【「徒然日記」目次に戻る】



  自動車業界が面白い。アメリカでは、絶好調のトヨタが販売台数を大幅に伸ばし、1位のGMに迫る勢いである。日本車全体でも、シェアが30%を超えた。顧客満足度は、1位トヨタ、2位ホンダ、(そして3位が現代)の順である。シェア30%は貿易摩擦が懸念される数字ではあるが、80年代のように日本バッシングが起きる心配はないだろう。理由は次のようなものである:(1)80年代前半には、政策的に円安になっていたため、アメリカから見ると、日本製品は不当に安く売られていた。しかし、現在はむしろ円高傾向にある。(2)当時の欧米人は、日本では低賃金・重労働が一般的で、非人間的な労働環境により競争力を高めていると考えていた。しかし、現在の日本人労働者は、世界的に見ても、労働時間当たりの給与水準が高い。(3)80年代には、アメリカで開発された技術を日本が無断で盗用していると言われた。これに対して、現在では、ハイブリッドカーをはじめ、重要技術の多くが日本で開発されている。(4)自動車産業はすでに先端分野という地位をITやバイオに譲っている上、現地生産を進めて雇用拡大に寄与しているので、アメリカの経済力にとって著しくマイナスになるわけではない。アメリカ車の売り上げが落ちているのは、主に燃費が悪いためである。アメリカ人は、フェアな争いならば負けても潔い。(1月4日)

  全国の高齢者施設で、ノロウィルスの感染が次々と発見されている。感染性胃腸炎の発症者は千人を超え、関連を疑われる死者も14人に上る。ここで気になるのは、こうした感染者は、これまで存在していたが単に見逃されてきただけなのか、それとも実数として増えているのか、あるいは、数字は変わらないものの重症化して目立つようになったのか−−である。もともとノロウィルスは、さして危険性のない弱いウィルスであり、多くの人は、感染してもほとんど症状を示さない。高齢者など身体の弱っている者だけが胃腸炎を発症して下痢を起こし、稀に脱水症状で死に至ることもある。たまたま、ある特別養護老人ホームで死亡者が相次ぎ、これを受けて全国で実態調査をしたために、感染報告が多数に上ったとの見方が一般的のようだが、もし、O-157のように突然変異によって病原体が悪質化しているとすると、かなり危ぶむべき事態である。(1月11日)

  新聞に笑うに笑えない記事が載っていた。恋人から別れ話を切り出された女性が、腹いせに、男性のIDを詐取してオンラインゲームに不正アクセスし、重要なアイテムを捨ててしまったという。「リネージュ」というこのゲームは、ネット上の仮想世界でアイテムを入手しながら、キャラクタを成長させていくRPG。男性は、知らない間にアイテムがなくなったことで、なんと警察に届け出ていた。単なるゲーム内のトラブルなので警察が乗り出すのはオーバーにも思われるが、不正アクセス禁止法に抵触していたので、まじめに捜査したらしい。結局、元恋人の仕業だと判明し、書類送検されることになったとか。この二人、もともとゲーム内のチャットで知り合い、交際を始めたとのことだが、別れ話の鬱憤をゲームの中で晴らす女性と、そのことを現実の警察に訴える男性とは、何ともバーチャルなカップルではないか。(1月18日)

  六本木ヒルズにおける回転扉死亡事故は、危機管理における能動的リスク評価の重要性を浮き彫りにする。この事故では、6歳の子供が大人には予測しにくい行動をとったことが、大きな要因となっている。重い扉がモーターの力で回転する自動回転扉は、大人の目から見るといかにも危険であり、閉まりそうなときには本能的に身を引いてしまう代物である。実際、壮年のビジネスマンばかりが出入りするオフィスビルでは、死傷事故はほとんど起きていない。しかし。子供は、そうした注意が働かない生き物であり、目的のコースが閉じられようとしていると、逆に、足を早めて突っ込んでいく。しかも、前のめりになるために、かなり低いところまでカバーするセンサがないと感知できない。同型の自動扉で傷害事故が多発していたこともあって、扉の製造元は、固定器具によって隙間から入りにくくする方法を提案していたものの、ビル管理者が、見栄えが悪くなるとの理由で拒絶したという。代わりにリボンを張ったポールを立てたのだが、そんなものは小さな子供の目には入らなかったようだ。この事故のポイントは、老若男女が訪れる観光スポットに、オフィス仕様の回転扉を設置したことである。確かに、ビルのテナントは大部分が企業であるが、最上階には美術館と展望台を開設してある以上、公共的なイベントスポットとして管理すべきであった。森ビルはそうした施設の管理に慣れていなかったのかもしれないが、イベントスポットでは、何が起こる可能性があるかを積極的に問い続ける姿勢が必要である。(1月24日)

