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  長崎で起きた小学生殺人は、人に何かを語らせずにはいない事件である。11歳の少女が、同級生の少女をカッターナイフで刺殺したというものだが、報道を目にして、「小学生がこんなことを」と思うと同時に、ある種の子供っぽさを感じてしまった。何よりも大人のロジックで理解しかねる点は、給食時間に自習室に呼び出し、殺害した後に、ナイフを手に血塗れ姿のまま教室に戻ってきたことである。人を殺した事実を隠そうともせず、むしろクラスメートに凄惨な姿を見せつけようとするところは、どこかドラマを演じているような現実感の希薄さを示す。その一方で、頸動脈を狙って首筋を何度も刺し、駆けつけた救急隊員も手の施しようがなかったというから、行為は明確すぎるほど意図的である。大人が現実の重さに押しつぶされるはずの局面で、子供は軽々と現実を越え、自分で作った虚構に押しつぶされていく。(6月6日)

  長崎の小学生殺人事件は、現代日本で子供たちが置かれている状況を示唆する。かつての日本では、子供たちだけによる小社会が形成され、そこで対人関係のヒナ形を学ぶことができた。こうした小社会は、通常、構成者の間に数年以上の年齢差があり、年長者が幼い者に小社会のルールや楽しみ方を教え、時には制裁を加えていた。多くの場合、構成員は、この小社会内に己のポジションを確保して自足していた。稀に反目が生じ離反者が現れたが、その際にも、この社会が閉じられたものではないことを子供なりに認識しており、家庭を含む別の世界へと逃避することが可能だった。
 これに対して、いま子供たちが所属していると感じるのは、おそらく、きわめて閉鎖的な社会であろう。異なる年齢の子供たちが町内で共同生活を体験することが少なくなり、日常的な居場所として提供されるのは、ごく少数の家族と顔を突き合わせざるを得ない家庭か、全員が同年齢であるため構造的な依存関係が生じにくい学校の教室しかない。狭く閉ざされた空間で、必然的に反発しあうことの多い彼らに、何の緩衝材もないままに提示されるのは、大人社会の深淵である。テレビやインターネットを通じて、堕落と暴力の世界を目の当たりにする子供たちは、いつしか感受性を硬化させ、他者を傷つけずに入られない凶暴な存在へと化していく。(6月11日)

  糞・屍・姦・癌……法制審議会が人名漢字に追加したリストを巡って、さまざまな意見が飛び交っている。「こんな禍々しい漢字を加えるべきではない」との意見が多いようだが、私は、このままで構わないという立場だ。追加した漢字は、辞典や雑誌などで出現頻度の高い順に抽出したもので、これまで意図的に人名漢字から除かれていた忌み字が多くなったのは当然の結果である。「死」のように人名には向かないと思われるものであっても、「不死男」というちゃんとしたネーミングに使える字もある。中国の故事に倣って命名する場合には、あまり馴染みのない字が用いられることもあろう。そうしたことを考えると、使用可能な範囲作為的に制限するのは、あまり妥当とは言えない。かと言って、あらゆる漢字を容認すると、異字体や新たに作った漢字──龍を4つ並べた史上最も画数の多い漢字も含めて──をどうするかという問題が生じる。使用頻度が高いという条件だけで範囲を定めた法制審議会の見解は、とりあえずは妥当なもの言えるのではないか。(6月23日)

  パリーグで近鉄とオリックスの合併交渉が進んでいるという。年間40億円の赤字を出しており、親会社が球団経営を続けられなくなったためらしいが、それにしても、ファンの気持ちを踏みにじる背信行為ではないか。まるで球団を金儲けの手段としてしか考えていないようだ。プロ野球チームは、いわば飛び切りのスターの集まりである。一般企業は、優秀な人材を求めて奔走してもなかなか報われない。新入社員の半分以上が世間のスタンダードから見て優秀と言える人材から構成されている企業は、ほとんどあるまい。人気企業の場合、競争率が数百倍になることもあるが、最適な人材を選り分ける科学的な方法が確立されていないため、せいぜい、数十人に一人程度の才能しか選び取れない。しかし、野球となると、中高生時代から部活動を通じて能力の高低があからさまになっており、逸材は学生野球の大会で早くからスカウト目に留まる。プロ入りを希望する人材は、まずドラフトによって篩い分けがなされ、さらにファームでも選別が進められるため、一軍の選手は、野球に関する限り数万人に一人という頭抜けた才能の持ち主である。この“エリート率”は、大学教授や弁護士、医者といえども遠く及ばない。競馬の騎手や囲碁・将棋のプロ棋士なら、同程度の選り抜きと言えるが、彼らは、その分野を統括している団体に所属しており、野球選手のように、特定球団に雇われているわけではない。逆に言えば、プロ球団とはそれだけの超エリートを集めた特殊な企業なのだ。球団オーナーは、そのことを正しく認識すべきであろう。(7月14日)

