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  日本でも、紙の書籍に代わる電子図書が普及し始めている。紙には、長期にわたる保存性に優れるといった固有の長所があるので、完全に廃れるとは思わないが、量的には、近いうちに電子図書が圧倒するようになるだろう。こうした変化に期待する点も少なくない。紙の書籍の場合、採算性を考慮して、ある程度以上のボリュームがなければ出版されない。しかし、電子書籍ならば、短編やエッセイを1編だけ売買することも可能になる。CDがmp3による音楽配信に取って代わられた最大の要因は、好きな曲を聴きたいときに聴けることだが、書籍の世界でも、同じようなニーズがあるはずだ。執筆する側も、例えば、「TPPに関する30ページの解説」を書き下ろして単品で販売することにより、読者の要求に応えようとするだろう。
 さらに、ダウンロード可能な電子書籍が充分に増えると、独自のアンソロジーが編まれるようになる。これまで、アンソロジーといえば、売れ行きを予測し、著作権者の同意を取り付けながら、ある程度の作品数をまとめる必要があった。しかし、電子アンソロジーならば、そうした配慮はいらない。分量や売れ行きを考えず、好きな本をリストアップするだけでよい。後は、読みたい人が署名をクリックしてダウンロードするだけである。さまざまな選者が古今東西の本を自由に選んだアンソロジーは、充分に楽しめそうである。アンソロジー全体をまとめ買いすれば割引になるとか、すでに購入した本が含まれる場合はその分が値引きされるといった方式を採用すると、アンソロジー好きの読者には好都合である。電子書籍は、読書の楽しみを広げるものとなるだろう。(1月16日)

  最近では、「原住民」という語が差別的だとして使われなくなってきたようだが、おかしなことである。確かに、この語を使うときに侮蔑的なニュアンスを込める人は少なくない。しかし、それは心情の問題であって、語自体に侮蔑的な意味はないはずである。「原住民」が差別だというならば、「原生林」は木に対して失礼なのだろうか。
 「原住民」とは、“native” の訳語として民族学で使われるものだが、以前、 “native” の意味で使われていたのは「土人」だった。この語は、「その地に定住する」という意味で、何ら差別的ではない。しかし、少年雑誌などで、南洋で漂着した主人公らを襲う裸の食人族をことさら「土人」と呼称したせいもあり、「土人=野蛮人」という差別的な意味で用いられることが多くなった。"Japanese" を "Jap" 、「朝鮮人」を「鮮人」と呼ぶ場合のように、呼称を短くするとニュアンスが変化して蔑称(時には愛称)になるので、短い表現である「土人」を差別用語だと感じる人が少なくないのは、仕方ないだろう。これに対して、「原住民」は、「その地域に」に、「もともと」という意味の接頭語「原」を付けた学術用語なので、全く問題はない。「原住民」の代わりに「先住民」を使いたがる人もいるが、これは単なる言い換えにすぎず、10年もすると「先住民」は差別用語だと問題になりそうなので、あえて言い換えるべきではないだろう。(1月23日)

  アリストテレスは、しばしば哲学的ドグマの主導者として批判的に語られる。しかし、これは、大いなる誤解に基づく偏見である。アリストテレスの思想をドグマの塊にしたのは、主にヨーロッパ中世の思想家である。彼らは、イスラム圏から流出した非イスラム的思想を歓迎するあまり、偽アリストテレス文書をそのまま受け容れたため、アリストテレスの名の下に論理性に欠ける主張が混在する結果となった。これでは、ルネサンス期以降のヨーロッパの思想家がアリストテレスを敵視したのも当然である。本来のアリストテレス思想は、明確なロジックに支えられた強固な体系をなしている。近代科学の方法論とは異なり、「いかに」よりも「なぜ」という発想に基づいてあらゆる現象を説明しようとする姿勢は、たとえ科学的に誤った主張であっても、一貫性がありブレがない。何よりも、思想が体系化されているため、論点がはっきりしており、これを乗り越えようとする試みを刺激する機能がある。例えば、彼の「場所の理論」を考えてみよう。アリストテレスは、デモクリトス流の原子論とは正反対の立場に立っており、真空中を原子が運動するという発想をひどく嫌っていた。彼によれば、世界は現象を引き起こす場所である。彼に宇宙は有限だが、それは、場所の有限性を意味しており、恒星天の外側には場所が存在しない。この考え方は、現代的な場の理論に近い。近代の科学者は、原子論を擁護しようとして、空気の存在しない領域を作り出し、これを真空と呼んで場の理論を否定しようとした。ところが、この反証は、場所の理論にとって致命的ではない。たとえ空気の存在しない領域があったとしても、そこに光が射し込める以上、現象の生起する場所であることは否定できないからである。アリストテレスの場所は、「エーテル」を経て「場」と名称を変えて、現代に受け継がれている。ただし、近代科学者の努力が無駄だったわけではない。彼らは、物質を構成する原子を場所と峻別する体系に基づく記述を編み出したのであり、アリストテレスの議論を批判的に発展させたと見なすことができる。こうした批判的発展が可能になったのは、アリストテレスの思想がはっきりした体系を有していたからである。この点をきちんと認識しなければ、哲学が学問の基礎として有用であることがわからなくなってしまう。(1月30日)

  日本食の特徴は、主食である白米にほとんど味付けをせず、少量の副食を“おかず”として食べることにある。白米は、主成分である炭水化物の他に、穀類としては例外的と言えるほど多くのタンパク質やビタミンを含んでいるため、白米を中心とし、これを補う程度の副食(タンパク質を多く含有するミソや豆腐、ビタミンと食物繊維の豊富な漬け物や海草、動物性タンパク質とミネラルを含む小魚など)で充分である。この栄養バランスが、そのまま味付けにも反映している。忙しいときや金銭が不足するときは、つい白米だけの食事にしたくなるが、味付けされていないので、白米ばかり食べ続けるのはつらい。一方、副食となる“おかず”は、白米に備わっている甘みと調和をとるため、かなり塩辛く味付けされていることが多い(冷蔵庫のない時代に保存性を高める目的もある)。このため、どれか一つの副食ばかり食べるとすぐに飽きてしまう。その結果、各種の副食をバランスよく食べながら、メインの白米を多量に摂取するという食習慣が自然に身に付く。実に合理的な味付けだといえる。(2月8日)