  ベーテが1939年に発表した pp-chain および CNO cycle に関する論文を読み、改めて、その凄さに驚嘆させられた。当時すでにワイツゼカーが CNO cycle の可能性を指摘していたが、後世の科学者が、これをベーテの発見だと錯覚したのも頷ける。それほど圧倒的な内容なのである。原子核についての教科書が多数執筆されている現代の知識を総動員しても、彼が行った計算をフォローしきれない。彼は、単に CNO cycle を予測しただけでなく、軽元素の核反応を網羅的に調べて、恒星の恒常的なエネルギー源となる核反応が CNO cycle しかないと結論したのである。しかも、計算の難しい温度依存性についても、信頼性の高い近似を行い、 pp-chain と CNO cycle のクロスオーバーポイントが1500万度であることまで求めてしまっている。パソコンも電卓もなく、計算尺か対数表しか使えないのに! さらに、恒星の観測データと比較して、理論と良く一致することをアピールしているのだから、もう何をかいわんやである。(2月7日)

  高村薫の『晴子情歌』は、深い感動を呼び起こす傑作である。ここには、平凡な人間の内奥に拡がる精神世界の豊かさが、実に魅力的に描出されている。著者は、以前には、犯罪者や警察官を主人公とするハードボイルド作品を矢継ぎ早に発表していた。しかし、阪神大震災で死の恐怖を実感して以来、凶悪犯罪という極限的な状況を設定しなくても、生と死の狭間に置かれた実存の意味を直覚できると悟ったようだ。『晴子情歌』の主人公は、地方の有力者に嫁ぐ。社会主義リアリズムの作家ならば、過酷で下卑た現実ばかりを描こうとするだろう。しかし、高村は、そんな小手先の技法に頼らない。『ジャン・クリストフ』や『嵐が丘』を愛読する晴子は、かつての教養小説の主人公を思わせる豊穣な精神の持ち主である。むしろ、『晴子情歌』は、遅れてやってきた教養小説と言うべきかもしれない。ひなびた漁村の日常の中で、武田泰淳やマルクスについての会話が交わされる風景を目の当たりにすると、それだけで、世界の奥深さが実感として伝わってくる。(2月22日)

  「第8回文化庁メディア芸術祭」を見て、文化庁もようやくイベントの開き方がわかってきたようだと妙に納得した。初期のメディア芸術祭は国立小劇場や草月ホールで開催されていたが、これぞお役所仕事と言いたくなるていたらくだった。まず、情報雑誌での告知をほとんど行わず、一般紙に一面広告を掲載するというちぐはぐなやり方だったため、アニメや漫画など若者向けの作品が中心であるにもかかわらず、肝心の若者にあまり認知されていなかった。平日の昼間に組まれたプログラムになると、会場はガラガラ状態。超の付く大物ゲストを迎えたシンポジウムでも、聴衆は数えるほどしかいない。しかも、入場無料(一部例外あり)のイベントなのに、来場者全員にカラー刷りの豪華パンフレットを配布する。パンフの冒頭には、例によって、政治家の顔写真と、アートについて何もわかっていないことが歴然とするメッセージが載せられている。案内役として若く美しくお飾りだけのコンパニオンが並び、無意味にお辞儀を繰り返していた。今回はそうした状況が改善され、無料イベント相応のペラペラのパンフレットになった。もっとも、誰かが改革したというよりも、単に予算が削られただけなのかもしれない。(2月28日)

  ソニーに初の外国人CEOが誕生した。生え抜きの出井会長の辞任を受け、米CBSに在職したこともあるストリンガー氏が、大方の予想を裏切って起用されたのである。出井氏は、プレステ2やアイボの開発に関わっており、決して失敗続きだったわけではない。しかし、2000年以来ヒット商品がなく、他社が開発した製品の後追いばかりという有様では、責任問題に発展するのはやむを得まい。パソコン、デジカメ、DVDレコーダー、携帯電話−−いずれも中核特許は他社に押さえられており、ソニーは低価格攻勢を仕掛けるしかなく、結果的に、利益率が著しく悪化することになった。かつてのソニー製品が値引きの対象とならず、価格が高止まりしていたのとは、正反対である。「手のひらに乗るCDプレーヤー」「パスポートサイズのビデオカメラ」「パソコンを凌駕する高性能ゲーム機」「世界初のペットロボット」−−かつて世界中の技術者を驚嘆させたソニー・スピリッツが復活することを、心より願ってやまない。(3月8日)

  映画や文学において、写実性は必須の要素ではない。しかし、リアルさは必要である。両者の差異は微妙だが、本質的である。例を挙げよう。『七人の侍』で侍選びをするとき、戸の陰に隠れた少年が訪問者に打ちかかって腕を試そうとするシーンがある。それまで幼子の遊ぶ姿を楽しそうに見ていた侍は、請われて戸口へと向かうが、気配を察しニヤリと笑って「ご冗談を」と言う。その瞬間、観客は、男が卓越した腕の持ち主であることを看取する。これは、決して現実に起こりそうな状況ではない。しかし、観客を納得させる演出によって、リアルな描写となっている。黒澤明の面目躍如である。一方、『あずみ』という映画では、刺客風の男がヒロインに斬りかかるかと見せて寸止めにし、味方だと知らせるシーンがあるが、観客には、リアルさが全く伝わってこない。斬りかかる相手には反射的に応答するのが刺客の本能だというのが、一般的な人が抱く常識である。寸止めにされるまで待っているのはリアルではない。写実的でない荒唐無稽な作品だからといって、リアルさまで放棄したのでは、観客の共感は得られないだろう。(3月12日)

