データをもとにして安全性が保たれる許容値を決定する道があり、送電線に関しては、カナダやスウェーデンなどで実施されている。ただし、こうした施策は、「クズ科学(junk science)」に振り回される危険性があり、必ずしも推奨できるものではない。予想される経費と安全性を秤にかけながら、住民との話し合いをもとに適当なラインで妥協するのが、現時点で可能な最も妥当な対策ではないかと思われる。

§3.医薬品の安全性


 日本人は、無類のクスリ好きだと言われる。実際、医者が発行する処方箋の数を国際的に比較しても、日本が他を圧している。しかし、本当にクスリの機能を理解した上で服用しているかといえば、いささか心許ない。一般に使用されるクスリには、医者から処方される治療薬と、町の薬局薬店で購入できる大衆薬があるが、いずれも必要以上に服用を迫るような仕組みがあり、過度の「クスリ漬け」医療を招いている側面を無視することはできないだろう。
 はじめに指摘しておかねばならないのは、現行の医療報酬制度が、医者の診断技術よりもクスリの価値を高く評価している点である。実際、微熱が続いて「何か悪い病気ではないか」と心配になった人が医者に診てもらう場合、「単なるカゼですよ」と言われるだけで診療としては充分なことがある。しかし、現状では、こうした(それ自体が専門知識と高度な技術を要する)診断に対してはほとんど報酬が与えられず、たとえ気休めの効果しかなくてもクスリを処方した方が医者の収入になるのである。医者を対象としたアンケートによると、カゼに対する最良の治療法は「安静にして寝ている」ことだそうだが、現実の診療の場では、何らかのクスリを処方せざるを得ないのが実状である。
 一方、市販の大衆薬についても、TVなどの各種メディアを通じて効能が過大に宣伝される傾向にあり、クスリの大量消費に拍車をかけている。例えば、市販されているカゼ薬は、いずれも発熱やセキなどの症状を緩和するためのもので、カゼを治す効能はない。それどころか、下手をするとカゼを悪化させる原因になりかねない。カゼの症状の一つであるノドの炎症は、侵入したウィルスに集中攻撃を加えようとして白血球を集結させたために血管が膨張してしまった状態だが、消炎効果のある成分によって炎症を抑えると、せっかく集めた白血球を散らすことになって、自然治癒をもたらすはずの免疫活動を妨げる結果となる。発熱や鼻水・タンなども、病原菌を迎え撃とうとする身体反応であって、これを抑制してもカゼの原因を取り除いたことにはならない。にもかかわらず、TVや新聞のCMでは「カゼにはやっぱり***」とか「カゼは粘膜にはじまり***に終わる」というように、治療効果があると錯覚させるようなコピーが横行している。こうしたCMの効果があってか、カゼをひいたときには4割の人が市販のカゼ薬を服用するという調査結果もある。飲み過ぎ/食べ過ぎのための胃腸薬やスタミナ・ドリンク剤などについても、広告に踊らされて過剰摂取していることは否定できない。
 このように、現代人は必ずしも必要のないクスリを多量に服用する傾向にある。こうした医薬品は、いずれも身体に直接作用するものであるため、一歩誤れば大きな災厄を招きかねない危険を秘めている。これまでにも、サリドマイドやキノホルムなどの医薬品に起因する被害が発生しており、製造物責任が問われた事実がある。確かに、抗生物質による結核の治療のケースからもわかるように、クスリは現代科学がもたらした大きな福音ではあるが、同時に「クスリはリスク」という側面があることも忘れてはならない。このような観点から、現代においては、どのような方法によって医薬品の安全性をチェックしているのか、また、そうした検査体制は果たして万全なのかを考えていきたい。

 新薬開発のプロセス
 はじめに、新しい医薬品がどのような手順で開発されるか、安全性検査を中心にして
 述べていきたい。
 最初の段階は、クスリとして使えそうな物質を同定することである。ただし、ある病気を治療するのにどのような物質を利用すれば良いか、あらかじめ予測できる可能性はほとんどないため、こうした作業が特定の疾病に対する治療効果を念頭に置いて進められることは稀で、むしろ、無数の物質の生理活性の効果を端から調べていく形で遂行される。中には、当初の見込みとは全く異なる薬理効果が後から発見されることもある。例えば、免疫抑制剤として有名なサイクロスポリンは、はじめは抗カビ剤として開発されたものである。こんにちでは、特定の病原菌のワクチンとして機能する高分子を、オーダー・メードの洋服を仕立てるように作る可能性も研究されているが、実用化されるのは当分先になる見通しである。
 生体活性のある物質が特定されると、次に、基礎的な実験を通じて、クスリとして使えそうかどうか、スクリーニング・テストを行う。現実には、大半の物質がこの段階でふるい落とされてしまう。物質の決定からここまでに、平均して2〜3年の歳月と20億程度の資金が費やされるという。