  英語で“Blue Rose”と言えば「不可能」を意味する慣用句だったが、ここにきて事情が変わりつつある。バラにはもともと青色の遺伝子がないため、どのような交配を行おうとも、青バラを作ることはまず不可能だと思われていた。しかし、サントリーが遺伝子操作の技術を応用して、ついに青バラ(と言うよりは薄紫色のバラ)を育成することに成功したのである。サントリーは、以前、ペチュニアの遺伝子を組み込むことにより青いカーネーションを作出した実績を持つ。バラは遺伝子組み換えが難しく、ペチュニアの遺伝子はうまく挿入できなかったが、このたび、パンジーの遺伝子で成功を収めたという。人間には手の届かないと思われた夢が叶えられたわけである。しかし、何か蛮力でたおやかな自然の摂理をねじ伏せたような感じを抱くのは、私だけではないだろう。(7月24日)

  「本質は存在に先行するか」という哲学的な問いがあるが、正解は、「先行しない」である。なぜなら、本質と存在とは、同一の対象に関して、異なる手法に基づいて行った抽象の産物だからだ。古典的な世界観によると、存在とは、諸性質を捨象できる第1原理であり、存在と非存在は明確な対立項をなす。ただし、非存在を概念化するためには、「存在者が存在しない場所」を容認せざるを得ず、場所−存在者の2元論に陥る。これに対して、現代的な観点では、存在とは1つの性質に過ぎない。それぞれの場所における物理的な状態が、世界のあらゆる性質を規定しており、明確な構造が安定している状況を、“存在性”の現れと見なしている。非存在と存在の境界は曖昧であり、両者はときに互いの領域を侵犯する。一方、本質と呼ばれる性質は、人間が諸状態の因果的連関を認識する際に、最も重要だと規定するものである。通常は存在性を前提とするが、必ずしもそれに依拠しているわけではない。(7月28日)

  開催が近づいているオリンピックを含めて、大きなスポーツ大会に付き物なのが、ドーピング検査である。筋肉増強剤などの禁止薬物を使用していないかが厳しくチェックされる。しかし、ここで気になるのが、「ドーピングはなぜいけないか」である。ドーピングとは、医療行為としてではなく競技力向上のために医薬品を用いる行為なので、人間同士の対決であるべきところにアンフェアな手段を用いる点が問題だとも言われる。しかし、現代スポーツが科学にサポートされているのは周知の通りだ。衝撃を吸収するシューズや抵抗を最小限に抑える水着を着用した選手は、常に優位な立場にある。また、強化訓練においても、体の一部に特定の負荷を加えて最適な筋肉を形成するエクササイズが行われている。こうした行為がアンフェアでないかどうかは、にわかに判断しがたい。ドーピングが不正だとされるもう1つの理由は、選手の健康に悪影響を与えるというものだ。使用薬物が原因で若くして急死したと推測されるアスリートもいる。しかし、激しい練習が健康を損なうこともまれではなく、体力を消耗する競技に出場する女子選手の多くが、生理不順になっている。そもそも、スポーツに向いた身体的特徴の持ち主は、しばしば異常な存在である。健常者は筋肉の過剰な増強を妨げるタンパク質を持っており、どんなに鍛錬してもある段階で頭打ちになるが、遺伝子異常のせいでこのタンパク質を作れない体質の持ち主は、常人ならざる頑強な肉体を持つに至る。おそらく、レスラーや相撲取りには、こうした遺伝子異常が多く見られるに相違ない。そう考えると、極限を追求する高度なスポーツは、不健康者によって支えられていると言えなくもない。(8月1日)

  「絵が下手な人に限って宇宙人に拉致される」というジョークがある。確かに、自分の見たエイリアンの外見を描かせると、ほとんど例外なく、まるで幼稚園児が描いたような稚拙な絵となる。実は、その理由ははっきりしている。彼らは、実際に宇宙人に出会ったわけではなく、幻覚を再現しようとしているため、細部に関する記憶が当初から欠落しているのだ。このことは、夢で出会った人を想起すると、納得されるだろう。夢の中で誰かと対面しても、相手の表情がわからない場合が少なくない。人物に関する大まかなデータ(男女の別、知人かどうかなど)は覚知されるものの、視覚的情報はわずかしか提示されておらず、顔を観察することができない。夢で初めて会った人を描かせると、表情の曖昧な下手な絵にしかならないだろう。(8月3日)