  マンガの『ヒカルの碁』にはまっている。TVアニメを観た段階でなかなか面白いと思っていたが、遅ればせながら原作を読んで、まさに目が離せなくなった。ストーリー展開が最大の魅力だが、おそらく、原作者(ほったゆみ)が当初から意図したものではあるまい。週刊誌に連載されている多くのマンガ作品がそうであるように、まずシチュエーションだけを設定しており、後は作品の自然な流れに任せたもの想像される。主人公のヒカルは、平安朝の棋士・佐為の霊に憑依された小学生。「碁を全く知らないはずのヒカルが並み居る強豪を打ち負かす」という痛快なマンガになるはずのところが、現実の自己と(憑依霊が作り上げた)仮構の自己の間で分裂する人間の悲哀を描く奥深い物語となった。ちょうど、TVアニメの『魔法の天使クリーミーマミ』が、魔法を使える愛らしい少女という設定だったにもかかわらず、思う自己(優)と思われる自己(マミ)の差に悩むヒューマンドラマになったのと似ている。(3月18日)

  ささやかなベランダ・ガーデニングの楽しみが、カラスの攻撃にあって危機に瀕している。どうも赤い花が気に障るらしく、これまでもデージーなどの鉢がひっくり返される被害にあっていが、今回は、プランターに植えていたキンギョソウがお気に召さなかったらしい、花や蕾を食いちぎって辺りに散らかし、それでもおさまらずに、隣のハーブをずたずたにしていった。さらに、かなり芽を出していたチューリップの球根を掘り返しては外に投げ出すという傍若無人ぶりである。カラスの死骸の模型(2000円)を吊して脅してやろうかと思ったが、効果がなかったときの腹立たしさを思うと踏み切れない。もしかしたら、カラスにとっては、花がちぎれ土が飛び散っているのが“きれいな”状態で、私が箒で掃き清めるのを、「誰が汚しているのか」と怒っているのかもしれない。だが、カラスよ、それはカラスの勝手というものだ!(3月23日)

  日経新聞に、商標に関する面白い記事が掲載されていた。現在の基準では、「地名」や「普通名詞」は商標として認められにくい。しかし、それでは、「博多人形」や「近江牛」のような地域ブランドを守ることができない。また、「三輪そうめん」のように、担当者の裁量で商標登録されたケースもある。今後はもう少し基準を緩める方針だというが、現実には、商標と普通名詞の境界はとみに曖昧になってきており、商標権による知的財産の保護は難しさを増している。これと関連して、日経は、普通名詞と間違えられがちな商標を紹介している。エレクトーンやセロテープは有名な例だが、タッパー、ポリバケツ、万歩計、ラジコンも商標だと言われるととまどってしまう。「デジカメ」のように、おそらく商標権者(三洋)もロイヤリティの請求をあきらめていると思われるものもある。「固形肥料」に至っては、なぜ認められたか不思議だ。(3月29日)

  鹿児島で洞窟探検に入った中学生4人が死亡する事故が起きた。内部で火を焚いたため、一酸化炭素が発生したらしい。痛ましい限りである。子供が洞窟に入りたがるのは、健全な好奇心の現れである。入り口をふさぐといった小手先の対策をとってほしくない。件の洞窟は、今の大人たちも子供自分に入った経験があるというもので、入り口から十数メートル先で二股に分かれた複雑な構造をしており、いかにも探検するに相応しい場所だったようだ。崩落の危険がある場合は、そのことを告知した上で塞ぐべきだろう。洞窟内で天井が崩れると危ないことは子供でもわかるので、進入禁止にしても納得するはずだ。その心配のない洞窟については、何らかの形で大人の知恵を伝授すべきだろう。洞窟に入るときには、空気が淀んでいないか、足場がしっかりしているかをチェックしなければならない。中で火を焚くことは、きわめて危険である。少しでも息苦しさを感じたら、すぐに外に出ることが大切である。そうした基本的な知識を、大人から子供へ、年長者から年少者へと伝えておけば、今回のような事故は、かなりの程度まで未然に防げるはずである。大人は、危険なものを子供から遠ざけるのではなく、何が危険かを正しく教えることが必要である。(4月10日)