  昼間は眠り夜になって出歩く猫は少なくないが、これは、猫がもともと夜行性だからである。猫に限らず、夜行性の哺乳類は多い。なぜ明るく暖かい昼間でなく、夜になって活動するのか? その原因は、1億年ほど前に遡る。哺乳類が登場した頃、地上の主役は恐竜だった。海から空に至るまで、大小さまざまの恐竜たちが我が世の春を謳歌し、哺乳類は、そのはざまで草をはんだり虫を食べたりしながら細々と生きていた。すばしこい種の中には恐竜の卵を盗むものもいたが、大多数の哺乳類にとって、恐竜は恐るべき強大な敵だった。恐竜たちは昼間活動していたので、それを避けるために、哺乳類は自然と夜間に出歩くようになる。光量が少なく眼があまり役に立たないので、視覚は恐竜ほど進化せず、代わりに、暗闇でも有用な嗅覚が発達した。6500万年前に恐竜の大部分は滅びた後も、身体に染みついた夜行性という習性は簡単には失われず、多くの哺乳類は夜間に活動する。一方、絶滅を免れた恐竜の一部は鳥に進化するが、こちらも恐竜時代の習性を受け継いで、昼行性となった。鳥は視力は良い(哺乳類の大部分が2原色なのに対して鳥は4原色)が嗅覚はさほどでもなく、恐竜の名残を感じさせる。しかし、捕食関係では立場が逆転し、鳥は哺乳類に追われる身となった。歴史の皮肉と言うべきか。(2月12日)

  最近のニュースで思わずほほえんだのが、ペットショップの夜間営業を廃止すべきかどうかというトピック。繁華街には夜9時過ぎまで開いている店舗があり、犬や猫の虐待になるのではとの街の声が紹介された。はて?猫は夜行性のはずだが。そこで気がついたのだが、飼い猫の多くは、当たり前のように昼間に活動している。子供の頃の記憶では、飼い猫も昼間はほとんど昼寝しており、夜になってから出歩いていたような。どうも、飼い主のライフスタイルに合わせて、昼に活動するようにしつけられたらしい。人間でも、生活時間が乱れて、昼に眠り日が暮れてから活動し始める夜型人間がいるが、猫の場合も、子猫の頃から習慣づければ昼型猫に変わるという。しかし、これは猫に対する虐待になるのでは?(2月16日)

  由紀さおりが昨年秋に発表したアルバム「1969」が、世界的にヒットしているという。配信を行っている iTunes ジャズ部門では全米1位を獲得、ニューヨークでのコンサートも満席で、カナダやヨーロッパでもヒット中だ。これまでアメリカ進出を目指した歌手は少なくないが、ドリカムや矢沢栄吉ら実力派も、ピンクレディ、松田聖子などのイロモノもあえなく撃沈した。坂本九の「スキヤキ」以降、アニメソング以外でアメリカ人の心を捉えた日本音楽はなかった。ところが、ここにきて、ジャズバンドのピンク・マルティーニがコラボしているとはいえ、ベタベタの歌謡曲である由紀さおりの歌が売れるとは。彼女はもともと歌唱力のある実力は歌手としてデビューしたが、間もなく「歌が下手でかわいい」アイドルが売れる時代となり、不運をかこつことになる。紅白には出場し続けるものの、童謡を歌わされるばかりで、なかなか実力が発揮できなかった。その彼女を、こともあろうにアメリカのジャズマンが“発見”するとは。想像するに、彼女の表情豊かな歌声が、ホイットニー・ヒューストンのような熱唱タイプとも、レディ・ガガのようなテクノ風とも異なっており、新鮮な驚きを与えたのだろう。だとすれば、かつての美空ひばりや雪村いずみの歌謡曲も外国人の心を捉えられるかもしれない。(2月23日)

  18〜19世紀の音楽家に夭逝した人が多いことは、実に痛ましい。モーツァルト(35歳)、シューベルト(31歳)、メンデルスゾーン(38歳)、シューマン(46歳)、ショパン(39歳)など。なぜ、これほど若死なのか。19世紀半ばの平均寿命は40歳代なので、必ずしも若死ではないとの見方もあるが、平均寿命が短いのは乳幼児の死亡率が高いためであり、壮年期の死者がこれほど目立つのは、やはり異例である。一つの解釈として、産業革命以降の交通の発達に伴って、風土病が拡散した影響が考えられる。閉鎖的な地域には、しばしば風土病の病原体が住み着いている。地元民は免疫を持っているためにさほど深刻な症状にはならないが、外部の人が感染すると、重症化して死に至ることも稀ではない。通常の生活をしている限り、感染の危険性は必ずしも高くない。ところが、現在ではクラシックの大家とされる上記の音楽家も、当時は流行のさなかにある人気者であり、演奏旅行に繰り出すこともあった。父親に連れられてヨーロッパ中を転々としたモーツァルトは、その初期の例である。そこまでいかなくても、各地からやってくる同好の士と親しくつきあうことも多い。自由を謳歌しすぎて、梅毒に罹患することもあった。その結果、さまざまな感染症の苦しめられ、長生きできない音楽家が少なくなかったのだろう(リストのように、たいへんな人気者でありながら長生きした人もいるが)。もっとも、こうした病苦が作品に深みを増すきっかけにもなったので、後世の我々にとってはありがたくもあるが。(2月28日)

