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  カルタゴに心惹かれる。ローマ中心の史観に基づいて眺めると、カルタゴはローマが地中海世界に放射線状に発展していく際の1つの障害物のように見える。しかし、カルタゴの側に立つと、世界の見え方は一変する。カルタゴとローマは地中海をはさんで相対峙しており、シチリア島とサルディニア島まで含めると、内海を取り囲む交易拠点の陣取り合戦を繰り広げるライバル関係にある。しかも、歴史という点ではカルタゴの方がはるかに古い。紀元前8世紀頃から続くフェニキア人の植民都市の一つでありながら、アッシリア崩壊の混乱に巻き込まれて疲弊した本国を越えて繁栄をつかみ取る。
 カルタゴの栄枯盛衰は劇的である。ギリシャと地中海の覇権を賭けて争い、一時期は北アフリカ沿岸部一帯からスペインに至る広大な海上帝国を築き上げる。だが、軍事大国化したローマとシチリアとサルディニアの領有権を巡って対立、1世紀に及ぶポエニ戦争を繰り広げるが、最後は小スキピオに敗れて滅亡する。市民は殺戮され都市は灰燼に帰し、その跡地には雑草も生えないように塩がまかれたという。(1月28日)

  矢口史靖脚本・監督の映画『ハッピーフライト』は、大型旅客機フライトの実態に迫った秀作である。開始しばらくは締まりのないギャグが続いて退屈させられたが、トラブル発生後は一転して緊迫感あふれる優れたドラマとなっている。
 この映画の最大のポイントは、「主人公のパイロット(田辺誠一)が経験の浅い割に有能だ」という設定だろう。危機に直面したダメパイロットが突如としてスーパースターに変身するといったチャチなご都合主義は採られていない。前半で失策を連発して無能であるかのような印象を与えるものの、丹念に見ていくと、いずれも経験不足に由来する些細なミスで、安全にかかわる重大な過ちは犯していない。この点を検証していこう。
 映画冒頭で、田辺が演じるパイロットは、シミュレータによる訓練中にいきなり仮想飛行機を墜落させてしまう。だが、このシミュレーションでは、計器が故障した状況でウィンドシアが発生するという異常事態が用意されており、絶望的な状況になっても最後までパニックを起こさないでいるための訓練だと考えられる。墜落は必ずしもパイロットの責任ではない。その後も、顔に油の滴を受けたりエアコンとワイパーのスイッチを間違えたりするが、これらは経験不足が露呈した些細な失策。放送スイッチの切り替えミスで管制塔に向けて機内アナウンスをしてしまうのはご愛敬だが、生まれて初めてのアナウンスを昇進テストを兼ねたフライト中に教官役の機長(時任三郎)の隣でさせられたのだから、同情できる。しかも、安全に直接かかわるエラーではない。ランディングに関する質問の解答を機長から批判されたのも、教科書的な模範解答をしたからであって、間違えた訳ではない。経験豊富な機長は、物事が教科書通りには進まないことを言いたかっただけである。
 重要なのは、翼に何かがぶつかるというアクシデントが発生した直後の操作。飛行機の操縦に詳しくない観客は、機体が突然振動し始めたのを見て、パイロットのミスでトラブルが生じたと思ったかもしれないが、そうではない。実際に起きた有名な事故として、巡航中のジャンボ機が突然失速したケースがある。このケースでは、オートパイロットにまかせきりのパイロットが気づかないうちに、エンジン不調のせいで徐々にスピードが低下し、ある段階で巡航状態を維持できなくなって、突然オートパイロットがはずれて失速したという。幸い機長が抜群の操縦テクニックを発揮して、1万メートル近く急降下した後にコントロールを取り戻したが、巡航中にいきなり失速するという珍しい事故であり、その知識は多くのパイロットの脳裏に刻まれているはずである。映画では、バードストライクによってピトー管が破損し速度計が実際よりはるかに遅い速度を示したためオートパイロットがはずれたのだが、情報の限られたコックピット内から見ると、ジャンボ機の失速事故と状況が似ている。主人公のパイロットは、速度を回復させるために機首を下げて加速する操作を行った訳である。実際には、速度計が狂っただけでスピードは十分に出ており、加速したことによって逆に機体が振動し始めたのだが、それまで3時間にわたって正しく動作していた速度計が急に誤作動することは滅多にない事態なので、状況に対するとっさの措置として加速は不適切ではない。むしろ、機体の振動状態から失速ではなく速度超過だと見抜いた機長がすごい(この機長は振動が始まったときにはバードストライクの影響を調べにコックピットを離れており、トラブル発生時に現場にいなかった人の方が冷静に判断を下せるという経験則を具現している)。
 速度計の誤作動に気づいた後の操作は、燃料計算を待たずに降下しようとするなど経験不足によるせっかちさはあるものの、おおむね適切である。特に、降下率を上げるためにギアダウンするシーンは、日航ジャンボ機事故の際のパイロットたちの苦闘を思い起こさせて、胸が熱くなった(日航のケースでは、努力の甲斐なく墜落してしまうが)。ただし、主人公のパイロットは思ったことをすぐに口に出す癖があり(「マジっすか!」)、コミュニケーション能力の未熟さを感じさせる(落雷時の悲鳴が機内放送に乗ってしまうエピソードもその現れだが、おそらく舞台や放送で伊東四朗が繰り返し語っている経験談を借用したものだろう)。一方の機長は、生真面目すぎて冗談が冗談に聞こえないという欠点があり(「うまいだろうな、カニ飯」)、かえって良いコンビである。
 最後の着陸は、機長の予測通り気温の上昇によって速度計の機能が回復したので、難易度は高いとは言え訓練を積んだパイロットにとって至難の業というほどではない。ハリウッド流の奇跡的な逆転サヨナラ劇ではなく、通常業務を着実にこなした事例と言える。
 この映画は、技術に関して深い理解が示されている点が高く評価される。トラブルに際しても、登場人物が過剰に動揺してサスペンスを煽るという小手先のテクニックは使われず、機長をはじめとする各部署のリーダが信頼に足るスペシャリストとして冷静に対処する過程が描かれており、後味がよい。時折挿入される不発のギャグと綾瀬はるかの登場シーンを全てカットし、整備士など周辺作業員の業務をもう少し詳しく描写すれば、5つ星を付けられる作品になっただろう。(2月1日)