  映画史上最高のコメディアンは誰かと問われれば、私は躊躇なくバスター・キートンと答える。確かにチャップリンもすばらしいが、彼の作品には、ある種のルサンチマンを笑いで隠しているようなところがある。例えば、太った金持ちが現れたとき、チャップリンは悪意をもってその尻を蹴飛ばす。それは、社会正義というよりも、人生体験に根ざした憎悪に基づく行為に見える。観る側にとっては、ある種のうっぷん晴らしにもなる。これに対して、キートンの笑いは、中立的である。身体の軽やかな動きがあまりに人間離れしており、襲い来る苦難に向かう姿が過剰に真剣である故に、観客は堪らず笑ってしまう。しかし、何がおかしかったのか。キートンの作品は爆笑をもたらすが、観終わった後で思い返すと、なぜか涙が出てくるほど悲しい。それは、ドンキホーテが悲しいのにも似ているが、小説『ドンキホーテ』が、読者と主人公の視点のずれという批評家的な観点から解釈できるのに対して、キートンの映画を解釈するのは、きわめて難しい。それほどまでに作品が純粋であり、人を笑わせる悲しさを横溢させている。(4月17日)

  コメディアンのポール牧が自殺した。最近、仕事の機会が減ったことを苦にしていたという。コメディは生ものである。時代の空気を吸収し、時代を背景にして初めて輝く。スタンダードだと思われた笑いも、時が経つにつれていつしか色褪せることは、いたしかたない。一世を風靡したコメディアンといえども、しだいに時代との接点を失い、脚光を浴びる機会が減ってくる。中には、プロデューサやディレクタとして力を保ち続ける者もいる。萩本欽一やビートたけしのように。また、年齢を重ねるに従って性格俳優として味を出す人もいる。かつての伴淳三郎やいかりや長介、伊東四朗などだ。しかし、彼らは少数の例外であり、大多数は、老いたカルヴェロのように、過去の栄光が忘れられないまま零落していく。その絶望は底知れぬものだろう。さりとて、コメディアンたちに、将来に備えて貯蓄を奨励することは、芸を損なう結果になるおそれがある。(4月22日)

  文章を書いているとき、どうにも筆が進まなくなることがある。良い文章が思い浮かばない。比喩がありきたりだ。同じ語句が頻繁に繰り返される。詰まるところ修辞の問題だ−−そう思って文章をいろいろといじくるが、どうもうまくいかない。コーヒーを飲み、ゲームをプレーし、テレビを視た後、もう一度チャレンジするが、やはり同じだ。頭の中に靄がかかったようで、文章が出てこない。そうしているうちに、突然気がつく。良い文章が書けないのではない、論旨が歪んでいるのだと。ロジックの流れがしっかりしている場合、文章は自ずと湧いてくる。論旨に沿って書いていけば良いからだ。ところが、論旨に欠陥があると、表面上は文章が思い浮かばない状態に陥ってしまう。困ったことに、この滞りが論旨の問題であるとすぐに気づかないことがあまりに多い。ロジックの部分は無意識的な思考に委ねられているからだろうか。(4月28日)

  図書館から借りた山尾悠子の作品集に、しおり代わりと思われるコンビニのレシートがはさまっていた。妙に心惹かれる。山尾悠子は、一部に熱狂的なファンのいるファンタジー作家である。異形の生き物が集う世界の終末を、鮮烈に描き出した。デビューして10年足らずで筆を措いたため、今はその名を覚えている人も少ない。その山尾悠子の分厚い作品集を借りようというのだから、かつてのファンなのか。あるいは、私のように書評を読んで関心を持ったのかもしれないし、もしかしたら、華麗な装丁を見て思わず手に取ったとも考えられる。いずれにせよ、彼女(おそらく女性だろう)は、2004年1月6日(火)朝7:22 にローソンに立ち寄って野菜ジュースを購入し、そこで受け取ったレシートをしおりとして本にはさんだ。場所は図書館の最寄り駅である御成門の駅前。もっとも、この時刻は少し不思議だ。図書館が開くのは午前10時。彼女はこの近くに住んでおり、学校か会社へ行く前に店に寄ったのだろうか(二日酔いの中年男とは思いたくない)。ジュース1本だけを買っていることは、若い人間であることを窺わせる。女子高生? 新人OL? 彼女は、このとき本を持っていたのだろうか。16円の釣り銭とともにレシートをポケットに突っ込み、家に帰った後でしおりとして使ったのかもしれない。だが、あの重い本をカバンに入れて、地下鉄の中で読み耽ったと想像した方が面白い。私も高校生のとき、やたらに厚いドストエフスキーの全集本を学生カバンで持ち歩き、通学の車内で読んだものだ。行きがけにコンビニに寄ったとすると、御成門の近くに住んでいるはずだが、あの辺りに住宅はほとんどない。高級マンションにでも居るのかもしれない。あるいは、逆に、放送局に勤める局アナが、早朝のニュースを終えてリフレッシュ用の野菜ジュースを買ったのかもしれない。そもそも、このジュースはどこで飲んだのだろうか。店の前か、近くの公園か、電車の中か。想像(あるいは妄想)ばかりが膨らんでいく。(5月26日)