  IBMが制作したマシン・ワトソンが、クイズ番組『ジョパディ!』に出場し、人間のチャンピオンを破ったというニュースは、ITに興味を持つ人にとって、きわめて刺激的だった。チェスや将棋では、すでに名人クラスのマシンが存在するが、『ジョパディ!』は構文解析を必要とする高度に知的なクイズで、網羅的な探索が通用するボードゲームとは訳が違う。このニュースを耳にしたとき、ワトソンがどのようなアルゴリズムを備えているか、ちょっと見当がつかなかった。最近になって、一般人向けの解説書(『IBM 奇跡の“ワトソン”プロジェクト』(スティーヴン・ベイカー著、早川書房))を読み、ようやく仕掛けが見えてきた。『ジョパディ!』は、「〜は何ですか?」という問いが解答になるような形式のクイズである。この問いに対する答えがヒントとして提出され、「〜」を当てるというもの。このクイズに答えるための完全なマシンを作ろうとすると、膨大な知識データベースを構築しなければならず、制限時間内に探索を終えるのも難しい。そこで、開発チームは、ヒントをもとに探索ワードの連言を作り、これをウィキペディアなどのネット上の文書から探索するという方式を採用した。厳密な構文解析を行っているわけではないので、しばしば、全く的はずれの解答をする。そのハズレっぷりは、かつての人工無脳(懐かしい!)を彷彿とする。例えば、「チリとの国境線が最も長い」というヒントに対して、自信たっぷりに(高い自信度を付与して)、正解のアルゼンチンではなく「ボリビア」と答えている。これは、国境線の長さについてではなく、「チリ・国境・長い」という組み合わせで検索を掛け、最も頻繁に国境紛争を起こしてきたボリビアがヒットしたためだと推測される。自信度は、ウィキペデイアなどに登場する回数を元に評価するようだ。ネットには誤ったデータが多いせいか、ヒントと矛盾するデータがあっても、自信度を下げるだけで排除はしない。「最大の空港が大戦の英雄の名前である合衆国の都市」を答えなければならないのに、「オタワ」と解答して司会者にからかわれたりする。ワトソンの無脳ぶりを見ると、逆に人間のすごさがわかってくる(クイズでは負けたが)(3月10日)

  iPADの発売以降、タブレット端末の売れ行きが好調のようだ。しかし、カタログを見る限り、あまり魅力的な製品とは思われない。携帯性と機能性のどちらかに絞り込めず、スマートフォンより機能的でノートパソコンより携帯に便利だが、両方とも最高水準にあるとは言えない中途半端な状態である。私の提案は、モバイルパーツと情報収集パーツを分離することで、前者の携帯性を最高度に高めるという方法である。タブレット端末は、視覚情報を表示する手段として有用ではあるが、表示すべき情報はユーザによって異なっている。そこで、ネットに常時接続している情報収集パーツを用意し、はじめにユーザが行う設定によって情報の収集・選択を行わせる。このパーツは充電器もかねており、モバイルパーツを載せると、ユーザが必要とする情報を選択して転送し、閲読を可能にする。モバイルパーツは、大きさも重さも文庫本と同程度で、片手で操作できるものにする。ネット接続やレンダリングの機能が不要なので、現在の技術でもそこまで小型化できるだろう。2つ折りにしてジャケットのポケットに入れられれば、申し分ない。情報収集パーツを固定タイプにする方式では、モバイルパーツで最新の情報を閲読することはできないが、希望するユーザには、携帯型の情報収集パーツを別売すればよい。重さが5〜600グラムで、カバンに入る大きさにする。モバイルパーツは、電子新聞・電子書籍や、あらかじめ指定したウェブページの閲読のために用いるのが効率的だが、収集する情報の設定によっては、メールを読んだり株式や為替の動きを見ることもできるようにしておけば、充分なニーズがあるはずだ。(3月17日)

  日本のストーリー漫画は、数十年に及ぶ歴史の中で数多くの魅力的なキャラクタを生み出してきた。しかし、個々のキャラクタのルーツは、必ずしもはっきりしない。ちょっとした思いつきがさまざまな作家によって練り上げられ、いつのまにか、スタンダードな類型となっている。例えば、ファンタジーものの定番キャラになっている猫耳娘。猫の顔を持つ化け猫の歴史は古く、おそらく平安時代から語り継がれ、江戸時代には浮世絵などにも描かれていた。しかし、あくまで妖怪の一種として扱われており、戦後まもなく水木しげるが描いた猫娘も、ふだんは美少女だが猫に変身すると醜悪な姿となった。化け猫が猫耳(およびヒゲや猫の手)を持つ美少女として描かれるようになるのは、80年代のRPG(特にエロゲー)からである。この化け猫系の猫娘と、大島弓子が描くちび猫の夢想としての猫耳少女が合体して、現在の「耳だけ猫であとはフツーの少女」という特異な猫耳娘になったのだろう。ルーツが気になるキャラクタは、他にもいくつかある。白髪紅眼(おそらく萩尾望都のレッド星がルーツだが、ウサギやマウスの可憐なイメージは以前から知られているので、もっと遡るかもしれない)、ヘテロクロミア(私が知る最も古い作例は『銀河英雄伝説』のロイエンタール)、胸から剣を取り出されるキャラ(『少女革命ウテナ』以前の作例があるかどうか知りたいところ)など。(3月22日)

  東日本大震災の際には、自衛隊が災害救助の任務を見事に果たし、被災者からも感謝の言葉が聞かれた。ここで興味深いのは、市民が隊員の迷彩服を見て、「ああ助かった」と安堵の念を覚えたと証言した点である。常識的に考えると、自衛隊の制服は災害救助向きではない。迷彩服では動きが目立たず、2次被害を防ぐにも不向きである。レスキュー隊のオレンジ色の制服の方が有効だ。コンバットブーツも、瓦礫の中では歩きにくい。ところが、救助される側から見ると、目立たない迷彩服の方が安心できるらしい。おそらくこれは、迷彩服の非日常性によるのだろう。オレンジ色の制服は、救難訓練などの際に実際に目にした人も多かったろう。しかし、迷彩服の隊員を見掛けることは、まずない。戦争映画など現実とは別の世界の話のように感じられる。この非日常性が、津波の圧倒的な力を前にして茫然自失していた被災者の心に、プラスに作用したのではないか。日常生活において、迷彩服は非現実的だが、日常が破壊された現実の中では、その現実を否定するものとして迷彩服が立ち現れる。そう考えると、自衛隊には確かに、レスキュー隊とは別の存在意義がありそうだ。(3月25日)