  子供の味の好みは親の影響下にある−−よく言われることだが、私の場合、通常とは逆の意味で強烈な影響を受けたようだ。なにしろ、母と私の味の好みには、完全な負の相関があるのだから。
 私は丸ごと茹でてかじりつくほどのブロッコリー好きだが、母はブロッコリーを見ると震えが来るほど嫌いだという。私が好きなチンゲンサイ、セロリ、ピーマンはいずれも母の嫌いな野菜で、逆に母が好きなレンコンとゴボウは、数少ない私の嫌いな野菜である。私はキムチが大好物で粕漬けはにおいを嗅ぐのも嫌い、母は粕漬けが大好物でキムチはにおいを嗅ぐのも嫌い。私は、シメジ、マイタケ、エリンギ、エノキダケ、マッシュルームなどほとんどのキノコが好物で、唯一苦手なのが干し椎茸。母はほとんどのキノコが苦手で、唯一の好物が干し椎茸。私はイカが好きで、イカ刺し、イカソウメン、イカフライ、イカ天と大概のものはイケる口だが、イカの薫製だけは苦手。一方、母は大概のイカ料理を好まないが、イカの薫製だけは好物。魚介類の缶詰と言えば、私はサケ缶、ツナ缶、オイルサーディンが好みだが、母はホタテ、カニ、サバの味噌煮の缶詰ばかり買ってくる。大学生のときに生まれて初めてツナマヨを食べ、世の中にこんなに美味しいものがあるのかと感涙にむせんだ。私が好きなチーズケーキのにおいを嗅ぐだけで母は顔をしかめ、母がいそいそと買ってくるソバマンジュウは私を辟易させる。
 私は幼稚園のときに「納豆さえあればご飯3杯は食べられる」と言うほど納豆好きだが、母は納豆嫌いで全く買って来ない。その一方で息子は食が細いと心配する。正月のおせち料理を母に取り分けてもらったとき、ああ美味しそうと思ったものはヒョイヒョイと自分の皿に入れ、いかにも不味そうなものばかり私の皿に盛りつけた。本人は逆のことをしているつもりだったようだが。みそ汁は具の種類の少ないすっきりとした味付けが良いというのが私で、みそ汁は栄養たっぷりの具沢山が良いというのが母。美味100選とかいうカタログに美味しそうな料理が並ぶ中、1つだけひどく不味そうなものがあり、こんなの誰が注文するのだろうと思ったら、母が注文していた。文句を言う私にそれなら何が欲しいか尋ねるので、辛子メンタイが食べたいと答えたところ、「あんたは辛いのが苦手だから」と甘口タラコを買ってきた!
 私はソバが好きでウドンが嫌い、母はウドンが好きでソバが嫌い。私はカキフライが好きで生ガキが嫌い、母は生ガキが好きでカキフライが嫌い。私はビワが大好きでスイカが嫌い、母はスイカが好きでビワが大嫌い(種の大きさのせいらしい)。1つだけはっきりしたことがある。味の好みは遺伝しない!!(2月24日)

