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  人間は、日常的に体験するすることを当たり前と感じがちである。しかし、実際には、科学的な説明を要するケースが少なくない。例えば、暗い所では色合いが良くわからず、形だけが見えることがある。暗いのだから色が判然としないのは当然だと思う人も多いだろう。幼少時からそうした体験を積んできたのだから。だが、科学的な観点から見た事実は異なる。色を識別する受容体の感度が低く、明度が低下して情報量が少なくなると、まず色彩の識別能力が機能しなくなるのだ。もしこの受容体の感度が高ければ、暗くなったときに、まず形がわからなくなり、色だけがぼんやりと見えることになるはずである。「当たり前」と思う心は科学の敵である。(1月8日)

  バブル崩壊が日本経済低迷の引き金になったという見方は、全くの誤解である。生産性を高める上で有効な投資がなされなかったバブル期こそ競争力が損なわれた時期であり、1991年に起きた株と地価の暴落はバブル経済の必然的な帰結である。大蔵省が1990年に導入した土地取引に関する総量規制は失策と言わざるを得ないが、それは導入が遅すぎたからであり、1988年頃の地価高騰が始まった頃から規制を始めていれば、ダメージは遥かに小さかったはずだ。この点を正しく認識していないと、再び不況に向かいつつある日本経済を正しく舵取りできないだろう。(1月10日)

  さまざまなランキングで日本の評価ががた落ちしている。一人あたりのGDPや国際競争力では、既にOECDの中で下位レベルの国に成り下がったようだ。しかし、悲観的になる必要はあるまい。そもそも、高度成長期の日本がおかしかったのだ。過去1000年の歴史が物語っているように、日本人は殖産興業にそれほどシャカリキになる民族ではない。太平洋戦争にボロ負けしたトラウマで、もはや仕事をするしかないと馬車馬のように働き続けたが、国家経済が安定すれば、本来の遊び心がうずいてくる。最近の日本における大衆文化(アニメやマンガのみならず、ファンタジーやミステリーなどの文学、J-POPと呼ばれる音楽、ストリートファッションからインテリアデザインに至るまで)の興隆は、日本人が本来の姿に立ち戻ったことを示している。経済大国というメッキがはがれて、その下から純金の地金が現れたようなものだ。このまま自信を持って、文化大国の道を歩めばよい。(1月13日)

  意識は常に身体制御の指令を含んでいる−−これが、私の仮説における重要な主張の1つだ。例えば、夢について思い返してみてほしい。睡眠中は感覚入力が抑制されているので、身体的な要素を排除した“純粋意識”とでも言うべき夢を見ることも可能なはずだ。だが、実際に体験する夢は、与えられた状況に対して反応しようとする動きから成り立っているように思われる。“悲しみ”のような情動であっても、内臓感覚に端を発し嗚咽や慟哭に至る身体的な過程として立ち現れるのではないか。そんな考えを訝しく感じるならば、そうではない夢の体験を語ってほしい。視点の変更のない光景、数字や言語のようなイデアだけの表象、身体性が捨象された情動−−そうしたものが可能だと言えるならば、私の主張は崩れ去る。(1月18日)

  コンピュータ・ウィルスを作成・送信していた大学院生が逮捕された。と言っても、ウィルスについての容疑ではない。ウィルスの中に人気アニメの画像を挿入したことによる著作権侵害の容疑である。ウィルスはコンピュータ内のデータを破壊するものなので、データを財産と認めるならば、不特定の他者の財産を侵害する犯罪行為として立件できそうである。しかし、コンピュータ犯罪に関する法整備が遅れているため、警察が及び腰になっているというのが現状だ。日本はコンピュータ犯罪を防止するための国際条約を批准しており、ウィルス作成・送信を罪とする法律の制定が義務づけられている。ところが、法案が国会に繰り返し提出されていながら、審議未了・継続審議になってしまう。どうやら国会議員がこの問題に無関心らしい。議員の元に次々とウィルスが送りつけられ政治資金提供者のリストが流出するといった事態にでもなれば、3日で法律が制定されるような気もするのだが…。(1月23日)

  デジタル機器を使えば正確な録音・録画ができると期待してしまうが、実際にやってみるとそうでもない。デジタル制御のためのソフトウェアに一種のクセがあり、それを見極めない限りアナログ時代以上の失敗をしてしまうからだ。代表的な例が、VRフォーマットによる DVD の録画である。DVD-Video がディスクの内側から時間順に映像を記録していくのに対して、VRフォーマットではデータを分割してディスクのあちこちに記録することが可能である。分割されたデータをソフトウェア制御で結びつけて再生するので、DVD-Video と異なって編集が容易に行えるのだが、この制御の仕方がモノによって微妙に異なるため、あるDVDレコーダーでVRフォーマットによる録画を行い、これを別の機器で編集し直そうとしても、なかなかうまくいかない。音がずれたりカットしたはずのCM画面が一瞬現れたりして煩わしいため、結局は再エンコードするはめになる。また、DVDはフィルムと異なってコマ毎にデータを記録している訳ではないので、正確な編集にはコツがいる。実際にカットしたい地点からわざと何コマか(私が使っているソフトでは15コマ)ずらして編集しなければならないこともある。こうしたクセを把握するまでには、かなりの期間が必要となる(2月7日)

