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  電子マネーが急速に普及し、情報技術を利用した決済が一般的になるにつれて、高齢者を中心に深刻なデジタルデバイドが拡がりつつある。現金による相対取引しか行ったことのないお年寄りに、チャージの方法を修得させることは、かなり手間が掛かる。かといって、金額の限られたプリペイドカードでは使い勝手が悪い。そこで考えてほしいのが、充分なセキュリティ対策を施した少額決済用のクレジットカードである。1回の利用限度額を1万円程度、1ヶ月の限度額を7〜8万円程度に設定し、必要がある場合は、静脈認証などのバイオメトリクスによって本人確認を行う。入会のための審査はなく、国民年金受給者ならば即日加入できるものとする。利用状況は自動的にチェックされ、不審な点があれば本人に対して確認を行う。小口のクレジットは利益が上がらないので信販会社に敬遠されがちだが、利用者が充分に多ければ、初期投資を回収し、さらに利益を出すことも可能なはずだ。所得の低い高齢者にクレジットカードを発行することはリスクが大きいかもしれない。しかし、利用限度額を低く抑え、年金受給額に見合った利用状況かをチェックすれば、貸し倒れの危険を回避できるだけでなく、個人破産の防止にもつながり、社会的なメリットもあるだろう。高齢者は指の感覚が衰え、自動販売機に小銭を投入するのに難渋することが少なくないので、カードが利用できれば、日常生活にも便利である。さらに、進取の気概のある高齢者は、カード使用を前提とするサービス(ネットショッピングや飛行機のチケットレス搭乗など)を受けるようになるだろう。(1月4日)

  ロボット格闘技がブームになっているという。リモコンで操られる身長50cmほどの2足歩行ロボットが、パンチやキックを繰り出して闘うというもの。ダウンの回数で勝負を決するが、カウントテンまでに起きあがれなければKO負けとなる。2002年にロボ競技会が始まったときには、参加者の大半がエンジニアだったそうだ。それが今では、組み立てキットが10万円前後で販売されており、子供でも参加できる。思えば、子供の頃に呼んだSFマンガにこうしたロボット格闘技が描かれていた。無線でコントロールできる精巧なロボットが子供のおもちゃになることなど、50年経ってもありえない−−子供心にそう感じていたのだが、21世紀に入って数年で、そんな空想が現実のものとなってしまった。何か空恐ろしい気がする。(1月7日)

  自動車のエネルギー効率を低くしている最大の要因は、その重量にある。考えてみてほしい。体重100kgもない人ひとり移動させるのに、なぜ1トンもある鉄の塊を使わなければならないのか。ここで問題になるのが、技術が進歩しても簡単に重量を減らせないとされる駆動系である。シートや扉は、エアクッションやプラスチック素材に交換することで大幅に軽量化できるが、エンジンは、内部でガソリンを爆発させる内燃機関であるため、充分な強度を備えた金属体でなければならない。また、エンジン出力をタイヤに伝えるシャフトや、それを支持するフレームにも、それなりの強度が要求されるため、軽くすることは難しそうだ。とすれば、エネルギー効率の高い車を作るためには、エンジン−シャフト−タイヤという駆動系を持たないシステムを開発する必要がある。私が提案したいのは、「地を這うマット」である。柔軟なマット状の車体の下に、長さ数cmの“鞭毛”が生えている。ちょうどミドリムシのように、電気的エネルギーでこの鞭毛を動かしながら、道路を這い進んでいくというものだ。でこぼこがあっても、柔らかい素材で作られたマットは、変形しながらその上を進むことができる。電池は中央部にセットし、それだけを支えるための車輪を用意する。人間は、エアクッションを利用した段の上に腰を下ろす。形が形だけに、あまりスピードは出ないだろうが、時速15〜20kmも出せれば、市内を移動するための乗用車としては、充分に実用的である。もっとも、大型トラックに踏みつぶされる危険はあるが。(1月12日)

  “近い”という概念には曖昧さが伴う。例えば、「チェルノブイリ事故における核反応は、核暴走よりも核爆発に近かった」と主張する人がいるが、この主張の妥当性は、“近さ”の基準に依存する。たとえて言えば、「100は1と1000のどちらに近いか」という問題と似ている。「100と1の差は99、100と1000の差は900、99は900より小さいので100は1000より1に近い」と考える人もいるだろう。しかし、「100は1の100倍、1000は100の10倍、10倍と100倍では10倍の方が小さいので、100は1000に近い」という考え方もある。これは、どちらかが正しくどちらかが誤っているという訳ではない。“近さ”を論じるとき、線形スケールと対数スケールのどちらを用いる方がコンセンサスを得られるかという相対的な問題なのである。(1月15日)

  「一般人」という語は、やや侮蔑的な響きがあるせいか、あまり用いられない。しかし、「専門家」と対置させるには、最適な言葉である。この場合、「一般人」は特定の階級・階層を表すのではない。専門的な知識や技量を持たない人々の総称である。例えば、“刀剣”を考えた場合、刀鍛冶や刀の鑑定士、刀剣を扱う美術館の学芸員などが専門家に当たり、それ以外の人々は、(異なる分野の)大学教授でも大企業の経営者でも、「一般人」と呼ばれることになる。もっとも、似て非なる言葉である「一般市民」や「一般大衆」と紛らわしいので、使う際には慎重さが必要になる。(1月17日)

  解離性同一性障害−−いわゆる多重人格−−は、通俗的な関心を喚起しやすいこともあって、さまざまな形で議論されているが、誤解も少なくない。しばしば見受けられる誤解は、「多重人格」という言葉を文字通り解釈して、複数の独立した人格が現れると見なすものである。ときには、精神分析医がこうした誤解をしていて、患者の精神状態が急変するたびに、あたかも別の人間に接するがごとくに振舞ってしまい、かえって「医源病」としての多重人格を作り出すこともある。実際の解離性同一性障害とは、トラウマなどのせいで同一性を維持しがたいいくつかの精神状態があり、それぞれが異なるキューを利用して状況判断をしているため、ある精神状態のときに他の状態のときを想起しにくくなっただけのものである。多重人格に関する誤解が蔓延すると、犯罪における責任能力を正しく判定できなくなる危険が生じる。例えば、激しやすい人が傷害事件を起こしたとき、犯罪を行ったのは通常時とは異なる“キレた人格”であり、おとなしい通常時の人格は責任がないと判定されるかもしれない。(1月22日)

  日常的な言い回しには、厳密に考えると意味がおかしいものが少なくない。例えば、「おなかをこわす」。日本語では、自動詞・他動詞が意味論の上で峻別されておらず、統語論的な区別だけが強調される。このため、印欧語に倣って他動詞を能動的な作用として解釈しようとすると、どうにもおかしなことになる。だが、「おなかをこわす」ではなく、「おなかがこわれる」と言うべきだ−−と主張するのも筋違いだ。「手を焼く」は比喩としても変で「手が焼ける」の方がマシだが、「世話が焼ける」となると、もはや文法のタガがはずれてしまっている。(1月31日)