  部屋を片づける際には、「まず小さなものから」というのが鉄則だ。着手する前に、何をどこにしまうかを構想し、小物をどのようにまとめていくか、しっかりと考える。ここが勝負の分かれ目であり、杜撰にすると、後で苦労させられる。構想が固まったら、とにかく目のつく小物を片端から決めたとおりの場所にしまっていく。これはもう、手に触れるままにするべきであって、「これはこっちにまとめようか」などと考えていたのでは、構想が崩れ片づけが終わらなくなる。小物だけを片づけても、部屋が見違えるほどきれいになることはないが、それでかまわない。時折手を休めながら、気長に片づけていく。大物から着手すると、いつまで経っても小物が散らかったままですっきりしないし、大移動した後で「やっぱりこっちに置いた方が」となってしまう。だが、小物から片づけていくと、途中で最終的な構図が自然と浮かび上がってくる。それとともに、あれとあれを動かせば片づけは完了するという目標が明確になる。肉体的疲労はたまっていくが、精神的な高揚感が増し、ラストは浮き浮きと片づけることができる。これこそが、部屋を片づける極意である。(4月12日)

  これからの日本を考える上で、特に重要なのが農林水産業の活性化である。何をバカなと思ってはいけない。農林水産業はきわめて生産性が高く、先進国においても、経済の屋台骨となる産業である。アメリカ・フランスの農業、スウェーデンの林業、デンマークの畜産業、ノルウェーの漁業などからもわかるように、1人あたりGDPの高い豊かな国で、農林水産業は、政策的な保護を受けながらも決して国家経済のお荷物にならず、経済の繁栄に大きく寄与している。ところが、なぜか日本では、欧米で当たり前のこうした事実が黙殺されてしまう。「日本には自然資源が少ない」などという愚かしい発言に耳を貸すべきではない。海の豊かさは世界有数である。地中海とは比べものにならないほどの水産資源に恵まれた日本海やオホーツク海が目の前にあるのだから。さらに、東アジア特有の豊穣な土壌は国の宝であり、水資源にも恵まれている。日本の農業が瀕死の状態であるのは、コメに偏った保護政策を続けた結果、コメさえ作っていれば収入が確保できるようになり、市場原理に基づく生産現場の改善が停滞したからである。
 現在、農業は、きわめて“伸びしろ”の大きい産業である。伝統的な農業は、農民の経験と勘を頼りにしすぎた。農協によって知識の組織化がある程度まで進められたが、最先端技術を使いこなすところまでは行っていない。豊かな土壌・水の資源とハイテクを組み合わせれば、生産性は大幅に向上するはずである。具体的には、気象や病害虫に関するデータベースの利用、温度やpHなどのセンサに基づく環境管理、ドリップ灌漑の導入、市場予測を利用した生産調整などが考えられる。(4月18日)

  文学の分野では、19世紀から20世紀初頭に掛けて、リアリズムが流行した。ここでは、あえて“流行”と言いたい。当時の批評家の中には、リアリズムこそ進歩の到達点であり、文学の成熟を表すと考える人もいた。しかし、その後の変遷を見ると、リアリズムが一時的な流行にすぎなかったことがはっきりする。19世紀後半には、ゾラやモーパッサンのようなリアリズム作家がもてはやされたが、20世紀文学の主流は、カフカ、フォークナー、ボルヘス、ナボコフら、アンチリアリズムの作家である。
 それでは、一時期とはいえ、なぜリアリズムが流行したのか? 私は、産業主義の勃興と関係していると考える。産業が急激に発展する過程で、才気と行動力のある人物が時流をつかみ、社会の変転を左右するキーマンとなる。こうした人物は、それまでなかった独特の個性を持ち、社会との相克の中で自己の存在をアピールする。それは、文学の題材としてきわめて面白いものであり、小説家の創作意欲をくすぐる。なまじ神話的な仮構を創作するよりも、社会における現実を切り取った方が、結果的に高い芸術的達成を得られる。こうして、この時代にリアリズムが流行したのである。ただし、産業主義体制の安定化とアンチリアリズムの台頭が結びつくかどうかは、もう少し検討しなければならない。(4月28日)

  科学における最も重要な内容は、論文に記される。しかし、科学者は往々にして、論文に書かれた内容以上のことを思索している。科学の歴史を跡づける際に、論文に記されなかったことをどこまで評価すべきかは、なかなかに難しい。
 近年、脳神経科学の分野で、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が話題になっているが、その主導者であるニコレリスは、自分の研究を通じて得られた新しい神経科学の原理として、非同期収斂・分散コーディング・マルチタスキングなどをあげている(『選択する脳』)。これらは、古典的な単一ニューロンコーディングに対するアンチテーゼとされる。ところが、こうした“新しい”原理の多くは、半世紀以上も前から陰に陽に語られていたことである。記憶が分散コーディングされていることは、20世紀前半に知られていたし、脳内で形成される準安定状態が動的パターンである以上、コーディングが時間的拡がりを持っていることも、また当然である。さまざまな経路を通して興奮パターンの連鎖が生じることから、マルチタスキングの可能性が高いこともわかっていた。だが、これらのアイデアは、脳の外科手術や脳波計を通じて得られた定性的ななデータに推測を交えて作られたものであり、論文を書けるほど確固たる内容ではなかった。論文になるのは、単一ニューロンの興奮に関するものが中心であり、そのために、神経科学の分野では、単一ニューロン説がドグマであるかのように見られていた。近年におけるBMIの急激な発展は、センサとPCの進歩に伴うものだが、新しいテクノロジーによって脳に対する見方が根本からひっくり返ったとは言い難い。むしろ、これまでアイデアを弄ぶだけで論文にできなかった内容が、論文向きの定量的なデータの裏付けを得たという方が真実に近いだろう。(5月9日)