  日本のマンガは、芸術ジャンルとして確固たる地位を獲得している。欧米のコミック・ストリップとは一線を画する深みに達した背景として、作家の創造性を促す独自の制作過程に注目したい。
 1960〜70年代、発行部数が急拡大する少年少女向け定期刊行誌に連載されたマンガ作品は、戦後まもなく活動を開始した手塚治虫など一部の有力作家を別にすれば、経験や知識に欠け発言力の乏しい若手作家によって量産されていた。こうした若手作家に対して、雑誌編集者はかなり強い権限を持っており、ストーリーや表現を制約し(例えば、デビューしたばかりの女性マンガ家にはまず学園ものやラブコメを書かせるなど)、読者の「うけ」を考慮して内容を変更させることも稀ではなかった。芸術性よりも商業主義を重視する立場からなされた外部からの介入は、しかしながら、結果的に作家が作品を見直すきっかけを与えた。経験の乏しい若手作家は、どうしても最初に設定するシチュエーションやキャラクタが類型的なものになりやすい。ところが、編集者の意向をもとに作品を練り直す過程で、類型から脱して独自の表現方法が模索されるようになったのである。
 読者からの反響に基づいて連載中に作品のプロットが変更された例は、ディケンズの小説などにも見られるが、作品の質が向上したとは言い難い。すでに自分の世界を確立させた作家にとって、読者の声は雑音に近いのだろう。これに対して、商業マンガを描かされる若手作家は、経験や知識が不足しているだけに、編集者のちょっとした一言がきっかけとなって、世界観を広げ人間についての洞察を深めることがある。こうして、長期にわたって連載されるマンガでは、途中で初期の設定がいろいろと変更され、単なる敵役やありきたりの二枚目に人間味を感じさせるエピソードが付け加えらるようになる。中でも、主人公が変化していく作品には瞠目すべきものがある。自分の周囲にしか目を向けていなかった主人公が、複雑な出来事に巻き込まれていくうちに、世界と人間に関する深い洞察に到達する−−作家側の都合でプロットが改変されたとは言っても、これはまさに典型的なビルドゥングス・ロマンの結構である。優れたマンガ作品(の一部)は、作家に対する外部からの介入がうまく作用した結果として生み出されたと言えよう(連載中にプロットが変更された結果として質的に向上したマンガは数多くあるが、最近のものまで含めた有名作としては、『めぞん一刻』『北斗の拳』『寄生獣』『鋼の錬金術師』などが思い浮かぶ)。(3月4日)

  ウィリアムズ症候群と呼ばれる疾患がある。第7染色体にある遺伝子の欠損によって起きる疾患だが、その精神症状には理解しがたいものがあり、脳の不思議さをかいま見せてくれる。
 身体的な症状に関しては、比較的わかりやすい。例えば、心臓の異常が見られるが、これは、生体組織に弾力性を与えるエラスチンの生合成が充分に行われないことによる。同じ原因によって、背が低く頭が小さく口が大きいといった身体的な特徴が現れる。前頭・側頭葉は正常だが頭頂葉の発育が悪く、おそらくそのせいで、会話能力は保たれているが空間認知能力は低い。ここまでは、生理学的な知見に基づいて何とか理解できる。だが、心理的な側面となると、どうにも不思議なことばかり目に付く。一般にIQは低いが言語の理解力には障害がなく、2桁の足し算ができないのに読書家であることも稀ではない。特に音楽的能力に優れていることが多く、何種類もの言語で見事に歌曲を歌い上げる患者もいる。最大の謎は、以上に人なつっこいことである。このため、詐欺にあったり暴力沙汰に巻き込まれたりするケースも少なくない。しかし、生体組織の弾力性が失われると、なぜそろって人なつっこくなるのか、その不思議さは、いまだ理解の埒外である。(3月11日)

  犬は人間の友−−などと言っているのはヨーロッパ人だけである。半牧畜・半農耕生活を営んでいた頃から、ヨーロッパ人は犬とともに生活してきた。近代に入ると、犬をペットとして愛玩する風習が生まれるが、これは、犬が遺伝的変異を起こしやすく、さまざまなタイプの犬を作り出せるからだろう。室内でも飼える小型犬は、ヨーロッパの貴族にとって格好の遊び相手となった(中国の王宮でも小型の愛玩犬がもてはやされたが、一般の犬とは別種の生き物として扱われていた)。文明化するにつれてオオカミとは懸け離れた容貌を持つ犬種が誕生したため、自然状態から引き離された人間の友としての犬のイメージが醸成されたのだろう。ブルドッグやダックスフントは特定の目的(闘犬や狩猟)のために品種改良されたものだが、犬らしからぬ犬であることがかえって人心をくすぐり、ペットとして飼われるようになった。こうして、ヨーロッパ人は無類の犬好きになり、その結果として、ごくふつうに犬を食べる他の民族を野蛮人呼ばわりし始める。困ったことである。(3月28日)

  精神的面における正常と異常の境界は、社会が決定する。例えば、統合失調症に特徴的な症状である自我意識の障害について考えてみよう。自分の思考が外部から強制されていると感じられることは、通常の社会生活を営む妨げとなるため、精神異常と見なされても仕方ない。しかし、逆に全ての思考は自分の意志によってコントロールされていると感じるのは異常ではないのだろうか? 心理学のデータによれば、人間がどのような行動をするかは、多くの場合、何をするかという意識が現れる以前に決定されている。意志によって行動方針が決定されるという直感は、一種の錯覚に他ならない。だが、この錯覚は社会にとって不都合なものではなく正常とされるのである。(4月1日)

  芸術の分野によって、表現の得手・不得手が見られる。途中まで面白かった映画がラストで腰砕けになるケースは少なくないが、これは、映像でストーリーをまとめなければならないという表現上の制約に起因することが多い。映像はイマジェリーの表現という点では優れた効果を上げるが、ストーリーを語る力となると散文に遠く及ばない。錯綜するストーリーを束ねてクライマックスを作り上げるには、小説の方が便利である。ただし、シチュエーションが曖昧で言語化しにくい場合は、映像−−それも生身の俳優を使った実写−−が力を発揮する(シチュエーションが明確ならば、レーピンによるイワン雷帝の息子殺しの場面のように、絵画の方が効果的なこともあるが)。例えば、チャップリンの『街の灯』のラストで、恩人の正体に気づいた花売り娘の眼に浮かぶ残酷な翳りは、映画以外のいかなるメディアでも表現できないだろう。(4月9日)