  今後の日本において、農業はきわめて重要な産業になる。国土の環境保全と安全な食材の提供という観点から、農業を健全に発展させることが必要である。そのためには、株式会社の農業参入を認め、現代的な小作農を復活させなければならない。各農業会社は、ハイテク導入による効率化を図ることだろう。例えば、農地に各種センサを設置し、特定の病気や害虫の発生が懸念されるときには、集中的に農薬を投入する。こうしたやり方により、農薬の総使用量を抑制することが可能になる。さらに、消費者のニーズに応じて多品種少量生産を行う技術も開発されるだろう。その一方で、長期的な営農が計画されるならば、機械化・大規模耕作の弊害である土壌の劣化・生物多様性の喪失は、資本の減殺になるという観点から、回避策が講じられると期待される。新生農業が日本の将来を左右すると言っても過言ではない。(8月8日)

  アテネオリンピックがまもなく開幕するが、相変わらずあさましいのが、スポーツマスコミによる根拠のない楽観論である。外国の信頼できるメディアが、日本の金メダル獲得数として7個前後を予測しているのに、スポーツ新聞や民放テレビ各局は、軒並み十数個という数字を挙げている。足を負傷して五輪連覇に黄信号が灯っている柔道の谷も、大会直前の親善試合でキューバに敗退した野球も、圧倒的に強いアメリカの牙城を崩す方策を見いだせずにいるソフトも、金メダル有力と伝えている。死のグループに入って予選突破が難しい男子サッカー、五輪出場辞退が夢のような女子ホッケー、ファイナリストになるだけで国民栄養賞ものと言われる陸上100mの末続すらメダル獲得が期待されるというのだから、何をか言わんやである。こうなると心配になるのが、オリンピック終了後のバッシングだ。各選手が実力通りがんばったのに、“惨敗”と言われたアトランタの女子競泳チームのことが思い出される。(8月12日)

  新しい道具の登場に伴って新語が造られるケースは数多い。最近、話題になったのが、コンピュータ・ユーザに使われる「立ち上げる」なる語だ。「立ち上がる」はごくふつうの日常語だが、これを他動詞に変形して使うことはなかった(せいぜい、「立ち上がらせる」である)。もっとも、この語が普及したのが、パソコンが一般に使われるようになった1990年代半ばからであり、それ以前は、「(ソフトを)起動する」という言い回しが一般的だった。MS-DOSの時代、多くのソフトは、テレビやエアコンなどと同様に、起動と同時にある作業を実行するので、新造語は必要なかったのである。ところが、Windowsの時代になると、大半のソフトは、アイコンをダブルクリックしてもスタンバイ状態になるだけで、何ら作業を行わないので、作業機械などが「動き出す」イメージを伴う「起動」という語は、どうもしっくりしない。それに対して、「(動いていない)スタンバイ状態」=「立ち上がった状態」にするという意味で使うのに、「立ち上げる」という言葉は、実にぴったりしている。多くのユーザが何の違和感もなくこの語を使っているのは、当然のことかもしれない。(9月6日)

  大地震などの被災地で生存者を探索するロボットの開発が急がれている。テレビ東京系『ガイアの夜明け』では、そうした試みの1つを紹介していたが、正直言って、やや失望させられた。瓦礫の中を進む際に必要となる耐衝撃性があまり考慮されておらず、基本設計が甘いのだ。案の定、このロボットは、参加したコンテストのコース上でひっくり返り、結局、故障・リタイアと相成った。
nikki_001.gif  こうしたロボットに要求されるのは、何よりも、転覆しても大丈夫な構造である。凹凸の激しいコースを進むのだから、軽量化が必要であり、余分なメカは搭載できないため、重りを底に付けてひっくり返りにくい構造にしたり、倒れた際に起き上がれるるような可動アームを取り付けたりすることは、現実的ではない。むしろ、軽くコロコロ転がって進むようなタイプのものが好ましいだろう。1つのアイデアとして、片側に3つの車輪を有し、前後に倒れてもそのまま走行できる構造が思い浮かぶ。タイヤには摩擦係数の大きい素材を使用し、45°程度の坂道は上れるようにしたい。さらに、横転に備えて、脇に半球状の出っ張りを取り付けており、倒れても半回転してまた進むことができる。この半球部にキャタピラを取り付ければ、起きあがりがより確実になる(重くなりすぎなければの話だが)。どんなデコボコ道でも、ときどき転がりながらスイスイ動くロボット──万一、人を踏みつけても、重量が1kg程度ならば問題ないだろう。さらに、どの車輪が下にきても前後が見えるように、中央部に最低3ヶ所、左右に1ヶ所ずつレンズを取り付け、光ファイバで内部のCCDに誘導する。映像データは全て送信し、上下を正しく決定するのは、受信側のソフトウェアに任せればよい。受信された映像は、向きを補正した上で、操縦者が見るディスプレーに映し出される。できれば、操縦者を取り囲むように4つの画面を用意し、前後左右が同時に見えるようにすれば、被災者発見の効率が上がるだろう。(10月28日)