  LHCのOPERAグループが報告した「ニュートリノが超光速で運動する」という実験結果は、おおかたの理論家の予想通り、実験ミスであることが判明した。大山鳴動してネズミも現れず−−といったところだが、今回の経緯は、科学研究の健全さを示すものであり、それなりに評価できる。科学が信頼できる学問であるのは、権威ある大先生が学説を説いているからではなく、常に衆知を集めて妥当性を検討している結果である。従来の見解と異なる内容であっても、まず発表した上で議論を重ねることは、科学の信頼性を保つ上で必要な作業である。実験ミスを犯したとはいえ、興味深いデータを発表したOPERAグループが批判されるいわれはない(ただし、ミスが生じたのが、GPSシステムの配線不良のせいだとは、ややお粗末という印象を拭いがたい)。複雑な技術システムの場合、まず結果が分かっている実験を行って、装置が正しく作動することを確認しなければならない。ところが、今回は、「結果が分かっている実験」のはずなのにどうしてもうまくいかないことから、物理学の原理が間違っている可能性を追求したのだろう。もう少し機器の点検を行うべきだったとの見方もあるが、所期の結果を得るために機器の調整を行いすぎて、かえって大発見を見逃してしまうこともあるので、この程度の実験ミスは容認しても良いのではなかろうか。(6月7日)

  日経サイエンスの最新号に、人がパニックに陥るメカニズムが解説されていた。それによると、パニックとは前頭前野の機能不全だという。前頭前野は、人間が合理的な行動方針を決定する上で枢要な役割を果たしているが、柔軟な思考を可能にするために、神経伝達の効率は可変性が高い。強いストレスを受けると、扁桃体の指令でノルアドレナリンとドーパミンが大量に分泌され線条体の活動が強化される一方で、前頭前野では、シナプスでの伝達が抑制される。このため、合理的な思考が困難になり、いわゆる「頭が真っ白」な状態になってしまう。それでは、なぜこうした機能不全を引き起こすメカニズムが人間に備わっているのか? 想像するに、虫が死んだ振りをするのと同じ理由なのだろう。どのような行動をとっても助かる可能性がきわめて低い状況では、しばしば何もしないことが最良の選択となる。例えば、多くの捕食者は動く獲物に対して襲いかかる習性を持っているので、捕食者と出くわしたときは、徒に動き回るよりも頭を真っ白にしてジッとしている方が助かる確率が高くなる。この性質が人間にも残っており、人々をパニックに陥らせるのだ。(6月24日)

  『探偵ナイトスクープ』という番組は、ときどきハッとするほど優れた企画を見せてくれる。先日は、番組でおなじみのシェフを起用したイタズラを放送したが、外見がプリンそっくりの卵豆腐を作り、プリンと偽って食べさせ感想を求めると、決まって「不味い」と答えていた。実は、出汁を利かせた最高級の料理で、卵豆腐と知って食べると、誰もが美味しいと答えるのだが、プリンと信じて食べたときには、生理的に不味く感じているような身体反応を示す。さて、ここで問題。「美味しい/不味い」は1次的な感覚のように思えるが、そうではないのだろうか。
 味覚は、甘い/塩辛い/苦いなどの1次的な要素の組み合わせに基づいて引き起こされた連鎖の全体である。芸術による感動が、作品によってもたらされる複雑な環境の連鎖全体で形作られるのと同じように、「美味しい/不味い」という判断は、味の知覚を契機とする連鎖−−生理学的には中枢神経系の興奮パターンであり、心理学的には種種の観念連合となる−−に依存している。したがって、プリンに見える卵豆腐を食べたときの感覚は、プリンを食べるとどうなるかという予測によって形成される準備電位の影響を受けることになり、予測と反する場合には、最高級の卵豆腐であっても不味いと感じてしまう。(7月15日)

  若い頃にあればどんなに良かったろうと思えるものが、IT機器以外で3つある。ドリエル、QBハウス、毛玉取り。(7月16日)

  日経サイエンスの海外ウォッチに、「たいていの男性は人差し指が薬指よりも短いが、ほとんどの女性はその逆だ」と書かれていたので、自分の手をまじまじと見つめたところ、どう見ても人差し指の方が長い。もっとも、手の向きによって多少の変化があり、甲の側から見ると差は小さく、小指の方に傾けるとほとんど同じ長さになる。しかし、普通に掌の側から見れば、人差し指が薬指を1センチ近く上回っている。記事によると、アンドロゲンが長い薬指を生じさせるようだとあるが、私は男性ホルモンが不足しているのだろうか? 興味深いことに、指の長短と人間の能力に相関があることが報告されている。例えば、男性的な(薬指の長い)少女は、道に迷いにくいという。そういえば、私は、地図を読むのが得意であるにもかかわらず、実際に街に出向くと、かなりの頻度で道に迷う。これも、短い薬指のなせる業か?(8月1日)

  諸外国と比べて、日本の映画音楽は、かなりの高水準にあると思われる。近年では、久石譲や坂本龍一が優れた作品を生みだしているが、すでに半世紀以上前から、和製映画音楽は世界のトップクラスだった。
 音楽批評家の間には、映画音楽を芸術作品として積極的に評価することを忌避する傾向が見られる。欧米では、コンサートピースや宗教音楽だけでなく、オペラやバレーなどの劇場用音楽も、映画やTVの随伴音楽より格上と見なされるようだ。この傾向は、アメリカにおいて特に著しく、ハリウッド専属の映画音楽作曲家は、芸術家ではなく制作スタッフの一員として扱われる(アメリカにも、フィリップ・グラスらによる優れた作品があるが)。映画音楽は、映画の商業的成功に寄与する一要素にすぎない、画面に依存して作られており創作性に乏しい、録音・再生を前提している−−などの特徴があり、これらが評価を下げる原因となっている。
 実際、20世紀以降の代表的な作曲家は、あまり映画音楽を作っていない。バルトークやストラヴィンスキーの作品リストに映画音楽は見あたらないし、シェーンベルクやヒンデミットも実験的な作品をわずかに残しただけである。例外は、プロコフィエフとショスタコーヴィチだが、これは、映画が国家事業として制作されていたソビエトの特殊事情によるもので、渡米後のプロコフィエフは映画音楽を作らなかったようだ。フランス6人組の場合、プーランク以外はかなりの数の作品を残したが、それほど積極的だったようには見えず、オネゲルはエッセイの中で映画音楽の価値について否定的に語っている(オーリックだけは映画音楽の大家と言えるほどのめり込んだが、彼が20世紀の代表的な作曲家と言えるかどうか)。
 欧米の状況とは異なり、日本では、武満徹をはじめとする多くのクラシック音楽の作曲家が、好んで映画音楽を手がけている。特に、武満は、映画音楽をコンサートピースと並ぶ重要なジャンルとして位置づけており、ときにはシナリオ作りの段階から積極的にかかわっていた。黛敏郎、芥川也寸志、伊福部昭、松村禎三、林光らも、映画音楽が業績の重要な部分を占めている。コンサートピースで名を知られる著名な作曲家が映画音楽に手を染めた結果、日本の音楽家・音楽ファンの間では、(少なくともアメリカにおけるほど)映画音楽を軽視する傾向は見られない。こうした事情が、日本の映画音楽の水準を高めたのだろう。(8月11日)

