【「徒然日記」目次に戻る】



  不眠症に苦しんでいる人は少なくない。優れた睡眠導入剤も開発されているが、連用は避けるべきなので、やはり眠れぬ夜を過ごさざるを得ない機会も生じる。そんな折りに役に立つのが、睡眠に関する知識である。通常の睡眠では、入眠直後にまず深いノンレム睡眠に至り、次第に眠りが浅くなった後、レム睡眠に達する。約1時間半かかるこの一連の変化が、一晩の間に何回か繰り返される。周期や回数に個人差があるので、自分の場合はどのようになるかを知っておくのが好ましい。私の場合、周期はほぼ一定して1時間半であり、これを5サイクル(7時間半)繰り返すのが万全の睡眠だが、4サイクル睡眠を長期にわたって続けても身体に悪影響が出ないことがわかっている。数日間なら、3サイクル(4時間半)でも充分である。2サイクル(3時間)になると、さすがに日中に眠気を禁じ得ないものの、それでも意識を集中すれば、通常時の100%に近い能力を発揮できる。1サイクルでは、実感として能力がふだんの8割程度まで落ちるが、刺激物を摂取するなどすれば、一時的に回復する。徹夜した場合は、午前中だけなら何とかなる。こうしたことを知っておけば、たとえ試験前でも「3時間だけ眠れば何とかなる」と気楽になれる。「どうしても6時間以上眠らなければ」と考えると焦って眠れなくなってしまう。眠りそびれたときは、次の入眠サイクルが訪れるまでの1時間半、横になったまま推理小説のトリックでも考えて過ごした方が良い。(1月19日)

  怪しげな啓発セミナーの中には、こんなことを謳うものがある。「人間の脳は、その数パーセントしか使われていない。脳を完全に活性化させれば、驚くべき能力が発揮できる」と。そんなことが可能だろうか。脳の活動をfMRIで記録したデータによると、覚醒時にはきわめてノイズが多いことが見て取れる。脳の大部分は、統合された思考とは直接結びつかない騒々しい活動を示しており、合目的的な機能はごく一部でしか実行されていないようだ。しかし、こうした振幅の小さなノイズは、実は思考に不可欠なのである。そもそも、エントロピー増大の法則に支配される物理的システムである脳が、いきなり思考を生み出せるわけがない。感覚や記憶から何らかの入力があった場合、ここから一直線に統合された思考を展開するのではなく、まず、当該入力に関連付けられているさまざまな情報が呼び起こされ、ノイズのように騒々しく脳をにぎわせる。そこから反響回路などを通じて自律的にいくつかのパターンが形成され、パターン同士が織りなす関連性のネットワークが統制のとれた合目的的思考のバックグラウンドとなる。このような自律的な秩序形成のプロセスがなければ、あたかも合目的的に見える思考は生み出せないはずだ。膨大なノイズこそ秩序ある思考の源泉だということを知れば、脳を特定の目的のために活性化することなど不可能だとわかるだろう。(1月27日)

  スターウォーズ・サーガは、全6部作でありながらエピソード4〜6が先に制作され、かなりの期間を措いてからエピソード1〜3が作られたため、ストーリー展開が妙に屈折している。
 旧3部作では、第1作(エピソード4)が一本のまとまった作品としての結構を有しており、さらに、それを受ける形で制作された続編と併せて序破急の展開になっている。作品ごとに監督が異なるせいもあって、世界観が徐々に拡大されていく趣もあった。特にエピソード5は、BEMが登場しないために人間ドラマとしての盛り上がりがあり、「解決は次のエピソードへ」という意表をついた終わり方も味わい深く、シリーズ中、最も感動的な秀作となった。これに比べると、新3部作は、脚本・演出をルーカス一人が担当したこともあって、全体的に一本調子である。エピソード6のクライマックスで3つの戦いを同時並行的に描いて興奮を高めたことをふまえて、エピソード1では4つの戦いを並べて描写したが、いささかやりすぎの感は免れない。エピソード3は、CGが派手すぎてストーリーに集中できない憾みもある。新3部作はそれなりに面白いが、旧3部作ほどの深みはない−−これが一般的な評価だろう。ただし、このイメージは、エピソード3の後半にいたって修正を余儀なくされる。それまでの単純な娯楽作のイメージが一変し、やりきれない悲劇が姿を現すからだ。もしかしたらルーカスは、この悲劇性を強調せんがためにエピソード1と2のドラマ性をわざと抑えたのかもしれない。だが、その結果として、エピソード3の終盤近くであっと言う間に暗転し、いっさいの救済を受け容れないまま幕切れとなるため、見終わった後の充足感が得られない。
 スターウォーズ・サーガは、エピソード1から6までが一つの流れを形成するはずだったにもかかわらず、実際には、エピソード4→6と見た後でエピソード1→3を鑑賞し、そこで充足感が得られないので、もう一度エピソード4に戻るというメビウスの輪のような展開になったのである。結果的には、それが不思議な輪廻感覚をもたらしたわけだが。(2月22日)

