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  昨年末、イラクのフセイン元大統領が絞首刑に処せられた。死刑判決が確定してから何日も経っておらず、法律に基づく刑の執行というよりはリンチに近い。シーア派やクルド人を虐げてきたスンニ派出身のフセインを亡き者とし、アメリカの軍事力を背景にシーア派支配を確立しようとする思惑が見て取れる。批判すべき点は多々あるものの、部族対立を収拾したフセインがそれなりの政治的役割を果たしてきたことは事実である。フセインは織田信長に似ている−−と言ってしまうと非難を浴びそうだが、強大な軍事力で対立勢力を抑え込み、宗教弾圧を断行し、民意統一の目的で戦争を繰り返した姿は、戦国時代に幕を下ろすために残虐行為をも厭わなかった信長に重なる。イラン・イラク戦争の際に毒ガスによってイラン兵を無差別に殺戮した点は開明的な信長と大きく異なるようにも見えるが、これは、信長の時代に同様の兵器がなかったからではないか。国内問題解決のために行ったクウェート侵攻は、豊臣政権に対する不満分子に朝鮮侵略という捌け口を与えた秀吉の遣り口を思い起こさせる。そう考えると、外国勢の進駐によって大統領を殺されたスンニ派の心情が少しは理解できるだろう。(1月3日)

  眠っている人間が寝息を立てるメカニズムを実感することができた。睡眠導入剤を服用して床に就いたところ、まだ意識があるうちに自分が寝息を立てていることに気づいたのである。このとき、能動的に何かを行おうとする気持ちは、薬のせいでほとんどなくなっていた。規則正しく息を吸い込んではいるが、そこに意識は介在しておらず、呼吸中枢の自律的な活動によっている。覚醒時にも無意識のうちに呼吸していることが多いが、寝息が覚醒時の呼吸と異なるのは、息を吐く際に肋間筋や横隔膜の制御が行われず、重力や腹圧に任せるかのようにふーっと一気に吐き出す点である。その後、やや間隔を置いて血中の二酸化炭素濃度が高まったことが感知され、呼吸中枢による自律的な吸い込みが再開される。こうして、規則的にゆっくりと吸い込んではふーっと吐き出す寝息独特のリズムが生み出される。「スースーと寝息を立てる」という言い回しがあるが、この「スースー」は呼気ではなく吸気であるわけだ。(1月7日)

  両生類に壊滅的な打撃を与えかねない病原体ツボカビに感染した輸入カエルが発見され、関係者の間に危機感が高まっている。ツボカビ病が人間にうつることはないが、カエルやサンショウウオの皮膚に感染すると、その90%以上を死に至らしめるという。オーストリアや中南米でカエルの生息数が激減した原因だとされる(化学物質説・紫外線説はほぼ否定されたようだ)。通常の生態系では、新たな病原体が発生したとしても、免疫を持つ個体が登場して、ある段階で病気の拡がりは食い止められる。しかし、人間や物資の移動に伴う伝染の場合、免疫の全くないところに一定規模の病原体がまとめて侵入することになるため、生態系に大打撃を与えやすい。両生類は、水陸の双方にわたる環境の中で長期にわたって生息し続けてきた驚異の生物であり、生態学的な地位は必ずしも解明されていないものの、潜在的に重大な役割を果たしているのではないかと思われる。病気のカエルを川に放すような愚行はくれぐれも避けてほしいものだ。(1月14日)

  地球温暖化がきわめて深刻な環境問題であることは疑いの余地がない。しかし、近年見られる異常気象の多くを温暖化のせいにするマスコミの報道姿勢には、正直言ってうんざりさせられる。温暖化が真に危機的な状況を生み出すまでには、まだ十数年ないし数十年掛かる。昨今の異常気象は、主に短期的な気候変動にすぎない。そもそも、世界的に異常気象が多発しているかも定かではない。多発しているように見えるのは、マスコミが外国の気象というお茶の間向きでない話題を積極的に取り上げるようになったからだ。以前には、バングラデシュで数十万人が死亡する大洪水が起きても小さな扱いだったのに、最近では、中国で起きた死者300人の洪水でも−−「でも」と言うには大きな災害だが−−大々的に報道する。国内の気象に関しては、この傾向がさらに目立つ。都市部で平均気温が上昇し南国の動植物が繁殖しているのは、主にヒートアイランド現象の結果だが、これも地球温暖化の証拠とされてしまう。北海道で観測史上最大の竜巻が観測されたのは、従前の観測態勢が不充分で突風が竜巻と認定されなかったためである。そもそも竜巻の原因は地上と上空の間に生じた温度差であり、温暖化と直接の関係はない。何事も事実をやや誇張して訴えた方が対策が早く進むのは確かだが、あまりに騒ぎすぎると今度はオオカミ少年になってしまうのではないか−−1970年代から環境問題に興味を抱いてきた私としては、少々心配である。(1月19日)

  アルツハイマー病の症状は記憶障害から始まると言われる。しかし、それは単なる物忘れや物覚えの悪さといったものではない。「先週の水曜日、夕食に何を食べましたか?」と尋ねられても、なかなか答えられないだろう。だが、「先週の水曜日に夕食を食べましたか?」と聞かれれば、「食べたと思います」と即答できるはずだ。何を食べたか覚えていないが食べたことは確実だ−−この結論を導いているのは、出来事の記憶とロジカルな推理の組み合わせである。通常の生活を送っている限り、夕食は毎日必ず摂取する。もし先週の中頃に夕食を摂れないような重大な事態が発生したとすれば、当然、いつもと違う出来事として覚えているはずである。その記憶がないならば、夕食は食べたものと結論される。ちょうど、シルバーブレイズ失踪事件でのシャーロック・ホームズのように、起こらなかったことに基づいて推理するのである。アルツハイマー病になると、こうしたロジックの組み立てができなくなる。単に記銘や想起の問題ではなく、ロジックに基づいて個々のデータを連結することが困難になるのだ。(1月24日)

