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  2本足で立てるということ──それは、奇跡のようにすばらしい。2足歩行ロボットの登場によって、ただ立っているだけでも精妙なバランス制御が必要になることが明らかにされた。実際にホンダのP3を目の当たりにしたとき、静止しているにもかかわらず、ジーという作動音を常に響かせていることに驚かされたが、そうした不安定性が、逆に俊敏な動作を可能にする秘訣でもある。歩くときには、体を振り子のように左右に揺さぶることによって、滑らかな重心移動が行われる。重心を足の裏の真上で安定させようとすると、かえって身動きが取れなくなってしまうのだ。われわれは、2本足ですっくと立つことのすばらしさを、もっとしみじみと感じるべきだろう。(1月2日)

  世界的に大ブームとなったハリーポッター・シリーズの第1作『賢者の石』を読んでみたが、いまひとつ楽しめなかった。ヒットした理由はよくわかる。家族から阻害されていた少年が、実は驚くべき才能を持つスターだったという典型的なシンデレラ物語。それに加えて、パブリックスクールを模したと思われる魔法学校の情景描写がノスタルジーをそそる。さらに、悪党と思われた登場人物が、実は…というミステリー仕立てのプロットも、なかなかのものである。随所に現れるファンタジーならではのギミックは、ファンの心をくすぐるだろう。しかし、これらの要素は、作品世界を成立させるための必要不可欠の基盤とはなっていない。ルグインのアースシーや小野不由美の十二国のシリーズに示されるように、説得力のあるファンタジー世界を創出するためには、そこに生きることの実感を読者に与えなければならない。現実をベースとして、「もし魔法が使えたら」という発想を手がかりにプロットを組み立てていっても、現実逃避の願望を叶える夢でしかなく、どこかに現実の反撃を許すもろさを見せてしまうことになる。逆説的な言い方だが、リアリティこそがファンタジーの基盤なのである。(1月11日)

  現在のように著作物を提供する手段が多様化してくると、著作権保険といったものが必要になってくる。古いTV番組やゲームソフトなどは、著作権の範囲が不明確である。制作に加わったスタッフの多くが、下請け会社の社員や臨時雇いで、今となっては、その消息を掴めないケースも少なくない。当初の契約もきちんとしておらず、2次使用の際のギャランティなど、はじめから期待していなかった人が大半だろう。ドキュメンタリ番組ともなると、画面に登場する人を特定することすら難しい。
 著作者がはっきりしない場合、ネット配信などによる番組提供に踏み切りにくい。そこで、著作権保険の登場となる。ネットコンテンツなどとして著作物を使用する人は、とりあえず判明している著作者にロイヤリティを支払い、残りに関しては、保険会社に委ねてしまう。保険会社は、コンテンツの価値と予測される著作権者数をもとに保険料を徴収する。もし、著作物使用後に権利を主張する者が現れた場合、法律に基づく折衝とロイヤリティの支払いは、保険会社がビジネスライクに行うものとする。適正な保険料の算出が可能ならば、事業として充分に成立するだろう。ときには、法外なロイヤリティが請求されるケースがあるかもしれないが、そこは保険会社にとって専門分野であり、泥沼に陥らないように処理できるだろう。(1月16日)

  夢の乗り物といわれたセグウェイが、日本上陸を果たせないでいる。セグウェイは、二輪車の台上に立った操縦者が体重移動によってコントロールする新しいタイプの乗り物で、手荷物程度しか持たない個人が短距離を移動する際には、いかにも便利そうである。アメリカでは、警官のパトロールや警備員の見回りなどに利用されているようだ。しかし、日本では自動二輪扱いになるため、公道で走るためには、ブレーキやナンバープレートが必要であり、操縦者にも免許が要求される。ナンバーや方向指示器、ライトは簡単な斜体改良で搭載できるだろうが、問題はブレーキである。体重移動だけで操作できることがウリの乗り物に、ハンドブレーキを装着するのは、自ら利点を損なうようにも思われる。ただし、公道での使用を認めない警察の主張も、それなりの見識に基づいている。アメリカの郊外では、充分な幅があるにもかかわらずほとんど自動車の通らない道路や、最寄りのスーパーまで1km以上もある住宅もあり、ちょっとした移動にセグウェイは便利この上ない。しかし、そうした環境は日本ではあまり見られず、むしろ、渋滞した道路の隙間をぬって進むのにセグウェイが使われる可能性が高い。そうなると、自動車の邪魔にもなり、危険性も増す。最高時速20kmというのも、安全そうでいて、簡単に人が死ぬスピードである。大きさから考えても車道を走るしかないため、急停止用のブレーキは最低限必要だし、他の走行車両と調和させるには、教習を義務づけるのも仕方ないだろう。(2月8日)