  1999年、綿アメの割り箸を持っていた4歳の男児が転倒した際に箸をのどに突き刺し死亡するという事故が起きた。解剖したところ、頭蓋内に7cmあまりの割り箸片が残っていたという。このとき治療に当たった小児科医は、傷口に薬剤を塗布しただけで帰宅させていた。この小児科医の行為が過失に当たるとして刑事・民事で裁判が行われていたが、刑事裁判は06年に東京地裁で無罪判決が出された(2008年12月に高裁でも無罪判決となり無罪確定)。一方、民事裁判の判決は今月に東京地裁で言い渡され、両親による賠償請求が棄却された。
 私は、刑事事件としての無罪判決は妥当だと考える。診察した時点ですでに頸静脈が損傷されており、治癒は難しかったと推定できるからである(少なくとも、医療行為が死の原因になったと認定することはできない)。また、医師が平均的な医療水準に達する治療を行わなかったことは事実だが、傷口に薬剤を塗布するという行為そのものは医療業務の規範から逸脱しておらず、著しい過失があったとは認められない。一般的に言って、医療過誤になる死傷事故は、酩酊状態で手術をしたといった著しい過失がない場合は、民事裁判による損害賠償によって解決すべき案件だと考えられる(懲罰的賠償制度のない日本では、満足できる賠償金が得られないという問題は残るが)。今回のケースで意外だったのは、民事でも訴えが受け容れられなかった点である。医療行為が死亡の直接的な原因ではなかったにしても、手厚い治療が受けられない状態で我が子を死なせたことによって両親が受けた精神的ダメージはきわめて大きいはずだ。それに対する慰謝料は必要ではないだろうか。(2月14日)

  フィギュア・スケートの世界選手権で浅田真央が初優勝した。滑り始めでいきなり派手に転倒しながら、見事に持ち直して獲得した栄冠である。中野ゆかりが4位に入賞したほか、韓国のキム・ヨナが銅メダルを手にした。世界ランキングでも、上位5位までのうち日韓の選手が4人を占める。となると心配になってくるのが、ルールの変更である。かつて氷上のバレーとも呼ばれ、伝統のある西ヨーロッパやロシア、プロとなって莫大な収入を期待できるアメリカの選手が常に上位を独占してきたフィギュアだけに、ここにきての東洋勢の台頭に横車を押したくなる人が現れてもおかしくない。日本や韓国の選手がフィギュアで好成績を収めるようになった背景に、ジャンプの重視がある。審査員の買収という不正行為が発覚した後、採点の公正化を図るため、演技ごとに細かく得点がつけられるようになったが、その際、回転数の多いジャンプにきわめて高い点が配された。この結果、スピンやスパイラルがどんなにすばらしくても、3回転以上のジャンプをする選手の方が得点が伸びることになったのである(スピンの基礎点は最高でも3点台だが、4回転ジャンプは8点以上となる)。ジャンプは膝や足首への負担が大きいため、どうしても体重の重い選手には不利になる。こうして小柄なモンゴロイドがランキング上位に名を連ねるという状況が生まれた訳だが、欧米の選手が勝ちやすいように配点をいじろうとする動きがでないとも限らない。もっとも、個人的には、スピンの美しい選手が好きなのだが。(3月23日)

  東大生の両親の収入は、同世代の平均よりもかなり高いという。東大に入るためには、私立の進学校に入学するか、レベルの高い予備校に通わなければならない。小学生の頃から塾通いすることも必要だ。それだけの教育費を負担するためには、親に充分な収入があることが要求される。簡単に言えば、金持ちだけが子供に高度な教育を行えるので、東大生の親は金持ちが多い−−そんな解釈が一般的なようだ。しかし、本当にそうだろうか? 子供が勉学にいそしむ家庭環境を築き、読書を促し教養を尊重するような親は、自身が知的であることが多い。このように知的な人間ならば、仕事でも成功を収める蓋然性が高いと言えるだろう。つまり、知的で有能な人間は仕事も子育てもうまくいき、その結果として、収入が多く子供がハイレベルの学校に進むのではないか。とすれば、東大生の親の収入が多いことは、社会で知性が役に立っている証であり、むしろ喜ばしいデータと言えるだろう。(3月26日)