  日韓関係というと対立の歴史を思い描きがちであるが、実態は必ずしもそうではない。日韓併合以前、国家間の諍いは豊臣秀吉による朝鮮出兵の1回しかない。白村江の戦いは三韓の1つ百済に大和朝廷が援軍を送ったものだし、元寇の際の高麗軍の襲来は元に命令に従っただけであり、どちらも日韓の戦争とは言えない。2000年間で(朝鮮出兵と日韓併合の)2回の侵略とは、隣接する2国間の関係としては平和的と呼びうるものである。しかも、秀吉の朝鮮出兵は、一時的に臣従した戦国武将を弱体化させるための謀略であり、本格的な侵略とは言い難い。その後に政権を握った家康は、直ちに朝鮮王朝に対して侵攻の意図のないことを示した。この友好関係は、欧州列強が東アジアでの簒奪を始めるまでの250年間にわたって継続する。歴史は日韓両国が平和な関係を築いていたことを教えてくれる。(2月4日)

  飛行機がなぜ飛べるか現代科学でも解明できていないとの見方がある。これは必ずしも首肯できる意見ではないが、揚力に関する流体力学がそれほど簡単でないことは心得ておいた方が良いだろう。流体力学の難しさは、乱流の扱いに集約される。乱流は不安定であるだけに、コンピュータによる数値計算では限られたパターンしか明らかにできない。特に失速から墜落に至るダイナミクスには不明な点が多く、失速状態からいかにして墜落を免れるかは、今なお難しい研究課題となっている。通常の飛行機は乱流の発生を抑制すべく流線型に設計されているが、ステルス戦闘機のように軍事機能を優先させるため敢えて流線型でなくしたものもある。ステルス戦闘機が本当に安定した飛行状態を保てるのか、私には何とも言えない。乱流は発生しないと仮定してかまわないならば、ナヴィエ=ストークスの方程式をスーパーコンピュータの力を借りて数値的に解き、定常流による揚力を求めることは可能である。しかし、現実の飛行機にはリベットの頭などの小さな凹凸が無数にあり、それらがたちの悪い乱流を発生させてフラッタを引き起こさないかどうかは、スパコンの計算力をもってしても明らかにできない。飛行機の設計に際して、現在なお風洞実験が欠かせないのは、当然のことである。(2月15日)

  ピンク映画は、若手監督にとって修行の場となっている。製作期間は短く予算も格安、無名の俳優しか起用できず、濡れ場を5回ほど挿入しなければならない。しかし、この条件さえ満たせば、何を撮ってもかまわない。映画作家としての才気と手腕を存分に振るうことができる。ピンク映画四天王の一人・佐野和宏がインタビューで語ったところによると……プロデューサから「次回作のタイトルが『変態テレフォンONANIE』に決まったから、それなりのシーンを入れてね」と電話で依頼が来る。こうして作られたのが、佐野自身の脚本による名作『Don't Let It Bring You Down (公開題名『変態テレフォンONANIE』)』。舞台は、徴兵制導入が画策されている(近未来の?)日本。秘密を握った男女二人の自衛官が、国家警察による超法規的な追跡から逃れようとしている。男の父親は脳溢血の発作を起こして、あと数日の命。せめて死に目に会いたいと思った男は、村々を旅しながら自主制作の映画を上映している能天気な青年を味方に付け、警察をだまして父親の家に赴こうとする。だが、企みはすぐに見抜かれ、二人の自衛官は拷問の末に殺されてしまう。それを知った映画青年は、泣きながらどこまでも走っていく。60分ほどの上映時間のうち濡れ場は10分あまり、後は大まじめな社会派の作品である。ピンク映画の中には良質な作品があることを、多くの映画ファンに知ってほしい。(2月22日)

  公立図書館のサービスが格段に向上してから久しい。かつては、厳つい顔をした司書がカウンターでふんぞり返り、利用者が申込書をおずおずと提出しなければならなかった。それが、いつしか利用者が自由に本を手にとって選べる開架式となり、利用者登録のやり方も大幅に簡素化された。今どきの司書は、まるで客に相対するかのように「ありがとうございます」と頭を下げたりもする。昔の「利用させていただく」図書館に馴染んだ世代からすると、いささか面映ゆい。
自治体が図書館のサービスを改善したのは、1つには、図書貸出が納税者への還元となるからだろう。本をただで借りられる上に司書にお辞儀されると申し訳ない気にもなるが、実際には税金として利用料を払っているのだから、もっと胸を張っても良いのかもしれない。
しかし、もう少し穿った見方をすることもできる。図書館の持つ機能が行政にとってプラスになるという判断が、図書館におけるサービス向上の背景にあるというものだ。一般論として、本を良く読む人はあまり犯罪を犯さないとされる。本好きはもともと犯罪性向に乏しいのか、読書をしているうちに協調性に目覚めて犯罪に走らなくなるのか、因果関係は必ずしもはっきりしないが、もし読書を奨励することで犯罪を抑制できるのならば、行政にとってこれほどありがたいことはない。また、読書を通じて仕事に役立つ知識が得られるならば、労働生産性が高まることも期待できる。とは言え、「市民のみなさん、もっと本を読みましょう」とアナウンスしたのでは、マスコミに揶揄され逆効果になりかねない。そこで、図書館のサービスを向上させることにより、搦め手から読書振興を図ったというわけだ。考えすぎだろうか。(3月2日)

  NHKで放送中の『72時間』シリーズが興味深い。これは、長距離バスの始発駅、街のバッティング・センター、六本木の一坪オフィスなど特定の場所に赴いて、72時間にわたって取材を続け、得られた映像素材だけを編集して30分番組に仕立てたもの。明確な方針を持って取材していないため、番組の出来は偶然に左右されるが、ツボにはまったときは抜群に面白い。NHKには、かつて『定点観測』という優れたシリーズがあった。空港などにカメラを据え付け、1日の間に起きるさまざまな事象をありのままの姿で伝える。空港でしみじみと別れを語るカップルがいると、その背景を取材したいというドキュメンタリー作家の思いを抑えて、禁欲的なカメラワークで剥き出しの事実だけを描き出す。その映像は、観る者の想像力を刺激した。『72時間』シリーズは、この手法を受け継ぎながらも、ある程度の取材の自由度を残しており、背景となる生活をおぼろに浮かび上がらせる。特に、バッティング・センターでホームランをねらってひたすら打ち続ける高齢者を描いた回は、社会の変化に置き去りにされる人々を浮かび上がらせて秀逸だった。(3月7日)