  先週終了したTVアニメ『ガンスリンガーガール』は、非リアリズム芸術が成立する契機を、実に興味深い形で提示してくれる。そもそも、登場人物の置かれているシチュエーションが、きわめて異常である。主人公は十歳前後の少女たち。身寄りがなく、致死的な重傷を負った彼女たちは、大規模な生体改造を施され、スナイパーとして超人的な能力を持つに至る。その幼い少女の姿によって敵を油断させ、アジトを壊滅しようとする作戦である。ターゲットがテロリストではあっても、やはり、少女たちが銃を手に次々と人を撃ち殺していく光景は、異様にして残虐である。このシチュエーションは、ゲーム化を想定してのことだろう。美少女とシューティングは、TVゲームの中でも特に好まれる要素である。この2つを組み合わせれば、それぞれのファンを集めることが可能になり、売り上げ増が期待できる。アニメの分野では、美少女が巨大ロボを操縦するといういかにもあざとい設定がしばしば見受けられるが、美少女シューティングとは、なかなか目新しいアイデアかもしれない。皮肉なことに、この無理な設定が登場人物の関係性を明確にし、個人の力ではどうにもならない悲劇的な状況を生み出す結果となった。ギリシャ悲劇的…というといささかオーバーになるが、いたいけな少女たちが運命に翻弄される姿は、ゆがんだ高潔さを感じさせるものである。(2月27日)

  日経新聞に連載中の高村薫作『新リア王』は読み応えのある傑作だが、その挿し絵に著作権侵害の疑いがあったとの理由で、今は挿し絵なしの紙面となっている。文と絵が渾然一体となって雰囲気を醸し出していただけに、実に残念である。問題とされたのは曹洞宗の儀式に題材を取った作品で、僧形の男が錫杖らしきものを捧げ持つ情景が描かれている。ところが、これが、ある写真作品とそっくりだという。実際、2枚を見比べると、模写したことは明らかで、作者としても申し開きできないだろう。
 ただし、ここで考えなければならないのは、著作権の意味である。この権利は、元来、芸術的・思想的に価値のある創作物を保護することを目的としている。とすると、儀式写真の創作性が問題とされなければならない。マン・レイのポートレイトのように、モデルに特定のポーズを取らせた場合には、そのポーズを含む写真の大部分が創作的な作品となる。しかし、宗教儀式を撮影した場合、ポーズはもとより、衣装、小道具、場合によっては背景に至るまで、オリジナリティは教団側にあり、多くの場合、著作権の対象とはならない。写真家は、ある行為の瞬間をある視点から切り取るという点に創作性を発揮する。一方、挿し絵画家にとって、そうした写真家の創作性は、むしろ邪魔者である。彼が欲するのは、儀式の客観的な描写であり、さまざまな角度から撮った写真が何枚もあるとありがたいはずだ。今回のケースでは、おそらく、必要な儀式の写真は1枚しか入手できず、手の上げ方や小道具の配置をどこまで変更できるのか、わからなかったに相違ない。しかも、まずいことに、暗闇の中から人物を浮かび上がらせようとした写真家の手法は、これまでのイラストで画家が用いてきたものと酷似していた。その結果、当該写真に基づく挿し絵は、人物の表情などわずかな点を除いて、元の写真とほぼ同一のものとならざるをえない。これが不法行為であることは確かだが、情状酌量すべきケースであると考える。(3月1日)

  28年間続いていた『セサミストリート』の放送が終了するという。詳しい経緯は不明だが、新聞記事によると、米プロダクションが日本語版の制作を主張、英語版のままの放送を望むNHKと対立し、折り合いがつかなかったようだ。アメリカでは、ヒスパニックやアジア系の移民が多く、英語に不自由する幼児も少なくない。『セサミストリート』は、そうした状況を前提に制作された幼児番組で、アルファベットに馴染ませ、楽しく英語を覚えさせることを目標としている。NHKは、成年も含む一般向けの英語教育用番組として買い付けたわけである。ところが、本国アメリカでは、番組に登場するキャラクターの人気が高まり、関連グッズのマーケットが拡大している。英語版のままでは、幼児への浸透度が小さく、商売としておいしくない。一方、NHKは、『おかあさんといっしょ』などの身体表現を重視する優れた幼児番組を制作しており、この分野では世界第一級の評価を得ている。商売をもくろんだできあい番組など買いたくないというのも、当然のことだろう。(3月10日)

  差別意識とは、ほんのわずかの優越感と、その下に隠された大いなる怖れの現れである。差別をなくすためには、まず、その点を理解しなければならない。先日、九州のホテルが元ハンセン病患者の宿泊を拒否するという事件が起きたが、これは、単に支配人の無知を責めるだけではすまされない。ハンセン病患者への差別は、相貌が変形することへの原初的な怖れに根ざすものであり、この怖れを“特殊な病”という非日常的な概念装置に包んで己の周辺から切り離そうとする意図が見え隠れする。「自分たちは健康だから顔は変形しないのだ」という強い願望があるだけに、差別意識はなかなか払拭されないのである。(3月14日)