  プリンタ用インクの再充填を行っていた企業を特許権侵害でキャノンが訴えたケースで、知財高裁はキャノンの主張を認める判決を下した。一審を覆す逆転判決である。このケースは、法律的にも社会的にも難しい問題を抱えている。法律的には、使用済み製品にまで特許権が及ぶかという問題。これに対しては、特許対象とされたインク漏れ防止機構が再充填によって再び利用されるようになるため、特許侵害に当たると認定された。社会的には、リサイクルの動きに逆行するのではないかという問題。プリンタのメーカには、カートリッジの回収を進めているところもあるが、洗浄・再充填によるリユースに比べると、環境負荷が高い(ただし、今回のケースのように、再充填のために中国に輸出した場合についての環境評価は難しい)。パソコン用プリンタの分野では、本体を廉価で販売し、インクなどの消耗品で利益を確保するビジネス・モデルが確立されている。しかし、こうしたビジネス・モデルが社会的要請に違背する場合、企業に対する批判は免れないだろう。今回のケースは、環境負荷の差がはっきりしないため判定が難しいが、仮に、再充填方式が環境にとってプラスであると結論されるならば、ビジネス・モデルの方を改めるべきかもしれない(2月3日)

  デンマークの新聞がマホメットの風刺画を掲載したことに対して、多くのイスラム教徒が激怒している。デンマーク大使館への襲撃を含む過激なデモが繰り広げられているほか、お返しとばかりにナチスのホロコーストを茶化す風刺画も現れ、事態は泥沼に入り込んだ。西側の政治家が、表現の自由とかかわる問題なので政府が規制することはできないと発表したため、先行きが読めない状況である。風刺画を掲載した新聞社をはじめ、西側の関係者が理解していなかったのは、これが、民族の逆鱗に触れる行為だという点である。西側でも、キリスト教や各国の王室を批判する風刺に対して眉をひそめる人はいるが、暴動に発展することはまれだ。彼らにとって、こうした風刺は、知的な行為として解釈されるからである。ところが、肖像画自体をタブー視するイスラム社会にとって、マホメット自身を描く風刺画は、あからさまな侮蔑に相当する。ある民族にとって何でもない行為が、他の民族を激怒させるという点で、まさに民族の逆鱗である。日本人が鯨を食べることに対して欧米人が激怒するのと似ているかもしれない。(2月8日)

  トリノで冬季オリンピックが開催されるが、マスコミでは、やたら強気のメダル予想が目立つ。アテネで大量16個の金メダルを獲得したことが脳裏にあるのかもしれない。だが、冬季大会は、長野の後で世代交代に失敗し、ソルトレークでわずか2個のメダルしか取れなかったことを忘れたのか。女王スルツカヤの君臨するフィギュアで「メダル独占も夢ではない」とうそぶき、圧倒的に選手層の厚いアメリカがW杯に出場していなかったことを無視してスノーボードで金が期待されると口にする。はては、今シーズンほとんど入賞者のいなかったジャンプでもメダルが取れそうだと書き立てるしまつ。大会終了後に選手へのバッシングが起きなければ良いのだが。もっとも、事前に熱してもすぐに冷めてしまうのがマスコミの常だから、あまり気にする必要がないのかもしれないが。(2月12日)

  映画『CASSHERN』の出来の悪さを見て、映像作家と映画作家の違いについて、改めて考えさせられた。監督の紀里谷和明は、ミュージックビデオの分野で著名であり、その映像には、輝くばかりに才気が感じられる。しかし、彼が作る映像は、あくまで音楽に触発された一連のイマジネーションを視覚化したものであり、それ自体がストーリー性を持っているわけではない。映画(少なくとも商業的な長編映画)は、ストーリー性を要求する芸術である。冒頭に設定されたシチュエーションから物語が紡ぎ出され、偶然と必然のせめぎ合う展開を経て、大団円に至る。優れた映画作品の多くは、そのプロセスがきわめてロジカルである。ヒッチコックは、ヒットする映画は何かと問われて、観ていない人にこんな内容だと語れる作品だと答えている。キューブリックの映画のように、ストーリーはわかりにくいがフォトジェニックな映像で人を魅了するという例外的なケースはあるものの、ストーリーライン(あるいはストーリーを生むプロット)の明確さは映画の生命線である。映像で物語を展開させられるようになって、はじめて一流の映画作家といえるのである。(2月14日)

  国会が堀江メール問題で揺れている。堀江氏は、粉飾決算疑惑で拘留中の人物。先の総選挙中に、立候補した堀江氏を応援する武部自民党幹事長の次男に3000万円を振り込むようにメールで指示したとされる。あるフリーランスの記者からこのメールを見せられた民主党・永田議員が国会で追求したことから。大騒ぎとなった。さて、くだんのメールだが、一目見るだけで偽造とわかる。小泉首相が、メール問題が表面化して数時間後には“ガセネタ”と断定したのも頷ける。何よりも、テキストをそのまま送信していることから、このメールが実際に送信されたものだとすると、送信者は、(1)人に読まれる危険が大きいというメールの仕組みを知らなかった、あるいは、(2)人に読まれてもかまわないメールだと思っていた−−のいずれかだと言える。しかし、いずれも堀江氏には該当しない。本文がインデントされていることから転送メールだとの見方もあるが、だとすると証拠能力は皆無である。この程度の情報で国会を騒がせたことに対して、永田氏と民主党幹部はしかるべき責任を取らなければならない。(2月20日)

  『蟲師』は、日本アニメの水準の高さを証明する傑作である。この世界には、動植物の他に目に見えない蟲が息づいており、万物にさまざまな影響を与えている−−という舞台設定は、演出の仕方によって傑作にも駄作にもなる危ういものだ。実際にできあがった作品を見ると、人間のキャラクタは原作そのままに単純な(セル画風の)画にする一方、蟲はCGを使って非現実感を醸しており、両者の不協和が微妙な綾を与えている。特筆すべきは、音の表現である。登場人物の足音などリアルな音と、蟲の蠢きを表すシュールな音を、ともに見る者をはっとさせるような強度で提示する。こうした強い音に促されるかのように、不可思議な(それだけでは強引とも思える)ストーリーが展開されるため、いつの間にか作品世界に引き込まれてしまうのである。(3月12日)