  デパートやスーパーの売り上げは減少が続いており、消費不況は脱しきれていないとの見方がある。しかし、経済活動全般のデータは、必ずしもその傾向を裏付けていない。07年のデパート・スーパーの売り上げはピーク時に較べて2兆円強減少、コンビニ売り上げも8年連続で前年割れ、小売店全体では10兆円の消費が失われた。ところが、消費支出そのものは10年間で9兆円増となっており、消費不況どころか消費拡大が続いている。統計にははっきり現れていないが、そのかなりの部分がネットショッピングに流れたと見られる。消費者はなぜネットで買い物をするのか? (1)時間が節約できる。店までの往復時間を考えると、深夜に自宅で即座に購入できるネットは実にありがたい。(2)品揃えが豊富。現実の店舗では、陳列スペースに限りがあるので、かさばるものや少量多品種の商品は充分に品揃えできない。しかし、ネットにはその制限がない。(3)検索が容易。特定のスペックのパソコンがほしい、あるジャンルの書籍を求めているといったとき、ネットで探すと簡単に目的の商品に行き当たる。ひとたびネットショッピングに馴染むと、もう昔の買い物には戻れなくなる。(3月30日)

  『カンブリア宮殿』(テレビ東京)で日清食品の社長が、「大ヒット商品にするには、おいしすぎてはいけない」と発言していた。分かるような気がする。食品開発の現場にいる人は、つい口に入れた瞬間においしいと思うものを良しとしてしまう。しかし、それでは味覚への刺激が強すぎる。強い刺激は、最初の体験で大きなインパクトを与えるものの、すぐに体が順応してしまう。1回目にはものすごくおいしいと感じるのだが、3回目には「はて、こんな味だったか」と訝り、5回目には「味落ちてない?」と思い始める。そして7回目には、どうしてこんなものをおいしいと感じたのかと憤り、もはや口にすることはない。これでは、スマッシュヒットを飛ばせるかもしれないが、ロングヒットにはならない。いつまでも飽きずに食べ続けられる商品の場合、最初のときの印象はそれほどでもないが、ついまた食べたくなり、いつしか50回、100回と食べ続け、いつしか食習慣に組み込まれてしまう。こうした商品を作るのが、食品会社の理想である(4月2日)

  塩と砂糖では砂糖の方がずっと値段が高い。なぜか? この問いに対してどう答えるかは、その人が文系か理系かを見分ける手がかりとなる。素直に考えれば、塩が自然界に豊富に存在しているのに対して、砂糖は、サトウキビなどを人為的に栽培しなければ入手できない。絶対量が少なく採取コストの高い砂糖の方が価格が高くなるのは、経済学的に見て当然だ−−これが文系人間の解答である。しかし、理系人間は、この解答に満足しないだろう。ここで、なぜ塩が豊富にあるのかを考える必要はない。惑星上の主たる水系(=海)に電解質が大量に存在しなければ、生命は発生しないからである。考えるべきは、塩と砂糖が果たす生物学的な役割の違いである。海における塩分は、生命誕生のバックグラウンドであると同時に、そこから脱しなければならない平衡状態を規定する。実際、生命活動の基本は、能動的なイオン輸送によって体液の塩分濃度に変化を引き起こすことであり、電解質バランスを調整するために、生物は外部から塩分を摂取することがある。ただし、平衡状態からのわずかなずれをコントロールするためのものなので、周囲に存在する大量の塩分に対して必要量はわずかだ。一方、糖は平衡状態から持続的に引き離すための自由エネルギー源であり、物理的な平衡状態を保とうとする無生物環境にはもともと存在しない。他の生物が関与する特殊な状況下でしか生成されない稀少な物質なので、その獲得には生物的ないし社会的な対価が必要となる。これが、砂糖が塩よりも高価になる理由だ……と結論していい気になるのが理系人間だが、実際には、糖分は主に穀類から摂取しており、砂糖は単なる嗜好品にすぎないため、この主張は的をはずしているのかもしれない?(4月6日)

  インターネットでの情報提供が拡大するのに伴って、ITリタラシーに乏しい高齢者らが情報難民となる危険が指摘されているが、ちょっと待っていただきたい。インターネットこそ、かつての情報難民を救済してくれた功労者なのである。口コミが最大の情報源だった時代、身近に情報提供者のいない人は、社会生活を営む上で必要な情報が得られずに不便を強いられていた。早い話、町のどこに医院があるかも、電話帳で下調べをした上で、地図を片手にうろつきまわらなければわからなかったのだ。インターネットの普及によって、わざわざ他人に尋ねなくても情報が得られるようになったことを、情報難民の救済としてもっと前向きに評価しても良いのではないか。(4月18日)

  今や東京は、世界一のグルメタウンになった。単にミシュランの星が沢山あるというだけではない。世界中の料理を堪能できるメニューの多様性があるからだ。かつてレストランと言えば和食・洋食・中華の3種類だけ、それも後二者は限りなく和食化されたものだった。しかるに現在では、フランス料理・イタリア料理はもちろんのこと、ロシア料理・スペイン料理・オーストラリア料理の専門店まである。高級中華料理店は、本場から料理長を招いているところが少なくない。さらに、これらの専門店の狭間にさまざまなタイプの融合店がある。和のテイストを活かしたフランス料理は昔からあったが、洋食風の中華を出したり東南アジア各地の料理を総ざらえ的に揃えたりする場合も稀ではない。さらに、エコ重視や健康志向など独自の方針を掲げたところ、マヨネーズ料理専門というマニアックな店まである。おいしいだけの料理店なら世界の大都市には珍しくないだろうが、この無節操なまでの越境ぶりは東京独特の風物ではなかろうか。(4月24日)