  年金問題についての議論が喧しい。今国会で提出される改正法案に対して甲論乙駁が続いているのだが、どうも議論の根幹がおろそかにされているようだ。
 日本における年金制度は、世代間互助の考えの上に成り立っている。かつて年金給付に与れるのは軍人などごく一部で、大半の市民にとって老後の生活は子供からの援助に頼らざるを得なかった。しかし、このやり方では、子供の数によって生活レベルに差が生じるほか、世代間の確執が起きやすい。かつて跡取りを産めない嫁を離縁する風習があったが、これも、子供のいない夫婦の老後が悲惨だったことの結果である。個々の家庭で子が親を扶助するのではなく、国が間に入って一括して年金保険料を徴収し、その上で高齢者に分配するという現行方式は、きわめて合理的な年金制度と考えられる。ただし、具体的にその中身を見ていくと、問題が山積している。何より重大なのは、給付金が高額になりすぎて、年金財政が破綻しかけている点である。給付額の高騰は、人口増と高度成長を前提に自民党が推進した政策であるが、今となってみれば、将来的展望の欠けた愚策だった。われわれは、今まさに、そのツケを支払わされようとしている。年金改革は、いかにすれば、高齢者の生活苦を回避しながら給付金を減額できるかを主眼にしなければならない。まずは、給付額の高い階層での抑制や、別途所得のある人に対する年金カットから着手すべきだろう。その一方で、保険料の取りはぐれをなくし総額を増やすことも必要であるが、消費税の税率を上げて保険料に充てることは、低所得者層にとって重圧になるため、禁忌である。年金は互助の考えに基づく所得の再配分である以上、所得税を財源とすべきであろう。(3月25日)

  NHKが制作した『ホシに願いを』は、愛すべきミュージカルである。オペレッタとボードビルを合体させた形式としてアメリカで発展したミュージカルは、ハリウッド映画の中で最高の結実を見せる。そのため、後続の映像作品は、いかにハリウッド・ミュージカルの呪縛から逃れるかが重要な課題となった。ストーリーの合間に歌と踊りを盛り込むという方式では、どうしても本家と比較して貧弱に見えてしまうからである。特に、予算に限りのあるTV番組では、なおさらである。ところが、NHKは、すでに40年近くも前に『わが心のカモメ』という意欲作を発表し、TVミュージカルの方向性を示している。今回の『ホシに願いを』も、低予算を逆手にとって、アフレコと編集でそれなりに“見せる”作品に仕上げられており、称賛に値する。(3月26日)

  文科省の指導方針が揺らいでいる。「ゆとり教育」の名の下に学習内容を大幅に削減した指導要領を発表、これを教育の“マクシマム”としていたが、近年、子供の学力低下が否定しがたい状況となって批判が高まったため、指導要領の内容は“ミニマム”であり、発展的学習を認めるとの新たな方針を提示した。それがまた火に油を注いだ形で、物議を醸している。新たな方針に基づく2005年度用教科書の検定結果に関する報道によると、発展的内容が増えた一方で、それを指導要領に沿うべく規制しようと文科省が執拗に介入したらしい。何とかして指導的立場を堅持したいとの意向のようだが、教育とは、人類にとって共有財産となる知識の継承であり、予算枠に制限される利害の調整のように官僚的な指導が通用する分野ではない。文科省が教育機関に対して、財務省が金融機関に、国交省が土木業界に、経産省が一般企業に示すのと同様な権威風を吹かすことは、あってはならないのである。上意下達の教育方針は、あくまで最低限の規定に留まり、多くは現場に委ねることが望ましい。(4月4日)

  開かずの踏切に対する恨み節を口にする人がいるが、踏切があるだけまだマシである。JRの田町−品川間には線路を横切る道そのものがない。日本最初の鉄道が、新橋−横浜間ではなく、品川−横浜間であることは鉄道ファンならずとも知っているだろう。新橋−品川間の開業は、土地収容に手間取って遅れ、結局、海岸べりに土手を築いて鉄道を敷設することになったわけだが、その結果、線路の向こうはすぐに海なので横断する必要がなく、踏切も跨線橋も造られなかった。その後、狭い敷地内に多くの路線がひしめく鉄道過密地帯になったため、トンネルの掘削も橋脚の建設も困難となり、ウォーターフロントが発展ているにもかかわらず、田町と品川の間には、田町近くに横断道路が1本あるだけで、三田〜高輪の住民は、新築ビル群を線路越しに眺めながら、アクセスする方法がなく、歯がゆい思いをしていた。ただ1つの例外──大正時代に作られたトンネルを除いては。このトンネル、地図にも載っていない知る人ぞ知る秘密の抜け道だが、天井が異様に低い。最も低いところで173cmしかなく、腰をかがめて歩かなければならない。タクシーの場合、屋根に取り付けられた会社のマークが天井にぶつかって壊れることもあるため、この地域特有の仕様でマークを小さくしている車もあるとか。しかし、この薄暗いトンネルを抜けると、下水処理場の脇にこぢんまりとした公園があり、桜の季節には花吹雪が美しい。ここもまた、知る人ぞ知る穴場である。(4月9日)