  プロの料理人の中には、電子レンジに対して嫌悪感を抱く者が少なくないようだ。作動原理がよくわからず従来の勘が通用しない、1度スイッチを入れると途中で手を加えることができない−−そうした理由もあるのだろう。しかし、オーブンや圧力鍋も登場した当初は似たような目で見られたはずである。むしろ、他の調理器具にはない電子レンジ固有の特長を生かしたレシピを考案すべきだろう。特に、水分が多い部分から加熱されるという点は、有用である。すでに電子レンジ専用の製品も多く出回っているが、まだまだ開発の余地は残されている。将来的には、マイクロ波の波長や強度をコンピュータ制御するレンジも作られるだろう。時間とともに波長・強度を変えることにより、何度も手を加えなければならなかった一連の調理を1台の電子レンジで済ますことができるはずである。タンパク質の特定の部位を切断することが可能になれば、他の成分を熱で破壊せず、旨みとなるアミノ酸だけを切り離せるかもしれない。熱い部分と冷たい部分が入り組んだ不思議な料理を食べてみたい気もする。
 ところで、私がお勧めする電子レンジ料理は、ビーフステーキである。単に肉を焼くだけと思われがちなステーキだが、実は、おいしいステーキを焼き上げるのはかなり難しい。牛肉の脂肪は、ほんのり溶ける程度に加熱しなければ旨味が出ない。しかし、厚切り肉の内側まで充分に加熱しようとすると、両サイドを焼きすぎてしまう。焦げないように低温にすると、調理過程で肉汁が漏出する。こうした問題を一挙に解決するのが、電子レンジである。両サイドを手早くあぶって肉を引き締め、いったん冷ました後に電子レンジで内側を適度に加熱すると、全体がジューシーで旨味が存分に引き出されたステーキになる。お試しあれ。(3月28日)

  子供向けアニメを見ていて思わず微苦笑せざるを得ないのは、恋愛の成就といった卑近な出来事と、宇宙の崩壊のような大スケールの事件が、あたかも等価であるかのごとく描かれているところである。現実には、人間と自然とは、全く釣り合っていない。自然界にとって仄かなそよぎにすぎない事象が、100億の民を一瞬のうちに殲滅する。宇宙の運命に対して、人間はいささかなりとも関与することはできない。人間と拮抗する力を持つのは、人間自身か、人間に近い動物だけである。人間を宇宙に対峙させたとしても、その圧倒的なパワーの前に何もできずに終わるのが、世界の必然である。しかし、それもまた、人間が人間的であることの証となる。(4月4日)

  風間志織が描く世界では、、深刻な事件は何も起こらない。しかし、これほどサスペンスに満ちた濃密な時間を体験することは、めったにない。彼女の映画に登場するキャラクタは、一見、きわめてありふれた存在であり、「知性の乏しい女子大生」とか「気力に欠けたフリーター」といったレッテルを貼られかねない人々だ。彼らが、事件らしい事件も体験しないまま、市井の淵をうごめく姿は、あまりに取り留めなく、何の物語もないように見える。ところが、ひとたび映像世界に没入すると、ありきたりな人間と思えたものの内奥に、異様に絡み合った情念のもつれがあることがわかってくる。しかも、2時間ほどのあいだにわたって、この情念のもつれが生み出す人間関係が、刻一刻と変化していく。ありきたりの映画ならば、何かの事件を契機として、登場人物の関係が変換点を迎えるだろう。しかい、風間志織の作品では、そうしたあざとい表現は用いられない。1つのシークエンスの中でも、ゆっくりと、だが確実に、人と人との力関係が移ろっていくのだ。それを見つめるには、極度の集中力が必要となる。そのせいか、彼女の作品はヒットとは無縁だが、映像のキャラクタに入り込めたならば、激しい情念の高まりを体験できるはずだ。(『せかいのおわり』を見て)(4月7日)

  日本と韓国がともに領有権を主張している竹島を巡って、きな臭い事態が進行している。以前は韓国が竹島に観光施設を建設して問題となったが、今回は、日本の海上保安庁が周辺海域を調査しようとして、韓国側の反感を買った。竹島の領有権に関して、客観的な立場から判定を下すのは難しい。歴史的に微妙な経緯があり、日本・韓国双方に同程度の道理がある。こうした状況では、いずれの国に領有権を認めても禍根が残る。韓国領とすれば日本側に、日本領とすれば韓国側に領海が大きく張り出すことになり、相手国民には納得されないだろう。とすれば、自ずと解決策は明らかである。竹島は存在しないものとして領海を決定するか、あるいは、竹島上に韓国と日本の国境線を引くか、いずれかしかない。領土問題が紛糾するのは、冷静に議論しなければならないにもかかわらず、頭に血を上らせた政治家がしゃしゃり出てくるからである。北方領土に関しても、ソ連との交渉に際して外務省が冷静に落としどころを探っていたにもかかわらず、時の鳩山首相が横槍を入れたために、まとまりがつかなくなってしまった。竹島問題も、過激な政治家を排して、両国民の理性的な裁定にゆだねてほしい。(4月18日)

  耐震偽装事件は、関係者の逮捕という重大な局面に向かっているが、どうやら大衆は、社会的正義の観点からすると好ましからざる解決を望んでいるようだ。姉歯建築士が構造計算書を偽造した結果として、何の落ち度もない多くのマンション購入者が住まいを追われ、将来は二重ローンに苦しめられる。こうした状況をマスコミがことさら同情的に報じたため、張本人である姉歯建築士のみならず、偽造を見抜けずにマンションを販売した不動産会社にまで大衆の怒りが向けられることとなった。しかし、不動産会社は、実際には偽造の被害者である(瑕疵担保責任に基づく弁済の義務はあるが、それよって発生する損害は、偽造を行った建築士に請求すべきものである)。構造計算書のチェックを行うのは認可を受けた確認検査機関であり、ここをパスしてしまうと、建設・販売会社が独自に偽造を見いだすのは困難である。しかも、イーホームズなどの検査機関は、入力項目などをチェックするだけで、指定された構造計算用ソフトが利用されていることが確認できれば、再計算まではしない(現実問題として、そこまでの手間は掛けられない)。指弾されなければならないのは、簡単に偽造ができてしまう杜撰な構造計算用ソフトを認定した政府である。建築コストを抑えた設計をしてくれる建築士として姉歯を起用したことに道義的な責任があるのかもしれないが、この件に関して違法行為を犯しているとは思えない不動産業者(あるいはホテル開業を指南したコンサルタント)を詐欺罪に陥れたがっている大衆の姿は、衆愚という言葉を思い起こさせる。
 この事件は、ほんのわずかの利益を得ようとした一個人が、莫大な社会的損失を引き起こしてしまったというものである。個人の不法行為による損害は、民事での損害賠償で解決すべき案件だが、被害総額が100億円を超えるため、個人による賠償は不可能であり、保険によって補償しなければならない。今回の耐震偽装事件の大きな教訓は、日本では不動産に関する法整備が遅れていることが明らかになった点である。製造物責任の不動産への適用、不動産保険への強制加入といった制度の整備を急ぐべきである。(4月26日)

  「教えて!goo」の科学のコーナーに、「科学で証明できないことは何かありますか」という質問があった。多くの回答が寄せられていたが、私が答えるなら、「科学で証明できることは何もない」となる。科学とは、仮説の積み重ねによって有用な命題を生成する体系を構築していく作業である。そこに“絶対的真理”といったものはない。ただ、“より信憑性の高い仮説”があるだけだ。中には、その仮説に従うと、観測データと10億分の1の精度で合致する理論値を導き出せるものもあり、他の学問体系の追随を許さない圧倒的な確かさを見せてくれる。しかし、それでも仮説以上のものではない。科学に無知な人間は、科学者を傲慢だと思うかもしれない。しかし、自分たちの行っていることが仮説の構築であることを自覚している点で、科学者ほど謙虚な者はいないとも言えるのだ。(4月30日)