 スクリーニングで生き残った物質は、動物実験によって、毒性や薬理効果が検査されることになる。もっとも、一口に動物実験と言っても、実際に必要になる作業はきわめて膨大である。化学物質が有する毒性の目安として「致死量」という概念がしばしば援用されるが、これを調べるのにどうすれば良いかを例にとって説明しよう。素朴に考えると、実験用の5匹のネズミに、それぞれ1mgからはじめて1mg刻みで5mgまでの薬品を投与し、4〜5mgを投与したネズミが死んで1〜3mgのネズミが生き残ったならば、致死量は3mgと4mgの間にあると結論できる−−と思われるかもしれない。ところが、現実には、生物個体の間の格差は一般人が考えている以上に大きく、いわゆる「致死量」の3倍を与えても死なないネズミもいれば、O程度であっさり死んでしまうネズミもいる。一般に、薬品の投与量と死亡率の関係は、グラフのように表される(図)。したがって、「致死量」なる概念を「それ以上を投与すれば死に到る量」と素朴に定義するのは適切ではない。こんにちでは、「死亡率が50%を越える量」−−いわゆるLD50を「致死量」と見なしている。このため、これを実験的に測定するためには、20匹のネズミに1mg、20匹のネズミに2mgというように、一定量を多くの実験動物に投与して、何パーセントの個体が死ぬかを調べなければならず、当然のことながら、膨大な数の動物を使用することになる。他の薬理効果を調べる際にも、同じように個体差を考慮にいれて多数の実験体を利用しなければ意味のある結果が得られない。ネズミ(マウスまたはラット)ならまだしも、イヌ(ビーグル犬など)やサル(アカゲザルなど)を使った実験では、動物の飼育だけでも一苦労である。さらに、短い期間で発現する毒性ではなく、遺伝毒性や催奇形性を調べようとすると、実験に要する手間は気が遠くなるほどのものになる。例えば、アセチルアミノフルオリンという物質の発ガン性を調べるために、24,000匹のネズミが実験に供されたという。
 動物実験は、このように多くの作業を必要とするため、3〜5年の歳月と平均25億の資金を要する。

 動物実験で医薬品としての効能が期待できると判明した場合は、人体実験によって薬効と安全性を検査することになる。クスリを開発するための人体実験は、特に「臨床試験」と呼ばれる。臨床試験は、3つのフェーズから成り立っている。
 フェーズ1では、少数の健康な志願者を対象に、人間における薬理効果や有害反応を検査する。この段階では、安全性は動物実験によってしかチェックされていないため、志願者には、充分に説明を与えた上での同意(インフォームド・コンセント)を取り付ける必要がある。続くフェーズ2では、実験したい化学物質を実際の患者に投与して、だいたいの有効率や薬理効果が発現するまでの時間を調査し、クスリとして使える適応症や、投与量/投与法の目安を決定する。最後のフェーズ3になると、治療の現場に当該物質を持ち込み、多くの患者を対象とした検査を行う。この段階では、それまでに当たりをつけておいた薬理効果を定量的に測定するため、対照群を利用した厳密な実験が行われる*1。
 臨床試験には、2〜3年の月日と20億前後の費用が必要となる。

 臨床試験を終えると、残った大仕事は厚生省から製造許可を受けるだけとなる。基礎実験から臨床試験までのデータをまとめて中央薬事審議会に申請し、ここで承認されれば良いわけだが、実際には、データの不備などを理由に追試験が必要になるケースがかなりあり、開発中止に追い込まれることも稀ではない。しかし、この段階をクリアすれば、ヒヤリングなどを行った後、薬価基準を決定した上で新薬の販売となる。こうした事務的な作業にも2ないし3年の期間が必要だが、金銭的には数億円ですむ。