  国語研が外来語を日本語に置き換える「言い換え語」の案を発表した。確かに、やたら長いカタカナ語は耳に馴染まず、半可通御用達のジャルゴンになっているものも多い。しかし、福沢諭吉ら明治の先達が、“society”を「社会」、“economics”を「経済」と見事に言い換えたようにはなかなかいくまい。「アカウンタビリティ」「コンプライアンス」を、それぞれ「説明責任」「法令順守」とするのはよろしい。「ステレオタイプ」を「紋切り型」とはややアナクロで、「セットバック」を「壁面後退」と言い換えるとは、思わず微笑んでしまう。また、「ボトルネック」のように言い換えない方がわかりやすいケースもある。なかなか難しいものだ。(10月8日)

  コンビニで薬の販売が始まっている。ビタミン剤、整腸剤など、副作用の小さいものに限って医薬部外品に移行し、薬店以外で売ることを認めたためである。風邪薬、解熱剤、頭痛薬などニーズの高い対症薬の販売ができないので片手落ちとの声もあるが、薬の持つ潜在的なリスクの大きさを考慮すれば、まずは妥当な線だろう。将来的には、用法や副作用に関する注意書きを大きく目立つようにして、風邪薬などの販売を認めても良いと考えられる(例えば、眠くなる成分の入った薬には「運転危険!」と朱で大書するなど)。(10月23日)

  連載マンガや連続TVアニメは、読者や視聴者からの反響によって、キャラクタが当初の設定から変化し、成長していくという独特の展開を見せる。これが、作品世界を深化させる上で重要な役割を果たしていることは、言うまでもない。似たような例が、他にないわけではない。ディケンズの小説では、脇役だった人物が、読者からの声を受けて主役級に格上げされたことがある。NHKの連続ドラマ(「太閤記」や「天と地と」など))でも、特定の役に人気が集中し、わざわざ新たなエピソードが付け加えられた。しかし、マンガやアニメでは、短い枠に収まるように毎週新たなエピソードが創作されるために、小説やドラマよりもキャラクタの果たす役割が大きく、それだけに成長の度合いも著しい。また、現実という枠に縛られるドラマに比べて、作者の思い入れがよりストレートに伝えられる表現形式であるため、構想が膨らむにつれて、作品世界が急に豊かになってくることも珍しくない。マンガでは高橋留美子の『めぞん一刻』や岩明均の『寄生獣』、TVアニメでは押井守の『うる星やつら』に、その最良の例を見いだすことができる。(11月16日)

  社員のやる気を引き出そうとして導入された能力給制度を撤廃する会社が増えているという。さもありなん…である。能力給のポイントは、有能な社員を顕彰し、行く行くは経営陣に抜擢するところにある。従来、日本では、トラブルを起こさず、与えられた業務をそつなくこなす人が高く評価される傾向にあった。しかし、それでは、上司の顔色を伺うイエスマンばかりが出世し、業態の問題点を指弾し、大胆な改革を実行できる真の経営者に相応しい人材が、底辺にくすぶることになりかねない。従来の評価制度を改め、事なかれ主義の凡人で構成されている経営陣の入れ替わりが実現されてこそ、能力給の意義もあろうというものである。しかるに、昨今流行の方法は、上司の目から見て「よく働いている」と思われる社員にたっぷりとボーナスをはずむことである。これでは、今まで以上に改革派が冷や飯を食わされることになり、社内に不満が鬱積してくる。まず能力を判定されなければならないのは、経営陣の側だというのに…(11月20日)

  自動車業界の動向から目が離せない。自動車は、日常生活における最大の危険物であるとともに、大気汚染の元凶となっている。産業の血球役を担う重要な製品であるだけに、改良の余地が大きい。安全・安心に対する要求水準が高まっている現在、技術力のある会社が生き残るはずである。環境対応車としては、ハイブリッド車と燃料電池自動車があり、さらに、使用材料の点で、有害な鉛をどこまで減らせるかが課題となっている。安全面では、コンピュータ制御で危険走行を回避する技術が要求される。いずれの分野でも、トヨタが世界でトップ水準にあるが、GMやダイムラーも負けてはいない。特にダイムラーは燃料電池車の基礎技術を蓄えているだけに、マーケット投入に後れを取ったとは言え侮れない。ハイブリッド車の分野でも、GMやフォードが巻き返しを狙っている。また、環境問題にうるさいヨーロッパで鍛えられたダイムラー、フォルクスワーゲンも戦略的な車種を開発しつつある。こうした巨大企業同士の技術争いは、端で見ていると対決ショーのようで面白い。(12月19日)

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©Nobuo YOSHIDA