  アメリカとの間で進められてきたミサイル防衛網計画が本格化してきた。日本やアメリカを目標とするミサイルを途中で撃ち落としてしまおうというものだが、どうにもキナ臭い。アメリカにとって最大の驚異となるのは、ロシアと中国の大陸間弾道ミサイルのはずだが、これらはスピードが速すぎて撃ち落とせない。そこで急浮上してきたのが、北朝鮮脅威説である。テポドンの改良型ミサイルは、日本全土とアラスカを射程に収めるので、日米双方にとって対策が必要になるというわけだ。しかも、加速性能が低いので、多額の予算を掛けて技術開発すれば、充分に迎撃可能なはずだという。しかし、アメリカの政治家たちは、北朝鮮がミサイル攻撃を仕掛けてくると本気で信じているのだろうか。むしろ、防衛網構築のために政府が支出する莫大な金が目当てではないのか。アメリカの軍事産業は、青天井に近い予算が配分され潤っている。この利権をさらに拡大するために、北朝鮮の軍事力を過大に言い立てて、日本もスポンサーに加わってもらおうとする−−そうしたシナリオが透けて見えてしまうのだ。(5月5日)

  100メートル競走で新記録誕生−−かと思いきや、ミスで取り消しになったという。珍事件が起きたのは、カタールグランプリでの男子100m決勝。アテネ五輪金メダリストのガトリンは、これまでの記録を100分の1秒縮める9秒76で優勝、世界新樹立と報じられた。しかし、実際のタイムは9秒766。「1000分の1秒台は切り上げ」という国際陸連のルールに従えば、9秒77のタイ記録になる。どうやら、計時を担当したスイスの時計会社が間違えたらしい。それにしても、100分の1秒を争うことに、どれだけ意味があるのか。100mを10秒フラットで走るとすると、ラストの100分の1秒で10cm(実際には、後半で加速するのでそれより長い)だけ移動する。1000分の1秒ではゼッケンのはためきの中に紛れてしまう差しかないが、10cmならば順位を決定するのに充分だとも思えよう。しかし、スタートからゴールまでのタイムを考えると、多くの不定要素が混入するので、意味のある差かどうか、怪しくなる。まず、スタートの合図。ピストルの音だと、コースの端から端まで音波が届くのに100分の数秒掛かってしまうので、国際大会では、各コースのスタートラインにスピーカが設置されている。この合図の音に対して、0.1秒経過する前にスタートを切った場合は、フライングと見なされる。ただし、合図よりかなり遅くなってもタイムの調整は行われない。このため、100mを走り抜いた時間は短いにもかかわらず、スタートで出遅れたせいで2位に甘んじるケースもある。現在、トップアスリートの走行能力はほぼ限界に達しており、フライングにならないようにいかに早くダッシュするかが、記録を塗り替える鍵となっている。人間が耳で音を聴いてから反応して動き出すまでに、どんなに早くても0.1秒、通常は0.2秒以上掛かるので、記録更新には、一か八かで飛び出すのでなければ、音に対する反射能力を極限まで高めなければならない。これが、最速の男を決める条件として妥当なのか、首を傾げざるを得ない。(5月15日)

  現代世界の中心舞台が、中国やアラブではなくヨーロッパなのはなぜか。これは、世界史の根本問題である。ヨーロッパ文明は、15世紀の大航海時代以降、過激なまでの拡大政策によって他の大陸を次々と植民地化し、“ヨーロッパ的なもの”を人類のスタンダードとした。産業革命を成し遂げ、2度の世界大戦を起こし、科学技術を発展させた。まさに、「近代史=ヨーロッパ史」である。だが、15世紀以前、ヨーロッパは、経済的にも文化的にも、中国やアラブに大きく遅れていた。なぜ世界制覇を成し遂げたのが、後進地域のヨーロッパだったのか。私は、その理由を「ヨーロッパが後進地域だったから」だと考える。文明の発展・消長には、ある種のパターンが見られる。食料の安定供給に成功し人口が急激な増加に転じた部族は、次第に外部へと侵出し、他の部族と争いながら版図を拡大していく。しかし、こうした軍事的拡大政策を続け、屈服したとはいえ技術的な格差がそれほど大きくない他の部族を永続的に支配することは、政治的にも経済的にも負担が大きすぎる。このため、ある段階に達すると、支配的権力の担い手たちは、交渉による調停を経て領土を確定し、中央集権的な官僚機構を持つ安定した国家の形成を志向する。このとき、周辺地域との関係は、たまに軍事的な紛争が勃発することはあっても、通常は、相互に利益の上がる交易活動が中心となる。こうした文明の発展パターンをなぞって、古代ローマ帝国をはじめ、アラブ・インド・中国の巨大国家が成立した。ところが、ヨーロッパは、まだ部族間抗争が冷めやらぬ文明として未熟な時期に、アラブ世界から航海術や銃器など侵略に必要な技術を手に入れてしまった。ヨーロッパの域内では技術レベルの差が小さく争いは膠着するが、棚ぼた式に手に入れた造船と航海の技術を利用して新大陸へと侵略を始めると、面白いように他の民族を蹂躙し富を獲得できる。こうしてヨーロッパ人は、言語の統一すらできない民族対立状態のまま、野蛮なメンタリティを持って対外侵出を果たしたのである。ヨーロッパ文明が、最盛期の中国やアラブに匹敵する高度な独自文明を発展させるのは、ようやく17世紀になってからである。(5月31日)

  日銀総裁が村上ファンドを購入していたことが判明し、非難を浴びている。しかし、何が悪いのか、どうもよくわからない。村上ファンドに関しては、代表の村上氏が、先日、インサイダー取引疑惑で逮捕されている。しかし、代表が経済犯罪を犯したからと言って、ファンドそのものが違法というわけではない(この疑惑に関しても、有罪かどうか怪しい)。しかも、ファンドの購入は総裁就任前であり、何ら問題はない。マスコミがたたいているのは、総裁になってしばらく経ってからファンド契約を解消したことらしい。日銀総裁は、量的緩和の解除など株価全体を左右する施策を打ち出す立場にある。今後のファンドの成績を比較的簡単に予測できる、いわば究極のインサイダーなのだ。こうした立場にある人が株の取引を行うことは、少なくとも道義的観点からインサイダー取引だと批判されても仕方あるまい。ただし、今回のケースでは、利益を上げるために売却したとは言えず、モラルには反するものの、規則に抵触するとは言い切れない。どうもマスコミは、いかさまに近い方法で莫大な利益を上げていた村上ファンドに日銀総裁が一枚噛んでいたこと自体が、許せないようだ。しかし、冷静に考えれば、これは村上ファンドという特定のファンドが問題なのではなく、そもそも日銀総裁が株取引をする行為がどれほど反社会的なことかが論点なのである。私には、それほど批判されるべきことには思われないのだが。それを言い出したら、政治家は全て一種のインサイダーであり、政治家が株を購入することも禁止せねばなるまい。(6月15日)