 このように見てくると、新しい医薬品を開発するには、膨大な期間(10〜16年)と費用(50〜 100億円)を要することがわかるだろう。日本で年間に承認される医薬品の数は、せいぜい10から20程度であり、開発当初に取り上げられる物質の中の数千ないし数万分の一にすぎない。こう考えると、医薬品は開発段階のリスクがきわめて大きい商品であると言える。原材料費に較べて販売価格が著しく高いのも、開発コストを考慮すると納得できるものとなる。
 もっとも、医薬品メーカーにとっては、ベスト・セラーとなるクスリの販売は莫大な利益をもたらす。かつて抗生物質のクロマイ(クロロマイシン)で業績を伸ばした三共製薬は、クロマイの適応症が制限されたのに伴って売上不振に陥ったが、呉羽化学が開発した抗ガン剤のクレスチンの販売によって息を吹きかえした。また、中外製薬も、業績が低迷していた時期があったが、昭和34年から16年の歳月と十数億円の費用をかけて開発した抗ガン剤のピシバニールが大当たりした結果、立ち直ることができた。こうした事例があるため、「抗ガン剤はガンよりも株に効く」と言われることもある。
 安全性の問題
 既に述べたように、医薬品を開発する際には、膨大な手間をかけて薬効や安全性についての検査を積み重ねている。しかし、これほど厳重な検査を行っても、クスリに危険性はないと言い切れないことも、また事実である。医学の進歩が喧伝される中で不思議に聞こえるかもしれないが、現在の知見では、(ワクチンなど一部を除いて)クスリがなぜ効くのかほとんど理解できていない。薬理効果のメカニズムが最もよく知られているクスリの一つにアスピリンがある。これまでは、解熱/鎮痛などのアスピリンの薬効は、生理活性物質の一種であるプロスタグランジンの分泌を抑制する結果だと解釈されてきた。ところが、最近では、これだけでは理解できない現象があるとの報告もなされており、薬学界の話題となっている。最もよくわかっているはずのアスピリンですらこの程度である以上、他のクスリについては推して知るべしである。大半のクスリは、「これを投与するとどういう反応が現れるか」という現象面での理解にとどまっている。当然のことながら、クスリの安全性についても、せいぜい動物実験の結果から類推しているにすぎず、決して万全のものとは言えないのである。
 こうした状況は、現代技術が孕んでいる問題を象徴しているように思われる。20世紀の科学・技術は、もはや個人がその全体像を把握できないほどに複雑化しており、個々のユーザーは、マニュアルに記された機能リストを頼りに利用しているにすぎない。そうした中で、システムの内部に潜んでいる欠陥が、ユーザーの予想もしないところから噴出してくるという不安を拭うことはできない。技術システムを人間の体に置き換えてみると、医薬品に見られる危険性は、これと同じものだということがわかる。
 それでは、膨大な検査を重ねながら、クスリの安全性が万全なものと言えないのは、どのような理由によるのだろうか。以下、具体的に指摘していきたい。

 外挿の妥当性 クスリの有害反応を検査する上で最も重要な役割を果たすのは、動物実験である。臨床試験によるデータからもある程度まではわかるが、被験者を危険に曝す訳にはいかないので、催奇形性や致死性などの重篤な副作用については、動物を使ったデータに頼らざるを得ない。

 ところが、動物実験で得られたデータを人間に当てはめようとすると、どうしても不確実な要素が混入してくる。例えば、ネズミで得られた致死量をもとにして人間の致死量を推測する場合、体重や体表面積などをもとに換算する方式が考案されているが、必ずしも信頼できるものではない。こうした不確実さは、物質代謝の経路が人間と他の動物では異なっていることに起因している。ある毒物を分解する酵素の有無によって、毒性は全く異なったものになるし、特殊な酵素による代謝産物が思わぬ副作用をもたらすこともある。動物と人間の副作用の一致を調査したデータでは、内分泌系の以上や皮膚反応など、両者の間に大きな差が生じるケースが少なくないという結果が得られている。
 一般的に言って、分類学的に遠縁の動物ほど人間との差異が大きくなり、データの信頼性に欠ける。マウスを使ったデータから人間における副作用の有無を推測する場合、正しく予測できる率は7%程度にすぎない。これに対して、イヌを実験動物とすると、予測率は26%まで向上し、さらに、マウスとイヌのデータを組み合わせると68%に達するという報告もある。したがって、高等動物を使った実験を組み合わせれば、それだけ信頼性は高くなると期待される。この意味で、最も有用な実験動物はサルのはずだが、飼育する際の困難や動物愛護上の問題があるため、充分に利用されているとは言えない。しかし、PCBのように、ネズミやウサギでは催奇形性が観察されないのに対して、サルやヒトでは顕著に現れるという物質もあるため、動物実験の最終段階では、サルを使った検査が不可欠ではないかと思われる。
 このほか、動物の場合は、症状を言葉で報告できないため、めまいや吐き気などの副作用が測定しにくいという問題もある。疼痛の有無をネズミで調べる場合には、手足をなめる回数の変化を測定することにしているが、人間に当てはめる際に曖昧さが生じることは否めない。
 データの捏造 医薬品の開発には、膨大な資金と労力が必要になる。このため、医薬品メーカーにとって、開発の最終ステップとなる中央薬事審での承認が得られないとなると、損失は並大抵のものではなくなる。このため、認可を得るために必要なデータが充分に集められていない場合、データの捏造が行われていると指摘する声もある。ただし、実際に摘発される件数は、必ずしも多くはない。