  「おふくろさん」の歌詞を巡る歌手・森進一と作詞家・川内康範の諍いは、笑うに笑えぬ泥仕合の様相を呈してきた。そもそもの発端は、森進一が川内氏に無断で「いつも心配かけてばかり いけない息子の僕でした」という語り風の前置きを付け加えたこと。「月光仮面」の原作者でもあり、社会正義に燃える川内氏にとっては、理想的な母性の元型であるべき「おふくろさん」が、森進一個人の「おかあさん」に引きずりおろされたと感じられたのだろう。かねてからこの歌詞を使わないようにと申し入れていたそうだが、関係者にその意図が正しく伝わらず、昨年の紅白歌合戦で改変版が歌われたことで事態がこじれてしまった。
余談になるが、この騒動を通じて、長い間腑に落ちなかった点が理解できたような気がする。以前から「おふくろさん」という歌には一種の違和感を覚えていた。そもそも、実の息子が母親のことを「おふくろさん」と呼ぶのだろうか。体育会系の組織で先輩が後輩に対して「おふくろさんは元気か」などと言うことはある。しかし、母親を偲びながら「おふくろさん」と呼びかけるのは、いささか奇妙だ。もしや方言かとも考えてみたが、どうにもしっくりしない。さらに、歌詞が妙に理念的・抽象的だ。母親への思いは、「母さんが夜なべをして 手袋編んでくれた」のように具体的であればあるほど訴求力が増す。しかるに、「おふくろさん」の歌詞には、「あなたの真実」といった具体性に欠けた理念ばかりが並んでいる。こうした奇妙さは、社会正義を追い求めた作詞家・川内康範の信条に由来すると考えると、納得がいく。川内氏にとって「おふくろさん」とは、生身の人間ではなく、悲母観音や鬼子母神にも通じる理念的な存在なのだろう。社会規範の根本にある母親的なものの崇高さ−−それをこの歌に託したとするならば、実母への思いを歌い上げた森進一に対してなぜ川内氏があれほど怒りを露わにしたのかもわかってくる。(3月12日)

  先日、実家を尋ねた折に一人前5000円という高額の宅配弁当を供されたが、はっきり言っておいしくなかった。5〜600円のほっかほっか亭弁当の方がずっと美味だ。なぜこんなことが起きるのか。おそらく、客からのフィードバックの有無が分かれ目になっているのだろう。会席膳としても使える高価な弁当は、たまに開かれるイベントで食されるものである。少々不味くても、客は「ま、こんなものか」と思うだけで文句は付けない。味よりも見栄えが良い方が、宴席の話題づくりなるかもしれない。これに対して、ほっかほっか亭はサラリーマン相手の商売である。彼らは、わずかな小遣いをやりくりして弁当を購入している。不味い弁当を出そうものなら、直ちに売り上げが激減する。倒産経験のある吉野家の社長の名言「食べ物屋を潰すのは簡単だ。味を落として値上げすれば良い」が思い出される。
会席膳には、しばしば過剰な職人芸が要求される。例えば、ニンジンの煮物。美しく面取りし、表面にはミリンを使って照りを出す。固すぎず柔らかすぎず、サクッとした歯ごたえになるまで煮込み、中心まで均一に味を染み込ませなければならない。会席膳に相応しい煮物ができる一人前の調理師になるまでには、おそらく10年以上掛かるだろう。たいへんな技術である。しかし、所詮ニンジンはニンジン。さしておいしいものではない。この程度の料理のために職人芸を磨かせ、結果的に人件費の高騰を招いて商品価格に上乗せされるのでは、本末転倒である。食べ物は、やはり味を第1に考えてもらいたい。(3月22日)

  nikki_002.gif 日本にはテレビ局が多すぎるとの見方もあるが、報道姿勢などを見るとかなりの差があることがわかる。右図では、革新的−保守的、理論的−情緒的という2つの対立軸で各局の特徴を表してみた。もちろん、まったくの私見である。個人的には、NHKとテレビ東京の放送内容を高く評価する。(4月15日)

  東京の地下鉄路線は複雑怪奇である。戦後、最初に開業した丸の内線が、用地買収が思うようにいかなかったせいか、皇居を囲むようなUの字型の路線となり、その後は、地下鉄の通っていない地域を埋めるように次々と路線を建設していったため、ひどく入り組んだものになってしまった。初めて東京を訪れた人だけではなく、都内在住の人にとっても、目的地に行くための最適ルートを見つけるために、しばし路線図の前にたたずむことになる。しかし、慣れてくると、この迷路のような地下鉄路線が便利に思えてくるから不思議だ。皇居を避けるように迂回する線路は、一見すると無駄な配置に思えるだろう。銀座線と半蔵門線は、渋谷からしばらく並走した後、皇居の手前で二手に分かれるが、向こう側ではX字に交差して別の方向へと進んでいく。平行に敷かれた路線が皇居の両側に分かれてから交差するというケースは、東西線と有楽町線、南北線と千代田線でも見られる。その結果、回り道を強いられそうなのだが、都内の重要拠点を渡り歩くときには、この無駄とも思える冗長性のおかげで、かえってショートカットできることが少なくない。いったん遠回りをするかのように離れても、意外な地点で乗り換えができて目的地に向かえるからだ。環状線と放射線で構成された鉄道網は、わかりやすく便利なように見えるが、スタート地点とゴール地点の位置関係によっては大回りをしなければならず、かなり利用しづらい。でたらめな2点を結ぶ場合、カオス的なネットの方が便利なこともあるのだ。(4月19日)

  近代日本の建国に際して、欧米知識人の果たした役割は大きい。歴史家チャールズ・ビーアドもその一人である。ニューヨーク市政調査委員会の理事でもあった彼は、東京を欧米並の都市に改造することを目指していた第7代東京市長・後藤新平の要請を受けて来日、各地で都市計画の必要性を訴える講演会を開く。ビーアドのスピーチは、単に区画整理や道路拡張の問題を解説するに留まらず、科学と文明の関わり合いにまで及び、聴衆に感銘を与えたと言われる。その後、いったん帰国するが、関東大震災の報を耳にするや、復興に関する指示を記した電報を(震災の翌日に内務大臣に就任した)後藤に送り、自身も再び来日する。都市部の43%が焦土と化した壊滅的な状況を目の当たりにしたビーアドは、「将来の災害に際して人名・財産を守る」ための道路計画に関する意見書をまとめる。また、各国からの義捐金を集めるために尽力した。こんにち、ビーアドの名を覚えている人は少ないが、こうした欧米知識人が果たした役割を忘れてはなるまい。(4月28日)