  『アバター』の大ヒットを受けて、アメリカで3D映画の制作が加速している。今後も2D映画と共存していくのか、シネラマのように一時的なブームとして終わるのか、映画ファンとしては気になるところだ。
 実は、3D映画のブームは、これまでにも何回か起きている。まず、19世紀末から20世紀初頭にかけての映画黎明期に、動きの次は奥行きだとばかりに3D映画作りに挑戦する者が現れた。ジョルジュ・メリエスの作品にも、同じ場面を左右にわずかにずらして撮影したプリントが発見されており、両方をあわせると3Dに見えるという。しかし、奥行きよりも音と色の方が観客に強くアピールすることが判明し、3D映画の試みはまもなく下火となる。次の流行は1950年代。当時台頭しつつあったテレビに対抗し、映画ならではのスペクタクル性を向上させる目的で、米メジャーの主導による3D映画の制作が始まる。同様の対抗策として、シネラマのような大画面化の試みもあったが、3Dもシネラマも定着することなく消えていった。その後も、1980年代の『キャプテンEO』など散発的に3D作品が作られたが、大きな流れになることはなかった。今回のブームが3度目の正直になるかどうか。
 ブーム期に量産された3D映画では、見せ物的な効果をねらって、物体がやたらと手前に飛び出すシーンが目立ったが、過去の事例が示しているように、こうしたアトラクションだけではすぐに飽きられてしまう。3D独自の表現法を生かすコンテンツを生み出さなければ、今回のブームも短命に終わるだろう。ヒッチコックの3D作品『ダイヤルMを廻せ!』は室内劇の映画化であり、部屋の奥行きを感じさせるのに3D効果を巧みに利用していたが、ここに3Dの使い方のヒントがある。例えば、二人の人間が対峙するシーン。2Dでは画面の左右に分けるのが一般的だが、これは、手前と奥に配置すると人物が重なって見えづらくなるためである。あえて奥行き方向に配置する場合は、焦点深度の浅いカメラで一方を適度にぼかしたり、近接撮影で大きさに差を付けたりと、それなりのテクニックによって描き分けなければならない。3D技術が成熟化すれば、こうしたテクニックに頼ることなく、奥行き方向の位置の差によって対象を識別できる。さらに、コンピュータによる合成を援用すれば、手前の人物の肩越しにもう一人を見ているにもかかわらず、双方にピントが合うという不思議なパンフォーカスも実現できる。こうした3Dならではの映像を巧みに使いこなせるならば、ブームが本物になるかもしれない。(4月25日)

  伝統的な和菓子の中には、ひどく甘ったるく味を楽しめないものが少なくない。どうしてなのだろう。
 菓子の「菓」という字は、もともと果実を表していた。甘いものの乏しかった時代には、柿などの果実や甘みを持つツルなどを食して、甘味に対する欲求を満たしていた。奈良時代に唐から蜂蜜や甘藷が伝えられるが、いずれも貴重品であり、庶民の口にはなかなか入らない。ようやく江戸時代中期から砂糖の生産量が増えてくるものの、高級品であることに変わりはなかった。甘いものを食べられることが身分の高さの現れであり、庶民が買える和菓子は、それほど甘くなかったはずである。和菓子が作られるようになってからも果実が水菓子と呼ばれたことから推察されるように、和菓子の甘さはせいぜい果実(それも、現在のように品種改良で甘くなる前の渋を含んだ柿や酸っぱい蜜柑など)と同程度のものだったろう。このため、明治時代になって砂糖の価格破壊が進行し、甘味が庶民の手の届く所まで来ると、それまでの抑圧に対する反動として、過剰に甘い菓子が生産されるようになったのではないか。当時の庶民は充分なカロリーが摂取できていなかったので、甘ければ甘いほど歓迎され、売れ行きが好調だったに違いない。店側も、他より遥かに甘いことを宣伝しただろう。これと同じ現象は、戦争直後にも繰り返された。2度にわたる甘味化の流れによって、驚くほど甘い和菓子が庶民の味として定着したことは、想像に難くない。
 飽食の時代である現在、もはや甘さだけで人を喜ばせることはできない。欧米の菓子が酸味を加えて新たな展開を図っているのに対して、和菓子業界は悪い意味で保守的すぎるように思われる。(5月2日)

  効果的に仕事をこなすためには、集中が必要だと言われる。しかし、これは本当だろうか。私の場合、1つのタスクを継続的に行っていると、思考パターンが単調になり、頭が回転しなくなる。集中が切れたわけではなく、集中しているのに思考が鈍ってしまうのだ。これはおそらく、活動中の脳がノイズィであることと関係している。脳は特定のタスクに関して単線的に情報処理を行うのではなく、同時並列的に多岐にわたる情報を扱い、その相互作用を通じて神経活動を収斂させる。したがって、扱う情報の多様性が失われると、思考そのものが停滞すると推測される。
 こうした脳の特性を生かす方法かどうかはわからないが、何冊もの本を平行して読んでいると、1冊に集中するより理解が深まるような気がする。机の上に3〜4冊の本(学術書・解説書・文芸作品のように異なるジャンルのもの)を並べ、それぞれ数分間読んでは別の本に取り替えるといった作業を繰り返すのだが、脳をうまく活性化するのか、浅い読書のように見えて意外に混乱せずに内容が頭に入ってくる。(5月13日)