 医薬品に関しては、発売後のモニタリングで得られたデータを捏造するケースも報告されている。大塚製薬が1990年に販売した慢性心不全治療薬のベスナリノンは、白血球減少を中心とする血液障害の副作用があり、発売後の半年間に死亡4例を含む24例の報告がなされている。事態を重視した厚生省が、ベスナリノンのその後の使用結果に関する報告書の提出を求めたところ、大塚製薬から13.394例に及ぶ使用実績が報告されたが、その中には「副作用なし」と記載された17の架空症例が含まれていた。医薬品は発売後に副作用が明らかになるケースが少なくないため、モニタリングを継続的に実施するように義務づけられているが、この段階でデータが捏造されると、副作用による被害が拡大することになり、影響は深刻である。
 クスリの相互作用 医薬品は体内で複雑な生理的反応を引き起こすため、複数のクスリを同時に服用したときの効果は、必ずしも1足す1という相加的なものにとどまらない。効き目が異常に亢進ないし抑制されたり、思ってもみなかった副作用が発現することがあり、場合によっては生命に危険を及ぼしかねない。しかも、こうしたクスリの相互作用を動物ないし臨床実験の段階で発見することは、現実問題としてきわめて難しい。実際、流通している医薬品の総数は膨大なものになるため、可能な組み合わせの全てについて副作用のチェックをしていくだけの余裕がないというのが現状である。

 当然のことながら、クスリの飲み合わせによって副作用が引き起こされる危険性は、一度に多量のクスリを服用するほど高くなる。調査データによると、使用された医薬品数が1〜5のときの副作用頻度は数パーセントにとどまるのに対し、16〜20の薬品を同時に使用したときの頻度は40〜50パーセントに跳ね上がる(表)。こんにちの医療現場においては、対症薬を含めてかなり多量のクスリを処方する。例えば、ありふれたカゼに対しても、解熱剤やセキ止めから始まって感染症予防のための抗生物質に到るまで、何種類ものクスリが与えられる。特定の疾病に対して投与される複数のクスリの間の相互作用については、研究が進んでいるため、それほどの危険性はないが、複数の病気に罹患して投薬を受ける場合は注意が必要となる。特に老齢者は、多くの慢性病を抱えているケースが多いので、他の病院からクスリを処方されていたり常用薬がある場合は、必ず担当医に申告しなければならない。また、大病院では、患者一人ひとりについてのカルテを作成し、(皮膚科と泌尿器科のように)異なる科を受診しても、悪い飲み合わせが起こらないように投薬を調節しているが、こうしたシステムが小さな医院や薬局を含めて拡張されるのが望ましいだろう。
 クスリの誤用/服用指示違反 クスリの安全性は、特定の使用条件の下で用いられて初めて確保されるものであり、その範囲を逸脱すると、医薬品といえども凶器に急変する。特に、医者の指示に反した飲み方をしたために、重大な結果を引き起こした例は、決して稀ではない。