  “盗作”と批判される文学作品は少なくないが、裁判などで法的に断罪されたケースはごくわずかだ。何をもって違法な盗作とするのか、司法界と文学界、作家と批評家の間で見解が食い違っており、裁判になじまない現状があるからだ。法律上の著作権は、表現のみを保護してアイデアは保護しないとされる。したがって、プロットが同一であっても表現が異なれば、著作権侵害とは見なされない−−というのが一般論だ。しかし、全てがそう簡単に割り切れるわけではない。作品を構成する上で本質的な部分は、アイデアであっても著作権で保護されるという見方もある。山崎豊子の『大地の子』や井伏鱒二の『黒い雨』は、既存の体験記をベースにしたものだが、具体的な出来事の連鎖がそのまま引き写されている箇所もかなりある。私の知る限り、『大地の子』には作者の創作性が強く打ち出されているのに対して、『黒い雨』にはデッドコピーに近い部分が少なくない。しかし、前者がシロで後者がクロとも言えないし、この程度のコピーを著作権侵害とするなら、多くの作品が法律の名の下に発表を禁じられてしまう。私がこの問題に対してきっぱりした態度をとれないのは、谷崎潤一郎の『文章読本』の事例があるからだ。この著書で谷崎は、高校生か誰かの作文を推敲してみせる。素人っぽい原文から、まず余分な形容詞や副詞を除くことで、きりりと引き締まった文章に変貌させる。さらに、文末などをわずかに変えるだけで、リズム感を持った名文に仕立て上げていくのだ。この谷崎マジックを前にしては、たとえ内容は同一であっても、別の著作だと言いたくなる。
 著作権を過大に認めると、才能の芽を摘むことにつながりかねない。作家を目指す若い人は、既存の作品を自分なりにコピーすることから始めるケースが多い。例えば、コミケで販売される同人誌には、商業マンガのキャラクターを借りて、自分流の表現を試みているものがたくさんある。原作者がその気になれば著作権侵害で訴えることも可能だ。それをしないのは、若い才能をつぶさないための配慮もあるだろうし、何よりも、自分自身がコピーから始めたという漫画家が少なくないからだ。もっとも、コミケの範囲を踏み越えて商業的な儲けを企んだとたん、作者が著作権という伝家の宝刀を抜いて待ったを掛けることもある。コミックだけではなく、バンドの楽曲やネット小説でも、儲けを企んでいるかどうかが分かれ道となる。こうしたやや曖昧な対応策を採ることで、創作の自由と著作者の権利のかねあいをはかっていくしかないだろう。(3月5日)

  近年、記銘障害(前向性健忘)を扱った映画やアニメなどの作品を多く目にする。日本では、NHKのドキュメンタリー(是枝裕和演出)や小川洋子の小説を通じてこの症状が広く知られるようになったことが、背景にあるのだろう。不思議なことに、アメリカでもこの疾病に注目する映画人が現れ、『メメント』のような作品が制作されている。記銘障害という症状自体は古くから知られており、一般向けの雑誌で紹介されることもあったが、娯楽作品で取り上げるには悲惨すぎると感じられたのか、あるいは、わざとらしい設定と受け止められるのを危惧したか、映画などで扱われるケースはほとんどなかった。最近になって、症状に関する知識が普及したこともあって、注目する作家が増えてきたようだ。ただし、実際に記銘障害に苦しんでいる患者も少なくないので、扱いには注意を要する。小川洋子の『博士の愛した数式』では、数学の永遠性あるいは非時間性と記憶の儚さが対比的に描かれて新鮮だったが、サスペンスの素材として使われたりすると、やはり違和感を覚えてしまう。(3月12日)

  科学は日進月歩である。それはよく知っているのだが、それでも、自分の知識がいつのまにか古びていると気がつき愕然とすることがある。例えば、哺乳類の分類法。クジラは、偶蹄目・奇蹄目と並んで目を構成していると思っていた。ところが、最近のDNA研究により、クジラとカバがごく近しい関係にあると判明したのである。ウシとカバよりもクジラとカバの方が近いとは、にわかに信じられないのだが。この結果、偶蹄目とクジラ目が合体して鯨偶蹄目なる分類が生まれた。もっとも、生物学者の方も混乱しているようで、目の名称を代表的な動物名で置き換える(すなわち、偶蹄目の代わりにウシ目にする)と決めながら、鯨偶蹄目をクジラウシ目とするのをためらっている。確かに、これではまるでウナギイヌだ。(3月17日)

  芸術作品の中には、歴史的には重要だが芸術的価値はさほどでないものが少なくない。芸術活動が袋小路に入り込んで停滞する中で、新たな活路を開くために古い形式を否定したものの、新しい形式を創造するに至らなかったケースである。芸術の流れを変えたという点で、こうした作品を批評家たちが高く評価することがあるが、妄言に踊らされてはならない。芸術の評価は、歴史の流れではなく、人を感動させる力で決まるものだからである。デュシャンやウォーホルの作品は、美術館よりも博物館に展示されるのがふさわしい。(3月24日)