  光市母子殺人事件の被告に対して高裁で死刑が言い渡された。
 犯行時に被告が18歳の少年だったこともあって、この裁判は、きわめて特異な経過を辿った。一・二審では、少年だったことを重視して無期懲役となったが、死刑を求める検察側が上告、最高裁で差し戻された後、今回の判決に至った。この事件・裁判に関して論点はいろいろとあろうが、私は、最高裁段階で結成された大弁護団の主張を取り上げたい。一・二審では被告側は犯行を認めた上で情状酌量を求め死刑を免れたが、差し戻しの控訴審では殺意がなかったとして傷害致死で争う姿勢を示した。しかし、この弁護側主張には大きな問題がある。
 被告本人が接見で殺意を否認したことは事実かもしれないが、拘禁が長期にわたった刑事被告人が犯行時の心理状態に関して自己を正当化する方向に記憶を歪曲するのは一般的な傾向であり、弁護士といえども被告の言を直ちに真に受けるべきではない。通常の弁護士は、他の証拠との比較考量を行った上で、被告の主張が事実として認めがたいときには、質問を繰り返して疑問点を追求する。にもかかわらず、弁護団は他の証拠と整合性のない告白をそのまま採用し、殺意がなかったとの立場を貫いた。
 殺意がなかったという主張は、いくつかの点で合理性に欠ける。精神病理学の観点から考えてみよう。学問的には、異常な行為にも明確なパターンを見いだすことができる。例えば、母親を殺害した少年が、切断した手を植木鉢に植え、首を鞄に入れて持ち歩いたという事件があったが、これは死体切断や死体装飾の行動として類型的なものであり、異常ではあっても不可解ではない。しかし、今回の事件で弁護側が主張した「甘えようとして抱きついたが、死んでしまったので儀式として屍姦した」という行動は、類例を思いつけないもので病的なパターンからも逸脱している。一般的に言って、屍姦は相手との心理的なつながりを峻拒する行為であり、甘えたいという意識のまま死体と性交するとは考えにくい。また、死体との性交を儀式として捉える見方は妄想としては稀ではないが、被告に統合失調症などによる妄想の傾向があったという話は聞かない。甘えようという気持ちと儀式についての妄想が併存するというのも奇妙である。事実だとすれば、精神病理学的にはほとんど信じがたい行動である。
 さらに、弁護団は、意図的な殺人ではなく傷害致死だとする立場から、大声を上げられたため口を塞ごうとしているうちに手がずれて、喉を押さえつけ窒息させてしまったという主張を展開している。しかし、この主張は、死体頸部に指の跡が残っていたという事実と整合しない。口を手で押さえる行為と喉を指で掴む行為は明確に異なっており、無意識のうちに移行することは起こりにくいからである。
 そもそも弁護側の主張は、被告が主体的に話した内容に基づいているのだろうか。被告がこの通りの話をしたとすると、虚言ないし記憶の歪曲だと考えられるが、それにしては細部の説明が理に落ちすぎている。むしろ、弁護士の方から「こうだったのではないか」と話を持ちかけたと見なすのが自然だ。もしこの推測が正しいならば、弁護側の主張のかなりの部分が、弁護士たちの作文ということになる。こうした主張は裁判官に採用されなかったばかりか、被告が充分に反省していないという印象を与えたため、結果的に死刑判決を促すことになってしまった。被告の人権という点からしても、弁護側の姿勢には疑問が多い。(4月26日)

  「最近の若者はマナーが悪い」という文句をしばしば耳にするが、ここで謂うマナーが何を意味するか、きちんと考えた上での発言なのだろうか。民族によってマナーが異なることは広く知られているが、同様に、世代によってもマナーに違いがある。若者のマナーが悪いのではなく、年長者とは異なるマナーに従っているだけである。若者の側からすれば、「最近の年寄りはマナーが悪い」となるのだろう。曰く、すぐにメールの返事を出さない。曰く、人の流れを遮ってゆっくりと行動する。曰く、まわりくどくわかりにくい発言をする…。もちろん、各世代がそれぞれのマナーに従っていれば良いという訳ではない。TPOに適合したマナーがあり、それに従って行動すべきだという当たり前の話なのである。住宅街の生活道路では高齢者や年少者を優先させるべきだが、ビジネスマンが足早に行き交う場所では高齢者の方が脇によけてほしい。(5月4日)