 しばしば問題になるのは、クスリの服用中に副作用が現れたために、勝手に服薬を中止するケースである。例えば、抗うつ剤は動悸や吐き気などの症状をもたらすことが知られているが、これを嫌って医者に無断で飲むのをやめたため、本来の病状が著しく進行した例が報告されている。副作用があまりに強い場合は、医者と相談の上で調節することもできるので、患者個人の判断で飲み方を変えてはならない。
 一方、これとは逆に、表面的な症状が消えただけで、クスリを飲まなくなるケースもある。解熱剤などの対症薬の場合は、症状がなくなれば患者の判断で服用をとりやめてもかまわないが、治療を目的とするクスリは、原因を根治するために調剤されていることが多いので、素人判断は禁物である。特に、抗生物質の場合は、症状が消えた段階で服用を中止すると、そのクスリに対して抵抗性のある耐性菌が生き残って再繁殖する危険がある。こうなると、病状がぶり返したとき、以前に使用した抗生物質が効果を発揮しないこともあるため、危険性は前にも増して大きくなる。例えば、結核菌に対しては、ストレプトマイシンが特効薬として登場しながら、次第に効き目が落ち、その後に「奇跡の抗生物質」と呼ばれたヒドラジッドが開発されたものの、これに対しても耐性菌が現れ、現在では、いくつかの抗生物質を適当に調合してはじめて効果を発揮するという状況になっている。
 ただし、クスリの飲み方に関する「常識」−−例えば、「牛乳やお茶で飲んではいけない」のような−−は、クスリによって正しいことも誤っていることもあるので、服用の仕方に関して不明な点があれば、医者や薬剤師に問いただしておくべきだろう。

 以上のように、こんにち流通しているクスリを利用する場合にも、危険性が払拭されているとは言いがたい状況がある。しかし、必ずしも悲観的に考える必要はあるまい。戦前の医療の実態は、現在よりもはるかに危険なものであった。結核の気胸療法のように、たまたま成功した症例があっただけで、大して追試もしないまま他のケースに適用したため、結果的に「医者に殺された」多くの患者を生むことになった例もある。これに較べると、こんにち医薬品を開発するに当たって採用されている手順は、万全とは言えないまでも、安全性を向上するのに大きく貢献している。むしろ、技術に付随する安全と危険のはざまにあって、どのような対策が可能か、また、そうした対策にはいかなる限界があるかを考えるための素材として、医薬品の問題を捉えていただきたい。

 倫理性の問題
 最後に、本章の論旨からは脱線することになるが、医薬品開発に伴う倫理的な問題について、簡単に触れておきたい。

 動物の保護 既に述べたように、薬理効果や毒性の有無を検査するために、多量の実験動物を使用するが、これに対して、動物愛護団体から厳しい批判が出されている。確かに、致死量を決定するだけでネズミを何千匹と殺すなど、通常の人から見ると、いささか残酷にすぎる方法だと言わざるを得ない。こうした批判を受けて、研究者側でも、実験動物の取り扱いを改善するさまざまな施策を打ち出している。例えば、薬品の細胞毒性を検定するのに、従来はウサギの目に滴下して調べていたが、最近では、培養している細胞組織を利用して同程度の信頼度が得られるような試験法が開発されている。また、サルやイヌのような大型動物を使用する実験は可能な限り削減し、やむを得ない場合でも、できるだけ苦痛を与えないような実験法を採用している。

 しかし、人間に適用される医薬品を開発する以上、動物実験を回避するのは不可能である。実際、医薬品開発の最終段階では、必ず人間を対象とする臨床実験を行うため、その前の段階で動物を使った安全性のチェックを行うことは、必要不可欠の作業である。また、サルやヒトに対してのみ毒性を示すような薬物もあるため、ネズミなどの小型動物だけを使った実験で済ます訳にもいかない。動物愛護家にも、こうした事情を納得していただくしかないだろう。
 患者の人権 臨床実験のフェーズ2ないし3では、患者を対象として各種の検査が行われる。このとき、安全性が確立されていない薬品を投与される患者の人権がどこまで守られているのか、疑問に感じざるを得ない。原則的には、投薬する以前に、患者に充分な説明を行った上で同意を得るという「インフォームド・コンセント」の手続きが行われているはずである。しかし、日本のように、医者が家父長的な権威を示しがちな風土において、果たして患者の自主的な決定に委ねられているかは、いささか心許ない。また、末期ガンの患者に対して、「まだ厚生省の認可は受けていないが、動物実験によればかなりの効果が期待される薬品がある」と告げた場合、副作用にあまり注意を払わないまま、ワラにもすがる思いで臨床試験を引き受ける可能性は充分に考えられる。こうした医の倫理に絡む問題は、さらに議論を続けていく必要がある。



(1997.3.14執筆)

©Nobuo YOSHIDA