  現在の不況を市場原理の破綻と見る向きもあるが、適切ではない。市場における価格均衡が実現されていれば、これほど深刻な事態にはならなかったはずである。実際に起きたのは、金融工学の結論部分だけを頭に入れたブローカーが、リスクの大きい債権や原油に異常な高値を付けたために、ここに資金が偏って市場が混乱したというものだ。多くのまともな市場関係者は、サブプライムローンには危険性を感じていたし、原油価格の高騰は行き過ぎだと思っていた。しかし、金融工学は、特定の条件下でしか成り立たない性質を一般化するという誤りを含んでいたにもかかわらず、難解な高等数学によって中身を明かさないまま権威付けされていたため、これを無批判に受け容れていた人々の直観を狂わせてしまった。ある商品(債権でも原油でもいい)の価格決定について考えてみよう。他人より高く購入するバイヤーがいれば、商品はそこに集まり価格が高騰する。通常は、その商品から派生する利益に限界があり、より安値で購入した業者の方が儲けが大きくなるので、高値で買うバイヤーに投資する人がいなくなって価格は下落に転じる。ところが、レバレッジによって巨大な資金を動かせる投資銀行が参入すると、話が変わってくる。何しろ、一時期は、世界中で数百兆円とも言われる資金が、投資銀行の思惑に連動して流れていたのである。資金が底をついて買い続けられなくなるという心配がない。商品は、最も高値をつけたバイヤーの元に集まり、他の業者は全て買い負ける。高値で買い付けでも、他の業者がいなければ事実上の独占状態となるので、利益は確保できる。そして、利益が確保されている限り、投資銀行からの資金流入はとどまらないのである。ここでは、市場の調整メカニズムが働いていない。ある商品に対して妥当と考える価格が人によって異なっていても、最終的には、これらの価格の平均値付近に落ち着くというのが調整メカニズムである。だが、無尽蔵の資金が動かせるとなると、市場価格は、平均値ではなく最大値にシフトしていく。価格変動は統計力学に基づいて予測できるという金融工学の前提が成り立っていないのだ。あるいは、最終的な価格を求める際の統計的重みが資金力に正相関し、資金力が価格に正相関するため、価格が高いほど統計的重みが大きくなるという非線形性が現れると言っても良い。もちろん、価格が永遠に上昇し続けられるわけはなく、どこかでカタストロフが生じる。これが、金融危機である。金融危機発生のメカニズムがこのようなものであるならば、対策もはっきりする。価格均衡を実現させるような市場原理を復活させれば良いのである。(3月31日)

  植物状態に陥っていた患者に外部から刺激を与えて症状を改善させるという治療法が、NHKで紹介されていた(NHKスペシャル『私の声が聞こえますか』)。特に、「お父さん、助けて」と言い残して意識を失った女性が、呼びかけに反応しハートマークを描くまでに回復したことは、驚きでもあり感動的でもあった。もっとも、過大な期待を抱いてはならない。一口に植物状態と言っても、脳の大部分が損傷を受けて回復は絶望的なケースから、病変部位が限局的でなぜ意識を取り戻さないのか不思議なケースまで、幅広いスペクトルを持つからである。後者のタイプの患者が突然回復した事例は、これまでにもいくつか報告されており、NHKの症例が最初というわけではない。脳に電極を差し込んでニューロンに刺激を与える治療法が奏功した事例はあるものの、電気刺激が何をもたらしたのかははっきりしない。パーキンソン病の症状が深部脳刺激で改善したケースでは、電気刺激が神経を活性化させたのではなく、むしろ傷害され異常な働きをしていた部位を失活させたからだとの見方もある。かつて精神病患者に電気ショック療法が施されたこともあったが、結局、治療効果が乏しい割に患者に与える苦痛が大きいと判明して、あまり利用されなくなった。うまくいった報告例があるという理由で作用メカニズムの明らかでない実験的な治療を施すのは、いかにもリスクが大きい。医学的な情報を公開し、きちんとインフォームド・コンセントを得た上で、慎重に進めていく必要がある。(4月6日)

  グーグルは、いま最も勢いが感じられるIT企業である。その秘訣は、守りの姿勢に入らないことだろう。新しいサービスを次々と企画するが、その中には、批判を浴びたり違法すれすれだったりするものもある。街角の写真を簡単に表示できるストリート・ビューは、プライバシーの侵害という問題を生んだ(一応、個人が特定できないように顔にモザイクを掛けるといった配慮はしているが)。著作権侵害で槍玉に挙げられているユーチューブを傘下におさめたのも、グーグル流の戦略の現れである。最近では、世界中の本がネットで読めるネット図書館構想をぶちあげている。絶版本のみを対象にすると言うが、書籍は流通スピードが遅いので、何が絶版が判然としない。アメリカで売られていないという理由で自分の著書が勝手に公開されたのでは、たまったものではない。閲覧サービスによる収入の63%を著作者に分配するらしいが、著作者の特定や送金方法など不明な点も多い。しかし、こうした問題山積のサービスを敢えて行おうというところがいかにもグーグルらしく、私は嫌いではない。(4月23日)

  『裁きは終りぬ』は、映画としては最上級の作品ではないものの、裁判員制度にも関連する厄介な問題を提起する。それは、人が人を裁くことの難しさである。映画で取り上げられるのは、進行ガンに苦しむ恋人を安楽死させた女性の裁判である。現実の事件ならば、耐え難い苦痛からの解放があったかどうかが重大な論点となるだろう。だが、脚本を執筆したシャルル・スパークは、あえてこの論点を避け、事件の経緯を錯綜させることで、複雑な思惑の絡む行為に黒白をつけることの難しさを浮かび上がらせる。被告が、女性・無宗教・外国人・医学博士という多様な特徴を備えているため、行為の意図を簡単に特定できない。しかも、審理中に被告が別の男性とつき合っていたという意外な事実が明かされ、重大犯罪である可能性も示唆される。結局、判決は中庸とも中途半端とも言えるものだった。「人間は多くの誤りを犯す。ならば、人を幸せにする誤りは許されるが、不幸にする誤りは許されない」−−登場人物の語る言葉が重い。(5月2日)