  学生のレポートを読んでいると、時折、おやと思わせる記述に出くわす。必ずしも優れた答案というわけではなく、自分の知らないことや、考えもつかないアイデアが書かれているのである。例えば、ITに関するレポートで、ファイル交換ソフトと著作権の問題について論じさせたところ、中国人留学生が「私の出身地にはCDショップがないので、この方法を使わなければ、最新の音楽を聴くことができない」と書いてきた。なるほど、グローバル・スタンダードを全ての国に押しつけられないわけである。(6月7日)

  東京では、カラスは嫌われ者となっており、知事が音頭を取って駆除を進めている。だが、生物学的に見ると、きわめて興味深い生き物である。何よりも、鳥類の中で抜群に知能が高い。解剖学的には、人間の前頭野に相当する部位がかなり発達している。社会的には好ましくないが、カラスにえづけする人が少なくない。他の鳥は餌を目にしないと寄ってこないが、カラスだけは、餌をくれる人の顔を覚えていて、すぐに集まるから可愛いという。カラスの仲間には、道具を作る能力を持つものもいる。ビンの中に入っている餌をつり上げるために、足とくちばしで針金を曲げて利用するさまが観察されたのだ。カラスがこれほど高い知能を獲得した理由は何か。カラスの生態学的な地位はスカベンジャーであり、動物の死体などを食べて森をきれいにする役割を果たしている。ただし、カラスの生息域では食糧となる個体の密度があまり高くないため、必要量を確保するための戦略が必要になる。闇雲に飛び回るのではなく、いつどこに行けば餌にありつけるかを予測しながら行動しなければならない。生き長らえるためには、食べにくい所にあるものを捕食するすべを学習することも要求される。こうした苛酷な生活環境が、カラスの知能を向上させたのだろう。生ゴミが豊富に存在する都市環境は、カラスにとって夢のような世界である。(6月15日)

  アメリカの調査会社が発表した「生活費の高い都市ランキング」で1位が東京、2位が大阪となったが、いかにも奇妙な結果である。そもそも「生活費」として調査された対象が、著しく偏っている。東京や大阪では、スペースを消費する商品の価格が押し上げられるため、映画料金や喫茶店のコーヒー代は、他のどの都市と較べても高くなる。しかし、レンタルビデオやレストランのお茶代(日本では通常タダ)で比較すれば、全く違った結果になったはずだ。アパートの賃貸料は、東京が抜きんでて高いが、これは、かなりの広さを持つ部屋を基準に取ったためであり、アメリカン・スタンダードを外国に押しつけたせいである。「歩いて3分以内にコンビニ、10分以内に駅があるアパート」というジャパニーズ・スタンダードで比べたらどうなるかを知りたいところだ。高速料金も高いが、日常生活のために高速を利用する人がどれだけいるのか。ファストフードや日用品なら、むしろ日本の方が安いはずである(100円ショップを見よ)。まあ、「アメリカ人が外国でアメリカと同じ暮らしをするための」と冠すれば、正当な結果とも言えるのだが…(6月23日)

  某ワイドショーで、「ニューヨーカーの間では、ローフードがはやっている」と報じていた。ローフードとは、ほとんど火を通さない料理のことで、素材に含まれる酵素が壊れないので、消化に良いとか。女優のデミ・ムーアは、ローフードを食べ続けて7kgもやせたらしい。食べるとやせる料理なら、健康に悪いんじゃないか!(6月26日)

  TVでは、両親を殺害した15歳少年の“異常さ”が繰り返し報じられている。父親は、息子に自分の仕事の手伝いをさせ、「俺より頭が悪い」とこぼしていたようだ。仕事の関係で何度も引っ越しをし、そのたびに転校を余儀なくされたことも、恨みを増幅させる原因になったと言われる。母親に対して特に憎しみはなかったものの、乱暴な父親に屈従し、しばしば「死にたい」と漏らしたことが殺意を促したらしい。ここまでは、よくある親殺しの話である。問題は、少年が両親を殺した後、軽油を撒きガス栓を開いた上で、時限発火装置をセットして爆発火災を起こしたこと、さらに、草津温泉を訪れて宿泊していたことだ。爆発を起こした動機として、少年は、(1)証拠隠滅をはかった、(2)死体の存在を人々に知ってほしかった−−という2つの矛盾した供述をしている。このため、コメンテータの中には、解離性の精神疾患ではないかと指摘する人もいる。しかし、私の見る限り、少年の行動に解離の徴候はない。解離性同一性障害は、異なる行動原理を持つパーソナリティが分断される現象だが、少年の供述は、自分の行動を否定したいという点で一貫しており、同一性は確保されている。供述内容が矛盾しているように思われるのは、自分の行動が理性的に理解できず、後付けで説明を組み立てようとする場合にしばしば生じる多面性の現れであって、正常の範囲内である。また、草津温泉に赴いたのも、解離性の遁走ではなく、親殺しという究極的な罪を“なかったもの”とし、日常の世界を取り戻そうとする正常な行動である(過去の事例にも、親を殺した後に自室でバラエティ番組を見ていたという少年のケースがある)。総じて、この少年は、理性で許容できない罪を犯した人間の常識的な反応を示しており、更正が可能だと期待できる。更正が難しいのは、むしろ、罪をすぐに認め、先に進もうとするタイプ−−泣いて謝ったりするような−−である。(6月29日)