  企業を発展させるには、その前段階として、人材を育成することが肝要である。即戦力を求めるのは、自分の会社がオリジナリティのない二番手企業であると明かすようなもの。有能なやり手よりも、有望な若手を入社させ育てていくことが、企業の成長につながる。安定した業界では、仕事は全般にルーティンワークになりがちだが、企業の成長を作用する重要な業務では、常に独自性が要求されるはずである。例として、不動産業を考えてみよう。土地売買の事務続きや関連法令に詳しいことは、確かに業務に役立つ資質だろうが、それ以上に重きを置かねばならないのが、ミクロ的な経済動向に関する洞察である。人々がどのような店や住居を望んでいるか、好調な店舗はどこにあり、犯罪の発生分布はどうなっているか。そういった具体的な要素が、外見的には良く似た不動産物件の売れ行きに違いをもたらす。はじめから不動産業務にも地域の状況にも詳しい人がいるとは考えにくいので、両方をバランスよく身につけた人材をじっくりと育成しなければならない。その間はなかなか成果が上がらないが、上司は、研修期間だと割り切るだけの見識を持たなければならない。(9月6日)

  近年、フェルメールの作品が日本で次々と公開されているが、これらの美術展に足を運んでいつも不思議だったのは、なぜか実物が写真と違うもののように見える点である。人気画家だけに、美術展の目玉としてポスターやチラシに印刷され、特集番組が放映されることも少なくない。こうした複製写真を何度も目にし、作品のあらましは頭に入れたつもりでいるのに、いざ絵筆が直接置かれた作品を見ると、全く異質のものを目にしたかのような新鮮な驚きを覚える。その理由が長い間わからず、私にとってフェルメールは謎の画家だったのだが、最近になって、どうも距離感と関係するような気がしてきた。宮殿に飾られ、1メートル以上離れて鑑賞することを前提としたベラスケスの作品とは異なり、アッパーミドルクラスとはいえ、王侯貴族の館に比べれば質素な居間や食堂に掛けられるフェルメールの絵は、数十センチ以下まで近寄ってまじまじと見られる可能性もあった。そうした点を意識して描いた結果だろう、驚異的な描写力や細部にぼかしを加えた遠近感の表出は共通するものの、ベラスケスとフェルメールの作品は、近づいたときに生じる見え方の変化が対照的である。ベラスケスの作品に1メートル以下まで近づくと、細密に描かれていると感じられた衣服や調度品の色と形が具象性を喪失し、まるで抽象画のような荒々しいタッチの模様に分解されていく。これに対して、フェルメールの作品は、近づくことによって新たなドラマが展開される。特に重要なのが、人物の視線である。フェルメール作品の登場人物がどこを見ているのか、1メートル以上の距離からでは瞳の境界が曖昧ではっきりわからない。ところが、近づいて見ると、明確な意志に支えられた視線が判然としてくる。ぼんやりと宙に目を向けていると思えた女性が、実はある男性をしっかり見つめていることがわかる場合もある。距離の変化によるドラマの展開が、フェルメールを見る際に大きな喜びを与えてくれるのだ。ところが、写真では、作品までの距離がわからず、このドラマが充分に感じ取れない。写真と実物の印象が大きく異なるのは、そのためだと思われる。(9月11日)

  ヨーロッパ人から見ると、日本人の子供好きは、少々度を超していると感じられるようだ。彼我の違いを示す最もわかりやすい例が、子供に着飾らせる行事の有無である。日本では、七五三に代表されるように、子供に華やかな衣装を着せる行事が多い。桃の節句や端午の節句にも、子供に可愛い着物をあつらえる。祭事として稚児行列を行う地域もある。だが、欧米にこうした風習はあまり見られない。子供が参加する祭りと言えば、ハロウィンのように子供たちが好き勝手に振舞うものばかりだ。誕生日のパーティでは、プレゼントを贈ることはあっても、子供に派手な衣装を着せて親が喜ぶという習俗は見られない。アメリカ駐在員の妻が、小学校の入学式だと言うので子供にスーツを着せて送り出したところ、自分以外はみんな普段着だったとしょんぼり帰ってきたそうだ。少女を着飾らせて写真に撮ったルイス・キャロルは、変態扱いされた。文化の違いとはいえ、日本人から見ると、子供に冷淡なヨーロッパ人の方が異常に思える。(9月16日)