  芸術作品は、芸術家個人のものではない。近代的な芸術理論では、個人の才能と経験を重視するあまり、作品を完成させるのに必要な周辺要因を看過しがちである。だが、実際には、芸術作品は芸術家と環境の複雑な相互作用を通じて練り上げられ、鑑賞者の心の中で現成するものである。芸術家以外のファクターに目を背けていては、その本質が理解できない。わかりやすい例で説明しよう。ディケンズの『大いなる遺産』は、月刊誌に連載されるという形式で発表されたが、ハッピーエンドを望む読者の声に屈したのか、悲劇的な結末を迎えると思われた瞬間に、結ばれるはずのない二人が突如として愛に目覚め、メデタシメデタシで大団円となる。しかし、誰が見てもこれはおかしな幕切れだ。そこで読者は、このラストはなかったものとし、あるべき終幕を想像して作品を補完する。これこそ本当の『大いなる遺産』であり、芸術は芸術家個人が創作するという立場から読者の心の中にある補完版の存在を無視することは、逆に小説の価値を貶める。あるいは、ブルックナーの第8交響曲を考えてみよう。よく知られているように、ブルックナーには執拗なまでの改訂癖があった。初期に行われた第0から第3までの改訂は、作曲家として成熟しつつあった時期の作業であり、作品はより優れたものに生まれ変わった。ところが、第3交響曲の初演で大失敗した後は生来の弱気の虫が顔を出し、当時の流行に沿うように書き換えた結果、いくつかの作品(特に第3と第4)では、作品のおもしろさが減殺されている。この後、いったん立ち直って第7のような傑作を書くが、第8交響曲のときは、演奏を断られたショックから再び周囲に迎合するような改変を行ったため、改訂版は初稿よりつまらなくなった部分が多い。しかし、全てが悪くなったわけではない。特に、第1楽章の末尾で指定されたピアニシモは、圧倒的な感動を与える。そこで話が難しくなる。第8には、ブルックナーの自筆譜に忠実なノヴァーク版(第1稿と第2稿)と、二つの稿をつぎはぎしたハース版があるが、どれを採用するかは指揮者にゆだねられることになった。作曲家が与えた最終稿こそ完成形だという立場からすると、ノヴァーク版第2稿を採用すべきだろうが、私には、初稿の雄大さと第1楽章末尾のピアニシモを併せ持つハース版の方がより好ましく感じられる。これを選ぶことで、作品の完成に演奏家が力を貸すことになると思うのだが、いかがなものだろうか。(5月10日)

  鉋についていちばん詳しいのは、大工である。鉋のことは大工に尋ねるべきだ。たとえ、どこかの哲学者が「鉋とは、固く硬直した生命体にしなやかさと繊細さをよみがえらせることで、世界の再構築を可能にするツールだ」などともっともらしく論じたとしても、その言に学問的な価値はない。あたかも深遠な真理を語っているかのような口調にだまされてはいけない。難しい学術用語を駆使しているからといって、哲学者が鉋の本質を開示することはないのだ。鉋のことは大工に尋ねよ。そして、量子力学のことは、それを道具として利用している物性や原子物理の専門家に尋ねよ。(5月12日)

  最近、「アスペルガー症候群」なることばをよく耳にする。これ自体は精神医学の用語なのだが、どうも通俗心理学の立場から意味を歪曲して使用するケースが少なくないようだ。アスペルガー症候群とは、もともとはオーストリアの精神医学者アスペルガーの名に因む発達障害で、「言語障害のない自閉症」と定義される(もっとも、私には、言語障害の有無やIQの高低によらず自閉症を発達障害の類型としてひとくくりにすることに、無理があるように思われるが)。アスペルガー症候群の診断基準も医学的に与えられているが、症状の多くが必ずしもアスペルガー症候群固有のものではない点に注意を要する。例えば、アスペルガー症候群の人には、一般に「場の空気が読めない」という傾向が見られるが、逆は成り立たない。「場の空気が読めない」人の圧倒的多数は、単にコミュニケーション能力が不足しているだけである。この症状は環境要因によってもたらされるケースが多く、脳の機能障害と推測されるアスペルガー症候群とは区別しなければならない。さらに、アスペルガー症候群に関心を持つ人の中に、これを免罪符として使おうとする人がいることも、いささか気がかりだ。子供が集団にとけ込めず、一人浮いた言動を繰り返す−−以前なら親の育て方が悪いと非難されたケースだが、アスペルガーならば器質的な障害なので親の責任ではない。それだけに、親としてはアスペルガーと言われた方が気が楽なのかもしれない。だが、集団にとけ込めないのは、近所の子供たちと遊んだ経験の乏しい幼児には当然の傾向であり、家庭や幼稚園・小学校での教育を通じて改善していくのが好ましい。器質的な障害だからと大目に見ることは、単に親の心理的負担を軽くするだけで、子供のためにはならないだろう。(5月17日)