  安直な教養主義が広まりつつある。古典文学の粗筋ばかり紹介した本や、クラシック名曲のさわり数分ずつを収録したCDが売れているという。まず最低限の知識を身につけるためのものかもしれないが、何とももったいない気がする。クラシック音楽を退屈だと感じる人は少なくないだろう。微妙な和音進行や通奏低音の響きを聞き分けられず、単なる音の塊としてしか聞こえない場合、退屈なのはむしろ当然である。しかし、この退屈さの山を越えたところに、クラシックを聴く醍醐味が得られることもある。例えば、バッハのゴールドベルク変奏曲。さまざまな変奏が延々と続き、このまま永遠に終わらないのではと不安を感じ始めた頃、冒頭の美しい旋律が戻ってきたときのはっとするような驚き。カール・リヒターは、この驚きを大切にしたかったためだろう、あえて主題の繰り返しを避けている。あるいは、オペラのアリア。以前はプッチーニが嫌いで、いかにも大衆に媚びたような甘ったるい旋律を少々軽蔑していた。しかし、サントリーホールで演奏会形式の『蝶々夫人』全曲を聴いたとき、音楽が同じ所を行ったり来たりしているようでありながら、物語とともに少しずつ進行していき、遂に「ある晴れた日に」のあまりにも有名な旋律が流れたとき、ほとんど体が震えるような感動を禁じ得なかった。これは、名曲のアンソロジーでアリアだけを聴いたのでは、得られない体験である。真の感動を取り逃がした人生は、実にもったいないと思われるのだが。(7月20日)

  家庭で子供が傷つくのは、単に「親が子供を見ていない」からではない。むしろ、「親が子供を見ていないことに気がつかず、見ているつもりになっている」という状況の方が、子供を深い所で傷つけるのではないか。昨今の親は、子供ができると、往々にしてペットのように可愛がり、やれペアルックだ、やれ公園デビューだと、子供をかまいたがる。小学生の運動会ともなるとビデオカメラ片手の父親がグラウンドの中に入り込んで我が子を撮りまくる。彼らは、自分が子供のことを理解していると信じ切っているようだ。しかし、私が見るに、こうした親たちは、子育てに熱心になっているという自分に酔っているのである。子供の実像を理解しているのではない。おそらく、子供が真に欲しているものなど、よくわかっていないだろう。反抗期前の子供は、こうした親たちの行動指針に何とか自分を合わせようとする。「××ちゃんのために買ってきたのよ」と渡された誕生日のプレゼントが欲しくないものだったとしても、顔を輝かせていかにも喜んでいるように振舞う−−家庭における自分の地位を心得ている子供なら、その程度の芝居はごくふつうに行える。たとえペアルックが嫌いでたまらなくても、親を喜ばせようとして嬉しそうに着てみせる。しかし、このダブルスタンダードは、子供の心を歪めずには置かない。子供は、親が自分をどのように見ているかを推測しながら、何をなすべきかを考えなければならず、自分の心に素直になるすべを忘れてしまう。恐ろしいことに、親はややもすると、そうした事態に全く気づいていないのである。(7月24日)

  先日、東京で震度5の地震があった。高台の歩道を歩いていた私は、揺れ自体はあまり感じなかったが、その瞬間、見渡す限りの家々の陰から100羽を越すかと思われるカラスがいっせいに飛び立ち、輪を描くように空を舞った。その後も警戒しているようで、電線や軒の飛び立ちやすい場所に留まったため、やたらとカラスの姿が目立っていた。我が町にはこんなにカラスがいたのかと、地震よりそちらの方が怖かった。(7月25日)

  綾辻行人の『暗黒館の殺人』は、館シリーズの到達点を示す怪作である。本格推理小説は、謎解きをメインとする理知的な作品としての結構を備えているが、単なる理詰めのストーリーに終始しているわけではない。むしろ、その黎明期から、『バスカビル家の犬』『グリーン家殺人事件』『Yの悲劇』のようなゴシックロマン風に味付けされた諸作が人気を呼び、高い評価を得ていた。19世紀に流行したゴシックロマンは、威圧的な館に無力で何も知らない女性が訪れるというプロットが中心になっている。謎解き役の男が館に乗り込む推理小説は、『ジェーンエア』のような典型的なゴシックロマンとはやや趣を異にするものの、舞台となる館や周辺の風土の不気味さが重要な役割を果たす点は、同じである。ヴァン・ダインやエラリー・クイーンが活躍したのとほぼ同時期に、『レベッカ』のマンダレーと『市民ケーン』のザナデューという巨大で謎に満ちた館が相次いでスクリーンに登場したことを考えると、戦争前夜という歴史的なコンテクストが、知的なゴシックロマンを復活させたのかもしれない。綾辻行人の館シリーズは、もともと、こうしたゴシックロマンの流れとは無縁のものだった。館はトリックを実現するための仕掛けに他ならず、表現の上でおどろおどろしさを醸そうとする場合があっても、登場人物を圧倒するマンダレーのような力はなかった。しかし、暗黒館は違う。それは全ての人間を無力化する巨大な力そのものである。そこでは理性は通用しない。ラブクラフトのクトゥルー神話を思わせる奇怪な現象が生起している。本格推理小説とは、奇怪に見える現象の背後に明確なロジックがあることを前提としていた。理性の申し子シャーロック・ホームズが最も偉大な探偵である所以だ。しかし、暗黒館では、もはやロジックそのものが失われている。その結果として、謎解きの面白さは失われたが、それでも読者は、本を措いた後に不思議な満足感を覚えるだろう。 (8月12日)