  ロベール・ブレッソンは、私にとって、実に“気になる”監督である。彼の作品は、これまで「抵抗」「スリ」「ラルジャン」など7本観ているが、とりたてて感動したことはない。カイエ・デ・シネマの批評家たちが彼を絶賛するのは、どうにも不可解だ。さりとて、ハワード・ホークスの場合のように「過大評価だ」と突き放すこともできない。映像が異様なまでの迫力に満ちていることだけは感じられるからだ。あらゆる虚飾を排したストイシズムの極致とも言える映画−−しかし、これほどのものをブレッソンに作らせたのは何だろう。人間の偉大さでも愚かしさでもない。現実の豊かさでも虚しさでもない。存在の恐怖でも栄光でもない。何か名状しがたい力をフィルムに定着しようとして、ひたすら撮り続ける。そうしたブレッソンの姿に、畏怖せざるを得ないことだけは確かだ。(6月17日)

  サッカーW杯は、日本の1次リーグ突破が絶望的となって、一気に盛り下がっているが、日本チームが不振だった原因の1つに、試合開始時間の偏りがある。1・2回戦とも、暑さの厳しい午後3時のキックオフ。体力のない日本選手は、後半戦に疲労困憊となり、オーストラリア戦ではラスト10分に3点取られて惨敗した。なぜこんなスケジュールになったのか。全試合のタイムテーブルを見ると、おかしなことに気づく。A〜Hの8グループで各2試合ずつ行われる1回戦は、A−A−B−B−C−C−と、ABC順に行われているが、日本のいるFグループだけ順番が変更され、D−D−F−E−E−F−となって、日本・オーストラリア戦が3時開始になるように仕組まれている。もしかしたら、これはFIFAの配慮かもしれない。ドイツで行われる今大会の場合、最も時差が大きいのは、日本・オーストラリア・韓国で、日本の場合、ドイツ時間より7時間遅くなる。この3国の試合を(ドイツ時間で)昼の3時に開始すれば、それぞれの国民は寝る前に自国のゲームを観戦できる。また、そうすることにより、ヨーロッパ各国が登場する試合のTV放映時間がゴールデンタイムになり、放映権料を高く設定しやすい。問題は2回戦である。これは、全試合がABC順に組まれているものの、日本・オーストラリア・韓国のキックオフは、それぞれ、3時・6時・9時となっている。もっとも、Fグループの中で日本とオーストラリアの順番を入れ替えると、今度はオーストラリアの方が1・2回戦とも3時キックオフとなってしまう。韓国の試合は、翌日の3時に回すこともできたのだが、対戦相手がフランスなので、ヨーロッパのゴールデンタイムにセッティングしたのだろう。ちなみに3回戦はABC順が一部変更されており、ヨーロッパ勢で言うと、ポルトガルとスペインが4時開始に、フランスとオランダが9時開始になるように順番が入れ替えられている。フランスとオランダの方がサッカー熱が高く、ゴールデンに放映するのが得策だと判断したのだろうか。それとも、ポルトガルとスペインのファンは、わざわざ夜に試合を組まなくとも、昼間から仕事を休んでテレビにかじりつくと考えたのだろうか。(6月19日)

  北朝鮮のミサイルは、日本にとって脅威か?一部の論者は先制攻撃の危険性を指摘しているが、私は、心配する必要はないと考える。そもそも、北朝鮮のミサイル技術はそれほど高くはない。紛争地域に輸出されている短距離ミサイルでも、標的から数kmはずれるのはざらである。まして、日本に向けて発射しても、重要な拠点にヒットする確率は低い。効果的な攻撃を行うためには、きわめて破壊力のある弾頭を搭載するか、あるいは、多数のミサイルを連射する必要がある。しかし、どちらも、現在の北朝鮮の技術力・経済力では難しい。はっきりと言っておかなければならないのは、核弾頭が搭載される可能性がほとんどないという点である。プルトニウム爆弾の起爆装置は精密機械であり、ミサイルに搭載可能な小型装置の開発には、高度な技術力と多額の資金が必要である。また、サリンのような毒ガスは、気流が制御できる半密閉空間でのみ威力を発揮するもので、ミサイルに搭載する意味はない。さらに、ミサイルの発射には、本体・燃料などをあわせて数億円ものコストが必要となる上、燃料の注入に時間も掛かる。。北朝鮮が保有すると言われる200発のノドンのうち、短期間で日本に向けて発射できるものは1割もないだろう。たとえ発射しても、その大半が的はずれになることは確実である。要するに、北朝鮮のミサイルは、戦術的な脅威とはなり得ないのである。ただし、見せかけだけで日本人がパニックを起こしてくれれば、戦略的な役割を果たしたことにはなるのだが。(7月10日)

  「これは、あり得ない映像だ」−−ボンタルチュクの『戦争と平和』を見ながら、何度そう呟いたことか。TV版、短縮版に次ぐ3度目にして、ようやく完全版を目にすることができたのだが、今度こそ、表現された映像だけでなく背後にある技術を見破ろうと思いながら、どうにも果たせない。広大な戦場で繰り広げられる激しい戦闘シーンを、カメラがパンしながら1ショットで捉えるシーンがある。俳優たちは何をキューとして演技しているのか。手前で大砲を撃つと何百メートルも先で計ったように爆発が起きるのは、コンピュータ制御で調整してはずもなく、どうやっているのか見当もつかない。ソ連軍の兵士たちに擬似的な戦闘を実行させ、あたかもドキュメンタリーのように撮影したのだろうか−−まさか! 映画史上、空前絶後の化け物的作品であることは、間違いない。(7月15日)

  歌舞伎座の建て替え計画が明らかになり、ファンの間で戸惑いが拡がっている。現在の小屋が多くの問題を抱えていることは間違いない。観客の年齢層が高いにもかかわらず、階段が急傾斜で、特に天井桟敷に到達するのは一苦労である。トイレも(入ったことはないが)不便なようだ。何よりも、銀座の一等地を広大な芝居小屋が占めるのは、経済効率が悪い。しかし、その一方で、由緒ある和風の外観が失われるのは、何とも惜しい。幟の間を入り口まで進むアプローチが、芝居絵の期待を高め雰囲気を盛り上げるのだ。オフィスビルの最上階にエレベータで案内されると、そこに劇場がある−−というのでは、味も素っ気もない。(7月20日)

  最近のワイドショーの低劣化は目に余る。特に許せないのが、意図的なマインドコントロールだ。ここ数年、家族内で殺人事件が起きると、ワイドショーは異常なまでの熱心さをもって、報道をヒートアップさせてきた。子が親を殺し、親が子を殺す−−それだけでも充分に陰惨であるにもかかわらず、さらに加えて、殺人に至るまでの家族間の葛藤を、これでもかと暴き出す。明確な葛藤が見つからない場合は、「一見穏やかそうでありながら」ともっともらしい言葉を添えて、近所や職場、学校、果てはかつての同級生の家まで押し掛けて取材を重ね、ディレクターの望み通りドロドロとした内部事情があったことを伺わせる証言が得られると、事実か否かの検証もせず、おどろおどろしいBGMとともに紹介する。そして、極めつけのコメント−−「このような異常な事件は、以前には見られなかった」。子殺し・親殺しは、実は最もありふれた殺人であり、昔から多発していた。ただ、現在のように扇情的な報道をしなかったから、目立たなかっただけである。教育熱心な親の指導に耐えきれず、自宅に放火して母と幼い弟妹を殺害したケースなど、ほとんどステレオタイプとも言える犯罪だ。これを異常視する世間の風潮の方が、遥かに恐ろしい。(7月23日)