  自由主義経済において、何年かに一度の不況は必要な要素だ。不況下で効率の悪い企業が淘汰され、生産や流通の合理化が促進される。ちょうど、森林にとって火災が必要なのと同じだ。イエローストーン公園では、森林火災を防ごうと防火団が組織され、少しでも火の手が上がると直ちに消火するという体制を整えていたが、その結果として燃えやすい落ち葉が堆積し、1988年には、森林の4分の1を焼失するという世紀に一度の大火災が起きてしまった。今回の大不況の発生メカニズムも、これと似ている。FRBは自由主義に徹していたように見えるが、実は、好況のときには自由に任せながら、景気が悪くなりそうなときは対策を講じて不況の芽を摘んでいた。2000年のIT不況が小規模に終わったのも、そのせいだろう。まるでラチェットのように歯車を一方向に回転させ続けたため、非現実的な金融工学に後押しされて投資マネーが暴走し始め、結果的に世紀に一度の大不況を招来したわけである。2000年の不況をもう少し深刻化させていれば、事態がここまで悪化することはなかったろう。(5月28日)

  新聞にドームハウスの広告が掲載されていた。50〜100m2の住宅で、構造的に見て地震や台風に強いという。素材には発泡ポリスチレンを用いており、90m2のドームハウスを見ると、リビング・ダイニング・寝室・和室が独立してあり、なかなか暮らしやすそうだ。ただし、どうしても気になるのがコストである。広告には、どこにも価格が記されていないが、おそらくかなり割高になるだろう。現在の戸建て住宅の多くがプレハブであり、規格化されたパーツが工場生産されている。窓枠やサッシ、バス・キッチンの設備など、共通規格に則って大量に作られているため、価格はかなり抑えられる。ところが、ドームハウスの場合、壁も天井も湾曲しているために、かなりのパーツをドームハウス用に特注しなければならない。そのため、全体的なコストが嵩上げされ、普及が妨げられるような価格にせざるを得ないだろう。ドームの構造体は、生産・運搬に不向きな形状をしており、プレハブが難しい。しかも、組立にはドーム構造に習熟した大工が必要になりそうだ。モジュール化が進んでコストの低減がはかられるまでは、ドームハウスが建てられる機会は少なそうだ。(5月31日)

  人間とは一つの現象である。そう考えるのが、科学的知見と照らし合わせて最もしっくりする。
 自分という存在を実体的なものとして捉える発想は、現在という時刻の絶対性に依拠している。唯一のリアルな時刻である現在は、時間の経過という形で更新され続ける。現在が更新されるのに対して、自分は存在し続ける−−この連続性を保証するために、実体的な自己という概念が必要とされるのである。実体的な自己は、時間の経過の中で変容するだけで、存在することに変わりはない。「存在し続ける自己の変容する過程が人生だ」という見方は、実にシンプルでわかりやすい。ただし、残念なことに、科学とは矛盾する。科学の教えによれば、現在を他の時刻から区分することはできず、時間とはどこにも区分のない拡がりの次元である。人間は、現在の更新にあらがって存在し続ける実体ではなく、誕生から死に至るまで拡がった過程である。われわれが自分の心として捉えるのは、協同現象を通じて部分空間に形成された自律的な秩序パターンなのだ。自分が実体的でないと認めるところに、科学と哲学の調和が生まれる。(6月2日)

  無精ヒゲが一種のファッションとして定着してから、もう何年になるだろう。年輩の人から見ると薄汚いだけに思えるかもしれないが、それなりに自己主張となっていておもしろい。かつてヒゲと言えば、カイゼル髭やコールマン髭のように特定の“型”にカットするのがふつうだった。しかし、こうした型は、嗜好の変化とともに移ろっていく。何年も同じ型を続けていると、いつしか物笑いの種になりかねない。これに対して、無精ヒゲには型がない。それだけに流行遅れになりにくく、いつまでも続けることができる。これも不易のあり方なのか?(6月9日)

  SFで“静かなる終末”が好んで描かれるようになったのは、いつ頃からだろう。かつては、戦争や災厄で人類が滅亡するというパターンが多く、滅びの前のパニックをリアルに描出する作品が好まれた。だが、近年の作品(特に日本のマンガやアニメ)では、むしろ人類がしだいに衰退し、静かに消え去っていくという設定の方が目に付く。もっとも、こうした設定自体は、かなり以前からあった。その嚆矢となるのが、T.S.エリオット "The Hollow Men" の有名な一句 "Not with a bang but a whimper" ではなかろうか。静かなる終末を描いた小説は、オールディスの『地球の長い午後』にとどめを刺すだろう。『風の谷のナウシカ』の原典とも言えるこの作品は、人類の未来を予言して、あまりに切ない。(6月17日)

  ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』は、果たしてドキュメンタリーと呼んで差し支えないのだろうか? 確かに、ここに登場するのは、実在するリスボンのスラム街であり、住民たちのすさんだ生活がリアルに描かれている。彼らは多かれ少なかれ麻薬中毒患者で、ある者は注射器を使い、ある者はライターで炙って、麻薬を摂取している。映画は、その状況を何の解説もなく延々と映し出す。麻薬で体を壊しているのか、人々の動きはのろく、どこか投げやりである。主人公のヴァンダは、ひどく咳き込んで苦しそうだ。監督は、こうした姿を撮影するため、小型のデジタルカメラを携えて、2年間にわたって生活を共にしたという。その結果、カメラを意識しない自然な姿が撮れた−−ようにも見える。だが、注意深く観察すると、必ずしもありのままの姿でないことがわかってくる。時折、詩的な警句が口の端から漏れ、それに呼応する映像が挿入される。スラム街を取り壊す工事の物音が絶妙なタイミングでBGMの役割を果たす。前景と後景で同時にアクションが進行し、その調和の取れた動きは偶然の域を超えている。こうした作為性は監督の演出なのか、それとも、2年間にわたって撮影している間に、見る者と見られる者の共犯関係が成立したのか。もっとも、この映画にそうした想像を峻拒する厳しさがあることも、また事実である。(6月21日)

  日経新聞に「その行列、並びますか?」という特集が掲載されていた。1時間以上並んだケースとしては、テーマパークのアトラクションが最も多く、アンケート回答者の過半数が体験していた。初詣になると、1時間以上の体験者は20%、人気の飲食店はぐっと減って12%程度になる。ちなみに、私の場合は映画がらみで並んだことが一番多い。レンタルビデオもWOWOWもなかった時代、名画を観られる数少ない場が京橋のフィルムセンターだったが、有名作品の上映会では、映画開始の3時間前までに行列に並ばないと入場できなかった。東京ファンタスティック映画祭なら3時間前、東京国際映画祭の人気プログラムなら3〜4時間前が相場だった。なぜか3時間というケースが多いが、2時間そこそこの映画に対する待ち時間としては、これが限界だからだろうか。(6月22日)

  これまで見たTVドラマのベスト5を選んでみた。(1)四季・ユートピアノ(NHK、'80) (2)喪服のランデブー(NHK、'00) (3)日本の面影(NHK、'84) (4)仮面ライダー555(テレ朝、'03) (5)クラインの壺(NHK、'92)……NHKの名作群の中に仮面ライダーが混じっているのが私らしさか。(6月26日)

  クラシック音楽の演奏は、これからどこへ向かうのだろうか? 20世紀は、作曲家よりも演奏家が台頭した時代だった。世紀前半には、作曲の分野でしぼんでしまったロマン派の流れを演奏面で復活させるかのごとく、フルドヴェングラーやコルトーのような思い入れたっぷりの演奏が人気を博した。しかし、世紀後半になると、楽譜に忠実であることが目標だとでも言わんばかりに、カラヤン、ポリーニといった完璧を求めるスタイルが主流になる。これは、録音技術の向上と密接な関係があるだろう。1回限りのコンサートならば、テンポ・ルバートを多用し、スフォルツァンドで思い切り音を鳴らしても、面白い演奏として評価されるかもしれない。だが、気に入った演奏をレコードで何度も繰り返して聴く鑑賞法が普及すると、そうした演奏は鼻につくものとして嫌われ、スタンダードとなる正確な演奏が求められるようになる。これの流れは演奏技法の上で極限にまで達し、実演では、カラヤンやポリーニの最高の録音を超えることがほとんど不可能になった。とすれば、次は何をすべきなのか。
 考えなければならないのは、現在のコンピュータによる演奏が生身の人間を超えつつあるという事実である。望むならば、楽譜に完全に忠実であることも可能だ(もっとも、楽譜からmidiに変換したマーラーのシンフォニーを聴いたことがあるが、おぞましいほどに平板だった)。楽譜から1/16音ずらすことや、1/32拍早くあるいは遅くすることなど朝飯前である。音の拡がりや音色の変化を操作する方法も開発されている。まるではやる心を抑えるかのようにほんのかすかにアッチェレランドすることも、何分も掛けてゆっくりゆっくりディミヌエンドすることも、やろうと思えば簡単だ。シンセサイザーにその機能があれば、シタールや尺八の音も作り出せる。しかも、このようにして作成した演奏を全て記録し再生するだけでなく、自在に組み合わせて再構成することも難なくできる。とすれば、それはもはや人間の演奏よりも遥かに多彩で創造的なものになるのではないか。テクノロジーの進歩によって、完璧な演奏は意味を失いつつある。聴き手が求めるのは、完璧さとは異質の何かかもしれない。そう言えば、宮田まゆみの笙のリサイタルで不確定性を持つジョン・ケージ作品が演奏されたとき、録音で聴いていたときには屁とも思わなかったケージの音楽が異様な緊張感に満ちあふれた新鮮なものに感じられ、心ならずも感動してしまったが、この方向に新世紀の演奏の道があるのだろうか。(7月5日)

  わけあって麻雀に興味が湧いてきた。かつての日本で、麻雀は、中年サラリーマンの娯楽であり、酒を飲みながら会社帰りのひとときを過ごすためのものだった。そのイメージが未だに強く残っており、麻雀に対して悪印象を抱いている人も少なくないだろう。しかし、本来の麻雀は、コントラクトブリッジと並ぶテーブルゲームの王者である。偶然の機会と知的な戦略が適度に絡み合って興趣を誘う。チェスや囲碁のように純粋に戦略的なゲームは、有段者と初心者の間に実力の差がありすぎる。また、ポーカーや花札は偶然の要素があまりに強く、射幸心を煽るばかりだ。これに対して、麻雀は、捨て牌の選択に関して戦略が重要になるが、それでも、初心者がプロに勝つことができるほど偶然がものを言う。中には、単なる偶然ではなく“場の流れ”によって出る牌が決まると言い出す人もいる。物理的にはあり得ないことだが、場の流れを信じて大胆になったり慎重になったりするプレーヤーはいるので、そこまで読んだ上で戦略を立てると、あたかも場の流れを制御しているかのようなプレーを実践できる。こうした戦略性が麻雀の醍醐味だろう。(7月12日)