  勤め始めて数年で離職する若者が少なくない。希望通りの仕事ができないというのがその言い分だが、いかがなものか。就職してからしばらくの間は、まず関連する仕事の内容を理解し、他の部署との連携を把握することが重要である。希望を主張するのは、それからでも遅くない。NHKの『明日をつかめ』には、パティシエを希望してケーキ会社に就職したにもかかわらず、半年ほど販売部門に配置された女性が登場し、「その期間は落ち込んだ」と話していた。しかし、この配置転換は、会社側の心遣いである。個人の店ならば、ケーキ職人が売場に立って、客の反応を目の当たりにできる。どんな菓子を客は喜ぶか、子供と大人に好みの差はあるか、クレームを訴える客は何を問題としているのか。何よりも、「おいしかったですよ」と客から直接ことばを掛けてもらえる。しかし、大人数が働くケーキ会社では、客の反応がわからず、パティシエの独りよがりで客に喜ばれないケーキを作ってしまうこともあるだろう。そうした失敗を犯さないためにも、販売の現場を経験することは、必要なステップである。「ケーキを作りたいのに」といじけるのは、社会の仕組みが理解できない者の青臭い発想である。幸い、『明日をつかめ』の女性は、離職することなくパティシエの道を歩み続けたが、軟弱な人間は、こんなことで挫折してしまうのだろう。もう一つ、こんな例もある。建築学科を卒業した女性が、とある設計事務所に就職したが、いつまでたってもお茶汲みやコピー取りなどの雑用ばかり。5年目にしてようやく回された仕事は、小さな公園の階段の設計。愛想を尽かした彼女は、さっさと転職したそうだが、しかしこれは、女性の側に問題がある。建築物は、数十年の長さにわたって存在し続ける。設計にミスがあったからといって、簡単に作り直すわけにはいかない。子供や障害者が使っても安全か、地震や火災への対策はどうか、あらゆる点に配慮が要求される。もちろん、使い勝手や見てくれも重要である。20代の若者に、そうそう任せられる仕事ではない。大企業ならば社内研修も可能だが、小さな事務所では、文字通り、見よう見まねで学ぶしかない。お茶汲みの際に、クライアントが何を要求し、どこでもめているかに耳を澄ます。コピーを取るときには、どのように図面が描かれているか、前回とどこが違うかを調べる。そうしたことを繰り返しているうちに、建築物の設計で何が重要かがわかってくるのである。仕事とは、全てそうしたものだ。ある決まった枠の中で与えられた作業をそつなくこなせば褒められる−−そんなのは、子供の世界だけである。(9月10日)

  高齢者向けの低速車の開発を期待する。現在の自家用交通機関は、自動車・バイク・自転車のいずれも、健常者を想定している。電動車イスもあるが、これはいかにも障害者向けに特化された乗り物だ。来るべき高齢化社会で必要とされるのは、誰でも簡単に乗りこなせる車である。イメージとしては、ゴルフ場などで使用される移動用の電気自動車が思い浮かぶ。ドアはなく、誰でも簡単に乗降できるようにする(現在の自動車のドアは、高齢者や障害者にとって重すぎる)。静脈認証などによって複雑な操作なしにスタンバイ状態となり、アクセルとブレーキの2つのペダルとハンドルのみで操作される。アクセルを踏み込んでも時速10km程度、お年寄りが近所に買い物に行くのに適当な乗り物であることが望ましい。道交法を改正し、商店街・住宅街では、許可を得た営業車以外は、このタイプの低速車と自転車だけが通行できるものとする。(9月13日)