  都市の景観で何を重視すべきなのだろう。ヨーロッパの古都を見ると、様式の揃ったビルが整然と建ち並んでおり、幾何学的な秩序を感じさせる。その一方で、東京や大阪では、狭い敷地に派手な看板を掲げたペンシルビルが建ち並び、様式もへったくれもない。しかし、この雑然としてデタラメな都市の姿こそ、隙間を嫌い人と物が蝟集するアジア的な光景なのかもしれない。秩序正しく美しいがそのまま永遠に何の変化も起きないようなヨーロッパの古都と、見た目には醜いがダイナミックで活気に溢れた日本の都市と、どちらが好ましいのかは一概には言えないだろう。(5月13日)

  人間の思考は抽象をベースにしている。感覚器官に入力される具体的現象についての情報は、いったん単純な特徴に分解され、その上で、個々の特徴の集合パターンという形で統合される。つまり、認識された具象とは、抽象の組み合わせなのである。このことを如実に示すのが、数学的能力の学習に関する実験結果である。3つの元から成る可換代数群の性質を理解させるため、大学生を対象とした2つのタイプの教育が行われた。タイプ1は、抽象的なパターンに基づいて演算規則を教え、タイプ2は、コップに入った水や分割したピザのような具象物を素材として教えるというものだ。学習を行った後で、学んだばかりのことを異なる素材に応用できるかを試したところ、具象的な素材で学習した(タイプ2の)グループにはほとんど応用力がなかったのに対して、抽象的パターンで学習した(タイプ1の)グループは、有意に高い応用力を示したという。ある意味では当たり前の結果なのだが、抽象こそが思考の基本になるという人間の特性をはっきり示すデータである。(5月28日)

  秋葉原で通り魔が17人を殺傷するという凄惨な事件が起きた。死者7人のうち3人はトラックで突っ込んだときにはねられたことによるものだが、4人はダガーナイフによる刺殺である。ここで気になるのは、犯人がダガーナイフを容易に購入できた点である。銃刀法では、刃渡り15cm以上の刀剣は許可なくして所持できないことになっている。ところが、犯人が使用したナイフは、刃渡りがこれより短かったため、ミリタリーショップで何の規制もなく売られていたという。
 刃渡りを重視する見方は、日本刀の殺傷能力に依拠している。相手を日本刀で切る場合、刃渡りが長いほど身体深く刃を侵入させられるので、殺傷能力が大きくなる。刃渡りが短ければ、首などの急所を正確に狙わない限り致死的な効果を上げられない−−こうした観点から刃渡りについての規制がなされているようだ。しかし、この見方には大きな落とし穴がある。
 そもそも日本刀は、人を殺すことが主目的の武器ではない。刀自体の重量が軽いため骨まで断つことはできず、人馬入り乱れる戦場では急所も狙いにくい。人を殺すためならば、槍の方が遥かに有効だ。実は、戦国自体の日本では、日本刀は殺人以外の目的で役に立っていたのだ。この時代の雑兵は大半が農民兵であり、恩賞目当てに駆けつけただけで命を賭して戦おうとは思っていない。身が危なくなると、すぐに戦線離脱する(農民兵は敵前逃亡しても咎められない)。また、農民兵を大量に殺してしまっては、農業生産力が低下し飢饉や難民の心配をしなければならなくなる。したがって、農民兵には致命的でない傷を与えて、さっさと戦場から立ち去らせるのが好ましい。こうした敵を相手にする場合、槍のようにうまく突き刺せば高い確率で殺すことができるが、うっかり外すと逆襲される危険の大きい武器よりも、日本刀のように、大きく振り回すことで多少なりとも相手を傷つけられる武器を使った方が効果が大きい。実際、戦国時代の記録を見ると、何万人という膨大な兵を動員しているにもかかわらず、死者数がきわめて少ないことがわかる。多くの農民兵が、命からがら逃げていったと想像される。日本刀は、致命的でない傷を与えるための武器であり、これを使って人を殺すためには、第一撃で動きを止め第二撃で急所を狙うという特殊な剣法が必要になる(黒澤明の『用心棒』で三船敏郎が見せている)。
 一方、ダガーナイフの用法は、日本刀とは全く異なる。西洋剣法に基づいて相手の腹に突き刺すことで、高い殺傷能力を実現する。引いて切る場合、刃渡りが10cm程度ならばせいぜい深さ1〜2cmの切り傷しか与えられないが、これを腹に突き刺すと10cmの刃がそのまま体内に入り込むので、致死率はかなり高くなる。ダガーナイフは日本刀よりも遥かに危険な武器である(ナイフというよりは短剣と呼ぶべきだろう)。刃渡りが短いという理由で規制対象から外されるのはおかしい。秋葉原事件の犯人も、包丁を振り回していたならば、血糊で手が滑ってうまく扱えなくなるため、数人を刺傷した段階で取り押さえられていたはずだが、なまじ戦闘のために開発された軍用のダガーナイフを入手したために、稀にみる大量殺人を犯すことになった訳だ。(6月12日)