  ハンス・ロットは、100年の忘却から甦った作曲家である。オルガン演奏をブルックナーに師事し、マーラーと同時期にウィーン音楽院で学んだ彼は、後期ロマン派の一翼を担う存在になるはずだった。だが、同時代人に理解されないまま25歳の若さで世を去る。作品の多くは散逸したが、死後100年以上を経て何篇かの手稿が見つかり、復活上演される機会も訪れた。私が鑑賞できたのは交響曲第1番である。ブルックナーやマーラーを思わせる華やかな大管弦楽曲で、偉大な作品とは呼べないかもしれないが、シューマンやメンデルスゾーンの交響曲よりも親しみを持てる。特に第4楽章の冒頭は、マーラーの第7交響曲を彷彿とする。マーラー自身、ロットを高く評価していたようで、管楽器に主旋律を演奏させる効果的な技法をはじめ、民謡の引用やムードの急変など、多くの点で影響を受けたことが窺える。(9月5日)

  芸術における模倣の問題を取り上げたい。批評家は、模倣をあまり快く思わない傾向にある。模倣は避けるべきだという態度をあらわにする批評家も少なくない。しかし、私には、模倣は偉大な芸術を成立させるための重要なファクターだという気がする。ベートーヴェンはモーツァルトやハイドンを、レンブラントはルーベンスを、シェークスピアはマーローを模倣した。しかし、だからと言って作品の価値は削がれない。なぜなら、模倣しながらも、さらに多くのものを付け加えているからだ。
 創造性に富んだ芸術家は、先行作品を前に、自分ならば同じ構想に基づいて新たな傑作を生み出せると確信する。だからこそ、彼らは模倣を恐れない。模倣を恐れなければならないのは、二流の芸術家だ。模倣したとたんにオリジナルと比較され、才能のなさが露わになってしまうのだから。
 二流の批評家も模倣に対して過剰に厳しい。感受性に欠けるため何が真に優れた作品かを判定できないような無能な批評家であっても、ある作品が別の作品と似ているかどうかだけはわかるからだ。他の批評家がまだ目を向けていないマイナーな作品を敢えて取り上げ、類似した先行作品がないことを指摘して“独創的だ”との評価を与えれば、まるで自分が優れた作品を発掘したかのように誇れる。それだけに、二流の批評家にとって、模倣の有無は作品を評価する上で本質的な基準となる。実際には、他に類例のない駄作なのかもしれないのに。
 模倣は、芸術作品の質を判定する基準にはならないと見なすべきである。(9月9日)

  涼宮ハルヒ『エンドレスエイト』の罠から抜けられない。録画ビデオを枕元に置いて毎晩のように繰り返し見ているが、それでも作品の持つ衝撃は薄れない。第1話に接したときには、どちらかと言えば出来の悪いエピソードに思えた。しかし、その印象は第2話で作品の結構が明らかになると一変する。たった一度の高1の夏休みを悔いなく終えたいという平凡な願いが時間をゆがめ、満足が得られるまで延々と同じ2週間を繰り返す−−同じような発想に基づくSF作品は、『ビューティフル・ドリーマー』をはじめ、これまでにも数多くあった。『エンドレスエイト』の凄さは、その異常なまでの執拗さにある。作品中で明かされる繰り返しの回数は1万数千回。これだけでも、悔いのない夏休みが現実には不可能であることを示唆する。さらに、途方もない繰り返しを実感させようとしてか、テレビアニメとして間違いなく空前にして絶後の試みを敢行する。同じシナリオの繰り返しだ。全8話のうち、第8話だけは決着を付けるためのエピソードが加えられているが、その部分を除けば、全話がほぼ同一のシナリオで制作されている。にもかかわらず、各話ごとに特色があって飽きさせない。例えば、第2話はクローズアップによって緊迫感を増し、第4話は積乱雲と飛行機のモチーフを絡め、第5話では事態の悲劇性を浮き彫りにしている。すでに延べ30回以上見ているが、まだ作品の奥深さをつかみきれない。(9月14日)

  長い間読みさしのままにしていたオクタヴィオ・パスの『弓と竪琴』を改めて手に取ってみたが、以前に難解に思えたのが嘘のように面白い。学問的な見地からすると、ここで論じられている主張は、正当な根拠を欠いており首肯しがたい。例えば、社会体制の硬直化と言語の乱れを関係づけた議論があるが、現実には、独裁政権下での統制によって言語が規範化されることも、移民を容認する柔軟で安定した社会で言語の多様化が進むこともあるので、パスの主張には無理がある。だが、これを学問的な論文ではなく、詩人でありながら革命的であり得るというマニフェストとして読むと、その真意がはっきりと理解できる。民主制が生み出した見えざる圧政として資本主義を糾弾するとき、パスが頼りにするのは言語の力である。資本主義は、専制君主のように具体的な姿を現していないために、ターゲットを定めにくい。こうした見えざる圧政に立ち向かうには、社会の構造を明確に言語化し透徹した洞察を提供することが重要であり、そのためには、言語が持つ本来の力を知悉した人材が役に立つ。ここで、詩人という存在の政治的意味が確認される。詩を捨てて革命に走るのではなく、詩によって革命を実践するのだ。この詩論は、詩作が政治からの逃走ではないことを改めて確かめる作業の上に成立したものである。(9月27日)