  地震被災地などで生き埋めになった人の探索や被害状況の調査に利用するロボットのアイデアを思いついた。形状は、転倒を避けるために球状とする。アルミフレームなど軽量の支持材を利用しても良いが、バルーンが可能ならば、それに越したことはない。表面からジャバラ状の筒を6本ほど中央部に伸ばし、全重量の大半を占めるセントラル・ユニットを支える。この筒は、ユニットからの指示によって伸張/収縮を行う。具体的なメカとしては、筒内に電磁石を並べて極性を変化させることが考えられる。ユニットが中心部から移動することによって重心が変化し、球体を移動させる駆動力を生む。球の半径を充分に大きくすれば、ある程度の段差は乗り越えられるはずである。セントラル・ユニットを支える筒は、球体表面から外部を撮影するCCDカメラの情報を伝えるファイバも内蔵しており、ユニットから随時データ送信を行う。CCDカメラの画像と搭載されたジャイロからの情報と併せることにより、ロボットの運動が割り出せる。このとき、送信された画像は回転しているカメラからのものなので、受信側のコンピュータによって補正する必要がある。方向制御などは、補正されたデータに基づいて人間が行うものとする。このタイプのロボットで重要なのは、とにかく軽くすることである。軽やかにスピーディに動くためには、コロコロと転がる球体が最適だろう。(9月20日)

  先日、物忘れを防ぐというテーマのTV番組で、買い物の際に買い忘れしないためのコツを紹介していた。何を買おうか決めていたのに、売場で珍しい商品を見つけたりすると、つい見とれてしまい、買うべきものを忘れがちである。どんなコツだったか、そもそもそれを忘れてしまったが、私に言わせれば、メモを持参するのが、最も簡便で効果的な方法である。私自身、スーパーやドラッグストアで買い物するとき、購入品目をリストアップしたメモを片手に、売場を歩き回ることが多い。醤油やミソは、なくなる数週間前からメモに載せておき、安売りに遭遇したときだけ買い置きするようにしている。面白いものを目にしたとき、気もそぞろになって記憶がどこかへ行ってしまうのは、人間の本性である。季節を先取りした商品や、思わず感心させられるアイデアグッズに魅了され、心の中ではしゃいでいる方が若々しさを保つコツなのであって、買うべきものを失念することなど、気にする必要はない。(11月22日)

  日本語の起源に関しては、まだ不明な点が多い。古い文献には、ウラル・アルタイ語族という大きな枠組みが想定されていたが、ウラル・アルタイというくくり自体が疑わしいとされるようになった。ユーラシアにおける言語の系統は、インド・ヨーロッパ語族が主流であり、その北側のウラル諸語と南側のアルタイ諸語が、それに続く勢力となる。戦前は、大東亜共栄圏の版図と重なることもあって、似た側面のあるウラルとアルタイをひとまとまりにする傾向が強かった。しかし、こんにちでは、ウラルとアルタイは別の系統に属するとされている。また、日本語を、ハンガリー、トルキスタン、モンゴル、朝鮮の諸語とともにアルタイ語族に分類することにも反対意見があるという。日本語の系統をわかりにくくしているのは、日本人が、文化的に大きく異なる縄文人と弥生人の混合であることに起因しているのだろう。縄文系の文化は弥生人によって抹殺されたはずだが、言語の基層として部分的に存続し、これとアルタイ語族の朝鮮語が混じって、系統が判然としない雑種言語が生まれたと考えられる。生物学的な進化の系統樹と異なり、言語の系統樹は、分かれていた枝が融合することもあり得る。ピジン・クレオール語などと同じく、日本語もそうした雑種言語の1つなのだろうが、日本語のどの部分が縄文系で、古代朝鮮語の影響がどの程度であったかは、よくわからない。この分野の研究があまり進んでいないように見えるのは、どうにも不思議なことである。(11月30日)

  耐震強度偽装事件は、底知れぬ拡がりを見せている。マスコミは、偽装を指示した“黒幕”を暴こうと躍起になっているが、問題はそれほど単純ではない。販売会社には、10年間の瑕疵担保責任があるので、法令違反の欠陥マンションと知りながら売ることは、常識的には考えられない。不特定の住民の中に建築関係の専門家がいれば、短期間で欠陥が見いだされる可能性が高い。意図的に欠陥マンションを販売したことが判明すれば、会社の倒産は避けがたい。それだけのリスクを犯して何が得られるかと言えば、建築費を数パーセント節約できるだけである。これほどのハイリスク・ローリターンの愚挙を行うわけがない。しかし、法令違反にはならない(あるいは、ぎりぎりお目こぼししてもらえる)範囲でコストダウンを“強く”要求するのは、ごく当たり前の行為である。一方、施工を請け負った建設会社は、コストダウンの要求に応えるべく、安普請できるところはできるだけ手を抜こうとする。このとき、施工不良の損害を被る買い主との間に販売会社がワンクッションとして入るため、下手をすると補償請求されるのではという危機感がさほど強くないと推察される。法令違反になりかねない手抜き工事は、かなりの割合で存在するとも言われる。建設会社の下請けとなる設計士となると、買い主とは没交渉となり、企業からの強い圧力だけを受けるので、自分の行為があまりにハイリスクであるという実感はさらに乏しい。今回の事件のように、精神的に脆い建築士がいると、ほとんどメリットがないにもかかわらず、強度が基準に満たない設計をしてしまうことになる。こうして、誰かが明確に指示したわけではないのに、結果的に元請けの利益のために、法令違反が行われることになったのではないか。(12月15日)

【「徒然日記」目次に戻る】



©Nobuo YOSHIDA