  古代ローマ帝国では、カエサルとアウグストゥスの後、無能な皇帝が続いたために国内が混乱した−−きちんとローマ史を勉強していなかった私は、そんなふうに思いこんでいた。しかし、塩野七生氏の著作によると、それは、皇帝たちの死後100年以上経って著された一連のイエロージャーナリズムが作り上げた虚構らしい。実際には、アウグストゥスの後を襲ったティベリウスはきわめて有能で、帝国の礎を築いたと言っても良さそうだ。もっとも、実行したのが、(1)アウグストゥスが派遣した対ゲルマン部隊をライン河まで後退させ帝国の境界を画定した、(2)戦後処理のために緊縮財政を提唱し、国家主催のスポーツ競技や凱旋式をほとんど行わなかった、(3)官僚組織を再編し、出自によらずに有能な人材を登用した−−といった政策だったため、同時代のローマ人にはいたって不評だったようだ。クラウディウスは、被征服民族や奴隷が受けていた社会的差別の多くを撤廃し、帝政でありながら民主的な国家を実現するという離れ業を行ったが、これもローマ市民には理解しがたかったようだ。彼の前後の皇帝が、血筋だけは良いが若くて経験の乏しいカリギュラとネロだったために、初期のローマ皇帝は無能な者ばかりだというイメージが定着したらしい。(6月20日)

  腎臓はなぜ2つあるのか? 次のような説明が可能だろう。四足歩行する哺乳類は、外敵に腹を見せる機会が少ない。攻撃されるとすれば、まず背中側である。ただし、首は上体を素早く動かすことで攻撃をかわせるし、胸部は肋骨で保護されている。また、尾部には重要な臓器がない。傷害を受ける危険性が高いのは、胴部の背中側にある臓器だが、腸は一つながりの消化管の一部であり、予備の腸を用意するのはトポロジー的に難しい。胴部背中側にある重要な臓器で複数個用意できるものは、腎臓しかない。だから腎臓は2つある。ついでに言えば、肋骨に保護されているはずの肺が2つあるのは、外気に晒されて感染症に罹りやすいことに備えるためあり、きわめて重要な肝臓が1つしかないのは、傷害されにくい位置にあることに加えて、肝細胞の増殖力が強く再生しやすいからだ−−と考えを進めてきたのだが、どうもしっくりこない。生物という不可思議な存在に関して、こんなにもわかりやすく解説して良いものか、心許ないのだ。(6月24日)

  畳は、きわめて合理的な建築部材である。かつて、ル・コルビジェは、人間の標準的なサイズに合わせて室内設計を行うというモジュロの考えを提唱したが、畳は、遥か以前からその考えを実現してきた床材だった。「立って半畳、寝て一畳」と言われるように、畳のサイズは基本的な寝台の大きさとほぼ一致する。緊急時には、畳だけ外して人を寝かせることも可能だ。縦横の比が 2:1 なので、床材として組み合わせやすい(半畳があれば、さらに使い勝手がよい)。横幅は通路として充分な大きさであり、ふすまや戸板もこれと同一の単位で設計されている。このため、戸を開けて部屋の内部を移動する過程で、畳の縁をまたぐ機会はごくわずかしかなく、躓きのリスクが低減されるとともに、人通りで表面が傷んで取り替える際にも節約ができる。使用する上でも、ホコリを吸着する機能があるので、そのまま横になっても不潔ではない。傷んだり汚れたりしたときには、表替えをするだけで見違えるほどきれいになる。充分に頑丈に作られているので、地震などの際に床が抜けても、畳がクッション代わりになって人を守ってくれる。サイズは(地域ごとに多少の差はあるものの)ほぼ統一されているので、メーカーを特定せずに購入することができる。ただし、肝心のモジュロが、現代日本人の体格に合わなくなってきたのが、何とも残念だが。(6月29日)

  本屋に入ると便意を催すという人は、存外多いらしい。その原因は、もしかしたら草食動物の防衛機能にあるのかもしれない。外敵に襲われたときに、便を垂れ流しながら逃げる動物は少なくない。何も、恐怖のために失禁している訳ではない。草食動物の場合、消化に時間が掛かるため、生存に必要な栄養を得るには、大量の食物を摂取し、消化管内部に貯留させておかなければならない。しかし、これでは体重が増して、スピーディに動けなくなる。そこで、いざというときには、腸の蠕動運動を活性化させて、短時間で内容物を排出し体を軽くすることが求められる。さらに、こうした機能は食中毒の予防にも役に立つ。異常を感じたときには、即座に体外に排出して毒の吸収を防ぐというものだ。それでは、本はいかにして人間に便意を催させるのか? 想像するに、幼児体験が関係しているのではないか。本が沢山ある所は、幼児を緊張させる。いつものように騒ごうとするとすぐに咎められるし、目つきの厳しい人ににらまれることもある。外敵に狙われた草食動物のように緊張し、つい腸を活性化させるスイッチがオンになってしまうのだ。(7月24日)

