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序論.『技術者七つの大罪』



 現代技術についての講義を始めるに当たって、『技術者七つの大罪』という話題を枕として使いたい。いささか大仰な言い回しだが、この言葉は、文芸評論家の奥野健男氏が30年近く前に書いたエッセーのタイトルである。奥野氏は、エレクトロニクスのメーカーで研究開発に従事してかなりの業績を挙げた後に、文学評論の世界に転向したという風変わりな経歴の持つ主であるだけに、技術の実態について、自分の体験に即した鋭い批評眼を備えている。氏の指摘によると、現代の技術者が犯している「七つの大罪」とは、(1)お人好しという罪;(2)専門に固執する罪;(3)技術以外のことに無関心である罪;(4)ものごとの本質を考えない罪;(5)口べた・文章べたの罪;(6)小成し威張りたがる罪;(7)中途半端の罪−−以上の7つである。いずれも、なるほどと思わせる指摘であり、技術畑に一歩でも足を踏み入れたことのある人は、多かれ少なかれ、身に覚えがあるだろう。しかし、ここで私が特に強調したいのは、4番目の「本質を考えない罪」である。これ以外の罪は、言うなれば、第4の罪に従属して派生するものにすぎない。
 技術者たちが、表面的な現象にだけ気をとられて、ものごとの本質を洞察する能力に欠けていることは、単に、個々人の視野が狭いというだけの問題ではない。むしろ、現代の技術が機能しているあり方そのものと密接に結びついている。このことは、技術システムの中に何らかの障害が発生したとき、技術者がどのように対処するかを考えてみれば良くわかるだろう。彼らは、障害の原因を特定するために対象を部分に分割しながら検討を加えていき問題となる箇所を発見すると、それを抑える方法をさまざまに工夫していく。この方法論は、多くの場合には好結果を生み出す。例えば、機械の誤作動をもたらす高周波ノイズを除去するためにローパスフィルターを利用するという対処法は、何の不都合もなくごく一般的に行われている。しかし、状況によっては、こうした技術者の対応が、悲惨な結果をもたらすこともある。
 こんなエピソードがある。スジ肉は値段は非常に安いが、固くてとても食べられたものではない。ある青年が、何とかスジ肉をおいしく食べられないかと考え、振りかけるだけで肉質を柔らかくする薬を発明した。これは便利とばかり、多くの人に愛好されたが、あるときからパタリと使用されなくなった。何のことはない。スジ肉のタンパク質を分解する薬品ならば、当然、人間の胃袋も分解してしまうのである。「肉を柔らかくしよう」という発想に熱中するあまり、そこまで気が回らなかったのだろうが、使った人にとっては笑い事ではない。そして、この笑い事でない事態が、現代においては、そこここに見いだされるのである。