  PCゲームでマウスを連打しすぎて、五十肩になった(やれやれ)。そこで、転んでもただは起きないと、この疾患のメカニズムを考えることにした。
 五十肩は、腱の断裂や筋繊維の損傷のような傷害に起因するのではなく、無理な姿勢で特定の動作を繰り返したときに突然発症する病気である。はじめに強い痛みがあり、その後、腕の可動範囲が大幅に制限され、長いリハビリが必要となる。発症の原因は必ずしも明らかではないが、私は、免疫システムの暴走による自己免疫疾患の一種ではないかと思っている。まず、無理な動作の繰り返しなどで引き起こされる特定神経の連続的な興奮がきっかけとなって、肩に傷害が生じたという誤った認知が形成され、これを治癒するための免疫反応が発動、患部に炎症が生じる。これが、強い痛みの原因となる。細胞が実際に損傷している場合には、壊れた細胞片をマクロファージが食べ尽くし、空隙を埋めるように新しい組織が増殖する。ところが、五十肩のケースでは、重大な傷害がないにもかかわらず免疫反応が始まったため、増殖因子が過剰に分泌されることで正常な組織の周囲に新たな組織が余分に作られ、不自然な癒着を引き起こす。炎症による痛みが続いている間は、どうしても安静にせざるを得ないが、そうこうしているうちに癒着が進んでしまう。こうなると、腕の拘縮がひどくなり、肩の高さまで腕を上げることすらできない。場合によっては、この状態が1年以上も続くという。
 五十肩の治療にはさまざまな民間療法が提唱されているが、発症のメカニズムを考えると、炎症が治まった時点から腕を少しずつ動かすリハビリを始めるのが良さそうだ。とは言っても、無理に動かすと筋肉を損傷する危険があるので、長期戦覚悟で治療を続けなければならない。(9月27日)

  日本では、店に生け簀を設置し取れたての魚を供する鮮魚店もあるが、実は、たいがいの肉は、新鮮ではない方が美味しい。これは、旨味の成分がアミノ酸であることに起因する。タンパク質という巨大分子のままではほとんど味がなく、酵素で分解されてはじめて旨味となるのだ。動物の場合、死後に酵素による自己分解を起こすので、時間が経った方がアミノ酸が増えて美味しくなる。食肉業者も、こうした事情をきちんと認識しており、牛肉では、屠殺後に何日かおいて“熟成”されたものを出荷する。たまに知ったかぶりが「腐りかけが美味しい」と言ったりするが、熟成は腐敗とは全く異なるプロセスである。酵素を適切なタイミングで添加することによって、新鮮でありながら人工的に熟成させた肉を作れないかと思うのだが、技術的に難しいようだ。(9月30日)

  サッカーの実況中継で、ラフプレーに倒れ苦痛を表に現す選手がいると、アナウンサーが「××が痛んでいます」と伝える。まるで、八百屋の店先に積まれた一山百円のモモが傷んでいるようで、日本語としておかしい。だが、「痛がっています」「痛そうにしています」ではマリーシアの演技と受け取られそうだ。「負傷したようです」では、事実誤認とされかねない。「苦しんでいます」は大仰すぎる。おそらく、正しい日本語は、「悶えています」だろう。だが、試合の最中、「××がグラウンドで悶えています」とは、何ともなまめかしい。(10月14日)

  最近、急速に広まった用語法の一つに、一般的な形容詞の語幹を感嘆詞として発話するというものがある。身体的な感覚を表す形容詞ならば、「痛っ!」「熱っ!」のように昔から使われていた。しかし、昨今は、「高っ!」「古っ!」のように、抽象的な形容詞でも感嘆詞化される。こうした用語法は、日常的な会話において語彙を拡大する機能があるので、言語のプラグマティクスを豊かにする好ましいやり方だと考える。おそらく、形容詞の感嘆詞化が普及した影響だろう、長い形容詞を、語幹が2字程度になるように圧縮する傾向も見られる。「気持ち悪い→きもい(きもっ!)」が有名だが、私は「むずい」が好きだ。物理の論文を前にして、つい「むずっ!」と言ってしまう。(10月17日)

  高齢者の気に障る若者表現としてしばしば挙げられるが、「鳥肌が立つほど感動した」である。「鳥肌が立つ」とは恐怖を表す言い回しであり、感動には当てはまらない−−というのが反感の理由だが、はて、実際に当てはまらないのだろうか? 私自身、映画やスポーツの感動的な場面で、腕に鳥肌が立ったことが何度もある。「鳥肌が立つほど感動」というのは、実態に即した素直な表現であり、おかしな点はどこにもないように思われる。それでは、昔の人は感動しても鳥肌が立たなかったのだろうか。記憶が曖昧で断定はできないが、子供の頃は、どんなに感動しても鳥肌は立たなかったような気がする。興奮はしたし、ハラハラするあまり手が冷たくなったこともあるが、鳥肌が立ったという記憶はない。
 鳥肌は、もともと外敵に遭遇したり急激な寒気に襲われたりしたときに毛を立たせたことの名残で、交感神経の興奮によって生じる。したがって、恐怖以外の情動がトリガーになることもあり得るが、自分が緊急事態に直面しているという実感がなければ、鳥肌はなかなか生じない。子供の頃にスポーツ観戦したときには、常に見る側の立場から興奮しており、自分がその場でプレーしているような実感はなかった。また、観客席にいる場合、観客同士の一体感はあっても、選手と自己を同一化することは、あまりありそうにない。ところが、個人用のテレビや端末が普及し、ネットを通じて自分だけの立場が確保できるようになった現在、居室に居ながら現場に臨んでいるかのような心理状態を形成することは、それほど困難ではない。プレー中の選手や映画の登場人物と自分を一体化した結果、緊急事態に直面しているという実感が高まり、交感神経が興奮して鳥肌が立つようになったのではないだろうか。
 もっとも、観客席で鳥肌が立ったという人がいれば、この仮説は反証されてしまうが。(10月21日)