  自然科学と人文・社会科学では、方法論の上で大きな違いがある。中でも両者の差異を実感させるのが、先行学説を組み合わせた論述に対する評価である。人文・社会科学の分野では、こうした議論を高く評価せず、むしろ折衷主義として嫌悪する傾向が見られる。先行学説の長所を寄せ集めるよりも、先行学説の誤りを批判し、自分なりの新説を提出する方が受けが良い。自然科学の場合、事情は正反対である。先行学説の批判は歓迎されないばかりか、学問にとって無益だと考える研究者も多い。それよりも、互いに相容れないように見える複数の学説の中から親和性の高い部分を抽出し、それらを組み合わせて統合する方が遥かに建設的な業績として評価される。例えば、ネオダーウィニズムの淘汰説と木村流の中立進化説を組み合わせ、タンパク質における変異の何パーセント程度が中立で、淘汰圧がどの程度の作用を及ぼすかを定量的に論じたものは、総合学説としてきちんと評価される。自然科学と人文・社会科学のこうした違いは、個人研究者の役割の差に起因する。人文・社会科学では個人の役割が大きく、たった一人の研究者が学説の骨格を作り上げ、学派を形成することも稀ではない。一方、自然科学では、個人の力はたかが知れている。多くの研究者がそれぞれのアイデアを出し合い、その中から出来の良いものを集めて、ようやく自然の謎が解き明かされていく。こうした学問のあり方を身を以て体験しているだけに、自然科学者は、間違いに寛容で総合を高く評価するのだろう。(5月22日)

  アニメを子供向けのものだと思っている人がいまだに少なくないが、その背景には、20世紀前半にアメリカで商業主義的なアニメが大量生産されたことと関係している。
 こんにち日本で制作されているアニメ作品は、おそらく中高生をターゲットとしたものが最も多く、小学生向けがそれに続くが、大人の視聴者を想定した作品もかなりの割合に上る。中高生向け、場合によっては小学生向けでも、大人の鑑賞に堪えるアニメが少なくない。ところが、アメリカでは、アニメといえば基本的に小学生向けであり、ミドルティーンになればアニメは卒業という見方が強い(近年は大人の観客も集める大ヒット作が数多くあるが、どう見ても「頭を空っぽにすれば大人も楽しめる小学生向け作品」である)。ここには、ディズニーを中心とするアニメ会社の戦略が反映している。
 アニメが初めから子供向けだったわけではない。映画創成期に作られたコマ撮りアニメの多くは大人向けである。しかし、アニメを作り続けるうちに、子供向けに作った方が儲けが大きいことがわかってくる。子供は、俳優の微妙なボディランゲージを読みとる力には欠けるが、表情を単純化し動作を大仰にしたカルトゥーンならば容易に解釈できる。さらに、実写と異なり、アニメは地と図を分離して把握するのにさほど経験を必要としない。運動も明快でパースペクティブも範囲が限られている。こうした性質は、認識能力が未熟な人間にとって好ましい。一方、制作する側からすると、子供向けアニメの方が一般にコストを抑えやすい。もちろん、手を抜かずに作るとそれなりにコストは掛かるが、子供相手ならば作画の質を少々落としても受け容れられる(ユーリ・ノルシュタインの手描きアニメとTVアニメ『鉄腕アトム』では、どちらが子供に受けてどちらがコストが低いかという問題である)。しかも、子供向けアニメは、興業面でも旨みが多い。子供は宣伝の影響を受けやすく、少しコマーシャルを流すだけですぐに作品を見たがる。キャラクタ・グッズの売り上げも期待できる。数年で観客層が入れ替わるので、同じ作品を繰り返し上映して儲けを重ねることができる(最近ではそれほどでもないが、かつてディズニーアニメは10年程度の間隔をあけてリバイバルされていた)。映画館には親が付いてくるので、入場者数が底上げされる。つまり、アニメそのものは大人でも子供でも楽しめるものであるにもかかわらず、子供向け−−特に小学生か学童未満の低年齢向け−−の方が制作費を抑えて儲けを増やしやすいのである。この結果、資本主義が最も発達したアメリカでは、子供向けのアニメが次々と作られるようになり、これが一種のスタンダードとなって、アニメは子供のものという偏見が生じた。ヨーロッパでは、ノルシュタインやカレル・ゼーマンが大人向けの優れたアニメを作り続けるが、興行的な力のなさはいかんともしがたい。(6月23日)