  ファンタジーには2種類ある。現実と異なる世界を丸ごと創作し、その世界のルールに従って生きる者の状況を描き出すもの。そして、現実の世界に異質な何かを放り込み、これと現実とのせめぎ合いを記述していくものである。『指輪物語』『ナルニア国物語』『ゲド戦記』などの大ファンタジーは前者に属すが、このタイプのものは作例が少なく、ポピュラーな作品の多くが後者に分類されるものだった(ハリー・ポッターやドラえもんのシリーズなど)。ところが、ここ20年ほどの間に、日本人作家の手によって、前者のタイプのファンタジーが次々と発表されている。小野不由美の十二国記シリーズ、上橋菜穂子の守り人シリーズ、荻原規子の勾玉三部作などだ。こうした大ファンタジーを生み出すには、新しい世界の整合性を保証するための強靱なリアリズム精神が必要だと思われるのだが、なぜか多くの作品(『ゲド戦記』を含む)が女性作家の手になっている。彼女たちの想像力(創造力)の源はどこにあるのか、不思議で仕方がない。(8月17日)

  20年以上前にエアチェックしたカセットテープの整理を始めてみたが、つい聞き入ってしまってなかなか捗らない。当時は、ノイズが入らないように暖房器具のスイッチを切って備えるなど、現在とは較べものにならないほどの苦労をさせられた。カセットテープの価格も高かったため、数分でも空きがあると、もったいないとばかりに短い曲を詰め込んだものだ。FMfanで各曲の演奏時間をあらかじめ調べ、誤差の大きいカウンターの目盛りを熟練技で読みとりながら、1本のテープにピッタリ収まるように選曲する。曲の雰囲気が衝突しないように注意したこともあって、巧まざるコンピレーション・アルバムといった趣のテープができあがった。中でもお気に入りの1本は−−A面がバッハ/ウェーベルンの「六声のリチェルカーレ」と現代作曲家パヌフニクの「祭典交響曲」(尾高忠明指揮、東フィルのライブ)、B面がグレン・グールドによるシェーンベルク「6つの小品」とブラームス「間奏曲変ホ長調」、若杉弘の指揮でリゲティの「アトモスフェール」、そして、トマジ作曲の「12のコルシカの歌」から3曲というもの。我ながら、何という取り合わせ!(9月10日)

  本年度のノーベル物理学賞を南部・小林・益川という日本人3人(南部氏はアメリカ国籍を取得しているが)が獲得したが、これに対してイタリアのマスコミがクレームを付けたそうだ。小林・益川理論のベースとなり、学問的な貢献度が同等と見なされるカッビボの業績が無視されたからである。毎年のように繰り返される「ノーベル賞3人枠」を巡る争いだ。
 ノーベル賞は各賞ごとに3人までが受賞できる。現在では、一人で学問の流れを変えられる大家はほとんどいないため、3人枠を上限まで使うのが通例となっている。3人で共同研究をした、あるいは、同じ内容の論文を3人がほぼ同時に発表した場合には問題は起こらないが、そうでないと組み合わせが難しくなる。CP対称性の破れについては、結合係数に関するカッビボの理論を小林・益川が発展させたものなので、この3人の受賞が最もすんなりする。しかし、カッビボは選に漏れてしまった。
 実は、今回の目玉は南部の受賞なのだ。60年代における物理学界最大の業績の1つと言われる自発的対称性の破れをはじめ、ひも理論や量子色力学の端緒となる理論を作った功績は抜きんでている。ファインマンやゲルマンと並べても遜色ない。30年前にノーベル賞をもらって当然だったのだが、新発見と直接結びつかないなどの理由で、これまで見送られてきた。しかし、90歳近い南部の年齢を考慮し、対称性の破れと関連するLHC実験が開始されたのをきっかけとして、授賞を決めたのだろう。もはや南部に匹敵する物理学者でノーベル賞をもらっていない人は見あたらないが、2枠を空けたままにする訳にはいかないので、対称性の破れつながり(もしかしたら、日本人つながりも考慮されたか?)で小林・益川を充てたのではないか(もちろん、小林・益川の業績もノーベル賞に値するが)。カッビボには不運だったが、ノーベル賞にはそんな一面もある。(10月10日)

  新聞の投稿欄に載った話。ある女性が仏事に際して「御霊前」と表書きして出したところ、この宗派では既に成仏している時期であり、「御仏前」と書くべきだと僧に叱責されたという。しかし、このケースでは、叱責する方がおかしい。
 そもそも、大乗仏教の基本教義を展開した法華経では、来世などに関する民間信仰を仏教に取り入れることは、一般人を教導するための“方便”だとされている。仏教の本義を説き明かそうとしても、知識の乏しい民衆には理解困難である。そこで、わかりやすい民間信仰を援用して人々の信頼を得、その上で仏教の本義へと導く方法が提案された。葬式などの儀式に関しては民衆に(迎合とまでは言わないが)即応した形で進めるのが、大乗仏教本来のあり方である。そうでなければ、「経典は読まなくてもタイトルだけ唱えれば良い」というところまで簡便化した宗派も現れた「民衆のための仏教運動」の意味がなくなってしまう。仏事の儀式は、常識的なマナーに反しない限り、それほど厳格に行う必要はない。それが法華経の教えなのである。(10月22日)