  イラクに派遣されていた陸上自衛隊全員の帰国が完了した。第1陣が出立してから約2年半、その間、銃弾を1発も撃たなかったという。これは称賛に値する。正直なところ、私は自衛隊の存在には批判的だが、海外派遣にはさして反対しない。自衛隊は明らかに憲法違反であり、法治国家の理念を重んじるならば、直ちに解散しなければならない。しかし、日本国民がその存在を認めるならば、いかなる軍隊であるかを世界にアピールすべきだ。隊員が死傷するかもしれないという独善的な理由で、海外派遣を拒否するのは許されない。今回のミッションに参加した隊員は約5500人。全て復興支援活動に従事し、主に給水、公共施設の補修・整備、医療技術の指導に当たった。現地での評価は、「期待したほどではないが、総じて良くやった」というもの。一方的に攻撃されたイラク国民からすれば、施しを受けるのはプライドに反する。何よりも、国家復興のための仕事がしたいというのが本音だろう。日本企業が仕事を提供してくれると思った人にとっては、今回の自衛隊派遣は期待はずれだったようだ。しかし、現地住民の生活の安定に役だったことは確かであり、アメリカの蛮行を償うために、ささやかながら貢献できたと言える。銃を撃たない軍隊こそ、最も勇敢な軍隊だと称えたい。(7月25日)

  都市部の水道水は“まずい”のが当たり前と思われていたが、ここにきてそうとも言えなくなった。水がまずくなる原因は、水源に生活排水などが流れ込み、バクテリアなどの微生物が繁殖することだ。消毒のための塩素投入が、まずさに拍車を掛けた。しかし、排水を浄化する施設が整って水質は向上、もはや水源の段階でも地方に劣らない。さらに、多数の利用者から徴収される莫大な料金を原資に、飲料水用の高度浄水施設を建設することもできる。活性炭・オゾン・各種フィルターを段階的に使用して、不純物を徹底的に取り除き、本来のミネラル分だけにする。東京や大阪では、高度浄水処理をしたばかりの水をペットボトルに詰めて販売しているとか。いまや、水道水がミネラルウォーターを凌駕する時代となった。(8月10日)

  テロリストたちは、命を懸けてテロを行う。それだけに、自分の行為の正当性を深く信じているはずだ。常識的には、単なる大量殺人にすぎない無意味な無差別テロが、正当化できるはずがない。にもかかわらず、この手のテロが相次ぐのはなぜか。無差別テロには、2つのタイプがあると考えられる。1つは絶望に起因するもの。パレスチナやイラクでの自爆テロがこれに当たる。もう1つが、精神的指導者に欺かれたというもの。大韓航空機爆破テロなどが好例だが、全米同時多発テロや先日イギリスで犯人が検挙された未遂テロも、これに分類すべきである。世間には、イスラム原理主義の思想が無差別テロを引き起こしていると誤解する者もいる。しかし、イスラム教は、もともと平和的な宗教であり、決して大量殺人を容認するものではない。コーランには、殺人が厳しく戒められている。コーランで唯一認められた殺人は、迫害者を殺めるものだが、これも、現に自分たちを迫害している当人に対してしか許されていない。迫害者が退いた場合、これを追って殺してはならないと明記されている。無差別テロは、明らかにコーランの教えに反している。それでは、なぜイスラム教徒がテロリストになるのか。おそらく、戒律が厳しく精神的指導者に絶対的服従を誓う傾向が強いため、マインドコントロールを受けやすいのだろう。アルカイダのようなイスラム系のテロ組織は、破壊と殺人を面白がる愉快犯に扇動された集団にすぎず、イスラム教とは無縁である。イスラム原理主義者のテロを防ぐためには、コーランに忠実なイスラム教徒を味方に付けることが重要である。イスラムの真の姿を広く知らせることで、欺かれているテロリストたちの目を覚ましてあげなければなるまい。(8月16日)

  ブドウを優雅に食べるのは難しい。ブドウに限らず、多くの果実は、皮の直下がいちばん甘く、種の周囲がまずい。その理由は、なぜ果実ができるかを考えれば明らかだろう。植物は、鳥や小さな獣に種を運んでもらうために甘い実を付ける。小動物にまず食べようという気を起こさせるには、表面に近いところがおいしくなければならない。一方、種をガリガリと囓られたのでは元も子もない。小さな種は丸飲みしてくれなければ困るので、種の周囲は甘くないのである。さて、こうしたことを踏まえて、どうしたらブドウをおいしく食べられるか。他人の目を気にせず食べる場合は、皮を薄く剥いて口に入れ、種ごと飲み込んでしまうのが良さそうだが、その姿はいささかさもしい。ゴウドウを優雅においしく食べるのは、なかなか難しいようだ。(9月5日)

  封じ込められていた過去が、突然、謎として姿を現すことがある。そんな例の1つが、「日経マガジン8月号」で紹介されていた。イギリスの古い農家で、草葺き屋根の軒先に、紳士用革靴が隠されているのが発見されたのだ。しかも、この革靴は、甲の部分がナイフでずたずたに切り裂かれていたという。厚くて固い革は、大きな肉切り包丁を使っても簡単には切れない。誰が何のためにこんなことをしたのか。実は、農家の屋根から子供用ブーツが発見されることは以前にもたびたびあったという。当初は、屋根で遊んでいた子供が置き忘れたと推測されたが、はたして、そんな危険なことが頻繁に行われていたのか、不思議がる声もあった。切り裂かれた革靴の発見で、靴が故意に置かれたことがはっきりしたわけだが、しかし、何のために?(9月18日)

  マルクスは、階級構造を打破するには革命しかないと喝破した。しかし、歴史は、それ以外の方法があったことを教えてくれる。現代の日本にマルクスがタイムスリップしたら、絶望して首をくくるか−−いや、案外、古書店の店主か何かになってのんびりと余生を送るかもしれない。階級構造とは、簡単に言ってしまえば、「人が人をこき使う」システムである。司令官と兵士、領主と農民、貴族と召使い、使われる方は心の中で下を出しながらも、それを表には出さずへいへいと服従する。なぜか。そうしなければ生きていけないからである。世間には食い詰めている者が大勢いる。うっかり階級構造の枠からこぼれ落ちようものなら、すぐにその穴を誰か他人が埋めてしまい、自分は社会のどん底にまで落ちていく。貧農が年貢の支払いを拒否すれば、直ちに田畑を取り上げられ、より従順を装う人に分け与えられる。上官の横暴に耐えられずに脱出した兵士は、行く場所とてなくゴロツキにでもなるしかない。こうした状況が階級構造を固定化していた。ところが、階級構造を維持したままであっても、社会全体の生産性が向上して豊かになると、階級のくびきは自然と抜け出しやすくなる。現代日本では、階級の底辺にいる者でも餓死する心配はほとんどない。都市部でなければ、安い賃料で住居も確保できる。となれば、人にこき使われるのをガマンする必要はない。低所得者の名の下に、気ままな人生を楽しむこともできる。実際、今の日本では、平均年収の2割程度の低所得者であっても、100年前の貴族より優雅な生活が送れるはずだ(それ以下になると少し厳しいが)。こうして、階級構造は静かに自壊していったのである。人が人をこき使うには、もはや国家権力を持ってしても足りない。(9月28日)