  アップル社の新製品iPADが人気のようだが、食指が動かない。数年前から抱いていた「これなら買いたい」という携帯端末のイメージと比べて、いかにも物足りないからである。
 iPADは情報表示に特化した携帯端末である。ひたすら高機能化を目指したために扱いにくく故障が多くなったパソコンに対抗して、特定の機能だけに絞り込み、優れたデザインセンスで製品化したものだ。パソコンの場合、チューナを内蔵させればテレビとして、シンセに接続すれば楽器として利用できるが、そのための設定が難しく、一般ユーザには使いこなせない。何よりも、そうした機能を使わない人にとっては、不必要機能を満載したトロく高く扱いづらい製品になっていた。これに対して、iPADはホームページや電子書籍の表示用にカスタマイズされた仕様になっており、キーボードからの入力によらずにタッチパネルだけで操作できる。余分な機能がなくシンプルで使いやすい。
 だが、iPADには欠点も多い。携帯するには大きすぎ、机上で使うには形が不適当だ。さらに大きな問題として、アップル社がコンテンツを提供していないという点がある。iTuneの場合は、楽曲に限定することでアップルが作品の提供を行っていた。だが、電子情報一般となると、情報コングロマリットでもなければあらゆるジャンルにわたるコンテンツをカバーできず、現在のアップルでは力不足である。タイムワーナーなどを買収すれば何とかなるかもしれないが、昨今の情報産業の盛衰を見ていると、この分野でうっかり買収を行うのはリスクが大きすぎる。提供される情報の質を保証しないままハードウェアだけの販売に踏み切ったというのが実状である。ゲーム機能などをおまけに付けてお茶を濁しているが、今のままでは魅力的な製品とは言えないだろう。(7月2日)

  現代社会がシステムとして維持されるには、技術者のたゆまざる努力が必要である。この点を理解していない人の何と多いことか。本来、システムを稼働させるに当たっては、メンテナンスや老朽化対策を充分に行うことが必要である。障害が発生してから修理するのでは手遅れであり、外見上はどこも悪くない段階でメンテナンスしなければならない(道路工事に文句を付けるドライバーに言っておきたい)。さらに、より良いシステムを開発して置き換えていくことも重要になる。そのためには、技術者が継続的に働くことが求められる。ところが、こうした“縁の下の力持ち”的な存在が過小評価されているように思われる。早い話、給与水準が低すぎるのである。システムを支える役割を担う技術者たちの努力を正当に評価する体制を作らないと、社会は少しずつ壊れていくかもしれない(ついでに言うと、技術者と営業マンの査定も、技術者に厳しく営業マンに甘いように感じるのだが、どうだろうか)。(7月8日)

  近所のDVDレンタルショップで100円レンタルが始まった。値引き合戦の末期症状で儲けは出ないだろうと思って様子を見ていたが、そうではないらしい。以前、NHKが牛丼安売りのからくりを特集し、食器洗い回数の見直しなどによって1杯当たり数円ずつ経費を削っていくやり方を紹介していたが、この店でも同じようにやりくり算段しているようだ。
 牛丼店で最も経費を圧迫するのがアルバイト店員の人件費だったが、これはDVDレンタルでも同じだろう。値引きによって売り上げが増加したとしても、押し寄せる客をさばくのにアルバイトを増員したのでは赤字になってしまう。しかし、店内の様子を観察すると、アルバイトを増やしたようには見えない。これは、DVDレンタル特有の事情によるのだろう。価格が安くなると、多くの客は借りるDVD枚数を大幅に増やす。一般の小売店では、売り上げ点数が増えると店員の負担もそれに比例して増加する。ところが、DVDレンタルの場合、ケースに添付されたバーコードを読み込んで袋に入れるだけなので、レジで客1人をさばくのに要する時間は、借りる枚数が1枚でも5枚でも数秒の差しかない。このため、レジ要員をあまり増やさなくても何とかなる。商品管理はコンピュータで行っており、客からの問い合わせに対しても、商品検索で即座に対応できる。レンタル点数が増えるためにDVDを棚に戻す作業がたいへんになりそうだが、これもうまく解決している。返却されたDVDはしばらく店の奧に積んで保管しており、客の少ない午前中などに集中的に棚に戻している。暇そうな店員がブラブラしているというお馴染みの光景はここにはなく、常に忙しそうに立ち働いている。バイト店員が時給制であることを考えると、労働生産性は他店よりかなり高いと想像される。
 100円レンタルにしたことで、客の動向にも変化が見られる。陳列棚には借り出し中の札が数多く見られるが、目的の作品がなくても、多くの客は、携帯電話で家人と連絡を取ったりしながら、ともかくも複数の作品を借りていく。100円の作品を数人で見れば交通費よりもはるかに安く済むため、何でも良いから借りた方が得だという計算が働くのだろう。料金の高い新作に手を伸ばす人も少なくない。この結果、DVD1枚あたりの借り出し回数が増えるので、品揃え費用に対する利益率が高くなると予想される(料金を半額にしても、借り出し回数が2倍以上になれば良い)。1点ずつ仕入れ費用が掛かる販売品とは大違いである。しかも、店側にとってありがたいことに、DVDを借りた客は返却のために再び店を訪れ、ついついまた借りてしまう。こうしてレンタルしたDVDで映画を観る習慣が定着すれば、店にとってかけがえのないリピーターとなる。
 DVDの100円レンタルは、苦し紛れの値引きというよりは、コスト計算をした上でのしたたかな販売戦略なのだろう。(7月24日)