 技術者が、目の前の問題を解決しようとして、かえって巨大な悪を生み出してしまった典型的な例が、PCBである。以下では、しばらくこれを論じることにしよう。
 PCB(ポリ塩化ビフェニル)は、1881年にドイツのシュミットとシュルツによって合成された。工業的な応用面では多くのすぐれた性質を持っており、「夢の油」とまで呼ばれた物質である。特に重宝がられたのが化学的にきわめて安定だという点で、加熱/冷却しても変質しにくいばかりか、酸やアルカリにも侵されにくい。このため、火災の危険のある鉱山や電車車両・船舶などのトランス用絶縁油として最適であり、潤滑油や熱媒体としての利用価値も高い。また、水に溶けないが、他の有機溶媒とは混ざりやすい性質があるため、絶縁あるいは難燃用の可塑剤として各種の樹脂やゴムと混合して用いるという用途もある。このように多方面に応用できるため、PCBはきわめて有用な化合物として、アメリカを中心に各国で多量に合成されていた。
 PCBの安全性に疑惑の目が向けられるようになったのは、60年代に入ってヨーロッパで魚の大量死や野生動物の繁殖力の低下が観察されるようになってからである。この問題に興味を持ったスウェーデンのヤンセンは、間もなく興味深い事実に気がついた。それは、自然界に異変をもたらしている物質が、食物連鎖の高次の生物になるにつれて、より高濃度に蓄積されているという点である。実際、川に棲むサケの稚魚から検出される物質はあまりに微量で分析に適さないが、サケを捕食する川カマスには同じ物質がより高い濃度で蓄積されており、これを食べるオジロワシの体内には、さらに多量に濃縮されていたのである。ヤンセンは、オジロワシから得られた物質を分析して、これがPCBであることを突き止めた。これ以降、日本でカネミ油症事件が発覚したこともあって、PCBの環境毒性が広く知られるようになり、70年代に入ると、各国でPCBの生産や使用が厳しく規制されるようになる。
 PCBが恐ろしいのは、食物連鎖を通じて生物の体内に濃縮されるという点である。実は、こうした事態こそ、工業的に見て好ましいとされた性質がもたらした必然的な帰結なのである。上に述べたように、PCBは水に溶けにくく油に溶けやすい。したがって、体内に取り込まれたPCBは、血液にいつまでも溶けていないで、体脂肪の中に溶け込んでしまい、尿によってほとんど排出されない。しかも、化学的にきわめて安定であるため、体内であまり分解されないまま、いつまでも蓄積されてしまう。このため、環境中のPCB濃度がごく僅かだったとしても、生物の体内には貯まる一方となり、結局、多量に濃縮されることになるのである。現在ではPCBは製造中止になっているとはいえ、過去に合成されたPCBの多くは環境に放出されたままであり、これが徐々に生物の体に蓄積されていく危険は看過できない。数年前に北海で起きたアザラシの大量死も、直接的な原因はウィルス性疾患であるとされながら、PCBなどの化学物質による免疫力の低下が遠因として背後に影響を及ぼしているのではないかと推測する人もいる。
 地球の自然環境は、見事な調和のとれたシステムである。したがって、自然にとっての異物が環境にどのような影響を及ぼすかは、そう簡単には推測できないはずである。にもかかわらず、技術者たちは、「化学的に安定な物質がほしい」という眼前の目標を追求するあまり、PCBのような「悪夢の油」を世に送り出してしまった。まさに「技術者の大罪」である。


 現代の技術畑で従事している人は、こうした“過去の汚点”にはこだわらないかもしれない。おそらく、PCBの問題は、安全性についての認識が甘かった時代の失敗であり、現在のように厳しい安全性検査の方法論が確立されている時代には、このようなことは有り得ないと主張するだろう。しかし、実際には、PCB問題を膚で実感したはずの70〜80年代の技術者たちは、何のためらいもなく前車の轍を踏んでしまうのである。これが、ここ数年マスコミを賑わしたフロン騒動である。
 フロン(クロロフルオロカーボン)は、1928年に冷媒として開発された無色・無臭・無味の気体で、PCBと同じく、化学反応を起こしにくいところが大きな特長である。当初は、圧力を加えると容易に液化する点を利用して冷蔵庫の冷媒として利用されていたが、しだいに発泡剤やスプレーの噴射剤へと用途を広げ、特に日本では、半導体やOA機器の洗浄剤としての利用がさかんであった。実際、他の物質と比較するとフロンの便利さは際だっている。例えば、フロン以前には、冷蔵庫の冷媒としてはアンモニアが用いられていたが、これだと、耐久性に問題があるばかりか、使用中に漏れだしたケースを考えれば、いかに厄介なものか容易に想像がつくだろう。また、ヘアスプレーにLPGを用いると、(微燃性と表記されているが)火に向かって噴出すると激しく炎を上げて燃えるため、きわめて危険である。こうした難点が、フロンにはいっさい存在しないのである。
 フロンがPCBと決定的に異なるのは、これが化学物質として全く無害だという点である。このため、遺伝毒性を示すPCBが環境に放出されると多くの生物にダメージを与えるのとは相違して、フロンは生物に対する影響はないと推測され、何の規制もなされないまま自然への放出が続けられてきた。こうした認識に基本的な誤りがあるとわかったのは、80年代も後半に入って、人工衛星からの観測により南極上空でオゾン層が四半世紀前に較べて半分近くに激減していると判明してからである。フロンがオゾン層を破壊する過程で本質的な役割を果たしているのは、またもや化学的な安定性である。環境に放出されたフロンは、自然の中で分解されないまま蓄積を続け、その濃度は一方的に高まっていく。これが上空25〜30km高度に達すると、太陽からの強い紫外線に曝されてはじめて分解し、反応性の強い塩素原子を作り出す。もし、この塩素原子が他の物質と化学的に結合して悪さをなすというだけなら、その濃度が低いことから大した結果はもたらさなかったはずである。ところが、オゾンを含む大気中では、塩素原子が触媒となり、片端からオゾンを分解していくため、微量の塩素でも大量のオゾンを失わせることになるのである。実は、こうしたフロンによるオゾン破壊のメカニズムには、南極上空に漂っている氷の結晶表面で反応が進行するなど、化学者の既存の知識を越えたプロセスが関与しており、あらかじめ予想がつかなかったのも無理からぬ点がある。しかし、だからと言って、フロンを世に送り出した技術者がオゾン破壊の罪を免責されるわけでもあるまい。オゾンは太陽からの紫外線を吸収する役目を果たしており、これが失われると、地表に強い紫外線が到達して、皮膚ガンを誘発するほか、作物の抵抗力をなくして病虫害の発生を招く原因にもなるのである。
 フロン騒ぎが、関係者のみの責任を問われる孤立した問題ではなく、現代技術のあり方そのものに関わっていることは、この手の事件が現実に頻発している点からも明らかだろう。例えば、最近になって危険性が指摘されたアスベストを思い起こされたい。この物質も、(またしても)化学的に安定で熱に強い素材として利用が始まったものである。これまでは、主として建築物の断熱材として広く利用されてきたが、その形状が細い繊維状をしているため、それ自体の化学毒性が小さくても、肺に侵入すると分解されずに肺胞に突き刺さってアスベストーシスなどの疾病を引き起こすことがわかってきた。最近では、アスベストが使われている建物からの撤去作業も始まっているが、作業過程で逆に周囲に飛散するなど、2次被害を心配する声も聞かれる。
 PCB,フロン,さらにアスベストと列挙すると、問題の所在が見えてくるはずである。これらは、いずれも自然界に存在しない性質−−すなわち、化学的な安定性が利点と見なされて、さまざまな分野に利用されてきた。しかし、その同じ性質が、まさに自然にとって異物として作用するのである。技術者は、「熱を加えても変質しない油が欲しい」とか「腐食性のない冷媒はないか」とか考えながら、新物質を探求していく。その作業自体は立派なものであるが、発見した物質を利用する段階で、自然に存在しなかったものがどのような影響を及ぼすかについても思案するのも、技術者に課せられた役目の一つだろう。しかし、現実にはこの課題はおろそかにされていると言わざるを得ない。