  シネマヴェーラ渋谷という新しい映画館に何回か通ったが、小屋に至るまでの道すがら、妙に楽しくなってしまう。名画座が消えて久しかった渋谷に、また古き良き映画を上映してくれる映画館ができた−−それだけでも喜ばしい。しかも、その立地が少々いかがわしい場所ともなると、なおさらだ。マークシティ渋谷なる(うわべだけはきれいな)ショッピングモール出て路地に入り込むと、そこはもう日常から切り離された異空間だ。奇妙な外観を誇るファッションホテルが軒を連ね、それらしき男女が昼間から行き交っている。ポップなライブハウスの前には、マンガから抜け出たような異様なファッションをまとった少女たちがたむろする。その脇を、学校帰りとおぼしき制服姿の女子高生が、何のためらいもなく通り過ぎる。そんな光景の中に、突如として上映作品のポスターを飾った映画館が現れる。シュールだ。(10月8日)

  マーラーの第9交響曲は、栄光ある近代音楽の歴史に幕を下ろすものである。しかし、それは決して破壊を意味しない。本質への没入が、ついに抽象の極みに達したのである。第9の第1楽章は、ソナタ形式が壊れ、単純な主題群が何度も登場して高揚と沈滞を繰り返しているようにも聞こえる。このため、凡庸な指揮者の手に掛かると、どこに流れていくのかわからない取り留めのない音の連鎖になってしまう。だが、バルビローリやバーンスタインのような優秀な指揮者が振れば、表面上の形式に縛られない確固たるロジックに支えられていることがわかる。第9は、ソナタ形式の破壊ではなく、その超克である。ちょうど、ターナーの晩年の作品が、風景の本質だけを描き出そうとした結果、まるで抽象画のように見えてしまうのと同じだ。ソナタ形式の本質−−主題によるエモーションの指定、高揚と沈滞の繰り返しがもたらす対立的な情感の深化、そして、主題の再現が持つ黙示的な性格−−だけを残すことによって、音楽を純粋芸術に高めたのである。これは1つの到達点であり、結果的には、(シェーンベルグを含めて)誰もその先には進めなかった。(10月13日)

  愛国心を持てと説く論者の中には、単なる自己満足を求めるだけの偽者が少なくない。端的に言えば、多数の市民に統制のとれた歌・踊り・行進・演技などのパフォーマンスを要求することは、エセ愛国心の現れである。ナチスのシュプレヒコールや北朝鮮のマスゲームのように、市民に規律あるパフォーマンスを強要し、これに従わない者を非国民として排撃するやり方は、愛国心の名を借りた民衆の支配である。規律を乱す者に対して、異常なまでに立腹するエセ愛国者がいるが、彼らにとって、市民による一糸乱れぬパフォーマンスそれ自体が、おのれの信じる“秩序ある世界”の実現だからなのだろう。そこには、国を愛する心など、微塵も見られない。(10月15日)

  私が首相になったら何をするか。是非試みたいのが、日本国債のデフォルトである。現在、日本は莫大な借金を抱えている。もともとは、税収の落ち込みをカバーするための緊急措置だったはずだが、いつのまにか赤字国債を発行するのが当たり前となっていしまった。GDP比から言えば、年間10兆円以上の国債発行は無謀であり、このままでは確実に破綻する。にもかかわらず、年間30兆円もの国債を発行するのが慣習のようになり、将来の国民に過酷な負の遺産を押しつけている。この悪しき連鎖を断ち切るには、国債のデフォルトを宣言し、買い手をなくしてしまうのが簡単だ。具体的には利払いの拒否である。公共事業の財源がなくなりそうだが、個々の事業ごとに起債を行い、利回りが期待できるものだけを買ってもらうようにする。こうすれば、不必要な公共事業は、否が応でも消滅する。もちろん、国際金融を大混乱に陥れることは確実だ。だが、このまま国債残高を増やし続けた結果として不可避的に生じる破綻に比べれば、遥かにマシなはずである。(10月20日)

  ソクーロフの『ファザー、サン』は、奇怪な作品である。字幕がなければ、誰もが同性愛の映画だと思うに違いない。冒頭から、裸の男がベッドで抱き合うシーンが描かれる。アパートの1室で同棲する中年男と青年。まだ若々しく美丈夫と言える中年男は、上半身をあらわにしてトレーニングに余念がない。青年には女友達もいるが、中年男との中を疑って青年から離れていく。別の若い男性が中年男を訪ねてくると、青年は激しく嫉妬し、“男性”性を強調する危険な行為に誘う。それを知った中年男は激しく怒り、青年を暴力的に組み伏せる。ラスト近く、青年が家を出なければならない日が近づくと、アパートの隣人男性(このアパートにはなぜか男ばかりが住んでいる)が中年男と一緒に住みたいと申し出る。その顔は妙に女性的で、うっすらと化粧までしている。これは、どう見ても同性愛の世界そのものだが、台詞の上では、中年男は「父親」、青年は「息子」となっている。しかも、中年男は肺に宿痾を患っているとされ、6年前の『マザー、サン』(これはまさしく、息子が病気の母親の末期を見届ける作品である)と同様の設定になっている。監督は、本当に親子の関係を描こうとしたのか。それとも、同性愛を隠蔽するための捏造された親子関係なのか。そう言えば、冒頭近く、中年男が青年のいる陸軍学校を訪れたとき、周囲の人に、自分は父親だとことさら言い触らしている。これも偽装工作なのか。しかし、誰が誰に対して行った…?(10月22日)

  学校でのいじめが社会問題になっている。すでに、いじめが原因ではないかと推測される自殺のケースも報告された。だが、問題解決の糸口は見つかっていない。近年のいじめ問題が難しいのは、かつてのような顕在的ないじめではなく、目に付きにくい潜在的ないじめが横行しているからである。私が子供の頃に見聞きしたのは、体型についてはやし立てたり、「触ると汚れる」と言って避けたりするなど、誰の目にも明らかないじめだった。こうした行為(現在より多くの自殺者を生み出していた)は、PTAやマスコミの突き上げにあって学校側が積極的に対処したため、ほぼ撲滅されたようだ。かわって登場したのが、いじめかどうか判然としない差別である。例えば、数人の仲良しグループの中に、漫才のボケ役に相当する子がいる。いつもからかわれ笑い(嘲笑?)の対象となっているが、本人も一緒になって楽しそうにしているので、大人は何が行われているかほとんど気づかない。にもかかわらず、何の前触れもなく自殺して周囲を驚かせる。あるいは、部活で特定の部員に対して上級生が厳しく当たることがある。才能を伸ばそうと積極的に指導しているのかと思いきや、実は悪意が潜んでいる場合もある。さらに、明確な悪意のないケースもあり、いじめかそうでないかを峻別することは、困難である。最近の子供は、幼い頃から過保護に育てられがちで、少し厳しく注意しただけでも、いじめと感じてしまうことがあるからだ。感受性の強い少年期の生徒を学校という閉塞空間に閉じ込めている以上、いじめの定義は一般社会の通念よりも広く取るべきだが、それでもいじめの定義には曖昧さが残り、対策も立てにくい。(11月2日)