  インターネット上では、一般ユーザによる格付けが盛んである。Amazon では、家電から書籍に至るまで大半の商品に対して星による評価が付けられているし、映画サイトでは、一般の人による講評と採点を見ることができる。こうしたネット格付けは、商品購入などの際に参考になりそうにも見えるが、現実には、どうにも信頼できないものが少なくない。ネット格付けが信頼できない大きな理由は、格付けに参加する人が限られているせいである。商品購入者の大部分は格付けを行わない。格付けするのは、積極的に格付けしたいという動機のある人である。この動機が社会に貢献したいという純粋な奉仕精神ならばありがたいのだが、そんなケースは多くない。何らかの理由で特定の企業を応援したい人は、異常に高い評価を与えるだろうし、買った商品(あるいは見た映画)に不満があって鬱憤を晴らしたい人は、極端に低い点を付けることになる。実際、低い点を与えた人の講評を読むと、自分の望むものとは違っていたという意見が多い。中には、明らかな誤解や本人のミスによる場合も見られる。格付けを行う人が充分に多ければ、こうした見方は例外的なものとして扱われるが、評価数が少ない場合は、極端な評価が平均点を決定することになってしまう。(7月31日)

  戦争における個々の戦闘では、司令官の力量が勝敗を大きく左右する。そして、多くの歴史家が指摘しているように、司令官の過半数は無能であり、敗北へと直行する。たとえ勝利を収められたとしても、偶然の幸運が舞い込んだからにすぎない。無能な司令官がはびこるのには理由がある。戦争とは非常事態であり、日常的な経験はほとんど役に立たない。一撃で相手を殲滅できる場合を除けば、高度な戦術が重要になる。こうした戦術を編み出す能力は、現場で経験を積まなければ会得されない。軍事教練や座学をいくら繰り返したところで、戦場の勘は培われないのである。何よりも重要なのは、敗戦の経験である。何をすれば負けるか、身を以て知った人は、次回から正しく対応できるようになる。勝利の経験は、逆に有害となる。幸運で勝利を手にした場合でも、人は自分の手柄と思いこむからだ。勝利に酔って高慢になった司令官ほど危険なものはない。ところが、現実には、敗戦経験を重ねた人材が司令官になることは少ない。負け続けた人は、死ぬか降格させられるかどちらかである。かくして、戦場の司令部には、軍学校で無益な知識を詰め込まれ、偶然の勝利に目が曇った輩ばかりが集まることになる。もっとも、敵の司令官も似たようなものだから、結果的に釣り合いがとれるのだろうが。(8月19日)

  ナマコに関する本(『ナマコの眼』)を読んでいて笑ってしまったのが、「戻す」という日本語の英訳。ナマコはバイオマスの大半が水分であり、そのままでは重く運ぶのに手間が掛かり、しかも腐りやすい。そこで、干しナマコに加工する技術が中国で考案され、日本や東南アジアに伝えられた。水分をとばして作られた干しナマコは、消費地に運ばれた後、再び水に浸して柔らかくする。この水を加える過程を日本語ではごくふつうに「戻す」というのだが、ゼラチン質の海産物を干して食べる習慣がないせいか、英語には該当することばがないという。和英辞書を引くと、“reconstitute”なる訳語が当てられているが、これは本来は再構成とか復元とかいう意味なので、どうもしっくりしない。水にふやかすことをはっきりと言い表そうとすると、“rehydrate”がぴったりする。でも、台所で“Honey, rehydrate the NAMAKO!”などという会話が交わされていたら、吹き出してしまう。(9月1日)

  季節はずれの蚊が飛んでいるのを見て、ふと考えた。蚊はなぜ日本脳炎のような伝染病を媒介するのだろうか? 病原体の側からすると、皮膚というバリアを貫通してくれる吸血動物は、宿主に侵入するための絶好のベクターである。しかし、吸血動物の側からすると、病原体に体を提供することには何のメリットもない。それどころか、体内で病原体が増殖する場合は、栄養などを横取りされて迷惑この上ない。血を吸われる動物にとって、事態はさらに深刻になる。血を吸われるだけでもかゆみなどの症状が生じるのに、それに加えて感染症の危険が増すのだから、蚊やその他の吸血動物に刺されることを回避する機能を進化させるはずである。悪性の伝染病の原因となる吸血動物を選択的に避けるようになれば、病原体を媒介することは生存上不利になり、媒介しない種に取って代わられそうである。しかし、そうはなっていない。なぜか?
 おそらく、病原体の変異スピードが速いために、宿主および吸血動物の進化が追いつかず、一時的に不安定な平衡状態が実現されているのだろう。媒介者となる吸血動物の場合、病原体を排除する機能を作り出したとしても、よほど大きな機能変化でない限り、すぐに病原体の変異によって無効化されてしまう。産卵するまでの短期間にわずかのリソースを横取りされるだけなので、淘汰圧は低く大がかりな機能変化を促すほどではない。病原体をうつされる側からしても、いずれ病原体が変異してしまうので、伝染病を媒介する種とそうでない種を識別する機能を新たに生み出すメリットはあまりない。それよりも、皮膚を厚くするなどして全ての吸血動物から身を守る方が、はるかに有効である。こうして病原体は、まんまとニッチを手に入れたのである。(10月29日)