  NHKで46億年の地球誌を描く大型企画の放映が始まったが、何とも評価しかねる出来である。40億年前に直径400kmを越す小惑星が衝突し、海が完全に蒸発、地表が灼熱地獄となったことを表現するCGは、かなり迫力がある。地球は「母なる惑星」ではなく「荒ぶる父」だったと紹介するコメントも面白い。しかし、生命の発生を40億年以上前とし、さらに、小惑星の衝突にも耐えて生き延びたとする珍説を、あたかも学界で受容されつつある学説のように紹介するのはいかがなものか。NHKの科学番組はあまり水準が高くないという風説を裏付ける箇所も少なくない。文系出身のディレクターの意見を重用するのはもう止めにして、もっと優秀なブレインを召集しなければ、公営放送として恥をさらすばかりであろう。(4月17日)

  イラクで拉致され、先日、漸く解放された邦人3人に対するマスコミの扱いには、目に余るものがある。拉致直後、家族が政府に自衛隊撤退を要求したときの態度がやや傲慢で、結果的に、少なからぬ人の反感を招いたことは、事実である。しかし、その映像をたびたび放映し、社会的バッシングを煽り立てたのは、民放各局である。解放された人質がイラクで仕事を続けたいと口にしたことを一部の政治家が批判したが、これも、マスコミが大げさに伝え、「自己責任」という奇妙で無意味なキーワードをはやらせた。週刊誌の中には、人質家族のプライバシーを暴き立てるところも現れ、人質とその家族をますます追いつめていった。帰国したときには、拍手も歓声もない中、フラッシュだけが眩しくたかれ、まるで犯罪者に対するような扱いだ。しかも、最終的な責任を全て政治家や社会に押しつけ、自らは報道機関として中立の立場にいるかのように振舞っている。見ていて吐き気を催すほどである。(4月24日)

  アメリカ経済は、ITバブル崩壊や同時多発テロを経てなお高い成長率を維持しており、EUの拡大や中国の経済発展にもかかわらず、いまだ1極集中の構図は揺るがない。その原因として、技術革新や企業家に有利な政策が挙げられることが多いが、もう1つ忘れてならないのが、先進国には珍しい人口の増加である。1990年代を通じて人口は3300万人も増えており、住宅需要などを下支えしている。しかも、ネバダやアリゾナで9〜12%の人口増となっており、未開地の開発機運が高い。このペースは衰えを見せておらず、2020年には総人口が3億4千万人に達するとの予測もある。そのかなりの部分を移民が占めているというが、彼らに働き口を与える度量の広さも見逃せない。(5月2日)

  小泉首相が再び北朝鮮を訪れ金主席と会談、拉致被害者の家族5人を来日させることに成功した。ところが、マスコミの評価は芳しくない。曽我ひとみさんの夫が説得に応じず北朝鮮に留まったこと、死亡が伝えられた拉致被害者の再調査に関して充分な言質を取れなかったこと、にもかかわらず、食料・医薬品などの経済援助を申し出たことが、批判の的となっている。確かに、通常の倫理観からすれば、非道なことを行った側に譲歩するのは、あまりに弱腰な態度と思えよう。しかし、これは、個人のモラルが通用する問題ではない。あくまで力の論理が優先する国家間の駆け引きである。弱体化したとはいえ、2000万人の人口を擁する軍事国家・北朝鮮を不用意に刺激することは避けねばならない。さらに、北朝鮮が韓国と戦争状態にあることも常に念頭に置いておくべきである。北朝鮮からすると、日本人拉致は、対韓国工作のための第1段階にすぎない。多大なテロ被害を被ってきた韓国が、北朝鮮に対して融和策を示しているのに対して、遥かに被害の少ない日本が強硬な態度を崩さないことは、ひどく不寛容に見えるはずである。まずは、相手の持っている最も強いカードを差し出させて、日本の国益に叶う方向に追い込む準備を整えるべきである。ともかくも、人質となっていた家族の過半を出国させたわけだから、訪朝はそれなりの成果を上げたと考えるべきである。(5月26日)

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©Nobuo YOSHIDA