  「TVドラマみたいな」という映画評は、だいたいがケナシである。TVドラマは、映画に比べて嘘っぽく安っぽく薄っぺらいと思われているようだ。しかし、実際には、そうとばかりも言えない。映画よりも重厚で味わい深いTVドラマも存在する。例えば、藤沢周平原作の『蝉しぐれ』は、黒木和雄の映画版よりもNHKの連続ドラマの方が感動的だ。TVドラマの最大の強みは、1週間単位の時間を味方に付けられる点である。映画は、2時間なら2時間の枠の中で、全てを語り尽くさねばならない。しかし、連続ドラマの場合、放送日と放送日の間の“行間”に語らせることが可能となる。劇中の二人の愛憎関係について、何らかの契機となる事件を放送終了間際にちらりと示し、残りは次週のお楽しみとしておくと、ドラマにのめり込んだ視聴者は、放送された場面を1週間にわたって繰り返し心の中に呼び覚まし、何度も味わいながら期待を高めていく。その結果、次の回では、事件の“キモ”の部分を簡単に示すだけで、視聴者の方が深読みをしてくれる。こうした演出がうまくいくと、ストーリーの説明と事態の展開を1つ画面上で同時に行わなければならない映画よりも、視聴者のエモーションを巧みに操ることが可能になる。『喪服のランデブー』や『おもちゃの神様』、古くは『夢千代日記』や『日本の面影』などが、その良い例だろう。(11月8日)

  若者たちが使う「なにげに」という表現が興味深い。「何気なく」と言うべきところを、「悲しげに」とか「けなげに」といった語法に引っ張られて誤ったと解釈する人もいるが、ニュアンスが微妙に異なっている(ちなみに、「けなげに」も文法的に誤った用法である)。若者たちの使い方を聞いていると、「なにげに」とは、「ふだんは素振りに見せていないにもかかわらず、いざとなると意外な能力をやすやすと発揮しているさま」とでもなろうか。「やってやろう」という気負いがない点では「何気なく」とも言えるが、意図的に自分の能力を発揮している以上、「何気=明確に示されていない意志」はあるはずなので、「なにげに」という言い回しにつながる。一見堅物の上司が、カラオケでケミストリの曲をさらりと歌ったとき、「部長、なにげに歌うまいっすねェ」となる。こうした複雑なニュアンスを内包した表現は、本来の字義とコミュニケーション上の意味が食い違っており、そこに何とも言えない面白みが生じる。字義から離れた複雑なニュアンスを持つ表現としては、他に「皮肉」がある。仏教用語の「皮肉骨髄」が、本質を意味する「骨髄」と表面的な「皮肉」に分かれ、さらに、「それは皮肉なことだった」という、あの曰く言い難いニュアンスを秘めた表現へと変質したものだ。「皮肉な」という言い回しは「なにげに」と同じくらい反文法的だが、短い表現の中に深い意味が込められているので、どうしても使いたくなってしまう。(11月25日)

  夕張市が500億円以上の負債を抱えて、事実上破産した。これからは、財政再建団体となって出直しを試みるが、小中学校をそれぞれ1校ずつに統廃合するなど、全国最低水準の行政サービスしか提供できなくなる。若い世代は、市に見切りをつけて脱出を始めており、未来に光は見えていない。夕張市が破産した最大の要因は、主要産業だった炭坑が閉山されたことだ。鉱山が閉鎖された結果として周辺の市街がゴーストタウン化することは、珍しいケースではない。日本でも、軍艦島が完全な無人島になった。夕張市は人口規模が数万と比較的大きかったため、新しい産業を興そうと試みたものの、地の利が悪いにもかかわらず観光に賭けるという誤った選択をして失敗した。客を呼ぶめどのないまま遊園地や博物館を次々と建設し、結果的に、これらが全て不良資産となって財政破綻を招いたのである。この町を救う方法はあるのか。まず、地場産業(主に夕張メロン)の生産力を正しく評価し、それに見合う町の規模を割り出す。その結果に基づいて、市民を中心部に集めたコンパクトな町づくりを行う。すでに流出した住民が多数いるため、中心市街の不動産でも安く調達できるはずである。引っ越し費用は、全て市が負担する。こうすれば、道路・水道など社会的インフラの保守に要する公費を大幅に削減できるだろう。問題は適切な人口規模である。夕張メロンの農家は600程度しかなく、冬は雪に閉ざされるために他の作物の栽培も制限される。新たな地場産業を育成できなければ、人口2〜3000人の夕張村になるしかないだろう。(12月3日)

  超高層のタワーマンションが次々と建設されている。特に、港区の湾岸地帯は、バブル期以上の建設ラッシュだ。こうしたタワーマンションは、1部屋で1億円を超えるのがふつうである。ところが、新聞の折り込みチラシを見ると、ベッドルームが2室しかない間取りが多い。リビングやダイニングがやたらに広く、ウォークイン・クローゼットを備えながら、寝室が2つしかないとは。おそらく、こうした物件の購入者として想定されているのが、子供が独立したかそれに近い50歳以上の世代、あるいは DINKS のライフスタイルを採用する若い実業家、さもなくば、子供が増えたときには新しいマンションを購入すれば良いという富裕層なのだろう。ちょっとため息が出る。(12月4日)

  日経新聞に大森美香が「“ひとり”が許せる基準とは」という単文を書いている。3本の映画を、1本は女友達と、1本は男友達と、もう1本は仕事仲間と見た−−そう仲良しに語ったところ、「へぇ、あなたはひとりで映画を見に行けない人なんだね」と言われたそうだ。大森にとって映画を見ることは、作品を決めるところから一緒に見た相手と茶か酒を片手に映画について語り合うことまで含めて、1つのイベントであり、ひとりで楽しむものではないのだ。もっとも、彼女は、ラーメン屋やカレー屋に行くときは“ひとり派”であり、仲良しの女性はそのことにも驚いたという。仲良し嬢によれば、映画はひとりで楽しめるが、飲食店にひとりで入るのは考えられないそうだ。別の女友達は、「ひとりカラオケ」なら楽しめると言う。どうやら、各人には「ひとりでやって楽しいことと空しいこと」の独自の基準があるようだ。ところで、「ひとりディズニーランド」を楽しんだことのある私の基準は何なんだろう。(12月13日)

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©Nobuo YOSHIDA