  不況下の経済対策として公共事業の重要性を主張する論者が少なくないが、これは既に時代遅れとなった考えである。資本流動性が低く極端な貧困層が存在する社会では、飢饉や暴動を避けるために公共事業によって仕事を与え、高所得者の財の一部を還流させるのが有効である。しかし、飢饉や暴動の懸念が小さい先進国においては、むしろ投資効率を増して国家全体の生産性を上げた方が、不況克服に効果がある。現在の不況に対して日本政府がなすべきことは、無駄な公共事業の縮小であって拡大ではない。(11月16日)

  元厚生相事務次官の自宅が襲撃され、マスコミに「年金テロ」と呼ばれた事件は、単なる逆恨みによる犯罪であることが判明した。「大山鳴動して…」の感もあるが、それでも、要職にあった人の住所を探り出して殺害するという凶悪犯罪である以上、この事件が何を意味するかを熟考する必要がある。新聞やテレビの伝えるところによると、班員は人格障害者らしい。以前から近隣住民とトラブルを繰り返しており、典型的な社会不適応者だと思われる。批評家の中には、こうした凶悪犯罪の発生に、日本社会の病理を見る人もいるだろう。しかし、私の見解は逆である。人格障害者による犯罪が時折マスコミを賑わすという現状は、むしろ、日本が安定した成熟社会であることを意味していると考える。
 周囲に適応できない人格障害者は、いかなる社会にも存在する。教育システムの改良によって不適応を解消できるという意見を述べる者もあるが、実現可能だとは思えない。学校からいじめをなくすことすら実現できていないのだから。不適応が表面化するきっかけになるのは疎外感なので、社会的なセーフティ・ネットを充実させることで社会から見捨てられたと感じる人を減らしていく方法も考えられる。しかし、そのために必要とされる社会的支出は莫大であり、支出に見合う効果があるという保証もない。
 不適応を解消しようとする試みは貴重だが、それ以前に、人格障害者を結集させない社会を作ることが重要である。おそらく、戦時中の軍隊は、人格障害者にとってきわめて居心地の良い組織だったろう。人間関係は階級によって定まる単純なものであり、つきあい方に悩む機会はない。要は命令されたことを実行するだけであり、それさえ忠実にこなしていけば昇級できる。シンプルなシステムなだけに、豊かな人間性の持ち合わせがない方が適応が容易である。この結果、軍隊の上層部には、人格障害者とおぼしき人間が高い割合で混じることになり、無謀な軍事行動を引き起こしてしまう。健全な成熟社会は、こうした事態を許さない。人格障害者が結集して何万人もの人を殺すのではなく、各人が個人的な怒りを爆発させて周辺の数人を殺すだけにとどめておくのである。(11月29日)

  フェルメールの作品を鑑賞する際には、絵までの距離の取り方が重要だ。数メートル離れた地点から見てみよう。登場人物の表情はぼやけ、曖昧で掴み所がない。一方、衣服や食器は精密に描かれ、確かな質感を備えている。ところが、1メートル以内に近づくと、様相は一変する。衣のシワが巧みに描かれていると思われた部分は、実は無造作に絵の具を散らしただけであることがわかる。その反面、はっきりしなかった表情が明確になってくる。かすかに歯を見せて微笑む者がいるかと思えば、冷徹な視線を投げかける者もいる。当たり障りのない風俗画に見えていた絵が、奥深い人間ドラマを映し出す舞台へと変貌するのだ。フェルメールの絵画は、富裕だが富豪ではない市民の居間に掛けられていた。多くの客は、少し離れた位置からチラリと見て、その写実性を褒めそやすだろう。しかし、家人や近しい友人は絵に近づき、しみじみと眺め絵の中の物語に魅せられる。このように鑑賞者のエモーションまで巧みに操れるところが、フェルメールの凄さなのだろう。(都美術館「フェルメール展」を見て)(12月3日)

  ハンマースホイの作品を見ていると、画家にとって重要なのは、何を描くかではなく何を描かないかだということがわかってくる。例えば、同じように運河沿いの建物を描いた作品があるが、一方には壁の崩れがはっきりと描写されているのに、ほとんどそっくりのもう一枚にはそれがない。しかし、この欠落は、ある箇所に見る者の視線を導いていくために必要なのである。人気のない通りを描いた作品では、人間のみならず、ゴミや落ち葉までもが消滅している。そこには、動きを消去することで見えてくるものを人々に伝えようとする画家の意志が如実に現れている。テーブルの脚やドアのノブが消えていることについては、既に多くの批評かが言及している。敢えて描かないことは、無自覚に描くことよりも遥かに創造的だ。(西洋美術館「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」を見て)(12月4日)

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©Nobuo YOSHIDA