  カタルーニャやスコットランドなど、EUに加盟する国の地域で独立の気運が高まっている。独自の文化を持つ民族が自立しようとしているのかというと、必ずしもそうではないらしい。
 かつて、大国であることの最大のメリットは、軍事的に侵略されにくいことだった。軍隊は維持費が掛かるので、小国で保持するには限界がある。大国ならば、1つの国軍を確保するだけで、全国どこにでも派遣して侵略に対抗させることができるので、安全保障上の効率が良かった。かつてのソビエトは、共産主義圏全域の防衛のために結束し、統一した軍隊によって四方に備えた。しかし、強力な国軍を保有すると、対外派遣の機会も増え、逆に国力を衰退させる要因にもなる(ソビエトにとってのアフガン派兵がそうだったように)。西ヨーロッパのように、地域全域の平和が長期にわたって維持されている場合、軍事上の理由から大国化する必要性は、それほど高くない。
 大国であることのメリットには、貿易手続きの簡便さもある。貿易に関して独自の法制度が施行されていると、国ごとに異なる手続きを行わなければならない。医薬品の場合、その国で臨床試験を行わないと輸入販売が認可されないこともある。こうしたことが重なると、コスト増を嫌って、貿易をためらう企業も増えるだろう。このため、近隣の小国が集まって経済的な協力機構を作り、手続きの一本化を進めてきたが、少数の国の寄り合い所帯では効果は小さい。アメリカや日本のように人口の多い大国の方が、貿易では優位に立てるはずだった。ところが、ヨーロッパでは、EUが経済協力機構の役割を果たしており、EU規制に適合していれば域内のどことでも貿易ができる。このため、EUに加盟していれば、小国であることのデメリットは小さい。
 こうした事情があるため、カタルーニャやスコットランドは独立しようとしているのだが、独立後にEUに加盟することはそんなに簡単なのだろうか。(11月4日)

  ネットワークの力が増すにつれて、これまでサイレントマジョリティにすぎなかった人々の発言が国政をも動かすようになってきた。これは、民主主義という観点からは好ましいのかもしれないが、どうしても危機感を払拭できない。気をつけなければならないのは、ネットでの発言が過激化しやすい点である。他者と向き合って発話するとき、人は、自分で自覚する以上に周囲の状況に気を配っている。自分の言葉に対して他者がどのように反応するのか注意し、ちょっとした表情の変化や身振り手振りに目を向ける。こうした観察をもとに、発言内容を調整し、多くの場合、より穏やかなもの、受け容れられやすいものにする。ところが、ネットでは、こうした状況判断が充分にできない。もちろん、ブログなどでコメントが付くこともあるが、リアル世界の反応に比べると、情報量は遥かに少ない。周囲の反応が乏しい中で発言を続けていくと、自分の言葉に触発されて主張が自己増幅を起こす。こうしてネットでの発言が過激化すると、タイムラグを伴った反対意見が現れる。このタイムラグによって議論がオーバーシュートを起こし、時にはケンカ腰になったりもする。こうした傾向は、ネットによる民主主義の破綻につながる危険性をはらむ。(11月25日)

  イラク戦争終結後、なぜあれほどイラク国内が混乱したのか。さまざまな議論があるが、他の戦争と比較したローズの『終戦論』は、この問題をわかりやすく説明している。要するに、受け皿がなかったのだ。第2次世界大戦の場合、ドイツでも日本でも、国内で戦争主導者に対する批判が高まり、戦後の政治を担う組織が形成されていた。ドイツでは、反ナチ勢力が、周辺諸国と協力しながらある程度の力を蓄えており、連合国は、彼らと合流することで速やかに新政府を樹立できた。日本では、文官の多くが(植民地支配はともかく)対中・対米戦争には批判的であり、武官を一掃することによって、戦後体制への道が自ずと開けた。朝鮮戦争とベトナム戦争は、事実上、支配権を巡る内戦であり、アメリカ(と中国)が介入しなければ、単なる革命ないし革命の失敗として終わっていたはずである。共産勢力にせよ保守勢力にせよ、それなりの政治的組織は構築されていたのだから。
 ところが、イラクには、フセイン政権に代わるだけのものがなかった。これは、長期化したイラン・イラク戦争によって軍事独裁体制が徹底されたためでもある。湾岸戦争の際、アメリカ政府は、クウェートに侵攻したイラン部隊を本国に押し戻すだけで、フセイン政権が瓦解すると期待したが、実際には、長く続いた軍事独裁のせいでクーデターを画策できるだけの人材が失われており、シーア派やクルド人による反乱も散発的なものに留まった。911テロを言い訳にしたイラク戦争で、アメリカ政府は、湾岸戦争の失敗を教訓にして首都バグダッドまで軍を進め、そのままフセイン個人を抹殺するように仕向けた。こうしてフセイン政権は消滅したが、代わりの政治組織がないまま、略奪・暴行の蔓延する無法状態へと移行、米軍は長期駐留を余儀なくされ、何千人もの兵士を失うことになる。どうやら、ブッシュ大統領をはじめとするアメリカ政府首脳は、トップが交代してもイラク人公務員は仕事を続けると予想していたようだ。しかし、根深い民族対立のあるイラクでは、スンニ派の公務員はフセイン捕縛後にこぞって逃げだし、役人も警察もいない文字通りの無法地帯が現前してしまった。(12月2日)

  『ロシア宇宙開発史』(冨田信之著、東大出版会)を読んで、ソ連のロケット技術に関して抱いていた多くの謎が氷解した。ロケットは軍事技術として開発されたと言われてきたが、コロリョフをはじめとする中心的な技術者は、少年時代にツォルコフスキーやジュール・ヴェルヌの著作を愛読して宇宙旅行の夢を膨らませており、決して軍事一辺倒ではなかったという。確かに、あれほどの技術を、冷徹な軍事上の目的意識だけで作り上げるのは困難だったろう。気まぐれなスターリンや新しもの好きのフルシチョフのおかげで宇宙開発が継続されたという裏話も、興味深い。
 ただし、大きな謎が1つ残った。ソ連製の大型ロケットは、巨大な噴射システムを持つアメリカ製のものとは異なり、小規模なロケットをいくつも束ねた構造をしている。このため、まるでスカートを穿いたように裾が拡がっているのが、外見上の特徴である。なぜ、このような構造にしたのか? 『ロシア宇宙開発史』によると、個別部品の精度の低さを補うための技術上の仕様だとされるが、それだけではなく、ソビエトにおける技術的発想が関係するように感じる。実際、原子炉も、チェルノブイリ型炉のように、小型の圧力管を集めた構造をしており、巨大なものを1つ作るアメリカ、小型のものを束ねるソビエトという対比をなしている。この違いが何に起因するのか、もう少し探ってみたい。(12月12日)

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©Nobuo YOSHIDA