  量子力学の歴史を調べるために原論文を読むと、通説とは異なる点が多々ある点に気づく。例えば、1905年のアインシュタインの光量子仮説は、プランクの黒体放射の理論を受けて構想されたと言われているが、実際にはウィーンの理論がベースとなっていて、プランクへの言及はほとんどない。ウィーンは、黒体放射の強度分布が気体分子運動論におけるマクスウェル分布と似ていることに気がつき、気体分子が電磁波を放射・吸収しているシステムを考えた。このとき、電磁波の波長と強度が気体分子の速度だけに依存すると仮定することにより、ウィーン分布の式を求めたのである。この仮定は全く間違っていたが、結果的にウィーンはマクスウェル分布における気体分子の運動エネルギーがhνに置き換わっている分布式を導き出した。この式を手がかりにして、アインシュタインは光量子仮説に到達したのである。興味深いことに、アインシュタインはプランクの理論に対して批判的であり、「許されるエネルギーの値がhνの整数倍に限られる」という同じ仮説を使いながら、プランクの論文を引用することすらしていない。これは研究者のマナーに反する行為であり、若さ故の勇み足かもしれないが、アインシュタインがプランクに敵愾心を燃やしていたことは間違いないだろう。(5月10日)

  イーストウッド監督作品「硫黄島からの手紙」を観た。観る前、これは日本人が撮るべき題材であり、アメリカ人監督に先を越されたのは恥だと息巻いていた。しかし、観終わった今、やはり日本人には撮れなかったという思いに捉われた。そのことを痛感したのは、ラスト近く、総攻撃を前にした栗林中将が「天皇陛下、万歳」と叫ぶシーンである。日本人が栗林を描くとすると、おそらく、2つのパターンに分けられるだろう。1つは、合理的な戦法でアメリカ軍に大打撃を与えた英雄として描くパターン。この場合、栗林は胸を張って堂々と「万歳」と叫ぶだろう。もう1つは、不本意にも無謀な戦闘を強いられた犠牲者として描くパターンである。この演出による栗林は、万歳をしないか、避けることが許されない儀礼として不承不承にするか、どちらかだろう。だが、イーストウッドの描く栗林は、そのどちらでもない。低く押し殺した声で万斛の思いを込めて「天皇陛下、万歳」と叫ぶ。それは、戦争よりもさらに巨大な歴史の歯車を感じさせる。日本人監督に、この偉大なシーンは決して演出できなかったに違いない。(5月10日)

  電線泥棒が墜死したという寂しい話が報じられた。最近は、金属泥棒が多い。門扉からマンホールの蓋まで、いろいろなものが盗まれる。背景には、中国での金属需要の高まりがあるようだが、そうなると電線も銅、これを盗んで換金しようとする不心得者が現れるのは当然かもしれない。冬の山中でそんな泥棒が二人、電線を盗もうとしたところ、電柱に登っていた方が足を滑らせて墜落、地面と激突してあっけなく死んでしまった。残された方は警察に届けるわけにもいかず、さりとて野ざらしにするのはあまりに心苦しいと、何とその場に穴を掘って埋めたという。大した装備があるわけでもなし、寒空の下で作業しているうちに、両足に重い凍傷を負ってしまった。やっとの思いで人里まで帰ってきたものの、体の自由が利かず、結局は警察のやっかいになって全てを白状してしまったとか。それにしても、冬山で泥棒仲間を埋める寂しさはいかなるものか。想像すると、ちょっと切なくなる。(5月21日)

  心理学が示すところによると、道徳的判断には、快・不快の意識に基づいて短時間で下されるものと、意識的な思考を経て下されるものがある。
前者は主に学習記憶に結びついており、提示された状況を自分の体験として見たときに不快感がもたらされる場合、これに対して否定的な態度を示す。例えば、大人が小さな子供に針を刺している状況を目にしたとき、即座に止めさせるべきだと判断するケースがこれに該当する。自分を子供の立場に置いたときに、痛みの感覚が呼び覚まされて不快感を覚えるからだ。興味深いことに、この判断は、必ずしも感覚的な快・不快の判定とは一致しない。実際、針を刺しているのが医者で子供の病気を治そうとしていることが明らかなときには、不快感は生じない。それも、まず本能的に不快感を覚え、その後で「これは子供のためになる行為だから」と納得して不快感を抑制するのではなく、その場面を見た当初から不快に感じないのである(体験の多寡に基づく個人差はある)。これは、学習を通じて修正された快・不快の判定基準が記憶されており、その基準を即座に状況に適用したものと考えられる。
一方、より長い時間を要する後者の判断に際しては、さまざまな方面へのシミュレーションを促すという前頭葉の機能が重要な役割を果たす。シミュレーションには、時間的な経過を見るものもあれば、視点の転換を図るものもある。こうしたシミュレーションを通じて、一時的には事故の快感を増幅するように見えても時間が経つとマイナスの効果を及ぼすと判定される行動、あるいは、他者から見て嘲笑・軽侮の対象となることが予想される行動は、最終的には不快感が快感を上回ると判定され、強く抑制される。前頭葉に傷害のある患者がしばしばモラルを喪失するという臨床的な事実は、このタイプの判断能力が侵されるからである。おいしそうな食べ物を目にしたピック病の患者が、(デパートの陳列棚に置かれているといった)状況を考えずに直ちに口に入れてしまうのは、前頭葉からの指令に始まるシミュレーションが行われないためだと推定される。(6月14日)

  コンピュータ・ネットワークが新しいリアルを生み出すという考えは、10年以上も前から−−サイバーパンクを含めると1980年代から−−提唱されていたが、ここ数年、そんな時代の到来を実感させる出来事が次々と起きている。ブログや掲示板を通じての自己表現は、他者とのスタンスを決定的に変革した。従来、自己と他者との関係性は、社会的な構造に規定されたパーソナリティに基づいて構築されており、この関係性を失うと、生身の人間同士が直接ぶつかり合わざるを得なかった。ところが、現在では、社会的な地位もわからないネット上の個人がさまざまな主張を行っている。そうした個人は、往々にして、自分がどんな嗜好を持っているかを赤裸々に語る一方で、生身をさらけ出すことを極端に嫌う。社会的存在でも肉体的存在でもない新しいタイプのペルソナ(仮面的人格)が現れたのである。このペルソナたちが作り上げる新たなリアルとどのように渡り合っていけば良いのか、われわれはまだ模索している段階なのだ。(6月27日)