 それでは、技術者たちは、何をすれば良いのだろうか。「広い視野をもって、ものごとの本質を考えよ」と唱えても、安易なキャッチコピーにすぎない。ここでは、具体的な例を述べることによって、今後歩むべき道を示唆するにとどめたい。
 沖縄本島の北部に位置する名護市では、市庁舎を建設するに当たって、地元の人を中心とする建設委員会を設置して、コンペティション形式によってプランを決定した。その結果、現在では、多くの建築家が賞賛するすぐれた庁舎が完成しており、市民に親しまれている。設計集団“象”によるこの庁舎の特長は、地域の自然に密着しているという点である。何と言っても沖縄の夏は暑いため、近代的な設計家ならば、建物を密閉して空調を効かせることを考えるだろう。ところが、“象”のプランでは、あえて冷房設備を置かず、「風の道」となる通風口を設けて、対流の力で自然の涼風が流れ込むようにした。このため、無駄なエネルギーを用いることなく、外気に較べて充分に快適な温度が自動的に維持できるようになったのである。さらに、アサギと呼ばれる沖縄独特の半戸外のテラスを設け、地域住民が利用できるコミュニティ・スペースとして開放した。このアサギ屋根の繰り返しによって、外観も民家を思わせるたたずまいになっているほか、地場産業であるブロックも建築材として随所に取り入れており、地域と融合した庁舎になっている。
 名護市庁舎の特長は、風土に適している点である。これまでの技術は、自然をいかにしてねじ伏せるかという方向に向かっていた。その結果、地域ごとに存在する風土が無視され、歪められてきたように思われる。例えば、日本のような高温多湿の風土に、本来は大陸型のスポーツであるゴルフを導入しようとして、森林を切り開き、抜いても抜いても生えてくる草木を邪魔もの扱いして除草剤を散布するような野蛮な行為を平然と行ってきた。しかし、現在の世界は、こうした方向で技術を進めていくと、人類にとって取り返しのつかない事態を招きかねない状況にある。その中にあって、技術者は、目の前の障害だけを解決しようとするだけでは、もはや許されない。「技術者の大罪」を自覚しながら、「ものごとの本質を見つめる」姿勢が要求されているのである。


(1997.3.14執筆)

©Nobuo YOSHIDA