  近松門左衛門は劇作の要諦として虚実皮膜を唱えたが、近代文学の作家たちは、さらに微妙な領域を追求している。例えば、ナボコフ。彼の小説は、ある話者によって語られていることが多いが、彼が事実に忠実であるとは限らない。ときに虚栄や保身のため、ときに狂った世界観のために、事実をゆがめていく。こうして生まれる語りと事実との食い違いが、ナボコフの小説における幻惑的な効果を生みだしている。
 多くの読者は、代表作の『ロリータ』を中年男が美少女に惑う話だと思っているだろう。しかし、これはナボコフの術中にまんまとはまった結果である。話者であるハンバート・ハンバート(イシュメエルとともに、近代文学史上でおそらく最も有名な語り手)がロリータに熱烈な讃辞を捧げるせいで、読者はついロリータを美少女だとイメージしてしまう。だが、冷静に読むと、小説の至る所でロリータが美少女ではないと明示されていることに気づくはずだ。美少女に恋い焦がれるだけならば、ハンバート・ハンバートはただの変態だが、さしてかわいくもないヤンキー娘をニンフェットと呼び「わが肉のほむら」と唱えるのだから、彼はド変態である。ド変態の書いたゆがんだ告白を別の編集者がまとめたというのが、『ロリータ』の基本構造である。すでに『ロリータ』を読んだことがあるという人は、もう一度最初から読み直していただきたい。編集者が執筆した(という建前の)前書きの部分で腰を抜かすはずだ。
 『アーダ』の仕掛けはさらに凝っている。冒頭で『アンナ・カレーニナ』が間違って引用されるが、ロシア出身のナボコフがトルストイを誤る訳がない。そう思って注意しながら読んでいくと、小説内で描かれる歴史や地理が現実の世界とかなり違っていることがわかる。これは、『アーダ』の語り手がゆがんだ眼で世界を見ているためだ。語り手の狂気はしだいに増幅し、いつしか語りをどこまで真に受けて良いのか(ポルノグラフィとも見まごう濃厚な性愛描写は事実そのものなのか)判然としなくなる。
 トリックが最もあからさまに示されているのが『青白い炎』で、最初に掲げられた象徴詩、その注釈、そして“事実”が、見事なまでにずれている。しかも、“事実”として読者に示されているのが(小説内における)本当の事実かどうかもはっきりしない。全ての語りがゆがんでおり、ここまでくると、虚実ではなく虚虚の皮膜である。ナボコフが20世紀最大の文豪の一人に数えられるのも当然だろう。(11月24日)

  フェルメールが室内画を描く際にピンホール・カメラを利用したことは、よく知られている。機械の使用を好まない批評家もいるが、非とするには当たらないだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチが幾何学的遠近法の作画を行う際にピンと糸を用いた機械的な作業を行ったのと同じように、作品の完成度を高めるために最新のテクノロジーを利用しただけである。
 フェルメールが取り組んだのは、中景をいかに処理するかという問題である。遠近感の表現によって絵画に迫真性を与える技法はルネサンス期に発展するが、中景をうまく描くことは当時から難しかった。レオナルドですら、あえて中景を省略する方法を採用した。『モナリザ』は、空気遠近法でぼかした遠景をバックに、写実的に描いた近景の人物が浮かび上がるという構図になっている。『最後の晩餐』の場合、奥行き方向に異常に細長い部屋を設定し、背後の壁から遠く離れた地点にテーブルを置くという非日常的な家具配置にすることで、手前の人物像が壁面に紛れることを避けた。中景を描くことの難しさは、バロック期になっても変わらない。ベラスケスの『ラスメニーナス』でも、背後の壁は不思議なほど遠方になっている。しかも、そこに鏡を掛けおぼろな人物像(その大きさは明らかに幾何光学の法則を破っている)を写すことで、さらに遠くに見せるようにした。
 中景の描き方が難しくなるのは、人間の眼が持つ焦点合わせの機能と関係している。画家が対象を描こうとして目を向けると、どうしても焦点が合ってしまい、見たままを描いたのでは、全ての中景が同じようにくっきりした平面的な絵になってしまう。特定の対象に眼を向けたときの視覚的イメージと同じように、中心以外は適度にぼかさなければ遠近感が生まれない。それでは、眼の焦点がぶれることによるぼやけ効果をどのように捉えればよいのか。ここでカメラが役に立つ。フェルメールの場合、ピンホール・カメラによって室内の光景を映し出し、焦点が合わないことによるぼやけや光の干渉に起因する光点を、作品の中に巧みに取り入れた。これは視覚の限界を超えるために有効な手段であり、傑作を生み出すために必要な方法だったと言えよう。(12月1日)

  「わびさび」とは「侘びしい/寂しい」とかなり異なっている。この感覚を外国人に説明するのは難しい。人間の能動的な活動の中に位置づけられておらず、機能性に欠けているものの、かえってその非活動性・無機能性にたまらない魅力を宿している−−とでも言おうか(この説明では一層わからなくなるかもしれないが)。単に昔のものが良いということではない。観光地化した1000年前の寺院よりも、近代遺産とでも言うべき明治から昭和初期に掛けての建築物の方に、わびさびが感じられる。一方、バブル期に作られた巨大港湾施設が利用されないまま放置され、岸壁から釣り人が糸を垂らしている光景は、「侘びしい/寂しい」とは言えても「わびさび」ではないだろう。(12月5日)

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©Nobuo YOSHIDA