  海に囲まれた国は直ちに海洋国だと思われがちだが、必ずしもそうではない。理由の1つは、海産物に偏りがあることだ。豊かな漁場とは、大陸棚周辺で2つの海流がぶつかり合う領域である。海溝が存在すると、魚の産卵に適した海藻の繁茂する場所が限られてしまうので、海産資源はそれほど豊かではない。日本の場合、太平洋側の沿岸漁業が今ひとつ振るわないのは、そのせいである。ちなみに、ヨーロッパにおいて地中海の幸に恵まれているかのようなイタリアも、実はあまり豊かな海洋国ではない。地中海はいわば大陸の裂け目であり、魚を養うのに適した海とは言い難いのだ。海上交通という観点から見ても、朝鮮半島から壱岐・対馬を経て北九州に至る海域を別にすれば、日本は大陸から離れすぎているため、外洋まで積極的に利用しようという気運は生まれなかった。海に囲まれているはずの日本が、造船や航海の技術で中国に大幅に後れをとったのも、故なきことではない。(7月8日)

  食品偽装のニュースは昔からあったが、ミートホープ社の事件にはしばし開いた口が塞がらなかった。豚肉や時には羊肉を混ぜたものを100%牛ひき肉と偽って出荷していたようだが、驚くべきは、偽装のための技術がきわめて高度だった点である。豚の心臓を混ぜるなどして全体を赤っぽくし、さらに、適度に豚の脂身を配合して旨味を増すことで、食肉専門業者も騙せるほどの見事な合い挽きを作り上げたのである。もちろん、偽装は許されることではない。アレルギーや宗教上の理由で豚肉が食べられない人は少なくないからだ。これだけの技術があるならば、「牛ひき肉より美味しい合い挽き肉」として売り出せば良かったのではないか。高度な技術の使い道を誤って、自分の手で成長させた会社を自分の手で潰すことになってしまったとは、何とも皮肉な結末である。(7月11日)

  マクスウェルがエーテルをどのように考えていたかは、科学史の重要な論点である。しばしば引用されるのが、彼がエンサイクロペディア・ブリタニカのために執筆した“エーテル”の項目である。そこでは、電磁気現象を引き起こす媒質たるエーテルについて、いかにも19世紀的な−−すなわち、連続媒質のように振動が伝わるのに粘性が全くない点を不思議がるような−−解説が記されている。これをマクスウェルによるエーテル解釈と見なす人も少なくない。しかし、そのあまりに教科書的な記述は、他の論文に見られる批判的な筆致とあまりに異なっている。推測するに、この文章は、ブリタニカの編集者から“エーテル”についての解説記事を依頼されたマクスウェルが、当時の一般的な理解を手際よくまとめ上げたものである。「いかにも」と思える記述が多いのは、中立を心がけたマクスウェルの配慮のなせるわざで、彼の本心ではないだろう。同じように、電磁気学の教科書で、エーテルにおける電気と磁気の相互誘起的な作用を歯車を用いた力学的なモデルを使って説明したのも、偏微分方程式に慣れていない読者を慮ってのことであって、そこに彼の思考法を読み取ろうとするのは誤りである。専門家向けの論文を読むと、マクスウェル自身は、現代に通じる非物質的なエーテル観を抱いていたことが伺える。(7月26日)

  歴史物語や大時代的な小説には、しばしば絶世の美女が登場する。そのあまりの美しさに為政者が心を惑わし、国内が乱れるきっかけになったという西施や楊貴妃がその代表である。現代の基準で考えると、それほどの美女が実際に存在したのか疑わしくもなるが、おそらく近代化される以前の社会には、本当に絶世の美女がいたのだろう。
生産性が現代ほど高くない社会においては、女性も重要な労働力だった。特に農村部においては、過酷な農作業を強いられるため、女性といえども筋骨が逞しくなり、太陽光線を浴びて浅黒い荒れた肌をしていたはずである。生活にゆとりがなく、また、いつも顔見知りの人々とばかり接するため、化粧気がなくなり、動きやすい労働着ばかりを身につける。そうした社会にあって、後宮に入り、重労働をせずに王侯貴族を喜ばせる役割を担っていた少数の女性は、一般社会では見ることのできない濃い化粧を艶やかな服で身を飾っていた。屋外で立ち働かないために肌は滑らかで白く、動物性タンパク質を多く含有する食事が摂れるので、ふくよかで脂肪の多いなよなよとした体型になる。これは、一般の女性とは隔絶した姿である。絶世の美女に必要なのは、屋外労働とは無縁であることを示す化粧や衣装、白い肌とぷよぷよ・なよなよした体つきだろう。顔立ちがそれほど重要だったとは思われない。骨張っておらず天然痘によるあばたがなければ、顔立ちは皮下脂肪と化粧でいくらでも変えられるからだ。
かつて絶世の美女は実在した。しかし、それは不平等な社会が作り上げたいまわしい存在だったのである。(8月4日)

  最近、昭和30年代がブームになっている。人々が希望に燃え、社会に活気があり、いまだ人情に厚かった時代として懐かしむ向きが多いようだ。しかし、これは全くの幻想である。確かに、昭和30年代の店員は今よりもずっと愛想が良く、客に積極的に話しかけてきた。だが、決して当時の店員が人情に厚かったからではない。彼らが愛想良かったのは、あくまで馴染みの客に対してだけである。当時は交通機関が未発達であり、個人商店に来訪する客の顔ぶれは、徒歩圏内に居住するメンバーにほぼ固定されていた。こうした客には愛想良くしておかないと、次に来店したときに気まずくなってしまう。一方、ふりの客に対しては愛想のかけらも示さない。特に子供に対しては、ぶしつけで横柄な態度を平気で取っていた。客と良く話をするのは、商品の供給が安定せずに品揃えにばらつきが多かったので、その場で説明しなければならなかったせいだ。しかも、商売人としての体系的な教育を受けていないので、商品知識が乏しく、口からでまかせを言うことも少なくない。最近のチェーン店で働く接客指導されたアルバイト店員のように、客を差別せず一定水準の知識を身につけた人材など、一部の大型店舗以外では目にすることができなかった。そんな時代のどこが良いのか、私にはさっぱりわからない。(8月20日)