  日本人は、一般に子供好きである。これは、母性的な愛情をもって子供を慈しむということに限らない。性的に成熟する前の段階の子供に文化的な価値を見いだし、大人社会の異分子として鑑賞することを意味する。子供は小さな大人ではなく、子供であるが故に独自の価値を持つという立場だ。稚児への愛着や幼児神信仰という文化は世界各地で見られるものの、日本を含む東アジアで特に顕著だと思われる。
 日本人好みの顔立ちというのがある。マンガに描かれる美少年・美少女に共通するもので、眼が大きく鼻や口は小さい。全体に丸みを帯びている。彫りが深く鼻筋の通った欧米人好みの顔とは対照的だ。日本人が好む特徴は、多くの点で幼児を思わせる。幼児期には、顔に占める眼の比率が大きく、顎が未成熟なために口が小さい。凹凸に乏しく全体的に丸いのも、幼児顔の特徴である。ついでに言えば、男性で嫌われる三大要素としてチビ・デブ・ハゲが上げられるが、これらはいずれも思春期の少年が持つ特徴の裏返しである。
 欧米には子供を偏愛する文化的な素地が乏しいため、日本人の子供好き−−特に、その身体的特徴への愛着−−は変態性欲と結びつけて解釈されがちだが、これはあくまで、民族固有の文化と見なすべきである。もっとも、子供好きの傾向は、東アジア全般、さらには、アフリカや中南米にも見られるので、子供嫌いのヨーロッパ人を変わり種と言うべきかもしれない。(11月19日)

  芸術作品の評価が人によって異なるのは当然である。しかし、基本的な設定に関して見解の相違があるとなると、事態はやっかいだ。ここで取り上げたいのは、ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』である。この作品は、『薔薇の名前』『前日島』とともに、悲劇・喜劇・曖昧劇というシェークスピア的なトライアングルを形成している。『薔薇の名前』が悲劇であることに異論はないだろう。この小説では、理性を象徴する修道士ウィリアムの努力にもかかわらず、アリストテレスの真意を理解せずに表面的な主張に盲従する狂信者の混迷が最終的に勝利する。啓蒙の光を無知の暗黒が消し去るというプロットは、悲劇そのものである。これに対して、『フーコーの振り子』は、真意を理解できない人間の愚かしさを描く点が共通するものの、『薔薇の名前』とは逆に、右往左往した挙げ句に自滅する狂信者を徹底的に笑い物にしている。この大笑いできるコメディを深刻な小説と誤読する人が多いのは、何とも不思議である。
 『フーコーの振り子』は、陰謀史観を笑い飛ばす小説だ。歴史の背後に秘密結社の謀略があり、その痕跡はミステリアスな風習や暗号めいた文書の中に残されている−−そうした主張がいかにバカバカしいかを語っている。ただし、小説の構造に仕掛けがある。トンデモ本専門の出版社で仕事をしているうちにミイラ取りがミイラになって陰謀史観に毒されてしまった青年のハチャメチャな冒険が描かれるのだが、青年の視点から話が進行するため、陰謀渦巻く虚偽の歴史がいつしか現実を浸食し、虚実のあわいに物語が飲み込まれていくのだ。と言っても、読者が踏み迷わないようにと、エーコは至る所に手がかりを残している。暗号が隠されているとされる有名な文学作品−−例えば、シェークスピアの『十二夜』−−を解読する議論が、いかにも素人の犯しそうな誤解に満ちていたりするのだ。目の肥えた読者は、誤解と偏見の詰まった擬似文献学のレトリックに思わず吹き出し、ラストにおける暗号解読のくだりで文字通り抱腹絶倒することになる。(12月3日)

  近年の3Dアニメはきわめて高度なものになっているが、それでも、どうしても描き切れていない点がある。人間の重量感だ。3Dのキャラが歩く姿は、妙にヒョコヒョコして操り人形のように見える。その理由は、おそらく慣性を適切に表現していないことにあるのだろう。自分で手足を動かしているときにはそれと意識しないが、人間の体は意外に重い。ふつうに歩いているときでも、足を着地させた際に、いったん体がぐっと沈み込む。そして、初めのうちはゆっくりと、次第に加速されながら全身が持ち上がっていく。ひとたび動き始めるとしばらくは滑らかな運動が続き、ときには空中に放り出されるような振舞いすら示す。肉体の重量は、運動における慣性として現れるのだ。ところが、3Dグラフィクスの人体には、そうした重量感がない。具体的には、運動の開始から終了に至るまでの加速度が適切に求められていないように思われる。計算そのものはさして難しくないはずだが、どのポイントで加速・減速するかという設定が甘いのだろう。(12月19日)

【「徒然日記」目次に戻る】



©Nobuo YOSHIDA