  20世紀の終わり頃、アメリカで「今世紀の最も偉大なスポーツマンは誰か?」についての投票が行われ、モハメド・アリという結果が得られたことがある。なるほど、20世紀はアリか。では、19世紀は?−−と質問しても、誰も答えられないだろう。個人が力量を競うショースポーツが始まるのが、19世紀末だからである。もっとも、スポーツという言葉は本来は気晴らしという意味であり、この意味でのスポーツならば、文明とともに生まれたと言っても良いだろう。18世紀以前には、収穫が終わった後に村人総出でボールを蹴りあう祭りとして、サッカー(と呼んでもかまわないもの)が行われていたが、工業が盛んになって都市に人口が集中するようになると、店舗や公共施設を破壊する恐れがあるため、住民がこぞってサッカーを行う習慣は廃れてしまった。また、ボクシングはケンカに特定のルールが導入されたものだが、19世紀には賭ボクシングが流行し、庶民の楽しみとなっていた。戦前のアメリカ映画で良く見られたのが、労働者の間で諍いが起きたとき、やおら上半身裸になってボクシングのスタイルを取るというシーンだ。周囲の者は、制止するどころか円陣を作ってはやし立て、どちらが勝つか賭を始める。祝祭的なサッカーや賭の対象となるボクシングはあくまで民衆の“スポーツ”であり、20世紀的なショースポーツと全く異質のものであることがわかる。(9月6日)

  「武士の家計簿」(磯田道史著、新潮新書)という本には、江戸後期における下級藩士の意外な側面が描き出されており、実に興味深い。例えば、当時の武士の多くは借金まみれだったという。原因の1つは、江戸初期に確立された俸禄制度が時代遅れになり、藩の収入の大半がろくに仕事もしない一部の特権階級に流れ込んでいたことのようだ。しかし、それ以上に重要な原因として、身分制度が形骸化し、身分維持のための経費が膨大になったことが上げられる。「武士の家計簿」の主人公は、年収の何倍もの負債を抱えていたにもかかわらず、親戚縁者・神社仏閣に多額の資金を投入している。祝儀交際費の出費回数は年間200回以上となり、ほとんど日を措かず何がしらかの金を払っていた。特に、葬儀や病気見舞いの出費が大きい(なぜか結婚の祝儀は現代の水準よりも少ない)。節句や鎮守祭礼にもきちんきちんと支出する。寺へのお布施は、現代の貨幣価値に換算すると年間18万円に上るとか。さらに、武士は「俸禄百石につき一人」の使用人を雇うことが義務づけられていた。いざ戦となったときには家来として出兵させるためである。また、他家の使用人が用事で訪れた際には、そこそこの祝儀を渡さなければならない。どうかすると、使用人の方が主人よりも金回りが良かったという。こうした身分費用が重くのしかかり、武士たちは商人に莫大な借金をして身動きがとれない立場に置かれていた。なるほど、維新がすんなりと実現したわけである。(9月14日)

  国際的な途上国支援の運動としてフェアトレードなるものがある。先進国は支配的な地位を利用して途上国の製品を安く買い叩いているので、途上国の市民は品国勢活から脱却できず、いつまでも隷属的な立場を強いられている。そこで、先進国の基準で生産に要する費用を評価し、それに基づいた価格で途上国の製品を買い上げるようにすれば、国際的な富の再分配が可能になるのではないか。そうした発想で始められたのがフェアトレード運動なのだが、果たしてうまくいくかどうか、いささか懐疑的にならざるを得ない。
製品の持続的な購入が行われるためには、製品価格が消費者にとって適正なものと受け取られる必要がある。たとえ労働集約的な製品であっても、需要と供給に応じて決定される値よりも著しく高い場合は、フェアトレードの支持者が一時的に購入を行ったとしても、最終的には需要が減退することが予想され、途上国での産業そのものにダメージを与える危険もある。たとえ、フェアトレードが一定期間持続したとしても、それが途上国の貧困を解消するとは限らない。流通のインフラがシステムとして確立されていない地域では、フェアトレードがもたらす価格のアンバランスによって脆弱な流通ルートが混乱しかねない。また、熱帯地域における果樹園などの場合、生産活動による環境破壊の大きさが完全には解明されておらず、一部の生産者に肩入れすることが現地住民にどれほどのメリットをもたらすか即断できない。フェアトレード運動を止めるべきだとは言わないが、マクロ経済学および環境経済学の観点から、その効果を適正に分析する必要があるだろう。(10月7日)

  ゴミの出し方は難しい。どう捨てれば良いかを合理的に判断するための基準がなく、各自治体における処理施設の状況と担当職員の考え方に依存してゴミ出しの規則が決まるからだ。新たなゴミ焼却施設が建設された結果として、分別の仕方が急に変更されることもある。例えば、資源ゴミとなる新聞紙にチラシを混ぜても良いのか。昔はチラシが上質紙やカラー印刷の場合、コーティング材とカラーインクが不純物となるので別にすべきだとされていた。ところが最近では、新聞販売店との協力の下で大部分のチラシが不純物を含まないようになっているので、分別する必要はないという。それどころか、新聞紙だけだと再生を繰り返しているうちに紙の線維が短くなってしまうので、バージンバルプを使ったチラシを混ぜてくれた方が再生紙の質が向上して好ましいそうだ。また、空き缶はつぶした方が喜ばれると思っていたら、選別機によってはつぶれた缶をうまく分別できないので、つぶされるとかえって迷惑だという所もある。スプレー缶に穴を開けるべきかどうかも、自治体によって基準が異なる。ゴミ出しをする前に、各自治体が用意しているパンフレットをじっくり読んだ方が良さそうだ。(10月11日)

  名人と対等以上の勝負ができるチェスや将棋のプログラムを開発することは、コンピュータ・エンジニアの大いなる目標である。五目並べならば、コンピュータに頼らずとも先手必勝であることは明らかだ。チェスや将棋に関しては、プロ級の実力を持つプログラムが開発されている。囲碁のプログラムは、まだ高段者に遠く及ばない。そうした中で、チェッカーに関しては完璧なプログラムが完成したと発表された。完璧なプログラム同士を対戦させると必ず引き分けとなり、わずかでもミスを犯す相手には確実に勝てるという。チェッカーの場合、可能なコマの配置は50京通りに上るが、その全てをデータベース化するのは困難なので、最終局面に近い4兆通りだけをデータベース化し、後は、いかにして必勝の局面に到達するかをプログラムしていったとか。ある意味、コンピュータよりもプログラムした人間の方が凄い。(10月14日)

  バルガス・リョサはノーベル文学賞の候補にもあげられるペルーの文豪だが、私としてはもう1つ食い足りない感じが残る。現代ペルー社会の腐敗を描いた「ラ・カテドラルでの対話」や、植民地時代からの苦難の歴史を辿る「緑の家」は、単に社会のさまざまな局面を描出する大作というだけでなく、文学的技法の限りを尽くした実験作でもある。前者は空間を超え、後者は時間を超えて、複雑な断片をジグソーパズルのように組み合わせながら世界の全体像を構成してみせる。しかし、そこまで記述を断片化することが、果たして文学的必然なのだろうか。例えば、フォークナーが「死の床に横たわりて」で多くの登場人物の内的独白を組み合わせたとき、そこから人間の心の不安定性という影の主題が浮かび上ってくるのが感じられた。これに対して、リョサの技法は、一度書き上げた文章をバラバラにしただけのような取り留めなさだけが目立ち、なぜそうした技法を用いたのか理解に苦しむ。そこが、彼の小説に私が満足できない理由なのだろう。(10月21日)

  人間の眼が横長で黒目がくっきりしているのは、進化の結果だという説がある。社会生活を営む霊長目にあっては、対他関係の調整がきわめて重要となる。「交尾したい」「その行動は止めてほしい」といった気持ちを相手に伝えようとする局面は、社会生活の中でしばしば生じる。このとき、ゴリラやチンパンジーのような類人猿は、視線を利用することが知られている。相手の目をじっと覗き込み、自分の意図を相手に理解させようとするのだ。こうした目によるコミュニケーションが可能になる前提として、視線がどの方向を向いているか即座に判定できることが必要である。眼が横長で黒目がはっきりしていれば、それだけ視線方向を捉えやすく目によるコミュニケーションが成立しやすいと考えられる。この説が正しいとすると、集団の中にさまざまなタイプの眼を持つ個体がいる場合、眼が横長で黒目がはっきりしている個体ほど仲間とのコミュニケーションがうまくいき、集団に適合して子孫を残す確率が高くなると期待される。こうして、人類は霊長目の中で突出して横長で黒目のくっきりした眼を獲得したのである(10月28日)

  NHKでポアンカレ予想についての番組(『100年の難問はなぜ解けたのか』)を放送していたが、これがなかなか面白かった。ポアンカレ予想とは、「単連結である3次元閉多様体は3次元球面と同相である」というものである。私などは、球面と同相でない多様体はどう考えても思いつかないので、「ポアンカレ予想は多分正しいだろう」くらいにしか思っていなかった。しかし、数学の世界ではそうはいかない。「どう考えても存在しそうにないものが実際に存在しない」ことを証明しなければならない。これはいかにも難しそうだ。「存在しそうなものが実は存在しない」という問題なら、存在しそうなものの性質をリストアップし、その中から互いに矛盾するものを探し出せば良い。しかし、存在しそうにないものが実際に存在しないことを証明しろと言われても、どこから取りかかれば良いのやら。驚くべきことに、ペレリマンによるその証明は、トポロジーの問題であるにもかかわらず、微分幾何学の手法を利用しているという。3次元の微分幾何学と言えば、一般相対論の世界だ。実際、ペレリマンの証明には、温度やエントロピーといった物理学用語が頻出する(らしい)。当初、インターネット上に証明が発表されたとき、誰もがどこかにミスがあると思っていた。しかし、ミスは発見されず、遂にペレリマンをアメリカの大学に呼ぶことにした。トポロジーの世界的権威が集まった中、ペレリマンは解説を始めたのだが、それでも(NHKによると)誰も理解できなかったという。皆、トポロジーの問題として挑戦してきたため、微分幾何学の技法に馴染んでいなかったのだ。ある数学者は、それを悪夢と評した。半生を掛けて研究してきた難問が今まさに解かれようとしている。しかし、この問題のエキスパートで世界有数の数学者であるはずの自分に、その内容がわからないのだ。何という悲劇、あるいは喜劇!(10月31日)

  ようやく翻訳が出版されつつあるレヴィ=ストロースの大著「神話論理」は、天才的な洞察力と粗雑な文献解読が入り交じったアンバランスな著作である。生活パターンの限られた少数民族に伝わる神話が論理的思考の所産であるという彼の主張は、基本的に正しいと思われる。アメリカ原住民の神話において、猛獣のジャガーが単純な恐怖の対象としてではなく、ある文脈では人間に火の使い方を教えてくれる優れた知的存在として、別の文脈では人間に騙される愚かな生き物として描かれていることは、その証左となる。ジャガーを(恐ろしい獣という)情動面から捉えるのではなく、その特性を分析的に把握し、社会的関係性を表すコードとして利用しているからこそ、神話ごとに全く異なった役割を当てはめられているのだ。しかし、アメリカ原住民といえども、神話の中で、ストーリーのおもしろさを追求したり、身近な出来事についての連想を織り込んだりすることがあるはずだ。オポッサムが常に笑いものにされるのは、コード化の結果と言うよりは、実際の生き物が示す滑稽さを踏まえてのことだろう。これを強引に特性分析の対象にしてしまうレヴィ=ストロースのやり方は、学問的方法論として行き過ぎだと思われる。(11月7日)

  防衛省前事務次官が軍事専門の商社から高額の接待を受け、便宜供与を行っていた疑いが濃厚になっている。まったく、洋の東西を問わず、軍事産業には汚職が付き物である。
いつの時代でも、無能な権力者は強大なものを好む。兵器は、権力者が偏愛する玩具だ。国庫を掌握した権力者は、惜しみなく金を費やして強大な兵器を入手しようとする。当然ながら、売る方としては買い手がつく限界まで値を釣り上げる。ステルス爆撃機B-2は1機20億ドルと伝えられるが、ジャンボジェット機ですら2億ドルしないのに、なぜそんなにも高額なのか。レーダーに映らないようにするためだとか、強力なミサイルを備えているからとか、言い訳はいろいろあるだろう。しかし、どう考えても、ぼっているとしか思えない。実際にステルス化に必要なのは、コンピュータを利用した機体設計と電磁波を吸収する表面素材だけであり、いずれも数十億円程度に収まるはずである。権力者は技術に疎いという鉄則があるので、適当に機能を付け加えてさも高そうに装っているだけだ。特に、日本の場合、大部分の兵器は実戦で使用されないだろう。テストで良い所を見せつけてさえおけば、実戦における厳しい性能チェックがないので、価格ほどの価値がないことはそうそうはばれない。ミサイル防衛網など、どうぞ撃ち落としてくださいと言わんばかりの模擬弾を使って実演しておけば、何も知らない権力者は凄いものだと勘違いしてしまうので、すかさず言い値で売りつければ良い。そんなことはないとは思うが、万が一、実際にミサイルを撃ち込まれて、高い金を払ったミサイル防衛網が欠陥品だったと判明しても、後の祭りである。世にこれほどおいしい商売はまたとないだろう。(11月12日)

  フランスのタイヤメーカであるミシュランがレストランのランキングを始めて、すでに100年以上になる。歴史の積み重ねは権威を生み出すという経験則の例に漏れず、ミシュランも多くの読者に信頼されるレストランガイドとなった。しかし、このガイドブックは、あくまで「フランス人が旅行するときに食事する価値があるかどうか」を評価基準としている。この点を忘れて単なる美食ガイドだと思うと、とんでもない過ちを犯すことになる。旅行で訪れるレストランに望まれるのは、ハレの食事である。どんなにおいしくても、日常的に食べるような定食は、ミシュランでは正当に評価されない。ハレの食事なので、値段は多少高くてもかまわない。むしろ、高い金を払った方が、雰囲気に酔えて楽しめるだろう。ミシュラン・ガイドの選定基準としてコスト・パフォーマンスが挙げられているが、これは、あくまで同種の店と比較した場合の話であって、大衆店と比較すると味の割に高いはずだ(予想)。種類も、フランス人に認知されている寿司と懐石に限られる。行列のできるラーメン店は、はじめから評価の対象外である。こうした特徴を正しく理解していると、ミシュラン・ガイドは、読み物として結構おもしろかったりもする(ところで、来年の格付けに向けてミシュランの覆面調査員が都内のレストランに出没しているようなので、この時分、フランス人の扮装をしてレストランに行くと、やたらとサービスが良くなるかもしれない)。(11月26日)

  高緯度地方の住民は、太陽信仰をごく自然なものとして受け容れている。しかし、それは四季の変化がもたらしたものである。冬至に近づくにつれて、昼の時間は次第に短くなって日差しは衰えていく。人々は恐れおののき、太陽の復活を真剣に願うようになる。この願いが聞き入れられて再び昼が長くなり始めると、信仰の力に納得し太陽を祝す祭りが催される。クリスマスや正月も、起源はこの種の祭りである。ところが、熱帯地方では、昼間の太陽が過酷な暑さをもたらすため、太陽に対する信仰心は高緯度地方ほど強くない。むしろ、昼間の熱気を冷ます夜の涼やかな明かりとして、また、1ヶ月の暦(太陰暦)を与えてくれるクロノスとして、月に感謝の念を抱く民族が少なくない。さらに、夜が生殖のための時間であること、女性の生理が月の周期と同期していることから、月を豊穣の源とする信仰心が生まれてくる。それは、自然な流れである。とは言え、「原初には1日中昼間だったが、あるとき月の神の力で夜が生まれた」という神話を読むと、何か物事の順序が逆転しているような違和感を覚えるのは私だけではないだろう。(12月3日)

  同時多発テロの後でアメリカがアフガンを攻撃したとき、批判的な論調は比較的少なかった。当時のタリバン政権が、バーミヤンの大仏を破壊するといった“野蛮な”行為を行っていたからだろう。しかし、人類の文化遺産と言うべき貴重な仏像を破壊したという点では、明治時代の廃仏毀釈もさして変わりない。廃仏毀釈は明治政府が直接推進した運動ではなかったものの、神仏分離令や神道国教政策に端を発しており、明治政府に責任の一端があることは否定できない。多くの貴重な仏像が破壊され、興福寺の五重塔も薪にされる寸前だったという。だが、たとえ許し難い“野蛮な”行いであったとしても、こうした文化財の破壊を止めようと外国勢力が介入してきたら、当時の日本人はどう思ったろうか。(12月8日)

  東北地方を走る特急「かもしか」のヘッドマークに描かれたイラストが、カモシカ(ウシ科)ではなくエゾシカ(シカ科)だと指摘されたそうだ。そこで改名−−特急「しかかも」。(12月16日)

  カエルにはなぜ尻尾がないのか。これは、考えれば考えるほどわからなくなる難しい問題である。脊椎動物の基本的なボディプランは、カンブリア紀に完成された。外敵から逃れる素早い運動を可能にするのは、脊索を迅速に伝わる神経パルスであり、その末端にある尾部は、水を打って前進する力を生み出す。尾はきわめて重要な運動器官であり、その後に登場するほとんどの脊椎動物に受け継がれる。陸生動物の場合、2足歩行恐竜のように尾がバランスを取るために不可欠の役割を果たしていることもあるし、多くの哺乳類に見られるように、単なる飾りや種族内でのコミュニケーション装置としてしか使われていないこともある。しかし、重要であろうとなかろうと、尾は基本的なボディプランの構成要素として染色体の奥深くに組み込まれており、完全に失われることは滅多にない。人間ですら、尾てい骨にその痕跡を残している。ところが、カエルはオタマジャクシから変態する過程で、アポトーシスによって尾を消滅させてしまう。なぜか。確かに、オタマジャクシのように長い尾を持ったままでは、カエル飛びの際に邪魔になってしまう。だが、それならば尾を短くするだけで充分であり、完全に消滅させてしまう必要はないのではないか。もちろん、組織の一部だけを残すようにアポトーシスを行うのが遺伝子の制御として難しいこともあるのだろうが、それにしても、尾を持ったカエルが全く見あたらないのは、やはり不思議である。(12月20日)

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©Nobuo YOSHIDA